第7話 相棒 ――その①
非番にも関わらず、今日も一日随分と身体を酷使した。
浴槽の湯が腿の打撲に少しつらい。BCLの日常に身体が順応するのにはまだ時間が必要そうだ。
そもそもこんな修練を続けて本当に意味があるのだろうか?そういう疑念は小さくなかった。
どれだけ鍛えたとしても、僕が倒せる相手なんてのはごくごく一部に限られるだろう。
SPも、暴力団員も、警察も、あるいは消防隊員やライフセイバーだって、課せられた役割を果たすために自分を鍛えている人間など掃いて捨てるほどいるに違いない。僕にとってきつい特訓であっても客観的に見て彼らを超える努力をしているのかと問われれば、おそらくかなり微妙だ。
元々、僕には格闘の資質が無い。人並みの努力をしたところで、人並み以上にはなれないのだ。
僕は仮所属の身である。BCLを抜けたいと言えばすぐにでも抜けられるらしい。
僕が抜けて、誰か困る人はいるだろうか?
せいぜい水那方さんがゲームの特訓相手を失って嘆くくらいか。
パートナーの薄野さんはどうか?
僕は少なくともこれまでのところミッションの推進に全く貢献していない。薄野さんにとって僕は足手纏いでしかないし、僕がいなくなることで水那方さんがパートナーに戻ることになればむしろ彼女にとって喜ばしい帰結に違いない。
いくら鴉に贔屓されていても、僕はまだここでの居場所を見つけられていないのだ。
お風呂から上がり、ジャージ姿の僕はリビングの椅子にどっかりと腰掛けた。
(・・・喉、渇いたな・・・)
台所に立って蛇口を捻ると、そこから流れ出るのは天然の地下水。こういうところはこの施設は本当に恵まれている。
その水をコップに注いで、一気に飲み干す。
細胞の隅々に染み渡るような感覚に、僕は溜息を漏らした。
さて、夕食までにはまだ少し時間がある。ミッションの資料の見直しや明日以降の演習の予習など、やろうと思えばできることはそれなりに多い。
だけど、今は少し眠りたかった。
夜中に眠れなくなるかな・・・まあ大丈夫だろう。それを真剣に危ぶむだけの明瞭さも僕の思考から失われ始めていた。
寝室のドアを空けて最初に僕の目に付いたのは、ベッドの上に投げ置かれた携帯電話だ。
ああ、そういえばお風呂に入る前にあそこに置いたっけな・・・靄のかかった頭で経緯を思い出しつつその携帯をぼんやり眺める。
(・・・っ!!)
点滅している。チカッ、チカッと携帯が光を発している。
着信があったんだ。アレクさんからか?水那方さんからか?それともディーネさんだろうか?
・・・いや、それよりも確率の高い着信理由を僕は知っている。
僕は慌てて画面に着信内容を表示させた。
(やっぱりっ!特殊通知だ!!)
この通知は、薄野さんが発作に襲われたということを意味している。
着信は何時だ!?・・・18:30だから、丁度僕が風呂に入った頃・・・まずいっ!もう30分も過ぎてる!!
昨日薬を持って行ったときの薄野さんの苦しそうな表情が思い浮かぶ。一刻の猶予も無い。
鞄の中から薬のタブレットを掴み取って僕は全力で駆け出した。
くそっ・・・!迂闊だった!
いくらお風呂に入っていたとは言っても携帯を脱衣所に置いて着信設定を工夫すればこんな事態は防げたはずだ。
気の緩みだと言われれば、何の反論もできない。
薄野さんの心に触れたときの、あの感触・・・あんなものが30分も続いたら・・・
ダメだ、正気を保てるワケが無い。
(くっ!急げっ!!)
がむしゃらに廊下を突っ走り、ようやく薄野さんの部屋の前に到着する。
ドアノブに手をかけ、力を込めた瞬間、異様な音が漏れ聞こえてきて、僕はその場に固まった。
バリッ、バリッ、バリッ・・・
(・・・っ、何だ・・・?何が起こってるんだ?)
ドアノブの手が汗ばむ。扉に耳を押し当てると、音はさらに鮮明に耳を突いた。
バリッ、バリッ、バリッ・・・
(じ・・・銃、銃はっ・・・!)
腰の辺りをまさぐっても、当然そこには銃は無い。風呂上がりの無防備なジャージ姿だ。
一旦銃を取りに戻るか?
いや、そんな悠長なことは言っていられない。
まずは状況を確認する。何かあったら近くの部屋のメンバーに助けを求める。
自分の行動を頭の中でシミュレートして、心を落ち着けていく。
僕は慎重に、音が鳴らないように全神経を集中して、ドアを少しだけ押し開いた。
生じた隙間から部屋の中を窺う。
扉の向こうに現れた光景に、僕は息を呑んだ。
「ぐ・・・はあっ、ああ・・・がぁぁっ・・・!」
バリッ、バリッ、バリッ・・・
「ふうっ、ふうっ、くうっ・・・!」
部屋の片隅に鎮座する巨大な発泡スチロールの塊に、薄野さんが襲い掛かっている。
爪を立て、引き裂き、歯で噛み付いている。
「ぶっ!ごぼっ、ぷはっ!ゴホ・・・」
欠片を吸い込んでしまったのか、辛そうに咳き込む薄野さん。だが、彼女の奇行は止まらない。
(・・・なっ・・・え・・・?)
目の前で起こっていることに理解が追いつかない。
バリッ、バリッ、バリッ・・・
(・・・っ、そうだっ!薬だっ!!)
何をぼーっとしてるんだ僕はっ!彼女は発作で・・・離脱症状で苦しんでいる以外に考えられないじゃないか!
「薄野さんっ!」
咄嗟に声を掛けると、薄野さんはゆらりとこちらを振り向いた。
「はぁっ、はぁっ・・・なんだよ・・・龍、遅ぇじゃねぇか。・・・意地悪すんなよ。く、薬、持ってんだろ?」
媚びるような視線が絡み付いてくる。
ゆらりと歩み寄ってくる薄野さん。棒立ちになった僕に縋り付いた彼女は、ズルズルと扇情的に身体を押し付けてきた。
(・・・わっ、わっ・・・!)
「・・・なぁ、は、早くしてくれよ。何でもするからさぁ・・・お前、経験無いんだろ?私が・・・色々世話してやるよ・・・だからっ・・・」
薬を追い求めるように僕の身体をまさぐる。
(うわっ!)
そのまま脱力したように寄り掛かってきた彼女の荷重に耐えられず、僕はバランスを失って床に尻餅を付いた。
ポケットに捻じ込もうとする薄野さんの手を必死に払い除ける。こんな状態の彼女に薬がタブレットごと渡ったら、何が起こるか分からない。
何とか薄野さんを振り解いた僕は、タブレットを隠すようにして中から薬を1錠取り出し、彼女の手に握らせた。
自分の手にむしゃぶりつきながら薬を飲み下す薄野さん。
「・・・なぁ、まだ持ってるんだろ?もうちょっと、もうちょっとだけくれよ。」
普段の颯爽とした雰囲気は影も無く、浅ましく擦り寄ってくる薄野さんの姿が、どうしようもなく悲しかった。
こんなになってしまう苦しみとは、一体どれほどのものなのだろう。昨日のように薄野さんの心を探れば少しは分かるのかもしれないが、とてもそんなことをする勇気など無かった。
もう、見るに耐えない。
いっそのこともう1錠くらい薬を飲ませたほうが、彼女も楽になれるんじゃないか?
でも、そんなことをして大丈夫だろうか。
用量を逸脱したら却って最悪の結果を招くことにならないか・・・
葛藤が、僕の心中に沸き起こった。
「・・・ううっ、ふぅ・・・すぅ・・・」
だが、生じた迷いに結論を下す前に、薄野さんの息遣いは徐々にペースダウンし、深く落ち着いたものに変わっていった。
どうやら薬が効いてくれたようだ。ただ、薬とは言ってもこれが麻薬であることに変わりは無い。薄野さんの呆けた表情に、痛ましさを感じずにはいられない。
「えっと・・・ちょっと立てますか?ソファーのほうに行きましょうか。」
「・・・うい~~~」
虚ろな目を向けられると、強烈なやるせなさで胸が苦しくなる。
同時に、脳裏に蘇ったのは、僕が薄野さんのサポートの役目を与えられたときにBCLメンバーの1人から掛けられた言葉だった。
--------
バシッ! ドスッ! パンッ! パパンッ!
小気味よい打撃音が室内に木霊する。
「はぁっ!らぁっ!ふっふっ!つあぁっ!!」
人気の無い対術修練室に、彼はいた。
「ふうっ、ふうっ、くっ、はあっ・・・」
手を止め、サンドバックにもたれかかった彼の全身からは、大量の汗が滴っていた。一体どれだけの時間、こうやって打ち込みを続けていたのだろう。
「・・・ふうっ・・・ふう・・・、なんだ、新入りじゃねぇか。何そんな所に突っ立ってるんだ?俺に何か用でもあんのか?」
僕の存在に気付いた彼がそう声を掛けてくる。
「・・・狩谷くん・・・」
僕は、彼に訊かなければいけないことがあった。僕の記憶に引っ掛かっていた彼の一言について、確認せずにはいられなかった。
「何だよ、おい。何黙ってるんだよ。何も無ぇんならじろじろ見んな。俺はお前に構ってられるほど暇じゃねぇんだ!」
苛立ちを露に声を荒げる狩谷くん。僕はゆっくりと呼吸を整えながら、続きの言葉を絞り出した。
「ねえ、狩谷くん。狩谷くんって、薄野さんの薬の管理やってたこととか、ある?」
「ああ、前に一時期だけやってたけど、それがどうかしたかよ。」
やっぱりか・・・
これで繋がった。あの時の言葉の意味がようやく分かった。
自分の理解の確証を得るため、僕は質問を続けた。
「狩谷くん、言ったよね。僕が薄野さんの補佐をすることが決まったとき、『上手くやればいい目見られる』って。」
「言ったかもな。いちいち覚えちゃいねぇけど、聞いたってんなら言ったんだろ。」
「あれって・・・どういう意味?」
「はっ、そんなん説明しねぇと想像もできねぇほどお前はガキなのかよ。マジで話にならねぇな。質問はそれだけか?俺はもう行くぞ。」
「狩谷くんっ!!」
立ち去ろうとする彼の背に声をぶつける。
抑制的に呼び掛けることなど、もはや不可能だった。
「・・・あぁっ?」
徐に振り返った狩谷くんの目には、苛立ちを通り越した危険な色が浮かんでいた。
しかし、これくらいでたじろぐわけにはいかない。
「狩谷くん・・・薄野さんに・・・酷いこと、したの・・・?」
答えは不要だった。これまでの彼の言動と態度を考えれば、否定の余地など無い。
あの状態の薄野さんには、大概の要求が通ることだろう。彼は・・・狩谷くんは、薬をダシにして、薄野さんを・・・
僕の質問を鼻で笑う狩谷くん。
「はっ、変なこと言うなよ。酷いことなんてしてねぇよ。何勘違いしてんだ。」
心外そうに首を傾げながら彼が返してきたのは、しかしそんな言葉だった。
(・・・え?・・・あれ・・・?)
意外な回答に、僕の頭は混乱に陥った。
・・・勘違い?
勘違いだって?
それじゃ、僕の思い違いってこと?
そんな馬鹿な。勘違いであるはずが無い。
(だったら、一体・・・)
僕に思考の整理をする間を与えず、狩谷くんが続ける。
「『酷いこと』なんてのは言い掛かりだな。あいつは根っからの売女だから、俺はむしろあいつを悦ばせてやったんだ。慈善活動にケチ付けられたんじゃ堪んねぇよ。」
生じた混乱は、その言葉によって一気に吹き飛ばされた。
「・・・何だよ・・・それ・・・何言ってるんだよ・・・・」
「おいおい聞こえなかったのか?俺は売女を売女らしく扱ってやっただけだって言ったんだよ。それがお前に何か関係すんのか?文句があるなら言ってみろ。」
反省の色など全く無く、むしろ僕のほうが間違っているとでも言いたげな太々しい態度で、ずいっと狩谷くんが一歩踏み出る。
その迫力に気圧されそうになりながらも、芹花さんがこれ以上愚弄されるのを僕はどうしても看過できなかった。
「・・・と、取り消してよ。」
「・・・は?」
「取り消してよっ!今・・・芹花さんに言ったこと・・・!」
震える唇でやっと紡いだ僕の言葉。
それを聞いて一瞬ぽかんとした表情を見せた狩谷くんは、腹を押さえてさも可笑しそうに笑い始めた。
「ふはっ!うははは!あははははははは!」
心底人を馬鹿にしたような、酷く耳障りな笑い声だった。
「なんだよお前!もしかしてあの売女に惚れたのか?いいじゃねぇか。お似合いだよ。お前のような腰抜けでも、まあアレが相手なら釣り合い取れてるんじゃねぇか?あの廃棄寸前の性欲処理女ならな。」
瞬間、僕の中の何かがプツリと切れた。
「あああああああああああああああああああっっ!!!!!!」
バキッ!!!!
身体が勝手に動いた。気が付いたら、拳がジンジンと疼いている。
どうやら自分はこの拳で狩谷くんを殴りつけたらしい。
「ふーっ、ふーっ」
異常に息が上がっている自分に気付く。
今まで感じたことの無い興奮が、震えとなって手足に広がる。
僕は自分の二の腕を握り締めて、ままならない身体を押し止めた。
狩谷くんにとっては不意を突かれる形になったようだが、所詮僕ごときのパンチに怯むわけもなく、その後の立て直しは速かった。
「ぐっ・・・やりやがったなっ!おらぁっ!」
バキィィッ!!!!
今度は自分の左頬に熱が生じた。
だがそれも、僕の全身を占拠するこの熱さに比べれば大したことは無い。
狩谷くんの顔に赤く霞がかかって見える。目がチカチカして、胸の奥が弾けそうだった。
「うああああああっ!!」
メチャクチャだった。デタラメで、無謀だった。勢い任せに頭から突っ込み、僕はひたすら両手を振り回した。
「うくっ、がっ!・・・くそっ、調子に乗ってんじゃねぇっ!」
ドガッ!! ゴッ!! ガキッ!!
網膜上に火花が散って、直後、顔面が壁に打ち付けられた。徐々に平衡感覚が戻ってきて、僕はようやくそれが壁でなく床であることに気付いた。
「はっ、お前が殴り合いで俺に勝てるワケ無ぇだろ。サイトだからって調子に乗りやがって。」
もがきながら上体を起こして、狩谷くんを見上げる。彼は髪を振り乱し、息を弾ませながら、爛々と興奮の漲った目でこちらを睨み付けていた。
「大体なぁ、お前なんて“力”が無けりゃ何もできないただのガキじゃねぇか。」
嘲笑のような、憤怒のような、不快な響きの篭った声が僕を罵倒する。
「迷惑なんだよ!お前みたいな出来損ないが、サイト様だの何だのと組織内でデカイ面してるとよぉ!」
ガクガクする膝を押さえ込み、壁を伝って、僕は必死に立ち上がった。
「・・・んけい、ない・・・だろ・・・。」
「はぁっ?」
「・・・関係無いだろ・・・!」
僕の口から溢れ出てくるのは頭で考えた言葉ではなかった。湧き上がったものをそのまま吐き出しているだけであり、動物の鳴き声と何ら変わらなかった。
「ぁあっ?何が言いたいんだよ?意味分かんねぇぞ、コラ!」
「・・・関係無いだろっ!!サイトがどうとか、今はそんなの関係無いだろっ!!!!」
「・・・」
僕は再び狩谷くん目掛けて突進した。
がむしゃらに振るった両の拳には、確かな感触が伝わってきた。
「・・・ぐぅっ、・・・めんなっ!ぅらあっ!」
耳を突く怒号とともに、身体のあちこちに鈍く熱が灯る。妙に自分の視界が狭まった感じがしたが、それもほとんど気にならなかった。
まるで、全身が火の玉にでもなったかのようだ。
色んな思いが頭の中で爆発し、もう自分が何に対してキレたのかもよく分からなくなってきた。
拳に衝撃が響くたびに、自分の身体に新しい熱が生じる。
狩谷くんを殴っているのか、狩谷くんに殴られているのか、自分を殴っているのか、渾然として判別できない。
気が付いたら、もはや全く目が見えていなかった。
白い。真っ白だ。
急速に立ち昇った濃霧の如き奇妙なまどろみに、全身が包まれる。
抗うことなど不可能だった。
怒りや、苦しみ、思考、意識すらも、次第に真っ白な光の中へと溶け込み、ついには全てが蒸気のように拡散して、ゆっくりと消え去っていった・・・
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