第8話 偽装 ――その②
自室に戻った僕は、机の上に開いたままのモールス符号教本に再び目を落とした。
黙々と読み進めながらも、さっきの芹花さんの顔が頭から離れなかった。
やっぱり僕は芹花さんの肩を持ってアレクさんに抗議するべきだったのではないだろうか。
このままミッションを続けることで問題が生じたとして、僕が責任を取れるワケではない。芹花さんにとってプラスになるという確信も無いのに意見するのは、無用な差し出口に他ならない・・・それは確かにそうだ。
だけど、その正論は僕にとって単なる逃げの口上なのかもしれない。心の奥底では、危険なミッションから自分が外されるのを喜んでいたのではないか?
それを証明するように、つい先刻まで僕を苛んでいた腹痛はもうすっかり治まっていた。
現金なものだ。芹花さんのことを心配しているフリをしても、結局、自分さえよければいいというのが僕の本性なのか。
(それにしても・・・)
アレクさんのあの高圧的な態度は何だったのだろう。
まさか、今までの温和で理性的な姿は僕を欺くためのもので、あれこそがアレクさんの本性だったりするのか?僕はまんまと騙されていたのだろうか。
まあ、軍属出身なのだから厳しい面があるのは不思議ではないが、しかしどうも引っ掛かる。どんなに裏があったとしても、アレクさんがああいう嫌味を言うような人だとはどうしても思えないのだ。
大体、スケジュール上はあの後会議室を使う予定なんて無かった筈だ。『他のメンバーが会議室を使えなくて迷惑する』なんて言い方は、これまでのアレクさんの印象とは全くかけ離れた・・・
(・・・あっ!!)
その時、僕は自分のとんでもない見落としにようやく気付いた。
(会議室・・・そうだ!あそこは会議室だったんだ!!)
こんな当たり前のことになぜ気付かなかったのだろう。
あそこは会議室なのだ。そう、会議室であって、居室ではないのだ。
居室でなければ、当然そこには集音機が設置されていて、僕らの会話がモニタリングされている。
僕はあの場で、何を言おうとしていた?
『そんな・・・今更おかしいですよ、こんなの・・・だってアレクさんは・・・』
その後、何と言うつもりだった?
“アレクさんはずっと前からそのことを知ってた筈じゃ無いですか”
アレクさんの声に遮られなければ、僕はそう続けていただろう。
それはきっとアレクさんにとって困ることだったんだ。
さっきアレクさんは言っていた。芹花さんとターゲットの関係が明らかになったのは、芹花さんのレポートを基に研究者サイドが追調査した結果である、と。
ということは、アレクさんが研究者サイドに告げ口したわけではないのだ。
すなわち、芹花さんとターゲットとの因縁に関するアレクさんの調査はあくまで秘密裏に行ったものであり、それで知り得たことを彼は研究者サイドに報告せずにいたことになる。
集音機の無い居室でアレクさんがわざわざ僕に教えてくれた情報・・・つまりその情報を入手するためにアレクさんは組織を欺いたわけだ。なのに僕は、それをあの場で考えなしに口走る寸前だった。
馬鹿だ。僕は・・・
僕の言おうとしていることを察したアレクさんは、場所を強調することで僕の発言がモニタリングされていることを示唆しつつ、僕を牽制したんだ。
ヴー、ヴー、ヴー、ヴー・・・
机に突っ伏して自分の間抜けっぷりに頭を抱えているところに、ポケットの携帯が鳴動を始めた。
急いで跳ね起き、画面を見る。
(・・・っ!特殊通知だっ!!)
それは、芹花さんが発作に襲われたことを示すものだった。
この通知が来るんじゃないかと危惧はしていた。
会議室を出て自分の部屋に戻るときの芹花さんの様子は普通ではなかった。
発作が強いストレスによって引き起こされるというなら、今夜はかつてなくその危険性が高まっていたと言える。
だから僕はすぐにでも駆けつけられるように薬のタブレットを手元に置いていた。
部屋を飛び出して、全速力で廊下を走る。
芹花さんを襲っているのは、これまでで最悪の発作かもしれない。それを招いた責任の一端は間違いなく自分にもある。
こんなことで贖罪になるとは思えないが、それでも僕は、芹花さんが苦痛に苛まれる時間を少しでも短く抑えたかった。
ガチャッ!!
「芹花さんっ!!」
1秒すら惜しい。僕はノックも省いて芹花さんの部屋に踏み込む。
そこで僕が目にしたのは、姿見の前に佇んだ見知らぬ女性の姿だった。
艶やかな長い黒髪が眩く光を反射している。
白いドレスに身を包んでピンと背筋を伸ばした立ち姿には、貴族のような気品が感じられた。
ゆっくりとこちらを振り向くその女性。揃った前髪の下には穏やかな瞳が覗いていた。
妖精みたいに神秘的な美しさが、かえって僕の恐怖心を煽る。
(え・・・何・・・誰っ・・・?)
咄嗟に自分の懐をまさぐるが、迂闊にもまたもや銃を帯同せずに来てしまった。
僕に見付かったことを全く意に介する様子も無く、悠然と僕を見据えるその女性。
僕がここに来たのは、芹花さんの発作を知らせる特殊通知があったからだ。それなのに、なぜ知らない人が待ち構えるように立っているのか・・・
というか、芹花さんは一体どこにいるのだろう。
まさか、もう既に・・・
固まった僕の顔を見てフッと笑うと、彼女は薄く紅の引かれた薔薇のような唇を開いた。
「よぉ、龍。早かったじゃねぇか。」
聞き覚えのある声・・・というより、聞き慣れた声と言ったほうが正しいだろうか。
それは、この容姿から発せられることなど微塵も予期し得ない声だった。
「も、もしかして・・・芹花、さん!?」
「なんだお前、マジで気付いて無かったのか。お前が気付かないくらいならこの変装は成功だな。」
唇を吊り上げてニヤリと笑うその表情に、ああ本当に芹花さんだと実感する。
「でも、何で変装なんてやってるんです?」
特殊通知だから慌てて駆けつけたのに、ドッキリでも仕掛けたつもりだろうか?
随分人騒がせな気もするが、会議室から出て行くときの様子から危惧していたより芹花さんがずっと平気そうなことへの安堵の気持ちのほうが大きかった。
そんな気の緩みからだろうか。
芹花さんが何気なく発した返答は、音として僕の耳に届いたものの、言葉として解されるまでに一瞬の間を要した。
「何でって、ミッションのためだよ。これから奴らの事務所に乗り込む予定だからな。」
「・・・え・・・?」
彼女は何を言っているのだろう。
ミッション?・・・ミッションって何のことだ?
芹花さんと僕は、さっきアレクさんからミッションの担当を外されたばかりだ。
彼女は、その事実をきちんと受け止められているのか。
「えっと・・・でも、たしかミッションは1週間後で・・・」
実際には3週間延期の令が出ているから4週間後というのが正しいだろうが、問題はそこではない。しかし、僕には芹花さんの認識を直接的な表現で確認する勇気が無かった。
「ふふっ・・・実はな、報告してる計画書は偽装なんだよ。スパイ対策の一環だ。敵を欺くにはまず味方からってな。本当は今日の潜入作戦のために全てを用意してきたんだ。」
なんだか取って付けたような説明にも感じる。ミッションの担当から外され自棄になって無茶な突貫をしようとしてるんじゃないか?
「・・・この話は、誰が知ってるんですか?」
「今回の作戦に参加するメンバーだけだ。私とお前、それにオペレーターのディーネだな。」
動機はともかく、この話が“本気”だということは、芹花さんの話しぶりからひしひしと伝わってきた。
「なんだ?信用できないって面してんな。どうせ私が思いつきで喋ってるとか思ってるんだろ。」
不服そうに眉をしかめた芹花さんは、自分の携帯に向かって声を投げ掛けた。
「おい、ディーネ、ちょっと出て来いよ。聴いてるんだろ?」
その呼び掛けに応じて空中に声が湧く。
『・・・私は、最初から作戦の遂行予定日は今日だって聞いてるよ。それ以外は何も知らないし、聞いてない。』
「僕らがミッションの担当から外されたってことは知ってるんですか?」
ディーネさんにそう訊いてみたものの、しばらく待っても返答がない。どうやら僕のこの言葉も聞かなかったことにするつもりらしい。
むしろディーネさんの反応は、“これは相当やばい話なんじゃないか?”という僕の懸念をさらに深めるものだった。
「ほら、ディーネも予定通りだって言ってるだろ?これから今日の作戦の詳細を教えるよ。何も問題は無ぇ。」
「アレクさんも、鴉も、このことは知らないんですよね?」
「ああ、知らせてねぇな。それじゃ説明するぞ、まず侵入方法と経路についてだが・・・」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
強引に話を進めようとする芹花さんに、僕は思わず声を上げた。
「これって、BCLへの背信なんじゃないですか?」
いくらなんでも、BCLイグザミニーズ隊長、副長の了承を得ていない作戦を遂行することなど許容されないだろう。
「大丈夫だよ。誰がどうやろうと要するにターゲットを潰せばいいって話だろ?組織の目的とは一致してるんだから文句無ぇだろ。」
僕には大いに問題があるように思える。BCLが研究施設であることを考えれば、むしろ過程こそ重視されるのではないか。
「じゃあ、話を続けるぞ。・・・ああ、ちょっと長くなるからそこの椅子にでも座ってくれ。」
組織に背けば、組織での僕の立ち位置は今のままではいられないだろう。ここは文字通り地下組織なのだ。背信に対して科される制裁が常識的なものである保証は無い。
「おい、座れよ。」
「・・・」
「座れって。」
今日に至るまで、僕はBCLで不条理な扱いを受けていると感じることは無かった。陣くんには度々不快な思いをさせられたが、それはあくまで陣くん個人の話だ。
芹花さんに歯向かおうというワケではない。ただ、僕にはBCLに背く道理が無かった。
「あのっ・・・僕は、その・・・」
後ずさりする僕。
その腕を、芹花さんが捉えた。
微かな震えが手の平を通して僕の腕に伝わってきた。
芹花さんのものとは思えない弱々しい瞳が僕を見つめている。
「なあ、頼むよ・・・相棒。」
通告でも、命令でもなく、それは懇願だった。
「私はな、あのとき死んでもよかったんだ。生きる価値なんて無かった・・・あいつらの寮から抜け出して、路地裏に逃げ込んで・・・手には途中の雑貨屋でパクった果物ナイフを握ってた。
あのときに・・・あのときに全部終わりにする事だってできたんだ。
なあ、教えてくれよ。あいつらをこの手で殺せないんだっら、私は何のために今まで生きてきたんだ?」
僕には、芹花さんの手を振り解くことができなかった。
ぶつけられた嘆きが碇となって足に絡みつき、身動きが取れない。
芹花さんにとって何が最良か分からない?
まただ。また僕は自分に言い訳をしている。都合のいい論理で誤魔化そうとしている。
こんな自分はもう嫌だ。
組織に背く道理が無いだって?
それを言うなら、僕にとっては組織よりも芹花さんに対する義理のほうが遥かに大きい筈だ。ここに来てから今日まで、一番面倒を見てくれたのは間違いなく芹花さんなのだから。
ふうっと1つ息を付く。一種の諦めのような感情が胸を支配していた。
なるようになれ、だ。どうするのが正解かなんて分からないけれど、少しくらいは相棒と呼んでもらえたことに報いるべきなんじゃないだろうか。
椅子に腰掛けた僕を見て、芹花さんがホッとしたように笑った。
「・・・すまねぇな。」
だが、僕にとってはここからが本番だった。
芹花さんに加勢するということは、これから麻薬組織の事務所に乗り込むということなのだ。
それを思い出した途端、全身に鳥肌が立った。
収まっていた腹痛が俄かにぶり返す。
早速、自分の決断に対する後悔の念がじわじわと湧き上がってきた。
でもまあ、どのみち後悔するのであれば、今のうちに後悔を済ませておいたほうが幾分かマシなのかもしれなかった。
「・・・以上が作戦の詳細だ。何か質問あるか?」
芹花さんの口から語られた今回の作戦・・・それは、大胆にも正面から堂々と組織に潜入するというものだった。
ターゲットの資料は僕も読んだから知っていたが、松橋商会は最近、売春宿の経営に乗り出している。
ダミーの組織からの紹介という形で、芹花さんはそこの売春婦に応募したらしい。
既に今日の面会のアポは取ってあるという。今日決行の腹積もりであらかじめ作戦を組んでいたという話にもう疑いの余地は無かった。芹花さんは自分と組織の関係が研究者サイドに露見することを予見し、作戦を前倒せるように仕込みをしていたのだ。
「あのスケベ野郎はこういうときに必ず自分で味見するからな。それで仕掛けてみたら、今回も当たりだったよ。事務所で社長直々に面接してくれるそうだ。」
「あの、それで、僕はどうすればいいんですか?芹花さんはいいとして、僕が一緒にいたら怪しまれませんか?」
「あー、それなら大丈夫だ。」
意地の悪そうな笑みを浮かべる芹花さんに、僕は少し不安になった。
「なあ、龍。お前も私の情報収集に付き合ってターゲットの周りをうろついてたんだ。誰かに見られてたかもしれねぇ。私だけじゃなくお前も変装が必要だと思わねぇか?」
「え?あ、はい・・・」
「実はな、もう用意してあるんだ。お前のための変装衣装がな。」
目で付いて来いと合図する芹花さん。後を追うと、彼女は部屋の隅のクローゼットの前で足を止めた。
ガラッ
「ほら、これだ。」
最前列に分かりやすく吊るされた1着の衣装。
それを見た瞬間、僕は強烈な眩暈に襲われた。
「あの・・・えっと・・・冗談、ですよね・・・?」
「マジだよ。大マジだ。」
そこにあったのは、煌びやかなパステルピンクが目に眩しい、フリフリのAラインドレスだった。
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