第10話 狂乱 ――その①

注射器の柄が、芹花さんの腕から生えている。

あれは何だ。一体何なんだ。

目の前で起こっていることがうまく認識できない。

身体も、思考も、全てが麻痺していた。

ここがどこで自分が何をしているのかさえ、なんだかよく分からなくなってきた。


「ふ・・・くふっ・・・」


凍りついた時を溶かし始めたのは、呻きのような小さな声だった。


「くっくっ・・・うふ・・・うふふふっ」


苦しそうで、悲しそうで・・・それでいて心底可笑しそうでもあった。


「くうっ!ぷくくっ!くはっ!あははははははっ!!」


芹花さんの口から漏れ出た声は、やがて狂った哄笑となって室内に渦巻いた。

奇妙な沈黙に包まれた部屋における唯一の音がそれだった。

水を打ったような静寂の中で、殊更際立つ芹花さんの笑い声。


パァァァーーーーン!!!!


1つの銃声が、血みどろの狂乱の始まりを知らせるスターターとなった。

「ひぎぃぃっ!!」

片脚を抱え込んで転がり回る男。スラックスに開いた穴からどっと鮮血が迸る。

彼の右手に握られた銃からは、うっすらと硝煙が立ち昇っていた。

その瞬間を僕はこの目ではっきりと見た。

彼は突然、手に持った銃で自分の太股を打ち抜いたのだ。


パァァァーーーーン!!!!パァァァーーーーン!!!!パァァァーーーーン!!!!


花火のように喧しく、無数の銃声が後に続いた。

「ぎゃあああっ!!」「ひぃっ、ひぃいいいいいいっ!!!!」

己の腕に、脚に、男たちは自らの銃でデタラメに穴を穿った。


身体の戒めを解かれた芹花さんがふらりと立ち上がる。


ガリガリ、ガリガリ


細い二の腕を掻き毟りながら、痙攣したように笑い続ける芹花さん。

「くはっ!くっは!ひっひゃっひゃっひゃ!!くぅ~~~!!」

その爪が、絹地の肌に無数の赤いミミズを描いていく。

中身が満たされたままの注射器がするりと抜け、彼女の足元にぽとりと落ちた。


パァァァーーーーン!!!!パァァァーーーーン!!!!パァァァーーーーン!!!!


止まぬ銃声。

「ぐぎぃぃぃぃぃぃっ!!!!」「ば!ば!ば!ば!」

男たちの数人は自らの銃創に指を突っ込み、感電したかと思うほどに身体を震わせて泡を吹いた。

ある者は、ドスを抜いてぐりぐりとサーモンピンクの肉を掻き出す。

(・・・そうか・・・)

ぼんやりと霞掛かった頭でようやく理解した。

これが芹花さんの“力”なんだ。

「・・・何だ、こりゃ・・・」

呆然とした呟きが耳に届き、僕はハッと我に返った。

同時に、自分が取り返しのつかないミスを犯したことに気付く。

目の前で繰り広げられている光景に気を取られて、為すべき責務がすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。

ショウが・・・僕が何とかしないといけなかった筈の男が、狐に摘まれたような顔で立ち尽くしながらも、ついっと何気なく銃を持ち上げた、その先に・・・

芹花さんの姿があった。

(・・・っ、間に合わなっ・・・!!)

全てがゆっくりに見えた。

銃を握るショウの指に力が篭り、トリガーを引き絞っていく。


パァァァーーーーン!!!!


ひときわ高い炸裂音が室内にこだました。

「・・・っがあぁっ!!!!」

苦痛に満ちた悲鳴。

迸る鮮血。

そして・・・


カラン、カラン・・・


床に転がる拳銃の音。


大きく上方に逸れた弾丸は、壁に掛けられた額縁を破壊していた。

真一文字に切り裂かれた手の甲を押さえて呻くショウ。


こんな風に使うなんて考えてもいなかった。

僕はただ、逃げ道を用意したかっただけだ。

もしかしたら、死ぬこと以上の“最悪”があるかもしれない・・・

そんな状況に追い込まれたならば、どうすべきなのだろう。生きているのが苦痛でしかない状況になったら、僕はどうしたらいいのだろう。

出発前、銃を取りに部屋に戻った際に、保険のつもりでこっそり袖口に忍ばせたモノ・・・

黄色い柄のカッターナイフの刃先には、ショウの血がべっとりと纏わりついていた。

角度を付けずに擦るように横にスライドさせて、最後に刃先で引っ掻く。

コレで肉を切る方法を、僕はそれなりに心得ていた。


「・・・っ!」

ショウが取り落とした銃に向かって、僕は頭から飛び込んだ。

(ぐっ・・・!!!)

強かに打ちつけた肩に鈍い痛みが走る。

「・・・っ!?このガキっ!!」

ショウが怒りに歪んだ形相でこちらに向かってくる。考えている暇など一瞬たりとも無い。

訓練で染み付いた動きを身体が勝手に再現した。


パァァァーーーーン!!!!パァァァーーーーン!!!!


“銃で人を殺せるかどうかは、最初の1人で決まる”・・・そんな台詞を聞いたのはドラマだったか、アニメだったか・・・

僕にとっての“最初の1人”は、気付いた時にはもう終わっていた。

今までだって僕は多くの人を殺してきたのだから、この1人が特別大きな意味を持つとは言えないかもしれない。

だが、拳銃で人を殺す感覚は、サイトの“力”で殺すのとは全くの別物だった。

引き金を引いて鉛玉を射出し、他人の身体を物理的に損傷させて死に至らしめる・・・

一片の曖昧さも存在しない。その行為は紛れも無く“殺人”そのものだ。

金属の塊をガツンと相手の体内に埋め込み、砕く・・・生々しく手に残る発砲の反動は、まさにそんな感触だった。

眉間に1つ、左目に1つ、僕の放った銃弾はショウの顔面に命中していた。

吹き出す鮮血。どろっと垂れ落ちる血ではない何か。

彼の顔に張り付いているのは、醜悪で汚らしい死の表情だった。

覆い被さるように崩れ落ちてくるショウを、僕は足で蹴飛ばして押し退けた。

全身に鳥肌が立ち、胃液が喉にまで込み上げてくる。

気がおかしくなりそうなほどの不快感が胸の奥を駆け巡った。

しかし、同時に、何か妙な感覚が腹の底から這い上がってきていることに僕は気付いていた。

応接スペースのほうに目を移す。

「ひぎぃっ!!!!」「ぐひゃっ!!ぐひゅうっ!!」

途絶えることなく続く耳障りな阿鼻叫喚。

芹花さんの“力”が作り出す光景は、僕のものとはまるで異なっていた。

そこにあるのは静かに死を享受する人々の姿ではない。もがき、喘ぎ、苦痛に転げまわる見苦しい姿だ。

さながら灼熱の大釜で茹でられる亡者である。これこそが地獄と呼ぶに相応しい景色ではないだろうか。

運悪く太い動脈を傷つけた数人のみが既に絶命しているようだった。

いや、“運良く”と言うべきか・・・残りの連中は苦悶に顔を歪め、泡を吹きながら、死ぬこともできずに呻いている。

気が触れそうな苦しみから逃れようとして、更に自分を追い込んでいく・・・

その醜態は、自らの尾を飲み込む蛇を連想させた。


ひたすらにのたうち回る男たちに銃を向ける。

躊躇いは一切無かった。むしろ、引き金の弾力を求めて人差し指の腹がウズウズするくらいだった。


パァァァーーーーン!!!!


脳天に命中する弾丸。被弾した男の身体がビクンと1度だけ跳ねて、その後完全に動かなくなる。

じわり、と、またさっきの感覚が背筋を上ってきた。


パァァァーーーーン!!!!


その正体を確かめるように、僕は続けざまに引き金を引いた。

耳を突く奇声が、気色悪くばたつく手足が、銃を撃つ度に1つずつ途絶え、無音の亡骸と化していく。

(・・・ぐぅっ・・・!)

ようやく分かった。

これは“快楽”だ。

緩衝材のプチプチを潰していくような爽快感だ。


パァァァーーーーン!!!!


僕の指先には彼らの命が乗っかっていた。

こいつらはクズだ。人に薬を売り、人格を壊して、全てを搾り取る蛭だ。

しかし、彼らがいくら下衆であっても、これまでの僕ならこういう連中と対面したときに肩を震わせて縮こまるくらいしかできなかった筈だ。

今は違う。指を少し動かすだけで、彼らの存在を全否定できる。

そう、今の僕は否定される側じゃない。否定する側なんだ。

芹花さんに向けられた仕打ちに対して見て見ぬフリをするのではなく、制裁を加えることができるんだ。


パァァァーーーーン!!!!パァァァーーーーン!!!!


まるで地獄のようだったこの部屋も、随分と綺麗になった。

赤く染まった絨毯の上に無造作に折り重なる死体の数々。それらの配置に僕は奇妙な調和を感じていた。

「ひぎぃっ!!あぎゃあああっ!!くああああああっ!!」

その調和を乱す最後の汚物におもむろに銃を向ける。

(・・・これで、最後・・・)


「まだだっ!!!!」


芹花さんの制止の声に、僕ははっと我に返った。

そうだった。すっかり頭から抜けていたが、この男・・・寺門へのとどめだけは、芹花さんの指示を待つ手筈だった。

「・・・まだだっ、くふっ・・・まだだろうが!・・・うふ、くふふふ・・・!」

男どもの呻きの数が減ったことで、芹花さんの笑い声が再び際立ち始めた。

寺門の苦悶と芹花さんの哄笑が織り成す対旋律が、室内にそら寒い狂気を呼び込む。


「うふふふふふっ、くひひっ、ひゃーっはっはっはっはっ!!」


ガリガリ、ガリガリ


芹花さんの二の腕を見て、僕は思わず顔をしかめた。

無残に引き裂かれた皮膚から滴るほどに血が滲み出ている。朱色の液体がヌルヌルと絡みついたその指で、芹花さんはさらに自分の身を削り続けた。


「ふひっ!あひゃひゃひゃひゃっ!うひひっ!」


カッと見開いた双眸からは涙が溢れていた。歓喜、恍惚、憤怒、絶望・・・それらが綯い交ぜになった壮絶な表情で、彼女は笑っていた。

居た堪れなくなって銃を構えると、間髪入れずに怒号が飛んできた。

「まだだあぁぁっ!!!!」

尋常でない芹花さんの勢いに押されて、歯噛みしながら銃を下ろす。

「ぐう、ががががっ!!ぎゃああああああああああああああ!!!!」

断末魔を思わせる寺門の叫びを耳にした芹花さんの目は、興奮で半分飛びかけているように見えた。

今の僕には分かる。芹花さんは愉しんでいるんだ。

今日初めて直に相見える僕でさえ、この最低の連中を始末するのに強烈な快感を得ていたのだ。

寺門と浅からぬ因縁を持つ芹花さんにとって、それはどれ程のものになるのだろうか。

この瞬間こそ、芹花さんがずっと待ち侘びていた復讐の場面なんだ。

彼女の言葉を借りるなら、彼女が生き永らえてきた意味が今ここに凝縮されているということになるのかもしれない。


だけど、でも・・・


これまでの芹花さんの人生の中で最高の瞬間だと言うなら、どうして彼女はあんなに苦しそうなのだろう。泣きながら、二の腕を掻き毟っているのだろう。

僕にはそれが芹花さんにとっていいことだとはどうしても思えなかった。


バリバリ、バリバリ


なますのように切り刻まれた肌は痛々しく真っ赤に腫れ上がっていた。

もういい。もう充分だ。

あんなクズのために芹花さんがこんなになるなんて馬鹿げている。

何も芹花さんの人生がここで終わるワケじゃ無い。これから先のほうがずっと長い筈だ。

そろそろ終わりにすべきだろう。醜くのたうち回っているこのゴミ野郎のことはもう断ち切るべきだ。


パァァァーーーーン!!!!


照準に狂いは無く、弾丸は意図した通りに寺門を襲った。

頭蓋が割れ、ぴゅーっと血が吹き出る。

力なく崩れる寺門を、芹花さんは唖然とした表情で見つめていた。

「・・・あ?」

何が起こったのか分からない・・・そんな顔だった。

開き気味の瞳孔が僕の姿を捉える。

「おい・・・何やってんだ、お前・・・」

そこに彼女の正気を見出すのは困難だった。

「何だこれ?・・・おい、何なんだこれ?・・・は、は、何やってんだよ?」

ふらふら歩み寄ってくる芹花さん。

恨まれることになるかもしれない・・・そう覚悟していたつもりだった。しかし、芹花さんの形相は、その想定が甘すぎたことを僕に思い知らせるものだった。

僕は間違ったのだろうか?いや、でもこれは彼女のためを思ってやったことなんだ。

「何やってんだよ!!何やってんだ!!あああああああっっっっ!!!!」

狂った悲鳴が腹の底に響く。

違う。違うんだ。

逆だ。僕は芹花さんに狂って欲しくなかったから、こうしたんだ。

それなのに、どうしてこうなってしまったんだ?

血に濡れた芹花さんの指が、僕の胸倉を掴んだ。

振りかぶられる拳。

(・・・殴られるっ!)

咄嗟に目を瞑った僕に、しかし予想した衝撃は訪れなかった。

再び開いた僕の目に映ったのは、自分の肩を抱きかかえてうずくまる芹花さんの姿だった。

「・・・っ、芹花さん!」

唇が真っ青だ。額にびっしり汗を滲ませながら、ガタガタと身体を震わせている。

「・・・ぅうっ、うううぅぅ~~~っ!!」

苦悶の呻きを漏らす口から、一筋の涎が垂れた。

発作だ。

深刻な発作が芹花さんを襲っているのだ。

「芹花さんっ!大丈夫ですか!?芹花さんっ!!」

僕はタブレットから薬を一粒出して掌に乗せ、芹花さんの口に押し当てた。

「・・・んっ、んくっ・・・」

貪るように吸い付いてそれを飲み込む芹花さん。

「・・・うぅっ!くううっ!・・・っふうぅぅっ!!」

発作を収めようと必死に呼吸を整える。

もう見ていられない。一刻も早く彼女に安らぎを取り戻して欲しかった。

そっと芹花さんの背中をさすってみる。

「せ、芹花さん・・・その、僕が付いてますから、何かできることがあったら言ってください。」

そんな呼び掛けにどれほどの効果があるだろう。そもそも僕がいたからといって何だというのか。僕にできることなんて何もありはしない。

だけど1ミリグラムでも芹花さんの支えになる可能性があるとしたら、僕はそれをしないワケにはいかなかった。

「・・・ふぅっ・・・すうううっ・・・」

ややあって、ほんの少しだけ芹花さんの呼吸が和らいだ。

・・・お、やっと薬が効いてきたかな?

そう思った瞬間。


「・・・ぅく・・・ぅぐぅううううううっっっ!!がはああああああっ!!!!」


けたたましい絶叫と共に芹花さんが立ち上がった。

両手の爪で体中をがむしゃらに掻き毟る。新たに刻まれた無数の傷痕からぷつぷつと斑に血が湧き出してきた。

・・・ダメだ、効いてない。

今飲ませた薬は作戦遂行中用の薬だ。行動に支障を来さないよう普段のものより成分が薄められている。

そんなんじゃ、あの激烈な発作には焼け石に水なのだろう。

どうしたらいいのか全く分からない。

苦しみ悶える芹花さんを前に、僕は馬鹿みたいに立ち尽くしてしまっていた。


そのとき突然、芹花さんが寺門のほうに向かって駆け出した。

何をしようとしているのだろうか?動かなくなった寺門の屍に怒りをぶつけようとでもしているのか・・・

そんなの、悲しすぎる。そんなことをしたって何の意味も無い。

でも、あの何の役にも立たない骸を毀損することで芹花さんが少しでも苦しみから解放されるのであれば、とりあえず今はそれでいいのかもしれない。

芹花さん自身が傷付くよりはマシだ。あのまま自分の身体を傷付け続けるくらいなら、いっそそっちのほうが・・・



・・・違うっ!!!!



僕は猛然と芹花さんの背を追い掛けた。

(・・・くそっ!・・・間に合えぇぇぇっっ!!)

すんでのところで追い付いた僕は、芹花さんに後ろからしがみ付き、必死にその前進を食い止めた。

「ダメです!!芹花さん!!・・・それはダメです!!」

「くっ・・・!は・・・はなっ!!・・・放せっ!!」

芹花さんの視線の先にあったのは、寺門の死体ではなかった。

ほんの僅かだけ、その左手前にズレている。

やばかった。あとちょっと気付くのが遅れていたらとんでもないことになっていた。

虚しく両手を彷徨わせる芹花さん。その向こうには、カーテンの隙間から差し込む月光に照らされて冷たく光る注射器があった。

「ううううううううううあああううあうああああああああっっ!!!!」

芹花さんが腕の中でじたばたともがく。


もう他に選択肢は無かった。僕はタブレットからさらに1粒取り出し、芹花さんの口に押し込んだ。

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