第7話 相棒 ――その②
僕は、世界そのものだ。
世界にはいろんな国があって、いろんな人がいて、正義があって、不条理があって、生があって、死がある。
でも、僕が目を閉じれば、全部見えなくなる。耳を塞げば、何も聞こえなくなる。
僕の世界に、“他人”なんてものは存在しない。
目に、耳に、肌に受けた刺激から作り出した虚像を、ただそこに住まわせているだけ。
僕が忘れれば、その人は消える。僕が死ねば、みんな消える。
いくら悟ったフリをしても、大人ぶってみても、自分から外には出られない。世界のどこに逃げ出しても、そこにいるのはやっぱり自分なんだ。
つまらなくて、歪んでいていて、醜い自分。
なんで自分なんてものがあるんだろう。自分の世界の中に、自分なんか必要なのだろうか。
世界が自分の中にあるのなら、その中に自分なんてなくていい。
単に傍観者であれたら、世界の外にいる観測者であれたら、どんなに幸せだろう。
いろんな物語を、ただ見て、思う。
きっと、無尽蔵の図書館の中で永遠の時を過ごすように、それは安らかな心地に違いない。
だけど、現実の本には終わりがある。
残りページが少なくなるにつれ、僕は決まって、強烈な寂しさと、自分に立ち返る恐怖に、気が狂いそうになるんだ。
--------
目を開けると、見知った構造の天井が視界に飛び込んできた。
僕の居室の天井と全く同じだ。
しかし、漂う甘い香りは、徐々に慣れてきた自室のそれとはかけ離れていた。
(・・・これは、この匂いは・・・)
はっとして、僕は慌てて毛布を跳ね除け身を起こした。
「・・・っ!!」
途端に、体中にズキズキと痛みが湧き上がる。
眠いわけではないのにやたらと瞼が重い。
上半分に影の掛かった狭い視野の向こうで、1人の女性が椅子に腰掛けたままこちらに振り返った。
「おう、やっと起きたか。」
「・・・薄野、さん・・・」
どうもここは薄野さんの居室のようだ。
あれ、どうして僕はこんなところに・・・
(・・・つっ!・・・そうだっ!)
段々と記憶が蘇ってきた。確か僕はさっきまで対術修練場にいて、そこで狩谷くんと話をして、その途中で我を忘れて狩谷くんに殴りかかって・・・
その後のことはまるで思い出せない。
だけど、僕がここで目を覚ましたということと、この全身の痛みを考えれば、一体どんな顛末なのかは朧げながらも想像できる。
「ジンから連絡があったんだよ。『ゴミが転がってて邪魔だから拾いにこい』ってな。」
狩谷くんらしい相変わらずの物言いだが、それでもわざわざ薄野さんに連絡を入れるなんてどういうつもりだろう。情けでも掛けた気でいるのだろうか。
「まったく・・・随分と酷い面になってやがるな。これじゃあ数日は外回りも無理そうだな。」
「・・・すみません・・・」
「一体何でこんなことになってんだ?ジンと何があったんだよ。」
「・・・」
どう答えればいいのか分からない。
薄野さんのため?いや、違うだろう。
僕の行動がどれだけ薄野さんの助けになった?
逆だ、迷惑を掛けて、足を引っ張ってばかりじゃないか。
「ふっ、冗談だ。
薄野さんの笑いは乾いていた。
「馬鹿だなお前。」
冷たく切り捨てるその言葉にも、不満は湧かなかった。
そうだ、僕は馬鹿だ。
1人で激昂して、1人で自爆して、結局何の役にも立っていない。
「大体なぁ、お前が怒ることなんて何も無ぇんだよ。私が売女ってのは間違ってねぇ。私の身体になんて大した価値は無ぇんだ。使い古しの2級品だからな。」
「っ、そんなこと無いです!」
「そんなことあるんだよ。私はあんなガキの相手をすることなんか何とも思ってねぇんだからよ。
あいつ、イキがってるくせにやたらと早ぇんだ。笑えるだろ?演技にもすぐ騙されるからな。ああいうチョロい奴相手にして薬貰えるんだったら安いもんだよ。
私の心配なんていらねぇよ。外野に騒がれても鬱陶しいだけだ。」
そうだろう、鬱陶しいだろう。薄野さんの立場からすれば、関係ない人が勝手に暴れて、挙げ句には自分の部屋に拾い上げる羽目になるなんて、この上なく鬱陶しいに違いない。
「・・・すみません・・・」
不意に涙が溢れそうになったが、ぐっと堪えた。
こんなところで泣き出してこれ以上薄野さんに迷惑を掛けるなんて、さすがにそんな醜態は晒したくなかった。
「なんだよ、お前、謝ってばっかだな。」
呆れたように溜息を吐く薄野さん。
「何であれ、お前は自分の意地を引っ込めずにジンに向かって行ったんだろ?お前がお前の矜持でやったことなら、それだって私が口を挟むことじゃねぇ。私のは単なる愚痴だと思って堂々としてろよ。」
椅子を降りて歩み寄ってきた彼女に「シャキっとしろ!」と背中を叩かれ、僕は少し咳き込んだ。
「・・・その、すみません。」
声に出してしまってから、その謝罪がさっき薄野さんに窘められた類のものだと気付いたが、慌てて口を噤んでももう遅い。
「あーっ!もう、イライラさせんな!」
薄野さんは頭を掻きながら堪えかねたように声を荒げた。
「お前がそんなんだから、私もつい説教じみた話になっちゃうんじゃねぇか。私が言いたいのはこんなことじゃ無ぇんだ!」
失敗だ。やっぱり怒らせてしまったか・・・
だが、薄野さんの言っていることも何か微妙に要領を得ていない感がある。訳も分からないまま僕は目を白黒させるしかなかった。
一呼吸置いて、やや躊躇いがちに、薄野さんが口を開いた。
「その・・・、なんだ・・・ありがとな。」
「・・・えっ?あ・・・な、何・・・?」
「訊き返すなよ!聞こえてんだろうが!これでもお前のやらかした馬鹿がそれなりに嬉しかったんだよ。」
「いっ、いやっ!別にお礼を言われるようなことは、何も・・・」
「気にすんな、私が言っときたかったってだけなんだから。お前はお前の勝手でジンに喧嘩売って、私は私の勝手で礼を言った。それでいいだろ?
気に入らねぇんならすぐに忘れていいからちょっと黙っとけ。」
なんだか、感謝されているのか怒られているのかよく分からない。ちょっと考えみたものの、やっぱり怒られているというのが正しい気がしてくる。
「それにしても、お前、見掛けによらずなかなかやるじゃねぇか。組み手で敵わない相手に殴り掛かっていくなんてな。サイトってだけのチキン野郎かと思ってたが、ちょっと見直したぞ。」
これは褒められていると取ってもいいだろうか。だけど、自分が見直されるような何かをしたとは到底思えない。
リアクションの取り方が分からずまごついている僕の肩をグッと引き寄せた薄野さんに、わしゃわしゃと乱暴に頭を撫で回された。
「それでこそ私の相棒だよ。これからもよろしくな。」
「え・・・でも、僕、薄野さんに迷惑掛けてばかりで・・・」
「芹花だ。」
「・・・えっ?」
「いつまでも“薄野さん”なんてまだるっこしいだろ?これからは“芹花”だ。分かったか?」
「あ、はい、芹花、さん・・・」
「ふっ・・・まぁ上出来だ。」
にかっと笑う芹花さん。
自分がBCLという組織にいることに対する違和感と不安はいまだに胸の底に泥濘のように沈殿したままだ。
戦力として期待されるのは重圧以外の何物でもなく、失望されるくらいなら最初から諦められていたほうがいい・・・今でもそう思っていることに変わりは無い。
それなのに、なぜだろう。
芹花さんに相棒と称してもらえたことが、今はただ嬉しかった。
--------
「これが芹花の新しい薬だ。受け取ってくれ。」
アレクさんの部屋に呼び出された僕が手渡されたのは、半透明のタブレットだった。
タブレットの中に透けて見える白い錠剤は、外見上は以前のものと何も変わらなかった。
「あれだけの劇症の発作はここ1年無かったからな。治療用のオピオイドに耐性ができてしまったのかも知れないということで、薬の切り替えの判断が下されたようだ。」
薬に耐性ができて、新しい薬に替える・・・それじゃあ、この薬にも耐性ができたら、また新しい薬に替えないといけないということか。
一体、いつまでそんなことを続けないといけないのだろうか。
「芹花さんの、その・・・アレは、いつかは治るんですよね?」
「・・・難しい質問だな。」
アレクさんは眉間にやや皺を寄せ、顎を掻きながら言葉を紡いだ。
「決して治らない病気ではない・・・とだけは言える。既に前頭前野が著しく萎縮してしまっている場合は治療も困難だが、芹花はそのケースに該当しない。
ただ、投薬だけでは治療として不充分だということも事実だ。心に負荷を与えている根本原因を取り除かなければ、再びドラッグに戻ってきてしまう可能性が高いんだ。
それに、芹花の場合はちょっと特殊でね。」
「特殊・・・ですか?」
「ああ、あいつがブローカーに飼われてた頃に投与されたドラッグは、もう既に抜け切ってるらしいんだ。」
「えっ?そ、それじゃあ、今出てる発作って・・・あ、もしかして代替オピオイドの・・・?」
「そう考えるのは当然だろうね。ところが、その線も薄いんだよ。代替オピオイドは、ピークが緩い代わりに離脱症状も穏やかなものが選ばれるからね。
ああいう劇症型の発作が代替オピオイドによって引き起こされているとは考えにくい。」
だったら、どうして・・・
(・・・まさか・・・!)
困惑を極めた僕の頭に突如飛来した1つの仮定は、恐ろし過ぎるものだった。
「この薬は・・・本当に代替オピオイドなんですか?」
明らかに言葉足らずな質問になってしまったが、俄かに目を細めたアレクさんの表情を見る限り意図は伝わったようだ。
「信用と妄信は違う。それは重要な点だ。
俺がこの部屋を割り当てられたときに真っ先にやったのが、盗聴器が仕掛けられていないかそれとなくチェックすることだった。
“居室にはセンサー類は設置しない”というのが研究者連中の説明だが、それが油断を誘って本音を引き出すための罠でないとも限らないからな。
信用に足る相手だと判断した後でも、全ての情報を丸呑みにすべきじゃない。自分で確認する姿勢を忘れちゃいけない。
自分以外の何者かに判断を全て委ねてしまったら、人間は人間じゃなくなる。それはただのロボットだ。そうなってしまったら騙されて使い捨てにされたとしても文句は言えない。世の中ってのはそういうもんさ。
俺は自分で調べた結果、この部屋に盗聴器は仕掛けられてないという確信を得るに至った。
だからこそ、声に出して言えることだが・・・」
アレクさんが声を潜めたので、僕は思わず身を乗り出した。
「実はな、俺はこっそり馴染みの情報屋に芹花の薬を調べてもらったことがあるんだ。もしかしたら、芹花が代替オピオイドと称した別の何かを摂取させられてるんじゃないかと疑ってね。」
そう、それこそまさに僕が最も懸念していたことだった。
治療のためというのはまやかしで、実際には新種のドラッグの実験台にされている可能性だってあるんじゃないか?
確かな根拠があるわけではないが、芹花さんの苦しみようを目の当たりにした後では、あながち突飛な妄想でも無いように思えた。
「で、その結果だが・・・」
僅かな間に緊張が篭る。
「正真正銘、麻薬中毒治療に使われる一般的なオピオイドで間違いないそうだ。それもかなり良質なモノらしくて、眩暈やら吐き気やらの副作用も少ないはずだと言われたよ。」
それを聞いて、僕はほっと胸を撫で下ろした。
アレクさん流に言うならばこの言葉を手放しで信じて無邪気に安心するのはマヌケなのだろうが、仮に嘘だとして、アレクさんが僕にこんな嘘を付くメリットが思い当たらない。穿った見方をすれば僕が持ち得る疑念に先手を打ったとも考えられるが、あまりに回りくど過ぎてさすがにそれは無いように思う。
しかし、これがちゃんとした治療薬だと言うならば、それはそれで重要な疑問が残ったままになってしまう。
すなわち、芹花さんがなぜあんな症状に苛まれているのかという疑問だ。
「それなら芹花さんのアレは、一体何なんですか?」
「キミの疑問はもっともだ。そしてそれは俺自身の疑問でもある。要するに俺にも分からないんだ。一応仮説みたいなものは立ててるけどな。全く根拠に欠けたただの憶測に過ぎないが、それでもよければ聞いてみるかい?」
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