第8話 偽装 ――その①

「芹花さんは、水那方さんとは長いんですか?」

「ん~、大体2年くらいかな・・・それを長いと感じるかは人によるだろうけど、BCLの中じゃ一番短いよ。私は今のメンバーで龍の次に新参者だからな。」

「え・・・そうなんですか?」

「一番長ぇのはアレクじゃねぇか?あいつは皐月とはここに来る前からの知り合いらしいしな。というか急に何でそんなこと訊いたんだ?」

「いや、その・・・芹花さんって、水那方さんと仲いいじゃないですか。」

「あいつは誰とだって仲いいだろ。」

「それはそうですけど・・・」

確かに、彼女は玲香ちゃんともよく遊んでいるし、どのメンバーとも分け隔てなく親しげにしている。

だけど、芹花さんと水那方さんの関係は、そういうのとはちょっと違うように感じる。

どこが違うのかと問われても漠然としていて言葉にできないが、2人が並んでいると、パズルのピースがピッタリと合ったような一体感を覚えるのだ。

そうは言っても2人が一緒にいる時間が特に長い訳でもなく、改めて自分が受けた印象の原因を考えてみても一向に思い当たらない。

口篭った僕をみてフッと笑った芹花さんは、部屋の奥へとことこと歩いて行った。

どうしたのだろうと訝しがっていると、芹花さんはポンと発泡スチロールの塊を叩きながら僕のほうに振り返って口を開いた。

「これな、食えるんだよ。」

何を思ったか、芹花さんはその一角を毟り取ってむしゃむしゃ食べ始めた。

「ちょ、ちょっと芹花さん!何を・・・」

「慌てんなって。ほら、お前もどうだ?」

まだ手の付いていない綺麗な箇所を毟って、芹花さんが僕に手渡す。

(・・・え?・・・え?・・・)

芹花さんの行動に理解が追いつかない。まさか、頭がおかしくなってしまった、なんてことは・・・

「ははっ、そんな警戒すんなよ。食っても大丈夫な発泡スチロールなんだよ、それは。身体に有害な物質が入ってないし、ちゃんと消化されるんだ。」

言われて手の中の欠片を少しだけかじってみる。

味もにおいも無く、美味しいと言えるものではなかった。

「これな、皐月から貰ったやつなんだ。」

「え、水那方さんから・・・ですか?」

「ああ、あいつはあれで結構お節介だからな。BCLに入った頃の私は、発作が起きる度によく自分の身体に傷作ってたんだけど、その度にあいつに叱られてな。自分の身体を大事にしろって。」

あの水那方さんが誰かを“叱る”なんてことがあるのか・・・その姿を想像するのは僕にはちょっと難しかった。

「うぜぇだろ?だから私は言ったんだ。『お前には関係ねぇ、私の勝手だ』ってな。そしたらあいつ、どこから調達したか知らねぇが、私の部屋にこんなもん持ち込みやがった。苦しいのを自分の身体じゃなくてこれにぶつければいいんじゃないかって発想に辿り着いたらしい。全く、そんな単純な話じゃねぇのによ。」

悪態を吐きながら、芹花さんはむしろ嬉しそうな顔をしていた。

その気持ちが僕にはすごく分かる。いや、分かる気がすると言ったほうが正しいか・・・

『この、トマトジュースとか・・・ほらっ!丁度赤い色してるし!いい考えだろ!?』

2年前のことであってもありありと思い出す、治樹の言葉。

きっと芹花さんにとって、水那方さんは自分を救ってくれたかけがえのない存在なんだ。

態度には出さなくても、芹花さんはそのことを水那方さんに感謝し、報いようとしている。

だからこそいい関係が築かれてるんだろう。

僕とは大違いだ。

嘘を吐き、自分の都合だけ考えて、挙げ句の果てに決別するしか道の残らなかった、この僕とは・・・



--------



執務室の机をトントンと指でノックしながら、僕は研修テキストと睨めっこをしていた。

この指の動きは別に僕のクセというわけではない。

僕が指を動かしているのは、読んでいるのがモールス符号の研修テキストだからだ。


アジトに来てから、あっという間に1ヶ月が過ぎ去った。

時間の流れを異様に早く感じるのは、それだけこの1ヶ月が目まぐるしいものだったということの表れだろう。

毎日が新しいことの連続で、僕には覚えなければいけないことがたくさんあった。

モールス符号もそうだし、文化学、交渉術、銃の使い方、集団戦術、応急救護等々、頭も身体も常にフル回転だった。

BCLのこと、“力”のこと・・・ここに来た当初は色んなことを思い悩んでいた筈だが、次第にそんなことを考える余裕すらも無くなっていった。


そして、ふと気が付いたときには、ミッション執行の予定日がもう6日後に迫っていた。

(ミッションか・・・何かゲーム用語みたいだな。)

今さらそんな感想が出てくるほど、それは現実味の薄い話だった。

ミッションの内容は、たった2人で麻薬組織に潜入し、壊滅せしめるというものだ。

(僕が、麻薬組織を・・・殲滅・・・?)

言葉の組み換え遊びをしていたらこんな文章が出来上がることもあるだろうか。そのまま他人に話したら精神失調を疑われるレベルだ。

けれども、ここにいる人達は誰一人としてそれを冗談だと笑い飛ばしたりしない。どうやら僕が6日後に嘘のような工作活動に参加するというのは、紛れもない現実らしい。

今の僕は、必死にテキストを読み漁ることで目前の不安から気を逸らそうとしているに過ぎない。

そんな悪あがきは、しかし、微塵も効果を発揮することはなかった。

いつの間にか僕の指は、先程から同じ文字をひたすら繰り返し発信し続けていた。


今日に入って、僕は何度か激しい腹痛に苛まれている。

この痛みには覚えがある。随分長い間出ていなかったので忘れかけていた、忌々しい痛みの記憶だ。

思い出すには治樹と出会った頃以前まで遡らなければならない。もう克服したものだと勝手に思い込んでいた。

痛みを堪えながらも、僕は今日の研修を休みはしなかった。

怖かったのだ。ここで痛みに屈してしまえば、あの頃の自分に戻ってしまうような気がして・・・

(今のままではいられない。だから、今までを捨てる・・・か。)

そうやって僕が得たものは何だったのだろう。

もしかしたら、僕は一番戻りたくない頃の自分へと逆戻りしてしまっているだけなのではないか?

治樹と、西原と・・・僕を支えてくれる人たちのおかげで、これまで僕は前に進むことができていたのではないだろうか。

偏狭な考えで現状を否定し、全てを放り捨てて、その結果、やっと抜け出せた筈の深い穴に再び転がり落ちようとしているのではないか、自分の選択は何もかもが間違いだったのではないか・・・そう考えると、喉の奥がきゅうきゅうと締め付けられて、僕は思わずえずきそうになった。

冷蔵庫から取り出したトマトジュースをコップに注ぐ。

それを一気に仰いで、込み上げてきそうな胃液を押し戻した。

「・・・ふうっ・・・」

僕にはこの重圧から解放されるためのごく手軽な逃げ道が与えられている。“BCLを脱退する”という逃げ道だ。

いつだってこの選択肢は僕の頭にあった。

いよいよ無理だと思ったときにはBCLを抜けよう・・・そう思っていた。

その権利を今まで行使しなかったのは、僕が僅かながらも勇気を備えている証だろうか?

・・・いや、違う。


『それでこそ私の相棒だよ。これからもよろしくな。』


この期に及んでBCLを抜けたいなんて言ったら、芹花さんにどんな顔をされるだろうか。

鴉にも失望されるに違いない。狩谷くんはより一層僕を見下すことだろう。

僕にとって、むしろ臆病さこそ、BCLからの脱退という選択を阻む衝立だった。


ヴー、ヴー、ヴー、ヴー・・・


不意に、携帯のバイブが鳴り出した。先日のこともあるので、僕は慌てて携帯を取り出した。

発作の特殊通知ではない。アレクさんからのメッセージ通知だった。

そこには、こんな文面が綴られていた。

『薄野芹花、白峰龍輔、両名に告ぐ。直ちに第1会議室に集合せよ。』

メッセージには“優先”マークが付いている。これがあるからには、他を差し置いてでも会議室に赴かなければならない。

(・・・何の用件だろう?)

少し嫌な予感を覚えながら、僕は指示通りに会議室へと向かった。



--------



「はあぁぁぁっ!?何だそれ!?どういうことなんだよアレク!!」

「どうもこうも無い。今話した通りだ。」

たった3人にとっては広すぎるこの部屋で、アレクさんが僕たちに向かって淡々と告げたのは、全く予期しなかった指令だった。


「芹花、お前には現行のミッションから外れてもらう。龍クンもだ。」


あまりにも突然の宣告に、僕はそれをどう受け止めればいいか分からなかった。

「だからいきなり何言ってんだよっ!!ワケ分かんねぇよ!理由を言えよ!理由をっ!!」

激昂する芹花さんに対し、アレクさんの視線は冷たかった。

「芹花、どうしてそんなにこのミッションに固執するんだ?ただの配置換えにそこまでむきになる理由が何かあるのか?」

「あ?ボケたこと言ってんじゃねぇ!こっちも今までそれなりに苦労して準備を進めてんだ。いきなり代われなんて言われて納得できねぇのは当たり前だろうがっ!」

「分からないと言うなら説明しよう。ターゲットコードT15298、正式名称『有限会社松橋商会』代表、松橋武雄・・・この人物は、大迫組の元組員、寺門清志と同一人物であることが確認された。

寺門清志のことは知っているな?」

「・・・」

「大迫組所属の頃に寺門が元締めをしていた風俗店の名は『Moon Rouge』・・・

芹花、かつてお前がいた店だ。」

心の奥底まで暴くような視線を真正面から受け止め、芹花さんはアレクさんを睨み返した。

「へぇ・・・そうなのか、知らなかったよ。」

言い逃れできないのは明らかだと芹花さんも分かっているように見える。しかしそれでも、芹花さんは抵抗をやめなかった。

呆れたように肩を竦めるアレクさん。

「知らなかったというならそれでいい。

不可避の理由が無い限り自身の過去と関係のある案件の担当に就くことはできないというBCLの規則はお前も理解してるだろ。寺門のことを知らなかったのであれば、お前は自分の過去が今回のミッションのターゲットに関係していると今初めて知ったってことでいいんだよな?

これまで私怨で追っていたというのであれば心残りもあるだろうが、そうでないなら担当から外れることに何の異論も無い筈だ。」

アレクさんの言い回しは狡猾だった。

反論の言葉を失った芹花さんは、奥歯を噛みしめた憤怒の表情を浮かべた。

今にもアレクさんに殴りかかっていきそうに見える。

「・・・っ、この野郎っ・・・!」

しかし、拳を震わせながらも、芹花さんはその場に立ち尽くしたまま動かない。

確かにアレクさんの言うことは正論だが、僕はそれに対し強い違和感を覚えていた。

だって、アレクさんは知っていた筈だ。芹花さんの過去とターゲットの組織に関係があることは、僕がBCLに来た頃には、もう既に。

やっぱり納得できない。釈然としない気持ちが高まり、躊躇する僕の舌を突き動かす。

「そんな・・・今更おかしいですよ、こんなの・・・だってアレクさんは・・・」


「白峰龍輔!!!!」


アレクさんに怒号のような声を被せられ、僕は口を噤んだ。

「キミの発言は認めていないぞ。勘違いしているようだから言っておくが・・・龍くん、俺は意見を聞くためにキミを呼んだんじゃあない。命令を伝えるためだ。

俺は今、君たち2人だけのためにこの会議室を使っている。その間他の連中はここを使えなくて迷惑するんだ。無駄な私語で時間を浪費するのはやめてもらおうか。」

まるで人が変わったかのようなアレクさんの高圧的な物言いに愕然として、声も出ない。

「龍クンはあまり意識する機会のない話だが、ミッションの主担当は随時、研究者サイドにレポートを提出するんだ。

レポート上でターゲット組織の情報がある程度洗い出されていなければ、そもそも作戦の執行許可が下りない。

芹花がいくらレポートで寺門への言及を避けたとしても、松橋について多少は身辺の情報を上げる必要があるからな。

そのレポートを基に研究者サイドで追調査を行って寺門の名に辿り着いたらしい。

分かるな?これは上からの命令だ。反論は受け付けられない。」

あまりに冷徹な宣告だが、内容が不条理なワケでは無いように思う。

ターゲットと関わりのあるメンバーは原則的にミッションに参加できないという条項は周知されていたし、条項の意義も理解できる。

そもそも、僕は自分がミッションから外されて困ることは何もない。それなのに勝手にしゃしゃり出て口を挟むのは迷惑なだけじゃないか?

これは芹花さんの問題なんだから、重要なのは僕ではなく芹花さんにとってどうかだ。

ミッションから外されたほうがむしろ重荷から解放される・・・そんなこともあるのではないだろうか。


そう思いつつ傍らの芹花さんを見やって、僕はぎょっとした。


呆然と佇む彼女の顔からは、表情が完全に欠落していた。

焦点の曖昧な視線がうろうろと宙を彷徨っている。

「後任は鉄真と皐月だ。ミッションの期限は3週間延期する。薄野芹花、白峰龍輔、両名は今日を含む3日間で後任への任務引継ぎを行うこと。話は以上だ。」

ぼんやりとその言葉を聞き終えた芹花さんは、アレクさんにくるりと背を向けて、そのまま壊れたロボットのように覚束ない足取りで会議室を出て行った。

「せ、芹花さんっ・・・」

追い縋るように芹花さんの後に続くものの、掛ける言葉が見つからない。

いつだってそうだ。芹花さんが苦しんでいるときに僕が彼女の助けになれたことなど、1度も無い。

僕にはただ、芹花さんの背中を成す術なく見つめることしかできなかった。

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