第10話 狂乱 ――その②
「う・・うぷっ・・・ゴクッ」
2粒を合わせると成分的にいつもの薬を超える分量になってしまうが、この際仕方ない。
さすがにこれで落ち着くだろう。落ち着くはずだ。落ち着かなかったらもうお手上げだ。
「・・・芹花さんっ!!・・・芹花さんっ!!・・・芹花さん!!」
どう声を掛けていいか分からない。気付いたらただひたすら芹花さんの名前を連呼している自分がいた。
芹花さんの手が、彼女を引き留める僕の腕にそっと掛けられた。
バリバリバリバリバリバリバリバリッッッッ!!!!
「・・・っ、いいいいぃっっ!!!!」
火傷に芥子を塗り込むような猛烈な痛みに、僕は思わず声を上げた。
僕の腕の皮膚上を芹花さんの爪が無茶苦茶に走り回って、真っ赤なミミズ腫れを次々に生み出していく。
反射的に腕を解いてしまいそうになるが、僕は歯を食い縛って堪えた。
痛みに耐えるため、更にきつく芹花さんを抱きしめて感覚を紛らわせる。
これは・・・この痛みは芹花さんの痛みだ。芹花さんが味わっている苦痛のほんの数分の一を共有しているに過ぎない。
これくらいの痛みに耐えられないのなら、芹花さんを止める権利なんてありはしないだろう。
「う、うううっ・・・ひっく・・・ぐすっ・・・」
ややあって、僕の耳に届いてきたのは、芹花さんの咽び泣く声だった。
その目からは大粒の涙が止め処無く滴り落ちている。
「なんでだよおぉぉっ・・・なんで意地悪するんだよおおおおぉぉぉ・・・」
それは幼稚で、未熟で、理不尽な嘆きだった。
「放してよおおおおおっ・・・・放してくれよおおおおっ・・・・うわあああああああん!!」
幼子のように泣きじゃくる芹花さんの姿に、僕の心はもはや限界に達しようとしていた。
届かない。届いていない。
僕の呼び掛けはこれっぽっちも芹花さんに届いてはいないんだ。
きっと僕の呼び掛けかたも悪いんだろう。薄っぺらくて、人の心に訴える力などありはしない。
じゃあ、どこが悪いのか。どうして響かないのか。
あの日の治樹も、ただ僕の名前を呼んだだけだった。なのにあいつの声は僕の心をガンガン揺さぶった。
一体何が・・・僕の呼び掛けとはどこが違うんだろう。どうして僕には治樹みたいにできないんだ。
考えてみればそれも当然かもしれない。僕はあいつみたいに、相手のことをまるで自分のことのように心配したりできない。
人は人、自分は自分だ。根っこの部分で僕は薄情な人間なのだろう。
いかに心配している風を装ってみても、僕にとって芹花さんはあくまで他人なんだ。
きっと、足りないのは真剣味だ。どこかで心の底から芹花さんの身を案じ切れていない部分があるに違いない。
結局のところ芹花さんがどれ程苦しんでいるかなんて僕に分かりはしないのだ。
たとえ身体の痛みをいくらか共有できたとしても、心の痛みを知ることなんて到底・・・
・・・共有・・・?
そのとき、僕は気付いた。気付いてしまった。
芹花さんを引き戻せる可能性のある、唯一の方法に。
共有・・・そうだ、共有だ。
僕にはあるじゃないか。芹花さんと心を共有する術が。その“力”が。
“力”を使えば、芹花さんを苛む寒々しい感情の半分を肩代わりし、変わりに温かい感情を送り込んであげることができるんじゃないか?
(・・・い、いや・・・でも・・・だけど・・・)
そんなことをして無事に済むだろうか。
芹花さんが・・・普段あれ程凛としていて弱みを見せることの無い彼女が、こんなにみっともなく、恥も体面もかなぐり捨てて泣きじゃくる苦痛に、僕が耐えられるとでもいうのか。
気違いのように叫んで、のたうって、自分の身体を掻き毟る程の何かを、自分の身体に受け入れる・・・そんな恐ろしいことを実行できるワケがない。
・・・やっぱり無理だ。他に何か手立ては無いのか?何か他に・・・
・・・ファンファンファンファンファンファン・・・
苦悩する僕の耳に、遠くから微かにサイレンのような音が聞こえてきた。
・・・いや、違う。
“ような”じゃない。これはサイレンの音だ。
(・・・ああああっ!!しまったっ!!!!)
僕はようやく自分に迫っている絶望的な危機に気付いた。
(まずいっ!!・・・まず過ぎるっ!!)
考えてみれば当然の事態だ。あまりにも撤収に時間を掛け過ぎている。
これだけの発砲があったのだから、通報されて警察が出動してきたとしても不思議ではない。
(逃げなきゃっ!早く!)
ここに留まっていたら捕まってしまう。そうなったらもう完全に殺人犯だ。
サイトの“力”を使って殺したのであれば言い逃れができるかもしれない。
でも、僕は銃で撃った。思うままに引き金を引きまくった。
・・・ダメだ。絶対に捕まるわけにはいかない。
「ううっ、ぐすっ、ううううっ!ううっ!ぐすっ・・・」
相変わらずじたばたしながら泣き続ける芹花さん。
僕のほうが泣きたかった。この状況を一体どうしろというのか?
『龍クン、声を出さずによく聞いて。』
イヤホンから聞こえてきたのはディーネさんの声だった。
『今、この通信は龍クンにだけ送ってるから。いい?サイレンが聞こえてると思うけど、そっちに向かってるのは特殊機動隊員30名を含む公安部隊。龍クンは芹花を連れて直ちに現場を離脱すること。脱出経路は私のナビに従って。
芹花を同行させることが不可能な場合は・・・』
一瞬、そこで声が途切れる。
『・・・不可能な場合は、芹花を処分の後、単独での帰還を目指すように。』
・・・は?
何を言ってるんだ?ディーネさんは・・・
処分?処分って何だ?
・・・殺せって言うのか?僕に芹花さんを殺せと、そう言ってるのか?
馬鹿な。できるワケが無い。
銃の照準を芹花さんに合わせて、そのまま引き金を引けと?
あり得ない。全く、一片たりとも、僕がそれを実行する可能性など無い。
そう、絶対にあり得ない・・・あくまであり得ないという前提で・・・
僕の脳裏に、ふと1つの疑問が過ぎった。
もし・・・もし、芹花さんに銃口を向けて引き金を引いたとしたら、僕の指に残るのはどんな感覚なのだろうか?
痛みだろうか?悪寒だろうか?耐え切れないほどの激烈な辛苦の感覚だろうか?
・・・それとも、まさか・・・“快楽”だったりするのか?
組員の連中を撃ちまくったときに感じた、清々しい爽快感だったりするのか?
頭に浮かんだその馬鹿げた考えを、僕は必死に首を振って追い払った。
そんな快楽など存在しない。仮に存在したとしても、芹花さんを失う悲しみの百兆分の一にも満たないに違いない。
大体、僕は芹花さんを撃たないのだから、比較の必要すら無い。
撃たないことはBCLへの反抗とみなされるだろうか?
いや、そうとも限らない。要するにこんな馬鹿げた付帯命令など無用なものにしてしまえばいいわけだ。
そのためにも、僕は無理矢理にでも芹花さんを連れて帰れなければいけないということか。
どうにか気絶させて連れて行く?・・・おそらく無理だろう。完全に脱力しきった人間というのはかなり重い。上手く気絶させることができたとしても、非力な僕に彼女を1人で運ぶなんてできやしない。いくら頑張ってもここを脱出する前に機動隊に追いつかれてしまうに違いない。
だったらどうすればいい?僕に何ができる?
決まってる。もう分かっている。
やれることはもはや1つしか無いんだ。問題は“どうするか”ではなく、“できるか”なんだ。
覚悟を決めろ。
“力”を使って芹花さんの正気を取り戻すんだ。
・・・だけど、本当にできるのか?僕にそれが。
そんなことをして、もし加速連鎖に巻き込まれでもしたら・・・
考えただけでもゾッとする。そんなのに耐えられるワケが無い。ヘタをすると共倒れだ。
きっと僕の心は壊れてしまう。
(・・・壊れる・・・か・・・)
その“壊れる”という言葉が頭に浮かんだ瞬間、ぐずぐず足踏みをしている自分の思考が急に馬鹿らしくなった。
壊れるって何だ?
そもそも僕は、今の自分がまともなつもりでいるのか?
僕はサイトだ。
鴉も槇島さんも言ってたじゃないか。サイトなのに普通なのはおかしいって。
実際には僕の心はもうとっくに壊れているんじゃないか?
だったら何も恐れることはない。初めから壊れているのなら、これから壊れることを心配する必要なんて無い。
(何だ、簡単じゃないか。)
そうだ、怖がらなくてもいいんだ。
あるいは単なる強がりかもしれない。不安を紛らわすための誤魔化しに過ぎないかもしれない。
でも・・・だとしても、最悪僕という取るに足りない1人の人間の犠牲が増えるだけだ。
僕は頭の中に歓喜の
厳しい訓練の中で、歓喜の映像を鑑賞している時間は数少ない安らぎの1つだった。
何といっても映像のセレクトが実に秀逸だ。あんなに飽きさせない映像の数々を一体誰が集めてきたのだろう。
「・・・ふ、ふくっ・・・」
気付いたら、僕はこの緊迫した状況にも関わらず吹き出していた。
いける。これならいける。
僕は芹花さんを抱き留めたまま“力”を発動させた。
身体の奥からじわじわと染み出した何かが、芹花さんの中に浸入していく。
“自分”という境が次第に曖昧になってくる。
心が溶け、絡み合い、感覚が自分のものでなくなっていく。
・・・ん?何だろう・・・
ポツリ、と、雫が降りかかったかのような感覚が、皮膚の上に俄かに湧き上がった。
むずむずする。
何か痒い。何なんだ?これ・・・
それは皮膚の内側にまで潜り込み、ぷつぷつ炭酸の泡が弾けるように再び浮上してくる。
どこが痒いんだ?
足か?手か?首か?・・・よく分からない。
虫にでも刺されたか?それとも、空気が乾燥しているからか?
・・・いや、違う。
何か、いる。
(・・・っひいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!)
何だこれ?何だ?何なんだ?
何かがいる。確実に。
表皮と真皮の狭間で、臓器と臓器の狭間で、嬉しそうに跳ね、踊り、暴れ回っている。
1匹や2匹じゃない。
10匹や20匹でも、百匹や2百匹でもない。
何千、何万の、得体の知れない何かが、僕という宿主の身中に好き勝手に縦横斜めのトンネルを掘っていく。
痛いとかじゃない。苦しいとかじゃない。
どう表現すればいいだろう、この感覚を。この感触を。
ウネウネ、ヌルヌル、ピチピチ。
(・・・なあああっ!!ぎぃぃぃいいいっ!!っひ!!ひいいいぃっ!!!!)
駄目だ。限界だ。狂う。死ぬ。
追い出さなきゃ。掻き出さなきゃ。穿り出さなきゃ。
すぐに。今すぐにだ。
芹花さんを抱え込む僕の、その指先が、丁度よく自分の腕に触れている。そうだ、まずはここからだ。
バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ!!!!
「っぎぃぃいいいいああああああっ!!!!ぐぅぅうううううっ!!!!」
痛い。焼けるように痛い。
ぼろぼろと涙を垂れ流しながらも、僕は掻き毟るのをやめることができなかった。
爪に引っ掛かった虫たちが血潮とともに体外に弾き出される。
猛烈な痛みは、一方で頭がおかしくなりそうな感触を僅かながら紛らわせてくれるものでもあった。
だけど、一瞬でも掻くのやめれば、再び全身がぐるぐるぞわぞわとしたアレに覆われてしまう。
10匹を掘り出しても、すぐに百匹が、千匹が、血管に産み付けられた卵から孵化して一斉に溢れ出す。
必死に、脇目も振らず、一心不乱に、僕は自分の体を掻き毟った。
あれ、そういえば・・・
いない。腕の中に芹花さんがいない。
いつの間にか僕は芹花さんのことを離してしまっていた。
だけど僕には、そのことをそれ以上気に掛ける余裕など残っていなかった。
掻いて。掻いて。掻いて。掻いて。掻いて。掻いて。掻いて。
ひたすらに掻きまくっても、追い出した量の10倍が、新たに骨と肉の合間から湧き上がってくる。
いっそ火で焼いてしまえば、這い回る虫もろとも葬り去ることができるんじゃないか?
そうしてしまいたい。手元にライターがあればすぐにでも着火して炙りたい。
まるで、自分の肉が、細胞が変異して、異形の虫へと姿を変えているようだった。
これをどうしろというのか。自分自身が虫になってニョキニョキ生えてくるんだから、どうしようもないじゃないか。キリなんてあるワケが無い。
つまり、無限に続くってことか?
これが・・・無限に?
一筋の洩光すら差さない、それはまさに絶望の淵だった。
ふと気付くと、僕の右手には黄色いカッターが握られていた。
いつの間に拾ったんだろう。どうも思い出せない。
でも、好都合だ。
ちょうどこれが欲しいと思っていたところだ。
血のこびり付いた刃先を口に咥え、欠けた先端をパキンとへし折る。
舌の上にツンとした鉄の酸味が広がった。
キリキリキリ・・・
スライダーに親指を当てて軽く押すと、折った分と同じ長さの刃が無骨な胴体から押し出された。
よし、上等だ。これがあれば勝てる。
形勢逆転だ。
僕は心強い武器を手に入れたんだ。
虫どもになんて負けやしない。さっきだって上手くやれたじゃないか。
これの使い方なら僕は達人級なんだ。
メッタメッタにしてやる。跡形も無く切り刻んでやる。
さあ、いくぞ。
やってやる。
「ふっ!ふっ!ふっ!ふっ!」
呼吸が苦しい。燃え上がるほどの熱を持った体からダラダラ汗が滴り落ちる。
迷うな。
躊躇うな。
問題ない。僕はやれる。
行け!
行くんだ!
行け!・・・行け!・・・行け!!・・・行けぇっ!!!!
カッターを振り上げ、僕は息を大きく吸い込んだ。
「ああああああああああああああああああああっ!!!!」
・・・ぐさっ!!!!
視界が爆発した。
凶悪な電気が細胞の隅々まで駆け巡る。
ビクッ、ビクッ、と体が勝手に弾んだ。
「っっっっっっぃいいいいいいいいいいいいぎぁぁぁぁっっっっ・・・・・!!!!」
口から漏れたのは、自分でも聞いたことのない声だった。
カッターを持っているほうの手がバネ仕掛けの玩具みたいに跳ね上がる。
もう片方・・・刃を引き抜かれた側の腕からは、コポコポと泉のように血が溢れた。
振り上げられた拳が、カッターを握り締めたまま再び重力に任せて落ちてくる。
僕はそれを呆けたように眺めていた。
・・・ぐさっ!!!!
「・・・・っ、きひいいいぃぃぃっっっっっっっっ・・・・!!!!」
目から、鼻から、口から、壊れた蛇口のように色んなモノが湧き出てぐしゃぐしゃに顔を汚していく。
ポーンと跳ね上がって、また落ちてくる。
・・・ぐさっ!!!!
ポーンと跳ね上がって、また落ちてくる。
・・・ぐさっ!!!!
「・・・あはっ、あはははははっ!」
何だかもう面白くなってきた。
おかしな動きをする自分の右手を鑑賞しながら。僕は一頻り笑い続けた。
左腕の感覚は、もはや“痛み”ではなかった。
ズクン、ズクン・・・
灼熱を湛え、規則的な脈動を繰り返す。
それは、肉が内側から破裂してしまいそうなほどの強烈な鼓動だった。
まるで左腕にもう1個心臓があるみたいだ。
パルスの発信源に目を落とすと、そこには凄惨な光景があった。
あまりの有様に、一瞬クラリと意識が暗転しかかった。
なんだこれ。何やってるんだ僕は。
左拳をぐっと握りこんでみようとするものの、思うように力が入らない。
なんだこれ。なんだこれ。
自分がしでかしたことの重大さを予感し、全身から迸った嫌な汗がびっしょりと衣服を濡らした。
もしかしたら、もう駄目なんじゃないか?この腕は・・・
無残な傷跡からじくじくと腐ったような汁が染み出してくる。
いい加減、頭がどうにかなりそうだ。
・・・でも、それでも
自らの馬鹿げた行為がもたらしたものの中に、僕はなけなしの救いを見出していた。
消えている。
あれだけ猛威を振るっていた虫けらどもの蠢動がすっかり収まっている。
乗り越えた?
勝った・・・のか?・・・アレに?
そうか、やったのか。
終わったんだ。ついにあの地獄から抜け出せたんだ。
「・・・は、はは・・・」
あるいは腕一本くらいの価値があったと言えるかもしれない。
あと何秒も耐えられなかった。何とか踏みとどまったその場所は、本当に崖の縁ギリギリのところだった。
不意に、一粒の滴が胸の奥に落ちる感覚があった。
ガサガサにひび割れた精神を潤すそれは、安堵の雫だろうか。
ああ、染み渡る。
その雫は・・・思いの外濁ったそれは、細胞の隙間にじわり浸透し、溢れ、広がり・・・
アメーバのように
フワフワ、モヤモヤ
ヌルヌル、ウネウネ、ピチピチ・・・
・・・嘘だろ。
勘弁してくれよ。
やめろ。もう嫌だ。お願いだやめてくれ。
「・・・・ぁ・・・・・ぁぁ・・・・・た、助け・・・・」
訪れた平穏は、一息吐く間すら
あんなにしたのに全然無駄だったのか。
絶え間なく湧き出してくるコレを始末するにはまるで足りないのか。
もっと刺さないと駄目なのか?全身を満遍なくやらないと駄目なのか?
いや、やっても駄目なんじゃないか?
全身がヒダとなってさざめく。自分が自分でなくなっていく・・・というより、この気味の悪い汚物こそがまさしく僕自身の歪んだ有様を具現化しているように思えた。
僕が僕である限り、コレから逃れることなんてできないんじゃないか?
もう無理だ。どうやったって無理だ。
「・・・うくっ、ふくくくっ・・・・」
何だ?何で僕は笑ってるんだ?
全てがデタラメだった。あべこべで、無秩序だった。
そうか、本当に壊れるってのはこういうことなのか。
もういいや。終わりにしよう。お仕舞いだ。自分をやめてしまおう。
いらない。全部。
手も、足も、胴も、目も、耳も、鼻も、脳も、髪の毛も。
捨ててしまおう。全部捨てるんだ。
それでいい。何も問題ない。
だって、僕はずっと望んでたんだ。
この不恰好な肉の内から抜け出して、鑢のように僕を苛むこの世界から抜け出すことを。
この世界から、消えることを。
もう嫌だ。もうたくさんだ。消えてしまいたい。
これまでだって、何度も、何度も、何度も、僕はそう思ってきた。
僕なんかよりずっと惨めで、過酷な生い立ちの人は山ほどいるだろう。
それに立ち向かい、乗り越えていった人なんていくらでもいるだろう。
世界には何十億もの人がいて、何十億もの人生があって・・・
その中で、僕が捨ててきた日常なんてものは、だだっ広い川原におけるありふれた1つの小石に過ぎない。
平均値を中心に誤差の円を書いたらすっぽりとそこに収まってしまうような、取るに足りないものなんだ。
なのに耐えられなかったのは、世界が悪いんじゃない。僕が悪いんだ。
そう、どこだって同じだ。
家でも 学校でも 何もかも放り出して逃げた先でも
この世界がもたらすものは、ただのそよ風でさえ、僕には痛すぎるんだ。
どこへ行っても、どこまで逃げても、苦しみから逃れられはしない。苦しみは決して僕を放してくれない。
もういいだろ。いい加減疲れた。お仕舞いにしよう。
耐え難い激感に霞む思考の渦中、僕の耳に飛来したのは、穏やかなさざなみの音だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます