第11話 連行 ――その②

その洞察には一片の緩みも無い。まるで僕らに心を許してなどいなかった。

「お嬢さんがた、ここで何があったのかお聞かせ願えますか。」

丁寧な口調も、銃は突き付けられたままだ。

どうする?どうすればいい?

パニックになるな。考えろ。

機転だ。さっき学んだばかりじゃないか。こういうときこそ機転が必要なんだ。

この状況を切り抜けるために何ができる?どうすれば・・・

(・・・くっ・・・!)

駄目だ、この男の貫くような目を前に誤魔化しが通用するとは思えない。

かえって墓穴を掘ってしまう図しか浮かんでこない。

結局、僕にできるのはただ泣き続けることだけだった。

ショックで何も言えない風を装って襤褸を出すのを避ける・・・それが精一杯の抵抗だった。

慎重な足取りで近付いてきた男は、僕らの顔を険しい目で見比べた。

顎に手を当て、しばしの間思案の表情を見せる。

「・・・ん?・・・その顔・・・どこかで・・・」

思いも寄らぬ呟きがその口から漏れた。

当然僕には特殊部隊の知り合いなんていない。だったら芹花さん関係だろうか?

だとしても、僕らは今こんな格好をしているのに易々と正体が見抜かれるなんて有り得ない。

何か勘違いしてるんじゃないか?

それともまさか、警察にまで情報が漏れて・・・?

「本部、応答願います。先程の救急車要請はキャンセル。保護した2名は護送車にて連行します。」

インカムへの報告は、せっかく芹花さんの機転で掴みかけたチャンスを冷徹に打ち砕くものだった。

獄中の未来が着々と現実のものになりつつある。

このまま鉄格子に囲まれた車内に放り込まれてしまったらもうアウトだ。救急車で搬送されるのとはワケが違う。

追い討ちをかけるように、男が指示を出す。

「誰かこの2人を護送車に連行してくれ。いいか、くれぐれも目を離・・・」


パンッ! パンッ! パンッ! パンッ!


突然鳴り響いた銃声に、室内に緊張が走った。

小さく反響する破裂音。

近くではない、おそらく屋外で発砲されたものだ。

「・・・こちら一班。外の状況は・・・・・・何っ!?」

インカムでもたらされた情報に苦い表情を浮かべる男。

(・・・な、何だ?・・・何が起こってるんだっ??)

向こう側の声を聞けないのが酷くもどかしい。

何者かが迫って来ているのか?

敵か?味方か?それとも僕たちと全く関係の無い連中だったりするのか?

これはチャンスなのだろうか。

いや、逆にとんでもない危機が訪れようとしているのかもしれない。

すぐに何か動くべきか?それともこのままじっとしていたほうがいいだろうか?


バタン!


「報告しますっ!」

突然、1人の隊員が息を切らせて駆け込んできた。

「外に待機していた三班が何者かの襲撃を受け、交戦に入りました!」

「敵人数と配置は?」

「・・・わ、分かりませんっ。」

「分からないだとっ!?・・・くっ・・・何をやってるんだ外の連中はっ・・・!」

顔をしかめて一瞬俯いたものの、男は即座に新たな指令を発すべく顔を上げた。

「我々も直ちに外の援護に向かう。この2人は・・・」

「班長、私が護送車まで連行しましょうか?」

駆け込んできた隊員が申し出る。

「ああ、任せる。・・・いや、もう1人付けよう。お前も彼女たちの護送に当たれ。」

「了解しました。」

班長に指名された男が僕らの前に歩み出てきた。

「お手数ですが、両拳を握って前に出していただけますか?」

紳士的な口調に促されて僕はその指示に従う。


キリキリキリ・・・


ずっしりと想像していたより重い鉄の輪が僕の手首を締め付けた。

「・・・うっ!」

ひんやりと冷たいそれが傷に沁みて思わず声が洩れる。

「大丈夫ですか?」

「え・・・あ、は、はい。」

多少痛みはあるが我慢できないほどではない。


キリキリ・・・


もう片方の手への施錠は心なしか加減されたものに感じられた。

もっと派手に痛がれば、もしかしたら手錠を免れたのではないか?と、今更になって思い至る。

だめだ、思考がいちいち後追いだ。

つくづく思い知らされるのは“現実の厳しさ”だった。

例えば小説などを読んでいるときであれば、自分ならああするのに、こうするのにと色々なアイディアが浮かんでくる。

“もし自分が代わり映えのしない日常から抜け出して物語のような出来事に巻き込まれたら、英雄にすらなれるんじゃないか?”・・・そんな甘い幻想は、結局のところ自室でのんびり寛ぎながらページを捲っている時間にだけ許された思い上がりなんだ。

ヘタなことをしたら取り返しが付かなくなるというプレッシャーに終始責められ、ゲームみたいにセーブもできなければリセットもできない。躊躇い、逡巡している間にも、状況はどんどん次へと進んでいく。

僕の両手を拘束する頑丈な鎖。

これを付けられる前に行動を起こしたほうがまだ逃げ出せる可能性は高かったのかもしれない。だけど、強引に動けば最悪の結果だって考えられる。

ただ1つ確かなのは、“手錠される前に行動を起こす”という選択肢はもはや永久に消え去ってしまったということだ。

現状をどう打開するか模索しているうちに“今”は消滅し、“その次”がどんどん目の前にやってくる・・・その繰り返しで、自分の置かれた状況が徐々に悪化してしまっている。

「彼女たちの誘導に2人、この現場の保守に3人、残りは私の後に続け!」

班長の指示に従って散開する男たち。

僕らは担当になった隊員に連れられて、自らが生み出した壮絶な惨劇の現場を後にした。


パンッ! パンッ!


断続的な銃声と警官たちの号令が遠巻きに響く中、僕は対照的な静寂に包まれた廊下を歩いていた。

隣には僕と同じく唯々諾々と指示に従う芹花さん。

そのさらに両脇は公安部隊の隊員に挟まれている。


カツ カツ・・・


足音が反響する物寂しい縦長の空間。

そこにいるのは、僕ら2人と隊員2人、合わせて4人だけだ。

・・・今じゃないのか?

外に出てしまえば、その他多くの隊員たちの目に晒されることになる。

逃げ出すことなどもはや不可能だろう。

だけど今なら相手をするのは2人だけでいい。

行動を起こすなら、これが最後のチャンスじゃないのか?

ゴクリと喉が鳴る。

もし、そうだとして、僕に一体何ができるだろう。

僕が銃を持ってることはまだバレていない。

頭の中で銃を抜いてから打つまでの動作をシミュレートしてみる。・・・大丈夫だ、手錠を付けたままでも撃つこと自体は問題なさそうだ。

ただ、やはり抜いてから撃つまでの時間はいつもと同じとはいかない。

武装者制圧のプロである公安隊員がその隙を見逃してくれるだろうか?

問題は他にもある。

隊員の身を包む重厚な装備には、頭から爪先に至るまで、まるで隙間が見付からない。

・・・どこを狙えばいい?

おそらく彼らは暴力団の抗争の鎮圧を想定して出向いてきた筈だ。

拳銃の弾程度で貫けるのか?致命傷となる箇所は特に厳重なガードが施されているに違いない。

初めて拳銃を構えて人に向けたときは、その戦力があまりに圧倒的過ぎて、自分が絶対者にでもなった気分だった。

しかし、こうやってフル装備の治安部隊の前に立たされると、自分は丸腰同然のただの子供だった。

“強者”とは結局のところ相対的なものなのだ。いくら鍛えても、いくら武装しても、目の前の相手がそれを上回れば途端に自分は弱者へと転落する。

弱者が強者に真正面からぶつかっても勝てる道理が無い。

だったら、どうするか。

弱者なりの戦い方・・・いや、というより、弱者と強者の立場が逆転するような状況でも作れれば理想的だ。

2対2では勝ち目が無い。だけど1対1が2組ならどうだ?

前者と後者は同じようでいて全く意味合いが異なる。

僕らが彼らを上回れる唯一のもの・・・それは当然、僕らの持つ“力”だろう。

お互いの距離がこんなに近いと味方もろとも巻き添えにしてしまうような“力”は使えないが、ある程度の距離さえ作ることができれば制約も無くなる。

残された課題は、どうやってその距離を作るかだ。

“トイレに行きたい”というのはどうか?

それなりにいいアイディアに思える。

あまりに定番の策で警戒されてしまう気もするが、むしろだからこそ “トイレに向かう僕とその見張り”と“それを待つ芹花さんともう1人の隊員”という構図を作り出せるかもしれない。

もちろん、申し出自体が拒絶されないとも限らない。まるで見当外れの状況に向かう可能性も否めない。

しかし、それでもこの案が優れていると言えるのは、期待通りに事が進まなかったとしても大したリスクを負わなくていいという点だ。

例えばいきなり銃を抜いて相手に向けてしまったら、それが効かなかった場合はもうお仕舞いだろう。

それとは対照的に、トイレに行くことを申し出ても理想的な状況を作れなかった場合は、また改めて次のチャンスを待つという選択肢も残っているのだ。

とりあえず、“トイレに行きたい”と言うだけ言ってみる価値はあるように思えてくる。


だけど、逆に、もし全てが想定通りにいったとして、そのときはどうするんだ?


殺す、のか?・・・警察官を?

自分が助かりたいという理由だけで?

犯罪者でもない人間、それどころか犯罪者を取り締まる側の人間を?

それは、越えてはいけないラインだ。越えたら僕の中の何かが終わってしまう。


僕は今までだってたくさん殺してきた。理由も無く突っかかってきた連中を、他人にドラッグを打って中毒者に変える人間のクズを。

“力”を手に入れる前から僕は思っていた。何の必要性も無しに、ただ自分の愉悦のためだけに人を陥れ、蹴りつけるような人間に対して


“死ねばいいのに”と。


そうだ、死ねばいいんだ。

何もそこまで・・・みたいに躊躇する必要なんて無い。だって、彼らが余計なことをしなければそもそも誰も苦しまずに済んだはずの話じゃないか。

他人の平穏な暮らしに首を突っ込み、崩壊させ、笑う。こんなことができる連中は、事の軽重に関わらず一律に死ねばいい。

自分が殺すことへの抵抗感は別として、彼らが死ぬこと自体に僕は何の呵責も感じていなかった。

だが、今僕らを連行している公安の隊員達はどうか?

彼らはただ自分の責務を忠実に遂行しているだけだ。

市民の安全を守るため、それを脅かし得る事態に対処しているだけなんだ。

なのに、殺すのか?自分のためだけに?

殺してしまったら、僕は自分が最も嫌悪する連中と同じ存在に成り下がってしまうのではないか?

嫌だ。絶対に嫌だ。

だけど、このまま何もしなければ僕は殺人犯として罰せられてしまうだろう。

そんな馬鹿な。

何で僕があんな奴らの命の代償を負わなければいけないんだ。

連中の死について僕が償うべきものなんて何も無い。それなのに、このままじゃ僕は少年刑務所に送られて“反省”を強いられることになってしまう。

あまりにも理不尽じゃないか。反省すべきは死んだ奴らのほうであって僕じゃない。

だけどそんな理屈も通じはしないのだろう。

拳銃を持ってビルの一室に踏み込み、中の人間を皆殺しにした、非合法組織の構成員・・・

そんな輩に酌量する司法などありはしない。

そもそも世界は理不尽なものなんだ。そんなの分かってたことじゃないか。

努力が報われず、正義が負け、功労者が非難される。

そういう不条理が当たり前のように起こるのが、現実というやつだ。

まして功労者でも正義の味方でもない僕ならなおさらである。

不条理を無くすことなんてできないのだ。

だったらこれはつまり、不条理が降りかかる先が僕らなのか、それとも彼らなのかという問題に過ぎないのではないか?

その不条理を一身に引き受けてやる義理がどこにある?

僕らが不条理に捕まるという結末があるなら、彼らが不条理に死ぬ結末だってあっていいはずだ。

もう充分だろ。

これまでの人生で、僕は散々我慢させられてきた。しょうがないと受け入れてきた。

今回くらいは椅子取りゲームの椅子に自分が座っても許されるんじゃないだろうか・・・


『龍くん、聴こえる?』


いきなり耳の中に湧き上がった声に、僕は思わず跳び上がりそうになった。

『不安だろうけど、心配無いからね。そのまま公安隊員の指示に従ってれば大丈夫だから。』

ディーネさんの落ち着いた呼びかけに、以前の僕なら無条件で安堵を覚えていたことだろう。

だが、今の僕には・・・彼女から芹花さんの“処分”を言い渡された僕には、もはやその言葉を疑念無しに聞くことができなかった。

彼女の指示ははたして僕らを成功に導いているのだろうか。

さっきだってそうだ。芹花さんが取り押さえられたときに発せられたディーネさんの“待機”の指示は、事態を少しでも好転させただろうか?

何も動かなかった結果、危うく芹花さんは壊れてしまうところだったじゃないか。

それでもディーネさんの指示を信じ続けるべきだろうか。それとも・・・


そこまで考えて、僕ははっとなった。


そういえば、この作戦を知っていたのはBCLでたったの3人だったはずだ。

芹花さんと、僕と、ディーネさんの3人だ。

だったら情報はどこから漏洩したのか?

もちろん、芹花さんと僕の諜報活動に瑕疵があって足が付いた可能性もある。

だが、もし、情報が洩れたのではなく、故意に漏らした第3者が存在したとしたら・・・

それはもちろん僕では無いし、芹花さんでも有り得ない。

では、ディーネさんはどうだろうか?

今回のアクシデントで彼女の身は一切危険に晒されていない。

彼女が僕らを麻薬組織に売ったのではないと、本当に言い切れるだろうか?

誰が怪しい彼が怪しいみたいに推理ごっこするには材料が到底足りない。それは認識している。

ただ、僕がBCLに加わってからまだたったの1ヶ月。改めて現状を整理してみると、僕が心から信じられるものなんてここにはほとんど存在しないことに気付かされる。

その1ヶ月間、僕はディーネさんの素顔すら見たことが無いのだ。

そんな相手を信じられるか?信じてもいいのか?

判断を迷えるうちはまだいいかもしれない。だけどもうすぐ迷うことすら出来なくなる。

あと数歩だ。あと数歩で廊下が終わってしまう。エレベーターに着いてしまう。

これに乗ったらもうお仕舞いだ。僕らは力を振るうための距離を作れないまま1階まで運ばれて、下の公安隊員たちと合流することになる。

現状を打開するための“今”が終わってしまう。

どうする?どうすればいい?

全く分からない。考えても考えても考えても考えても、どうするのが最善かなんて分かりはしない。

逃げ切る可能性、捕まる可能性、生き残る可能性、死ぬ可能性・・・様々な可能性が頭の中で爆発して眩暈がしそうだった。

それでも、もう決めないといけない。思考の時間はもう切れた。今すぐ決めないといけない。

不意に、頭の中に巨大な扉のイメージが浮かんだ。そこから僅かに洩れた細い糸のような光は、しがみ付く者を無慈悲に地獄の底へと叩き落とすかのように、虚しく途切れようとしていた。

耐え切れない焦燥感が身体の芯を焼く。

ほとんど無意識だった。

乾き切った喉を、呻きのような声が上ってくる。


「・・・あ、あのっ・・・」

「ちょっと待て!」


被せられた鋭い声に自分の邪心を咎められた気がして、僕は堪らず肩を震わせた。

僕の腕をまじまじと見詰めて眉をひそめる隊員。

「なかなか血が止まらないな。太い動脈はやってないみたいだが、これは危険だ。」

言われて初めて、僕は自分の腕から流れ落ちたものが今もしとどにスカートを汚していることに気付いた。

頭がクラクラするのはどうも精神的な理由だけではなかったらしい。

「ここですぐに応急処置だけでもしておいたほうがいいな・・・ええっと、止血剤は・・・なあ、あんた止血剤持ってないか?」

傍らのもう1人の隊員に呼びかける男。

なんか、涙が出そうだった。

たった今、いっそのこと殺してしまおうかと思っていた相手が、僕を気遣い、助けようとしてくれているのだ。

感動とかそういうのじゃない。自分の浅ましさを突きつけられたような気がして顔を覆いたくなった。

自分が助かるために罪の無い他人を殺す・・・そんな決断をこれほどあっさりと下してしまいそうになった自分に愕然とする。

代わり映えのしない日常から抜け出して物語のような出来事に巻き込まれたら、英雄にすらなれる?

冗談じゃない。

危機が迫ればすぐ逃げて、追い詰められたら主人公を裏切り殺しにかかるような、物語を読んでいて反吐が出そうなほどムカつく存在・・・あれが僕だったんだ。

よく分かった。僕は自分が思っていた以上にクズだってことが。

救いようの無いクズだ。こんなクズはむしろ投獄されたほうがいいんじゃないか?

そのほうが世界のためにも・・・


プシュッ


「・・・なっ、ぅああっ!」


ドサッ


突然目の前で起こったことを、僕はよく理解できずに呆然と見送っていた。

(・・・え、あ・・・何・・・?)

止血剤を要求した隊員が、ポケットをまさぐるもう1人のフェイスシールドをかち上げ、拳を喉元に突き当てたのだ。

何かを刺したようにも見えた。

不意を食らった隊員は抵抗しようとするも、その体からは急速に力が抜けていき、仕掛けた側の隊員の腕に収まった。


「やあ、龍くん。遅くなってすまないな。」


ヘルメットを取り、にっと笑うその表情を見て、僕はようやくそれが誰であるかを悟った。

「・・・あ、アレクさんっ!?」

眉も睫毛も黒く染められている。瞳はカラーコンタクトだろうか。

たったそれだけのことでも外見の印象はまるで別物だった。普段アレクさんを認識する際にどれだけ“外国人としての特徴”に頼っていたか気付かされる。

アレクさんの変装はそういう認識の傾向を分かった上でそれを逆手に取っているとも言えるものだった。

「さて、キミの左腕の止血が一刻を争うのは事実だ。」

アレクさんはポケットからスプレーを取り出すと、噴出口を僕の腕の傷に向けた。

「ちょっと痛むが、声は上げるなよ。」


シューッ


「~~~~っっっっっっっ!!!!」

目が飛び出すほどの痛みに歯を食いしばって声を噛み殺す。

ムース状の泡に覆われた腕を、アレクさんは手際良く包帯でグルグル巻きにしていく。

「あの、アレクさん・・・」

「ん?何だ?」

「この人って、その・・・死んだんですか?」

床に横たえられた隊員に目を向けてそう問うと、アレクさんは微妙な笑みを浮かべて答えた。

「公安隊員を殺してしまえば事態が大きくなり過ぎる。俺たちだってそれは歓迎しない。使ったのは麻酔を仕込んだニードルガンだ。

だが、相手の抵抗を一瞬で奪う強さの麻酔銃ってのは、どうしても100%安全ってワケにはいかない。後遺症が残る可能性・・・悪くすれば死ぬ可能性だってある。

彼が回復してくれることを願うが、これが俺たちのできる精一杯なんだ。分かるな?」

優しい目で諭すようにそう言われ、僕はいたたまれなくなった。

「ふっ、鴉が言うようにキミは面白いな。あれだけの数の死を背負っていれば普通はもっと荒んだ目をするもんだがな。それなのにキミはまるで穢れを知らない無垢な少年だ。

戦士に向かないと言えばそうだろう。だが人間的な感傷を完全に無くしてしまったら戦士としてむしろ欠陥品だ。

キミはいっそそのままでもいいんじゃないかと俺は思ってるよ。」

どうやら僕の問いが酷い誤解を生んでしまったようだ。

無垢だなんてとんでもない。僕はついさっき、捕まるくらいなら彼を殺してしまおうかと考えていた人間なのだ。

こんな言葉を掛けられる価値など一片も無かった。

うなだれる僕をよそに包帯を巻き終わったアレクさんが、その端をテープでしっかり留める。

「後はここを離脱してからだ。裏口から抜けるぞ。外は皐月の陽動で裏口の警備が出払ってるはずだ。」

駆け出したアレクさんの背を追いかける僕と芹花さん。

戦地においてこれほど頼もしい背中はそう無いだろう。

絶望の崖っぷちを爪先歩きしているような状態から、一気に帰還に向けての視界が開けた気がした。

ふっと息を吐いた瞬間、かくんと膝の力が抜けた。

おっと、まだだ。まだ気を抜いちゃいけない。

ここは敵地の真っ只中なんだ。こんなところで足を止めてたら全てが台無しになり兼ねない。

こんなんじゃ駄目だ。引き締め直さないと・・・

(・・・あれっ?・・・あれっ・・・?)

そうは思っていても、上手く足に力が入らない。

「・・・っ、龍っ!大丈夫かっ!?」

転びそうになったところをすんでのところで芹花さんに抱き留められた。

「・・・あ、はい・・・大丈夫、です・・・」

大したこと無いと見せ付けるためにすぐ身を起こそうとしてみたものの、どうしても足が縺れてしまう。

「・・・む、これはちょっとまずそうだな・・・龍クン、俺の肩に掴まれ!」

アレクさんは僕の腕を自分のうなじに巻きつけて僕を引き上げ、そのまま注意深い足取りで走り出した。

体を支えられたまま、僕も懸命に力を振り絞って地面を蹴る。それでも足がこんにゃくになったかのように力が伝わらなかった。

「頑張れ!もう少しの辛抱だ!」

アレクさんの激励に、落ちそうな意識を必死に振り起こす。

非常階段に差し掛かってからは完全にアレクさんの背に負ぶされる格好になった。

手錠が掛かったままの手で振り落とされないようアレクさんのジャケットにしがみ付く。

景色がぼんやりと白い霞に覆われていた。

コクリ、コクリと断続的に意識が途切れそうになる。

「おいっ!・・・おいっ!龍!しっかりしろ!ここまできてくたばるなんて洒落になってねぇぞっ!!」

芹花さんの怒鳴り声が聞こえる。

ああ、怒られてる。いつもそうだ、いつだって僕は芹花さんに叱られてばっかりだ。

おかしいな、叱られてるはずなのに何でこんなに心地いいんだろう。

何でこんなに安らぐんだろう。

「・・・龍っ!!・・・龍っ!!」

前にも誰かにこうやって呼ばれたことがあった気がする。

そうだ、治樹だ。

あいつ今も元気にしてるかなぁ。

もう全部失ってしまったと思ってたけど、まだこういう風に呼んでもらえることがあるなんて思ってもいなかった。

クソみたいな世界でも、クソみたいな自分でも、これだけで充分な気がする。

いや、充分どころかもったいないくらいだ。

頭の中で声が反響し、子守唄となって眠りを運んでくる。

駄目だ、しっかりしなきゃ・・・そう思ってはいるものの、一方ではもうどうでもよくなってきている自分がいた。

眠い。猛烈に眠い。

顔が痺れ、瞼が鉛みたいに重い。


風景の色が溶け、混じり合い、一色となって視界を染める。


深海に落ち込んだ意識はぶくぶくと気泡を上げ、


次第に真っ暗な水圧に抗し切れなくなった挙句・・・



やんわりと、音も立てず消滅していった。

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