第11話 連行 ――その①

よせては、かえし、またよせて・・・

それでいて、海はただ青く、おだやかで。

ゆらゆら、ゆらゆらと、透き通った流れが包み込むようにその水位を上げていく。

・・・ああ、やわらいでいく・・・

徐々に、少しずつ、しかし確実に、全身を這いずり犯し尽くしていたおぞましい触手の感覚が薄れていく。


よく頑張ったね。もう充分だよ。ゆっくりお休み。


甘やかな声が僕の鼓膜を撫でた。

一体誰だろう。どこかで聞いたことのある声だ。


もういい。もういいんだ。できるだけのことはやったじゃないか。誰もきみを責めたりはしないさ。


僕を許し、慰めてくれる声。

春の渚のように温かい声だった。

まるでその声に押し出されるみたいに、体内の虫たちがどんどん外へと排出されていく。

無限に続くかと思われた拷問の最中さなか、突如として現れた出口。

その声は、乾ききった砂漠に注がれた清流だった。

声の到来とともに減り始めたのは苦痛だけではない。

感覚も、思考も、全てが緩やかに薄まっていく。

自分の存在そのものが次第に融解していくような・・・そんな感じだった。


僕はこのまま消えてしまうんだろうか・・・

予感・・・というより、それは確信に近かった。


僕が消えたら、誰か悲しんでくれるだろうか?

西原は?治樹は?涼子ちゃんは?

いや、悲しむも何も、彼らには今の僕の状況なんて知る由も無いだろう。

彼らにとって、僕はとっくにいなくなった人なんだ。

彼らに知られること無く、僕はひっそりと1人で消えていくんだ。

それでいい。それでこそいい。まったく僕らしいじゃないか。

誰かに別れの挨拶を言うことも無く、静かに現世うつしよを後にする。

それこそが僕だ。

悲しんでもらう必要なんて無い。誰にも気付かれないまま、蜃気楼のように僕は消えていくんだ。

僕みたいな人間にも矜持というものがある。

治樹や西原との出会いは確かにかけがえの無いものだったと言えるが、それでも僕は、大半の時間を1人で過ごしてきた。

孤独は僕の一部なんだ。

この期に及んで孤独を恐れ、みっともなく狼狽したならば、それは僕自身を否定しているのと同じだ。

そういう意味では、今の僕は上手くやれている。

意識の内に広がる闇を、滅びを、臆することなく自然に受け入れることができている。

最期の刻の訪れにも、僕は僕のままでいられている。

悪くない気分だ。

こういう夜こそ消えゆくには相応しい。

自らの手で始末した犯罪者どもの骸に囲まれて、孤独とともにこの世を去る・・・

なんて贅沢な終わりかただろう。

今、この瞬間、僕はありふれた1つの小石なんかじゃない。

“普通”の範疇を大きく逸脱した、この上なく奇異で特別な存在だ。

それでいながら誰も僕を見ていない。誰も僕を認識していない。

泡沫の如く消えゆくことを、僕だけが知っている。

僕の存在は完全に僕だけのものだ。美しく汚されたこの景色も、僕だけのものだ。

得難い夜だ。

こんな夜はもう二度と来ないかもしれない。恍惚とともに消えゆく最後の機会かもしれない。

ああ、薄らいでいく。

溶け、広まり、交じり合っていく。

消えると言ってもそれは完全な消滅を意味するわけじゃない。

果てしなく極限まで広がって、僕は世界と1つになるんだ。

ゼロの極限は、ゼロじゃない。全くの別物だ。

感覚が、時間までもが、ゆっくりと引き延ばされ・・・


・・・何だろう、何か忘れてる気がする・・・


まあいい。今さら思い出しても無駄だろうし、大体、思い出せる気もしない。

直前に考えていたことすら霧散してしまう思考は、まどろみの中のそれに似ていた。

もうまともに頭が回らない。

温かくて、冷たくて・・・

真っ白な暗闇が瞼を押す。

たった1人のこの部屋で

深い深い海の底に沈むように

意識が・・・全部・・・


・・・溶けて・・・


・・・









・・・1人・・・?



・・・1人だってっ!?



何を言ってるんだ僕はっ・・・!!



そのとき、僕はようやく自分が忘れていたことが何なのかに気付いた。

・・・違う、僕は1人じゃない。1人なんかじゃない。

感傷的な意味で言っているのではない。

物理的に、この部屋には生きた人間がもう1人いる。

このまま僕が消えたら、彼女は・・・芹花さんは、どうなってしまうんだろうか?

僕の意識が消えても、肉体は残る。空っぽになった肉の箱は残る。

そこに宿るものは何だろうか。


『・・・白峰さんはサイトでなくなるか、もしくは自我に重大な変質を来たす可能性があります。』


思い出したのは填島さんの言葉だった。

サイトで無くなった僕と。僕で無くなったサイト・・・

僕がいなくなれば、そこに残るのは完成された“サイト”そのものではないか。

そんなものがいきなり出現したとして、居合わせた人間は無事でいられるのか?

希望的な予測は欠片も浮かばなかった。

芹花さんが・・・壊れる?・・・僕のせいで?

・・・駄目だ。このまま消えるワケにはいかない。

何が“上手くやれている”だ。

何が“得難い夜”だ。

僕は馬鹿なのか?

こんなの、これっぽっちも望んじゃいない。芹花さんを道連れにするなんて絶対に嫌だ。

戻るんだ。今すぐ。立ち返るんだ。自分自身に。

そうしないと、芹花さんは・・・

だが、今、僕の身に起こっていることは、遡行不能な何かだった。

滝の水が上から下に落ちるように抗いがたい摂理だった。

(・・・戻れっ!・・・戻れっ!・・・くそっ・・・!!)

どんなに気を張っても、意識がゆらりと拡散していく。

頬を抓ろうにも体の感覚が無く、自分の手がどこにあるのかすら分からなかった。

(・・・・っ!・・・早くっ・・・!)

早くしないと手遅れになってしまう。残された猶予はどれくらいだろうか。

いや、そもそも・・・


芹花さんはまだ無事なのか?


さざなみの音が聞こえなかったか?海の景色が見えなかったか?

もしかしたら、サイトの力はとうに発動してしまっているのではないか?


暗闇の中にぼんやりと芹花さんの姿が浮かんだ。

髪の毛を毟り、白目を剥きながら泡を吹いている。

奇怪な声を上げながら、銃を使ってミシンのように自分の肢体に穴を開けている。

赤黒い水溜りの上で足を捥がれたバッタのようにのたうっている。


なんだこれ? なんなんだこれ?

はは、こんなの嘘だ。

そうだ、現実のわけが無い。これは幻だ。

受け入れるな。飲み込まれるな。

人の認識が世界を決定する・・・今はそんな眉唾な認識論だって信じてやる。

拒め。撥ねつけろ。まだ確定なんてしていない。

未確定・・・未確定だ。そうに決まってる。

踏みとどまれ。戻るんだ。

自分に立ち返るんだ。

全力の全力だった。全身全霊で気を奮い立たせようともがいた。

それでも、押し寄せる波はただ静かに、僕の意識をゆるゆると削っていった。

痛みでも苦しみでもなく、それはむしろ圧倒的な安らぎだった。

・・・ダメだっ!

起きて・・・今すぐ・・・

・・・止め・・・


・・・・戻


・・・



蜂蜜のように甘い粘液が思考をどろどろに溶かしていく。

無理だ。考えるというのがもうできない。



・・・芹花さんっ・・・!



空っぽの頭に唯一残ったのがそれだった。


・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!


馬鹿みたいに、僕はそれだけを繰り返した。


・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!


哀れみでも、同情でもなかった。


・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!


義侠心でも、使命感でも無かった。


・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!・・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!


懇願だった。切望だった。形振り構わない絶叫だった。


・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!・・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!


ひたすらに、一心不乱に、僕はただただ連呼した。


・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!・・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!


もうそれの意味すら分からなくなって。頭に残ったのはその音だけで。


・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!・・・・芹花さんっ!・・・芹花さんっ!


それでも僕は、最後に残ったその音を唱え続けた。



・・・芹花さんっ!・・・・・・ぇりかさ・・・ん・・・・・・・


そんな僕をあざ笑うかのように、ゆっくりと閉じていく闇のカーテン。

意識が閉じていく。全部が閉じていく。





そして、ついに





世界は暗黒の海底へと落ち込んでいった。




--------





光が差している


一筋の光が


ぬくもり?安らぎ?

いや、そんなやさしいモノじゃない。

すでに安らぎの砂泥に埋もれていた僕をちりちりと焼く。


なんだよ、せっかく気持ちよく寝てたのに


その光は、容赦なく僕を振り起こす。


『これから出掛けるからすぐに準備してくれ。すぐにだぞ。』


いつもそうだ。強引で、無神経で。

でもそれは、この閉じた世界で唯一の温度だった。


『マジだよ。大マジだ。』


冗談みたいな本気で僕を振り回す。


『お前はずっとあそこに留まってるべき人間じゃねぇって話だよ。』


そのくせ、以外にお節介で・・・


・・・あれ、これって何だっけ?・・・誰のことだっけ?


何だろう、頭がふんわりとした何かに覆われている。


『その・・・、なんだ・・・ありがとな。』


温度が、熱が、そこから全身へと一気に広がっていく。


『これでもお前のやらかした馬鹿がそれなりに嬉しかったんだよ。』


細胞の一つ一つが激しく振動し、沸騰を始める。



『頼むよ・・・相棒。』





「・・・・・・・・・・・芹花さんっ・・・・・・・・・・・・・!」





・・・あれ・・・ここは・・・?

赤く汚れた壁紙。落ちかけの額縁。そして、カーテンの隙間から漏れる一筋の月明かり。

色が・・・景色が戻っている。

散らかった死体が発する生臭い悪臭を、しかしほのかな甘い香りが中和していた。

ラベンダーの香り。もうすっかり嗅ぎ慣れてしまった香り。

芹花さんの香りだ。

頭に乗っかった体温。それは、彼女の掌がもたらしていたものだった。


芹花さんだ。芹花さんがいる。目の前に。


本物だ。今度は幻なんかじゃない。

唇の端を吊り上げて、芹花さんはにやっと笑った。

不遜で、悪戯っぽく、その分力強い笑顔。

これだ、これこそが芹花さんだ。

戻ってきたんだ。芹花さんも。

戻ってきて、そして僕を引き上げてくれた。

この手で。この華奢で温かい手で。

ああ、なんか泣きそうだ。

謝らなくちゃ。芹花さんに。

芹花さんは嫌がるかもしれないけど、それでも・・・

だって、僕は芹花さんを助けようと思ったんだ。助けるために“力”を使ったんだ。

でも結局僕は芹花さんに助けられて・・・これじゃ全く逆じゃないか。

いつも迷惑かけて、足を引っ張ってばっかりで

謝らなきゃ。今すぐ。


「芹花さ・・・」



バタンッ!!!!



けたたましい音を立てて入り口のドアが勢いよく開いた。

(・・・・・・・あ・・・ああ・・・終わっ・・・た・・・)

目の当たりにした光景が僕にもたらしたのは、湧き上がった安堵を一瞬にして叩き潰す絶望だった。

突入してきたのは、濃紺のジャケットと物々しいヘルメットを身に纏った男たち。

黒いベストの胸にはPOLICEの文字があしらわれている。

3人、5人・・・洗練された隙の無い足取りで室内に展開していく。

彼らの手に握られたのは物々しく黒光りするライフル。

その半数が僕らに向けられていた。

ダメだ。もう詰みだ。小さなピストル一丁でどうにかなる状況じゃない。

全て手遅れだ。間に合わなかったんだ。

捕まるのか?

・・・殺人犯?・・・拘束?・・・起訴?・・・裁判?・・・投獄?

組織に身を置いてからどことなくフワフワした感覚があった。ファンタジーの世界の中を泳いでいるような感覚だ。

だがしかし、今、目の前に突きつけられているのは圧倒的な現実だった。

人を殺したら逮捕され罰せられるという、当たり前のプロセスだった。

逃げ場の無い現実が僕を押し潰す。

目が眩む。意識が飛んでしまいそうだ。

むしろ気を失ってでも、僕はこの現実から逃げ出したかった。


・・・ギュッ


唐突に、芹花さんが僕に圧し掛かるように体を預けてきた。

背中に巻きついた腕。

「・・・う、ううっ・・・」

耳元に洩れ聞こえたのは、弱々しい嗚咽の声だった。

「・・・ううっ、うあっ、うああああああんっ!」

やがてそれは、周りをはばからない激しい慟哭となった。

(・・・え?・・・あ、何で・・・?)

分からない。芹花さんは正気を取り戻したはずじゃなかったのか?

・・・まさか、思い違い?

そんな馬鹿な。じゃああの笑顔は何だったんだ。

見間違えるわけが無い。芹花さんは戻ってきたはずなんだ。

確信を持っていたつもりの認識を、騒々しい号泣が突き崩していく。

もう何が何だか分からない。

立ち尽くす僕を取り囲む銃口。

現実の全てが僕に背を向けていた。味方してくれるものは何一つ無かった。

泣き喚き続ける芹花さんの指が、僕の背中をトントンと突付く。

・・・痙攣?・・・指遊び?


・・・違うっ!!・・・これはっ・・・


モールス信号だ!!


全神経を背中に集中させる。芹花さんは僕にメッセージを伝えようとしているんだ。

『ワ・タ・シ・ニ・ア・ワ・セ・ロ』

希望だ。まだ希望はここに残っていた。

僕は間違ってなんていなかった。芹花さんのこれはただの演技だったんだ。

「・・・ううっ・・・うううっ・・・」

僕は芹花さんを抱きしめ返し、彼女に倣ってむせび泣いた。

嘘泣き・・・には違いないが、演技の必要は無かった。何の苦労も無く、涙は自然と僕の目から零れ落ちた。

「安心してください。落ち着いて。我々は警察です。」

フェイスシールドを跳ね上げた1人の隊員が、銃を下ろして僕たちのほうに歩み寄ってくる。

「本部、応答願います。目標事務所にて少女2名を保護。全身に暴行の痕跡あり。至急救急車を回してください。」

なるほど。

なるほどなるほど、こうも状況が変わってくるものなのか。

自分の不明が恥かしかった。僕はただうろたえ、現状を打開する努力を放棄して全てを諦めてしまっていた。

でもそうか、機転を利かせるってのはこういうことを言うんだ。

僕らに対する彼らの認識が、“警戒すべき身元不明の2人組”から“保護の対象”に変わっていくのを感じる。

これなら、もしかしたら何とかなるかもしれない。

芹花さんも一緒にいるんだ。こんなに心強いことは無い。

救急車で病院に搬送されるのであれば逃げ出すチャンスはいくらでもあるだろう。

うまく隙を突けば、あるいは・・・


「待て!」


制止の声は、陣形の中央に構えていた1人の隊員から発せられた。

フェイスシールドの奥に透けた鋭い眼差しは、他の隊員とはまるで様子が異なっていた。


「前腕、二の腕の爪状裂傷・・・こっちの少女には刃物による裂傷が見受けられるが、いずれもカッターのような刃渡りのごく短い刃物のものだな。

幻覚症状が原因の自傷などでよく見掛ける、薬物中毒者特有の傷だ。」

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