第9話 誤算 ――その②

話を打ち切るように目を逸らす芹花さん。

「では、おしゃべりはもうお仕舞いにしましょう。これから大事なお役目が待ってるんですから。」

がらりと変わった口調は、いよいよ本番モードに突入したことを意味していた。

(・・・ぼ・・・私は、女の子だ。・・・女の子、女の子・・・)

僕も繰り返し自分にそう言い聞かせて、ボロが出ないよう集中力を高めていく。


「あのっ!ミキさんですよね!ようこそおいでくださいましたっ!」

待ち合わせ場所で僕らを出迎えたのは、銀髪オールバックに細い眉のいかにもヤンキーっぽい人相をしていながら、やけに慇懃な男だった。

「そっちのお嬢さんは、ご友人ですかっ?」

芹花さんが気品に満ちた笑みを浮かべてその問いに答える。

「彼女は私の付き添いで来てくれたんです。1人では何かと不安でしたので。」

「あ~なるほど!確かにこの辺はかなり治安悪いっすからね~。でも大丈夫!責任持って無事に事務所までお送りしますから!」

男の先導に従って迷路のような路地に踏み入っていく。

疎らにうろつく人々から投げ掛けられる視線は、表通りを歩いている時とは比べ物にならないほど不躾なものに変わっていった。

「よぉ、ショウちゃん、えらい美人連れてんなぁ。店の新人かぁ?」

脇のほうから、皺々のジャンパーを羽織った1人の中年男が声を掛けてきた。

脂ぎった顔を近付けてニマニマ笑うその男のいやらしい表情を見るだけで、強烈な嫌悪感が湧き上がる。

娼婦になるというのは、こういう男たちの相手をするということなのか。

「おー!ゲンさんじゃないっすか!いやまあ、この娘達はまだ決まったワケじゃないんすけどね。他にも新しい娘たくさん入ったんで、ゲンさんのご来店お待ちしてますよ!」

「ほーほーほーほー、うひひっ!そりゃ楽しみだ!ショウちゃんの口利きで安くしてくれねぇか?」

「ははっ、まぁ、できる限りサービスさせていただきます!」

「頼むわぁ。期待してるからな~。」

これが女性の目の前で交わす会話だろうか。女性のことを性欲の捌け口くらいにしか見ていないのではないか。

その男と別れてからも、僕たちの集団に興味を示す連中は後を絶たなかった。

以前、調査でこの辺りに来た時はダウンタウンファッションで身を固めていたおかげで幾分か誤魔化せていたみたいだが、今日の芹花さんと僕の格好はこの界隈で明らかに浮いていた。

嘗め回すように見つめてくる人、口笛を吹く人、中には鼻を近付けてくんくん匂いを嗅いでくる人までいる。

『私はどのような形であれ、皆様のお役に立てることを誇りに思っております。』

いつかの櫻井さんの言葉を思い出す。

自分がそれまで思いも寄らなかった娼婦の矜持みたいなものを、僕はその言葉に教えられた気がした。

しかし、それは果たして本当にそのような誇りを保てる世界なのだろうか・・・こうも下品な視線を浴びせられ続けていると、否が応でも疑惑の念に駆られてしまう。

「・・・お店の客層って、どんな感じなんですか?」

芹花さんがいかにも不安げな声色を作ってそう訊ねる。

「え?あーあー、心配いりませんって!ゲンさんみたいなのは少数派っすよ。“最近は随分とイケメンが増えた”ってウチの社長も言ってましたし。最近多いらしいっすよ?イケメンなのに女の子との付き合い方が分からなくてウチみたいな店利用する人って。」

軽薄な言葉が、上っ面を滑り落ちていった。

かび臭い裏通りに充満する低劣な興奮。そのうち誰かが襲い掛かってくるんじゃないか・・・そんな危惧を抱かせるほど、漂う空気は濁りきっていた。

だけどそれでも、道端の連中はすんでの所で自制しているように見える。

理由は恐らく、ショウと呼ばれるこの先導の男だろう。

僕はようやく彼の役割がただの案内ではなく“護衛”だということに気付いた。

その効果を見るに、彼らの組織はこの辺りでそれなりの影響力を持っているということか。


細い路地をぐるぐる歩き回った末に、僕らは1棟のビルの前に辿り着いた。

特にこれといった特徴のない小ぢんまりしたオフィスビル。しかしこれこそが、ターゲットの事務所が入った目当てのビルである。

いよいよだ。

僕はゴクリと唾を呑んだ。

不意に、耳の奥でカチカチと音が鳴るのが聞こえた。

『キ・コ・エ・ル・カ』

モールス符号に当て嵌めて翻訳する。僕の耳にはワイヤレスの超小型イヤホンが詰め込まれている。このイヤホンには高性能な骨伝導センサーも内蔵されている。

これは芹花さんも同様である。奥歯を噛み合わせるとそれが信号音となって相手のイヤホンに伝わる仕組みだ。

つまり、声に出せない内容もこれを使えばある程度の伝達が行えるというワケだ。

『ハ・イ』

符号自体は完全に頭に叩き込んでいたが、緊張で震えそうな顎で発信するのは殊の外難しかった。

芹花さんからはすぐに通信終了を意味するVA信号が帰ってきた。どうやら器具のチェックのための通信だったようだ。

事務所のある4階にエレベーターで向かう。

エレベーターの室内はかなり狭く、3人の乗員でも圧迫感を覚えるくらいだった。

(・・・っ、だめだ・・・)

重圧でどうにかなりそうだ。

汗ばむ手でぎゅっとスカートの裾を握り締める。これから僕は自分の命を危険に晒すのだ。

カッターで傷つけた手首から血潮が迸ったとき、屋上の塀の上から地面を見下ろしたとき、背筋を走る冷たい感覚に、僕は少しだけ死の横顔を見た気がしていた。

でも、そんなのは単なる遊びに過ぎなかったと心底思い知る。

死に立ち向かう勇気など、僕は微塵も持ち合わせていなかった。

(・・・落ち着け、落ち着け・・・)

大丈夫だ。手筈通りやれば問題ない・・・窒息しそうな胸の詰まりを収めるには、無理にでもそう信じ込む必要があった。

ふと前を見ると、目の前に腰を少し屈めたショウの顔があった。

にっと笑って僕の顔を覗き込む彼に対し、僕は思わず目を背けた。

胡散臭い男だと思う。

だが、ここまでの先導は至極丁寧なものだった。今の笑顔にしたって、もしかすると僕の緊張を解そうとしてくれたのではないか。自分がこういう男に免疫が無いだけで、必要以上に彼を毛嫌いしてはいないだろうか。

芹花さんに対する第一印象も彼と似たようなものだった。だけど今はそれが完全に間違いだったと言い切れる。

このショウという男だって、一方的に嫌悪される謂れなど・・・


(・・・待て待て、違うだろっ!)


モクモクと湧き上がったその思考を頭から振り払う。

僕はこれから殺すんだ。この男を。

だったら徹底的に嫌悪すべきだ。

頭に浮かんだのは、鴉の言葉だった。

『撃たれて死んだ人間がもし生きていたとしたら、その先100万人を救うかもしれないし、100万人を殺すかもしれない。』

この男が悪人でない可能性も確かにあるだろう。しかし、もし彼が生粋の悪人ならば、ここで殺さないことによって今後多くの犠牲が出る可能性も同等に存在する。

いや、そもそも彼が善人だったとしても彼のせいで死者が出る可能性は否定できないし、逆に悪人でも彼によって誰かの命が救われることが無いとは限らない。

つまり、彼が犯罪組織に所属している時点で、悪人か否かの想定をすること自体が無意味なのだ。

考えるだけ無駄である。彼の内の良心を探ったところで、そんなものは何の役にも立たない。

唯一確かなのは、彼が僕にとって赤の他人であるという事実だ。

今の僕にできるのは、粛々と作戦を遂行し、自分の命を守ることだけだ。


チーン


古臭い電子音が響き、エレベーターのドアが開いた。

切れかかった蛍光灯に照らされた薄汚い廊下。

先を行くショウ、後に続く芹花さんと僕の足音が、コンクリートの壁にコツコツと反響する。

目の前に現れたのは、この貧相なビルに似つかわしくない、いかにも頑丈そうなドアだった。

目の端に黒光りする小さなタイルのようなものが映る。

(・・・っ、あれを見ちゃいけない。)

ディーネさんの情報によれば、あれは偽装された監視カメラだ。見ていることがばれたら警戒されてしまう。

「ショウです!ただいま戻りました!」

ショウが無音のインターホンを押してそう告げると、スピーカーから『どうぞ』という返答が戻ってきた。

それに応じてショウがカードキーをスキャナーに通す。

ガチャリ、と、錠の開く音がした。

扉の向こうに現れたのは、デスクが十数個ほど配置された部屋だった。

事務所にはここと社長室の2部屋だけしかないという話だから、かなり小規模と言えるだろう。

その壁はゴシック模様の壁紙に覆われ、よく分からないケバケバしい絵画が額に飾られていた。不似合いにも床は絨毯敷きである。

部屋の角には応接用のスペースが設けられていた。

その周辺に待ち構えるように群がる7人の男。

(あれは・・・池石大悟、蒲生猛、富田修一・・・)

資料に載っていた主要メンバーがほぼ勢ぞろいしている。あとは・・・

「いやいや!ようこそおいでくださいました!ミキさん!」

奥の社長室のドアが開き、野太い声と共に1人の男が出てきた。

(・・・そしてあれが、松橋武雄こと、寺門清志。)

今回のミッションにおけるメインターゲットの登場だ。

太い眉の厳つい顔に、気持ち悪いほどの満面の笑みを貼り付けている。

「さあどうぞ奥のほうへ。そちらのソファーにお座りください。」

応接スペースのソファーの周りにいる連中から漂う危険な空気は街の不良たちの比ではない。

人を顔で判断してはいけない・・・学校ではそう教わってきた。だが、今目の当たりにしている光景はそんな倫理を根底から覆すものに思えた。

別にこちらを睨んでいるワケではない。営業スマイルじみた笑みを浮かべている者もいる。

そんな普通の表情から染み出す何かに、俄かに震えが込み上げてきた。

「あの・・・この子は付き添いですので、ここに控えさせていただいてもよろしいでしょうか?」

芹花さんの申し出に「ええもちろん構いませんよ!」と応じる寺門。

男たちの只中へと、1人芹花さんが歩み入っていく。

僕はドアのすぐ近くに待機だ。

『いいか、龍。』

芹花さんは言っていた。

『私の周りにいる奴らは私が相手する。奴らを“行動不能”に追い込むから、銃を使ってお前がとどめを刺せ。

ただ、あいつには・・・寺門だけには手を出すな。私が指示するまで放置しておけ。

事務所の中じゃできるだけ私から離れてろよ。』

今のところは想定通りの展開と言える。作戦は順調に進んでいるのだ。

不意に、僕の隣に並び掛ける者がいた。

ショウだ。

そういえばさっき寺門がショウに意味有り気な目配せをしていたように見えた。

監視役だろう。妙な行動を起こしたり、逃げ出したりしないよう、僕を見張っているのだ。

どっと全身に汗が滲む。

(・・・っ、これも、想定内っ・・・)

『お前に差し向けられるのはせいぜい1人だろう。その1人はお前が処理しろ。』

それが芹花さんの指示だ。

(とにかく距離を取って、それから・・・)

細身だが僕より断然背が高く、引き締まった体をしているのが服の上からも分かる。

格闘で敵うなんて思わないほうがいい。使うのはあくまで銃だ。

すばやく抜く訓練は重ねているが、それでも抜く前に身体を押さえ込まれたらおしまいだ。

まずはその場を飛び退いて、それから銃を抜き、そして撃つ。

向こうには油断もあるだろうから、きちんと手順通りやればうまくいく公算は高いように思える。

「それにしても、こんな美人が応募してくれるなんて、実に嬉しい限りですねぇ。」

寺門の嬉々とした声が応接スペースから響いてくる。

「お褒めに預かって恐縮です。大事なのはお客様を満足させることですから、容姿のみでやっていけるものではないと承知しております。」

冷静に受け答えする芹花さん。

「素晴らしい!若いのに随分と躾が行き届いてらっしゃる。この業界、あなたみたいに本物の気品を備えた方は希少価値が高いんですが、こういう仕事の経験があるというのは本当ですか?」

「はい、2年ほど小さな娼館に勤めておりました。」

ポリポリ耳を掻きながら寺門は目を細めて手元の資料を見やった。

「『悠笙館』ねぇ・・・確かにそこからの紹介状も貰ってますが、あまり聞く名ではありませんなぁ・・・」

「秘密クラブみたいなもの・・・と私は聞いておりました。娼館の名前の口外も禁止されていましたし。」

架空の組織なのだから、実際にはそんな娼館は存在しない。にもかかわらず、出されたお茶を啜りながら芹花さんは平然と答えた。

「ふむふむ、こちらとしてもショバ荒らしを黙って見逃すワケにはいきませんが・・・」

寺門の目が鋭い光を放つ。あれがもし僕に向けられたなら舌先まで凍り付いて何も言えなくなってしまうだろう。それほどの迫力だ。

「私には分が過ぎた話で詳しくは存じませんが、その辺りも勘案して今回の運びになった・・・とだけは聞いております。」

そんな重圧を、しかし芹花さんはものともせずに含みのある回答で切り返す。

「なるほど、そういうことですか、これが“上納”の代わりというワケですか。」

寺門が勝手に納得してくれている。悪い流れではない。警戒を解いてくれたほうが付け入る隙も大きくなる。

「だが、しかしねぇ・・・」

歯切れの悪い寺門の反応。

「・・・あの、まだ何か?」

芹花さんの問いにわしゃわしゃと頭を掻き毟ると、寺門はにやっと笑って言い放った。


「刺客は男女2人組だって聞いたんだけどな、芹花。」

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