第5話 宴 ――その②

「鴉!」

自室に戻る直前の鴉に、僕は咄嗟に声を掛けた。

「どうしたの?龍さん。そんなに慌てて・・・」

「鴉、この薬って、誰の指示で出されてるの?」

僕はポケットから薬の入ったタブレットを取り出して鴉に質問をぶつけた。

「ああ、それは所長だよ。BCLの所長が出してるんだ。」

「これが何の薬だか、鴉は知ってる?」

「まあね。」

「これは、この薬は・・・」

僕はごくりと唾を呑んだ。次に言おうとしている単語は、口に出すのも憚られるものだった。

「この薬は、もしかして、麻薬・・・なの?」

言ってしまった。

笑われるだろうか?僕はただ馬鹿げた勘違いをしていただけで、笑われて恥かしい思いをするのではないか・・・

それならそれでいいと思う。杞憂で済むのであれば、僕個人の羞恥心など取るに足りないものだ。

「だとしたら、どうするの?」

だが、鴉の回答は、僕を安心させてくれるものではなかった。

「薄野さんに・・・麻薬を飲ませることが、僕の役割ってわけ?」

何かがあると信じて、僕は鴉の後に付いてきた。

もちろん、向かう先がユートピアだと思っていたわけじゃない。しかしそれでも、ヒロイックな幻想を全く抱いていなかったと言い切れるだろうか?

現実はどうだ。ここで僕に与えられた任務が麻薬の供給係だったということならば、鴉にとって僕はさぞかしおめでたいカモだったに違いない。

「許せない?だったらどうするんだい?BCLと戦う?ぼくと戦うの?」

冷酷に言い放つ鴉。

その一言は、僕の心を一瞬にして凍て付かせた。

・・・戦う?・・・鴉と・・・?

目の前に突如訪れた岐路。随行か離反か。服従か対決か。

離反を選ぶなら、それは即ち宣戦布告になってしまうということなのか。

鴉と戦うなんて想像もできない。

けれど、それが嫌だからといって、この薬を薄野さんに飲ませ続けることを納得しろとでもいうのか。

分からない。一体どうすればいいのか・・・

迷う、と言うよりは、まるで頭が働かなかった。

身動きすらできない。指先から脳細胞の1つ1つに至るまで、僕を構成する分子の全てが硬直してしまっていた。

ただ静かに僕を見つめ続ける鴉。

しかし彼は不意にその相好を崩し、けらけらと笑い始めた。

(・・・え?な、何・・・?)

張り詰めた空気が一転弛緩する。

僕は状況を掴めず、呆気に取られて立ち尽くすしかなかった。

「冗談・・・?冗談だったってこと?この薬が麻薬なんてのは・・・」

やはり僕はからかわれていただけなのだろうか・・・?

「冗談じゃないよ。その薬は麻薬だよ。それは間違いない。」

「・・・っ、だったらっ・・・!」

「代替オピオイド。」

「え?」

「治療法の1つだよ。徐々に離脱症状のピークの低い薬物へと置き換えていくことで、最終的に麻薬への依存を断ち切るんだ。それはそのための薬だよ。麻薬の一種には違いないんだけどね。

まあ、そもそも強めの安定剤ってのは基本的にはどれも麻薬だし。」

鴉の説明を聞いて、一気に肩の力が抜けた。

治療薬・・・治療薬か、そうか・・・

僕はおぞましい行為に加担していたわけではなかった。

この組織は、そんな卑劣な作業を強要してくるような組織ではなかった。

安堵が胸を満たす。

しかし一方で、そこには1つの事実が取り残されたままであることに僕は気付いた。

「薄野さんは・・・薬物依存症なの?」

やはり、という思いもあった。これまでそういう症状に陥った人を他に見たことがあるわけではないが、薄野さんの心に触れたときの衝撃は簡単には拭い去れない。

「リカはね、密売組織の子飼いの風俗嬢だったんだよ。中毒状態にされていいように使われてたみたいだけど、その組織を抜け出して逃げてる最中にウチに拾われたってわけさ。」

「ふ、風俗嬢!?」

「汚らわしいと思うかい?」

「い、いや!全然・・・」

違う、そうじゃない。僕が驚いたのは、薄野さんが置かれた状況の悲惨さだ。

櫻井さんは、夜伽の仕事に意義を感じていると言っていた。

薄野さんの場合はどうか?

薬漬けにされ、客を取らされる生活の中に、尊厳など存在するのだろうか?

その状況については曖昧な想像しか僕にはできない。できないけれども、やるせない気持ちが充満して、胸が詰まりそうだった。

「あとはリカに直接訊けばいいよ。龍さんはリカのパートナーなんだからね。」

気楽そうに言う鴉。

だけど、薄野さんに面と向かってそれを訊くことなど、僕にはできる気がしなかった。



--------



「・・・ふぅ・・・」

湯船に身を浸し、僕は天井から滴り落ちる露を眺めていた。

長かった。一日ってこんなに長いものだっただろうか。

朝から晩まで、体験することの全てが初めてのものばかりだったのだから、そう感じるのも無理は無いのかもしれない。

じんわりと痛み出した手足の筋肉を揉み解す。これだけ身体を動かしたのも久しぶりだ。

今日はしっかり入り口のドアの鍵を確認したので、玲香ちゃんが乱入してくるようなことは無いはずだ。余計な警戒はせずにリラックスしていて大丈夫だろう。

身体の疲労は心地よい眠気を運んでくる。気を抜くとウトウトしてしまいそうだった。

ここでの生活は僕には刺激が強すぎて、神経が焼ききれてしまうのではないかと不安になる。

だけど、取り敢えず身体が疲労していれば眠れなくなることは無い・・・これは中学の頃にバレー部に入ったおかげで学んだことだが、その法則は今も例外無くこの身に適用されているようだ。

(・・・やっぱり、怖いよな。)

今日はいきなり薄野さんの偵察行動に同行することになった。

作戦の最終目標は麻薬組織の粛清だという。今でも悪い冗談にしか思えない。

この作戦に失敗したら、最悪死ぬこともあるだろう・・・そう思っていたが、もしかしたらそれ以上の“最悪”があるのかもしれない・・・薄野さんの発作を見て、僕の認識は変わりつつあった。

薄野さんの心に触れたときのあの感覚は、筆舌に尽くしがたいものだった。

あれが、離脱症状というやつだろうか。もしあんなのが自分に定期的に襲ってきたとしたら、僕は正気を保っていられるだろうか?

すんなり死ねたほうが楽だ・・・そう思うようなこともあるのかもしれない。

そんな状況が訪れたならば、どうすべきなのだろう。生きているのが苦痛でしかない状況になったら、僕はどうしたらいいのだろう。


『楽しいことのほうが多くなければ、生きてなくても別によくない?』


自ら死を選ぶことが最良の選択なのか・・・

想像の拳銃をこめかみに当て、引き金を引いてみる。

耳障りな轟音。激しい衝撃・・・やっぱりダメだ。こんなの僕向きじゃない。

どうせなら使い慣れたもののほうがいい。

次に思い浮かべたのは、黄色い柄のカッターナイフ。

スモークシルバーのしなやかな刃を手首に当ててそっと引くと、そこには真新しく美しい一筋の線が描かれ、鮮やかな赤い液体が泉のように溢れ出す。

湯の中に咲いた花が、バスタブをみるみるうちに深紅に染めて・・・


『おまえっ!今いったい何をしようとしてたっ!?』


頭の奥で突如再生された治樹の声に、僕ははっとして身を起こした。

危ない危ない、つい眠り込んでしまうところだった。未来の可能性に戦々恐々としておきながら、結果がお風呂で溺死とか、とんだ笑い話だ。

(・・・そろそろ上がろう。)

浴室を後にした僕は、身体に付いた雫をしっかりと拭き取って、寝巻き用のジャージを着込んだ。

そのままリビングへの扉に手を掛けたとき、僕は僅かな違和感に囚われた。

(・・・音?・・・話し声?)

それは非常に微かなもので、いくら耳を澄ませても再び聞こえることは無かった。

気のせいだろうか・・・

しかし、一度感じた気配は僕の緊張を否応なく高めていった。

汗ばんだ手で、そっとドアを押し開く。


パンパンパンパンパンパァーーーン!!!!


(うわぁっ!!!!)

鳴り響く破裂音。鼻を突く火薬の匂い。

そして、降り掛かる色とりどりの紙テープ。


「「BCLにようこそ!!!!」」


「あーっ!アレクちょっと声がズレたっ!ちゃんと集中してって言ってたのに!」

「何だよ、あれくらい大目に見たっていいだろ皐月。」

「よくないよくない!りうっちを歓迎しようって気持ちが全然足りなーい!」

そこに広がっている光景に僕は目を白黒させることしかできない。

(え・・・と、歓迎会?・・・僕の・・・?)

「ちょっと2人とも、お兄ちゃんが困ってるじゃない!今日の主役はお兄ちゃんなんだから、ほったらかしにしちゃダメでしょ!」

玲香ちゃんに窘められ、水那方さんはバツが悪そうに頭を掻く。

「まあ、見ての通りだよ、龍。お前を歓迎したいって連中が集まってサプライズパーティーを開こうって話になったのさ。まあ、ただ単に口実作って騒ぎたいだけって説もあるけどな。」

説明してくれた薄野さんは、顔色もよく、すっかり普段通りに戻っていて、僕は少し安心した。

こうやって歓迎会を開いてくれるのは正直嬉しい。ここでの僕は要らない存在なのではないかという不安を僅かでも和らげてくれる。

だけど、この雰囲気に流される前に、1つだけ確認しておきたいことがあった。

「あの、櫻井さん?」

「はい、何でございましょう。」

「えっと、ここの鍵って・・・」

そうだ、僕はお風呂に入る前にしっかりと戸締りを確認した筈なのだ。

「各部屋の鍵はマスターとスペアの2つずつございます。今日のような緊急事態でない限りは絶対に使用いたしませんので、ご安心くださいまし。」

澄ました顔で答える櫻井さんだが、この言い回しは絶対面白がっているに違いない。

「さあさあ、りうっち早く座って。料理が冷めちゃうし。」

「そう言ってお前が早く食いたいだけだろ?」

「もー!変なこと言わないでよアレク!私は“りうっちと一緒に”早く食べたいの!」

「結局同じじゃないか。」

「全然違うよっ!!」

賑やかな遣り取りに笑いが込み上げる。アレクさんは随分と水那方さんをからかい慣れているようだ。

「まあ、いつまでこうしていても始まらないというのには同意するよ。そろそろ乾杯しようか。」

高そうなシャンパンで満たされたグラスを掲げるアレクさん。皆もそれに倣いグラスを持ち上げる。

「白峰様はこちらで。」

そう言って櫻井さんが僕のグラスに注いだのは薄めの色のガラナだ。水那方さんや玲香ちゃんのグラスにも同じものが注がれているようだ。

みんなの用意ができたのを見て、アレクさんが口を開いた。

「BCLの新しい戦士に。」

続いて言葉を発したのは玲香ちゃんだ。

「お兄ちゃんのここでの幸運に。」

次は水那方さん。

「んーと、新しい遊び相手に!」

最後は、少し意地の悪い表情をした薄野さん。

「出来損ないの今後の成長に。」

辛辣な言葉に僕は苦笑いするしかない。

これでみんなが一通り口上を述べた気がするが、なかなか乾杯の号令が発せられない。

見渡すと、誰もが僕の顔をじっと見つめている。

(・・・ま、まさか、僕にも何か言えってことか?)

頭をフルスロットルで回転させて言葉を捜す。

「え、えっと・・・みんなとの、出会いに。」

やっとのことで搾り出した台詞に、アレクさんはにこりと微笑んで、高らかに声を上げた。

「乾杯!」

「「乾杯!」」


カチャカチャとグラスの合わさる音が、宴の始まりを知らせる前奏曲となった。

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