第6話 対戦 ――その①

曙の光が地平から夜闇に染み出す頃。

少女は、1人バスルームでシャワーを浴びていた。

(・・・身体、洗わなきゃ・・・)

ボディーソープを手に取り、身体に擦り付ける。

ごしごし、ごしごし

もう何回、身体を洗っただろうか。

その指先はすっかりふやけ、皮が剥け始めていた。

少女には、自分の身体に染み付いた生臭いにおいが我慢できなかった。

つい先刻まで続いた情事によってべったり塗り込まれたにおいだ。

ごしごし、ごしごし

擦っても、擦っても、においはなかなか落ちてくれない。

(・・・もっと、もっと洗わなきゃ・・・)

少女はひたすらに身体を擦り続けた。

(・・・落ちない・・・何でっ・・・!)

どうすればこのにおいは消えてくれるんだろう。

がりがり、がりがり

苛立ちが一層の力となって指先に篭る。

がりがり、がりがり

爪が食い込み、皮が削げ、血が滲み出した。

がりがり、がりがり

それでもにおいは取れなかった。不快な生臭さに脳まで犯されそうだった。

(・・・っ、臭い・・・!!)

もう堪らない。我慢できない。いっそのこと皮膚ごと毟り取りたかった。

(うーーっ!!臭い!!臭い!!臭い!!臭い!!臭い臭い臭い臭い臭い!!!!!)

がりがり、がりがり

がりがり、がりがり

いくら掻き毟っても、削ぎ落としても、どうやったってにおいが取れない。

あの男のにおいが絡み付いて離れない。

「ああああああっ!!!!」

少女は叫び声を上げながら、バスルームから飛び出した。

シンクの香水を手に取り、一糸纏わぬ自分の身体に振り掛ける。

シュッシュッ、シュッシュッ

二の腕に刻まれた無数の裂傷に、香水がじくじくと沁みた。

ちょっとだけ、本当にほんのちょっとだけ、においが和らいだ気がする。

シュッシュ、シュッシュッ

一心不乱にノズルを押し続ける少女。

ちょっとずつ、ちょっとずつ・・・しかし、この鼻が曲がる程の生臭さを取り去るには、それは気の遠くなる作業だった。

まるで砂漠に如雨露で水を注ぐかのようだ。

「ぅうう~~~~っ!!」

少女は狂ったような勢いで香水のノズルを外し、瓶の中の液体を頭からぶっかけた。

「ぷはっ!べっ・・・くしゅんっ!」

鼻腔にツーンと痛みが走る。

針で刺すような刺激に涙を流しながらも、少女はむしろ歓喜に打ち震えていた。

・・・ようやくだ。

あまりに強い刺激によって根こそぎ嗅覚を奪われた鼻に、もはやあの悪臭は届いていなかった。

込み上げる安堵に身体の力を全て持っていかれ、少女はぺたんと床に座り込む。

(・・・消えた・・・・やっと・・・消えた・・・)


バタンッ!!


けたたましい音と共に部屋に入ってきたのは、1人の男だった。

「うわっ!何だこのにおいはっ!香水ぶちまけたのか!?くっせぇっ!」

シンク前に少女がいることに気付くと、男は下卑た視線をその裸体に這いずり回らせた。

「おうおう、芹花、お前何で裸でうろついてるんだ?」

麻痺したはずの鼻が徐々ににおいを拾い始める。

男の放つ最悪のにおいが、成す術無く鼻腔に侵入してくる。

嬉々として歩み寄ってくる男。

その男が死ぬほど憎く、そして、死ぬほど恐ろしかった。

「まだしたりないってか?分かったよ、今すぐたっぷり続きをしてやるよ。」


(・・・あ・・・あは・・・)


少女の顔は、絶望の笑みに歪んでいた。



--------



光が見える

跳ね 弾け 揺らめいている

ぐるぐる渦巻き 砕け 幼虫のように這い回っている

ぷちぷち ぷちぷち

頭の中で音が鳴る

ぬらりと粘つく心地よい液体に脳が浸されている

あれは、何かの形に似ているな

そうか、パパだ、パパに似てるんだ

そしてあれはママ

あは、おかしいの 2人とも目がまっしろしろ

指の無い手を振ってバイバイしている

なんで どうして私をおいてくの?

私も連れてってほしいのに

こっちにはもう何も残って無いんだから


・・・えよ・・・


遠くでぼんやり声が聞こえる


・・・えよ・・・


え? 何? 何て言ってるの?


・・・言えよ。・・・


高圧的な声がそう命令する

なんだ、言うだけでいいの? 簡単じゃない

でも、なんだか言ってはいけない気がする 何かが終わる気がする

だけど、もうとっくに終わってる気もする

誰にはばかる必要があるんだろう? 私にはもう誰もいないのに

そうだ 言って楽になるなら 言わずに痛い思いをするくらいなら

言ってしまおう

人間じゃなくていい 芋虫か何かだと思えばいい

何も考えず 何も望まず

苦痛を避け 快楽を拾っていこう

唇をぱくぱくと動かす

自分の耳に、アホみたいな自分の声が届いた






「・・・おねがいひましゅ・・・」






--------



「わたっ!とーう!」

「くっ!はっ!」

「おりゃおりゃ、どうしたりうっち!」

水那方さんの連撃を、僕はすんでのところで捌いていく。力を使っているのに息吐く暇も無い。先日の不良たちの攻撃とはまるで格が違った。

「力の切り替えが遅いよっ!それじゃりうっちの動揺が筒抜けだよ。私らの力ってのは相手に悟られちゃダメなんだから!」

そうは言っても、正直身を守るのが精一杯で、他のことに気が回らない。

迫り来る正拳を横から叩いて反らす。すると水那方さんは勢いそのままくるりと背を向けた。

(何か来る・・・!)

“力”のおかげで攻撃の気配を知ることはできる。だが、この状態からどんな技が来るのか想像もつかない。

ともかく距離を取るため、僕は咄嗟に身を引いた。

「!?」

身体が動かせない。いつの間にか足を踏まれている。

棒立ちになったその隙を、水那方さんは見逃してはくれなかった。

「おりゃーーーっ!!」

顎にパーンという衝撃を感じた次の瞬間、僕の足から力が抜け落ちた。

「お、あ・・・」

がくりと地面に膝を落とし、地面に突っ伏す。

「・・・んぅ、うくく・・・」

立ち上がろうと頑張ってみたが、目が回ってしまってうまくいかない。

「うっしゃーーー!!必殺グレートミラクル竜巻エルボー炸裂っ!・・・って、りうっち大丈夫?ちょっと加減間違えたかな、あはは・・・」

「・・・心配、しないで・・・大丈夫、だからっ・・・」

膝を立て無理やりに立ち上がったものの、すぐにバランスを失って転びそうになった僕は、水那方さんの小さな身体に受け止められた。

「おっと、無理しなくていいよ。りうっち弱いんだから。」

悪気の無い素直な感想であることが分かるだけに、その言葉は殊更僕の心を抉った。


今、この体術修練場にいるのは、僕と水那方さんの2人だけだ。

今日は僕も水那方さんも非番だ。緊急呼び出しに応じる義務を除けば、実質的には休日である。


「りうっち遊ぼ~~~~~!」

そう言って水那方さんが僕の部屋をドンドンとノックして来たのは、僕が朝食を済ませた直後のことだった。

「りうっちもこんな穴倉の中じゃやることなくてつまんないでしょ?だから私が遊んであげるよ!」

正直な話、居室の棚には豊富な蔵書が並んでいて、しばらくは退屈しそうにないなと思っていたところだ。TVの内蔵プレーヤーにもたくさんのコンテンツが詰まっていて、見尽くすことなどできそうもない。

「あ、ありがとう。丁度暇してたとこなんだ。それじゃ、何して遊ぶ?」

しかしせっかくこうやって友好の意を示してくれているのだ。無下にすることはできない。

昨日の歓迎会もそうだが、新参者の僕が早く打ち解けられるよう彼女も気を使ってくれているのかもしれない。

「ところでりうっちさぁ、定期測定の結果どうだったの?」

「えっと・・・よく分からないけど、狩谷くんの少し下くらいって言われた。」

僕の返答を聞いた瞬間の水那方さんの顔は実に印象的だった。

いかにも可哀想なモノを見る目付き、というのが妥当な表現だと思う。

「よし!このままじゃりうっち死んじゃうかもしれないから、私が特訓してあげる!」

拳で自分の胸を叩きながら張り切った口調でそう言う水那方さん。どうやら僕には落ち零れの烙印が押されてしまったらしい。

瞬発力に限ってはスポーツ経験者のレベルにある・・・その程度の評価で浮かれていた僕が馬鹿だったということだろう。

第一、僕は曲がりなりにも中学時代バレー部だったわけだから、普通ならスポーツ経験者並だというのは喜ぶポイントでは無い筈だ。

それにそもそも僕の絶望のタネは基礎体力というより壊滅的な運動神経じゃないか。

ヤクザ相手に喧嘩をやろうという集団にいて、基礎体力の一部がスポーツ経験者と同程度というのはむしろ落ち込むべき事実だということに、僕はこのときようやく気付いた。


「ほわたたっ!っちゃあっ!」

少し休憩してようやく回復した僕は、再び水那方さんと対峙していた。

水那方さんは“力”を使っていない。完全なハンデ戦である。

それなのに、僕は水那方さんにまるで歯が立たなかった。

しかも水那方さんに本気を出している素振りは全く無く、遊びを満喫しているとしか思えないような楽しげな笑顔を浮かべている。

まるでネコがじゃれているみたいだ。それでも僕にとってはネコどころかトラがじゃれついてきているくらいに脅威なのだが。

「おりゃっ!たーっ!」

「くっ・・・!はっ!」

左のパンチを避けて後ろに下がると、後を追うように今度は右が飛んでくる。それを捌いた時点で完全に間合いを詰められて、僕は逃げ場を失ってしまった。

「あちょーーーっ!」

水那方さんの中段回し蹴りが襲い掛かる。

咄嗟に脇を締めてガードを固めた僕の目に映ったのは、急激に軌道を変えて僕の腿をまさに捉えようとしている瞬間の水那方さんの蹴り足だった。

「っ・・・がああああっ!!」

まともにそれを食らった僕は、痺れるような激痛を堪えきれず、再び地に伏した。

「ああっ!ダメだってりうっち!せっかく反応できてるのに、反応のしかたが間違ってるよ!

 外からローキックが来たときは、膝を閉じるんじゃなくて、こう!膝を開いて脚の正面で迎え撃つの!」

少なくともこうやって腿の裏で受けるととんでもなく痛いということだけは身を持って思い知った。だからといって次から上手く対応できる自信は全く無いが・・・

「りうっちも、少しずつ強くなっていかないとね。じゃないとセリリンを守れないんだから。」

差し伸べられた手に掴まると、華奢な身体からは想像もできない力強さで引き上げられた。

こんなに強力な戦士がパートナーだったのに、僕のような役立たずに交代となってしまい、薄野さんの心中にはどれ程の不安がもたらされたことだろう。

(・・・そういえば。)

かつて水那方さんは薄野さんのパートナーだった・・・それは何も作戦上の話だけではない筈だ。

事実、僕は薬のタブレットを水那方さんから受け取っているのだ。

「水那方さんは、知ってるの?薄野さんの、その・・・“病気”のこと。」

僕の問いに、水那方さんは曖昧な笑みを浮かべた。

普段の溌剌とした雰囲気が影を潜め、急に大人びた表情を見せた水那方さんに、ドキリと胸が鳴る。

「私が前に住んでた辺りじゃ結構ああいう薬出回ってたからね。割と見慣れちゃってるかな。

あんまり深刻になる必要も無いよ。ちゃんと治療受けてれば絶対治るんだから。」

事も無げに言ってのけた水那方さんだが、それはどこか自分自身に言い聞かせている風でもあった。

「りうっち、せりりんのことしっかり助けてあげてね。」

その短い言葉を聞いただけでも、水那方さんにとって薄野さんがいかに大切であるかが窺えた。


そんな大事な仲間を任されていると意識すると、僕は途端に肩が重くなるのを感じるのだった。

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