第4話 失格 ――その①

「嫌な雲だな。」

くすんだ雲に覆われた青暗い空を見て、岸本きしもと泰典やすのりはひとりごちた。

雲は月を隠し、現場を覆う宵闇をさらに深いものにしていた。

課に配備されている照明は中々に優秀で、照度という点では昼間と遜色ない。しかしそれでも、夜というものは確実に、白昼見えていたものをベールに包んで見えなくしてしまう・・・泰典は自身の20余年の経験からそのことを学んでいた。

「おい、ブルーシートも急げよ。」

慌しくKeep Outのテープを張り巡らせる制服警官に、泰典は声を掛けた。

雲は雨を運んでくる。現場保存の観点から言えば雨は厄介な天敵だ。

いっそ街全体をシートで囲ってしまうことができればと、岸本はしばしば叶いようの無い願望を抱かずにいられなかった。

「おう、タク。お前はこいつをどう見る。」

目の前に倒れ伏した男を指して、傍らの若い刑事にそう訊ねる。

男は既に死んでいた。中肉中背・・・いや、やや痩せ型だろうか。鋭利な刃物によるものと思われる切り傷が頚部右側と左手首に付けられており、多量の出血がアスファルトに赤黒い血溜まりを作っていた。

赤く濁った両眼はくすんだ空を睨み付けたまま固まっている。

傷の無い右手に握られているのは、刃渡り20cm弱の血に染まったナイフだ。

「そうですね・・・私は他殺だと思います。凶器はガイシャが手にしているあのナイフでしょう。

格闘の末にホシに手傷を負わせたのなら、ホシが立ち去る際に周辺に血糊が残る筈です。ナイフにはあれだけ大量の血液が付着しているわけですから。

それが無いということは、あれはガイシャ自身の血ということになります。

おそらくホシはガイシャの左手首と頚部を切り付け、倒れたガイシャの右手に凶器のナイフを握らせたのではないでしょうか。

幼稚な自殺偽装ですけどね。」

「なるほど・・・な・・・」

そう相槌を打ったものの、泰典は拓也の推測に全く同意していなかった。

幼稚な自殺偽装・・・配属3年の青二才がそう判断するのも無理はない。だが、この現場から浮かび上がるのはそんな単純なビジョンではない。

一言で表現するなら、“ちぐはぐ”だ。そのちぐはぐさがタクの目には“幼稚”と映った。ホシの稚拙さによって生み出された違和感だとタクは判断したのだ。

外傷は2箇所の裂傷のみ。だが、頚部と手首に刻まれたそれらの傷はいずれもかなり深く、どちらか1つでも致命傷となり得ただろう。

傷口からの出血の多さからして、片方が偽装のため死後に付けられたものというわけではなさそうである。

争った形跡は無い。背後から首を一掻きされたのだろうか?いや、だとすると手首の傷の説明が付かない。

真正面から抵抗の余地も与えず命を奪ったというならば、ホシは相当の手馴てだれだろう。

プロだとすれば、標的の手を狙う理由は1つ。標的が獲物を持っていて、それを封じるためだ。

まず標的の左手を切りつけて武器を使えなくし、返す刀で頚動脈を掻き切る・・・そんな芸当を素人ができる筈がない。

だが、それだとガイシャは左利きということになる。無残に切り裂かれた左手にナイフがあるのは余りにも不自然なため、仕方なく右手にナイフを持たせたのかも知れないが、自殺偽装としての効果には甚だ疑問が残る。果たしてプロがそんな無意味な後処理をするだろうか。

それに、泰典にはもう1つ引っかかる点があった。

ガイシャが右手に持つナイフの血糊。そして、ガイシャの右手から袖にかけての血糊・・・それがいかにも自然なのだ。偽装のためになすり付けられたのならばこうはいかない。

泰典ほどのベテランになれば、血糊の形を見ただけで殺傷の瞬間が頭に浮かぶ。

直感が告げていた。この右手は、間違いなく人を刺している。

そしてその行為には、手に握り込まれたこのナイフが用いられている。

ならばここで格闘があったということになるが、争いの痕跡が一切残されていないことと整合が取れない。

他殺が否定されるなら、導かれる結論は、自殺。しかし、その自殺というのが一番有り得ないのだ。

刃物を使った自殺の場合、死因となる深い傷が2箇所以上付くことはまず無い。

複数の傷が存在するケースでは、1つの致命傷以外はいずれも死の決断ができないままに付けられた“ためらい傷”と呼ばれる浅い傷ばかりであるのが普通だ。

この遺体にあるのは、パックリと開いた2つの大きな傷。

手首のものは骨まで達しているだろう。首のほうは完全に頚動脈が断ち切られている。

これほどの傷は、1つでも負った時点で自殺者の気力を根こそぎ奪ってしまう。

そんな傷が2つもあるのは、自殺としては不自然極まりない。

極度の興奮で痛みを感じない状態であれば稀にこういうこともあったりはする。例えば覚せい剤によってトランス状態にある時などはそうだ。

しかし、そういう場合、遺体はもっと悲惨なものになる。こんなに鮮やかな傷になることは無い。こんな・・・まるで人を絶命に至らしめることのみを追及したような、極めて効率的な傷にはならない。

混乱しきった泰典の脳裏に、不意に1つの映像が浮かんだ。しかし泰典は頭を振ってそれを打ち消す。

有り得ない。有り得るはずが無い。

“自分の右手に殺される”などということは・・・


「なんだよ、またアンタか。」

卓也の不機嫌な声に、深く思考の海に潜っていた泰典の意識は現実へと引き戻された。

視線を向けると、そこには白いマスクをした1人の青年が佇んでいた。

「やれやれ、階級的には私の方が上なんですけどね。部署の若手の教育はしっかりとお願いしますよ、岸本警部。」

「なんだとっ!!」

色めき立った拓也を制するように泰典が歩み出る。

「これはこれは、公安の真槌まづち警部殿。見ての通り我々は忙しくてね。雑談なら後にして欲しいんですが・・・それとも何ですか?またこのヤマもあなた方が捜査していただけるんですかい?」

「岸本警部は理解が早くて助かります。本件は刑事部から公安部へと移管されました。初動捜査が終わり次第、捜査情報を引渡し願います。」

「公安の仕事熱心さには頭が下がりますが、最近はちょっと抱え込みすぎじゃないですかね?今回はまだガイシャの身元も割れてないんだ。そもそも公安の出る幕じゃ無いって可能性もあるでしょうに。」

「木元です。木元吉勝28歳。石崎組の組員で、公安の方でマークしていた人物です。反社会組織の監視・捜査は公安の領分ですから、我々が暢気に休んでいる訳にもいきません。」

冷静な返答を続ける真槌に、拓也が食って掛かった。

「張ってた相手に死なれたのか?公安の底が知れるな。」

「それに関しては一言もありません。我々の失態であることは事実ですから。汚名返上のためにも、その分このヤマの解決に全力を注ぐつもりですので、刑事部の皆さんもご協力お願いしますね。」

よくもしゃあしゃあと言えたものだ。泰典は胃のむかつきを覚えながら深く息を吐いた。

「分かりましたよ、真槌警部殿。ガイシャが組の人間っていうんじゃ、今回は確かにあんたらの領分だ。この前みたいに高校生のガキどもの事件に首を突っ込んでくるのとは訳が違いますからね。」

「分かっていただければ結構です。」

泰典の皮肉にも、真槌は眉ひとつ動かさない。

「ふん、おいタク!行くぞ。」

「あ、ちょっと、待ってくださいよ!」

追い縋ってきた拓也の顔には噴火しそうな程の不満がありありと窺えた。

「いいんですか?ヤスさん。このままで・・・」

「何がだ?」

「奴ら最近やりたい放題じゃないですか。これじゃあ完全にシマ荒らしですよ。」

「それで事件が解決するんなら刑事も公安も無いさ。刑事部が抱えてるヤマは腐るほどあるんだ。手伝ってくれるってんなら任せておけばいい。」

「・・・ですけどっ!」

「いいかタク。奴ら公安の目はな、俺たち警察内部の方にも向いてるんだ。俺なんかはとっくに不満分子扱いで私生活を調べ上げられてるよ。

平穏に暮らしたけりゃ、無闇に奴らの興味を引かないことだな。」

項垂れる拓也を見て、いっそ自分も勢いに任せて行動してしまえればどんなに楽かと考えてしまう。

しかし、それでは何も解決しない。奴らとは最初はなっから同じ土俵に立てていないのだ。


ねずみ色の暗雲に埋め尽くされた空から、遂にポツリポツリと雨粒が落ち始めた。

恨めしそうに天を仰ぎ、泰典は誰にともなく呟いた。


「長くなるな、この雨は。」



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さっきの槇島さんの言葉がぐるぐると頭の中を回っている。

結局、サイトについてはそれ以上訊くことができなかった。

怖かったからだ。

僕は何を恐れていたのだろう。

サイトを失うこと?

それとも、僕が僕で無くなること?

普通に考えれば、選ぶべきは明白だった。

サイトであること、それが今の僕の唯一の価値だ。

サイトで無くなった僕、僕でなくなったサイト・・・

この2択で、サイトで無くなった僕を選ぶ人など誰もいないだろう。

僕でなくてもサイトであれば稀有な存在として重宝される。

もし、僕が突然サイトでなくなったとしたら、一体どうすればいいのか。少なくともこの施設では誰からも見向きされなくなるに違いない。

逃げ出した元の世界に帰るのか?

でもそこに何があるっていうんだ?

そうだ、サイトでない僕を必要としている場所なんてありはしない。

そのまま消えてしまったとしても、きっと誰も・・・


『龍輔っ!!!!』


(・・・っ!)

不意に、別れ際の治樹の呼び掛けが脳裏に蘇った。

その声を思い出すだけで、よく分からない何かが僕の胸を熱くした。

馬鹿だ。あいつは。

僕のことなんてほっとけばいいんだ。

大体、あいつを苦しめているのは僕じゃないか。あいつの大切な友人を壊したのは他でも無い、僕なんだ。

あいつにしてみれば、それこそどんなに恨んでも恨み足りない筈だ。

なのに、何であいつは、あんな声で僕を呼ぶんだ。

(・・・やめよう。あいつだって今頃は・・・)

きっとあの時は事態が掴めずに混乱していただけに違いない。冷静になればあいつだって理解するはずだ。僕なんか擁護するに値しない人間だって・・・


「おー龍クン!丁度良かった。これから出掛けるからすぐに準備してくれ。すぐにだぞ。」

ぼーっと歩いていた僕に声を掛けてきたのは薄野さんだった。

「え?あ、はい。・・・えっと、どこに?」

「偵察と情報収集だよ。ターゲット周辺の下調べをきっちりしとかないとミッションは成功しねぇからな。」

「え、あれ、でも・・・・」

「ん?どうした?今日は奴らの事務所に潜入する訳じゃ無いし気楽に付いて来てくれりゃあいいよ。」

「あの、そうじゃなくて、今日はこれから言語文化研修ってのがあるってスケジュールに書いてあったんですけど。」

「細かいこと気にするなって。こういうのはミッションに関わる任務が最優先なんだ。事後に申請しとけばOKだよ。」

「はぁ・・・分かりました。」

強引に話を進めていく薄野さんに対し僕は頷くしかない。

「とりあえずお前は、野外での禁止事項だけ注意してればいい。」

禁止事項・・・確か、秘匿レベルの高い情報はメンバー同士の会話であっても緊急性が無い限り口にしない、だったか。例えば“BCL”のような機密の固有名詞を発言に含むことは制限されるため“組織”または“チーム”という呼称で呼ぶのが慣例らしい。

(・・・他には、えっと・・・)

頭の中で規則を反芻する僕の体の芯からは俄かに震えがこみ上げてきていた。

補佐であれ実地研修であれ、いよいよ“作戦行動”に参加することになるのだ。

ごくりと無意識に唾を飲む。

押し込めていた不安が体内で一気に煙を噴き上げ、胸が破裂しそうだった。



--------



地上に出ると、捨ててきた“日常”が目の前に広がっていた。

忙しそうに小走りで通り過ぎる背広姿のサラリーマンや、他愛ない会話に花を咲かせつつゆっくりと歩を進める学生服の一団、繁華街の昼下がりに溢れる人々が、寒空の下に熱気を呼び込んでいた。

目に飛び込んでくる多種多様な人、表情・・・それらがやけに呑気に思えるのは、僅か1日足らずで僕の感覚が“地下”に随分と慣らされてしまった証拠だろうか。

おそらく彼らには、僕が迷い込んだ世界のことなど想像も付かないに違いない。

僕は昨日、突然異世界にワープした。壮大な地下空間に飲み込まれ、僕は完全に日常から切り離されたのだと悟った。

しかし、こうして地上に出てみると、その垣根は意外なほど低いことに気付かされる。

交差点の標識に駅の名が見えた。電車に乗ってしまえば家に帰ることだって簡単そうだ。

「・・・帰りたいか?自分の家に。」

薄野さんの問いに、僕は小さく頭を横に振った。

治樹、西原、新沼さん、涼子ちゃん・・・思い浮かべると今も心が締め付けられるが、その感情を表す言葉は“帰りたい”ではないように思う。

「意外に落ち着いてるんだな。」

「い、いえ、そんなことは・・・」

地に足が着かないというか、ふわふわした感覚が自分の中にある。どこかまだ現実を受け止められていないのではないか。このままではいけない気がする。

「私なんか、組織の一員になって初めて地上に出た時は足が震えて倒れそうだったけどな。」

「え・・・薄野さんが、ですか?」

「おいおい、お前の目に私はどう映ってるんだ。これでもか弱くて純情な乙女だぞ。」

濃いマスカラに縁取られた肉食系の目を僕に向けからかうような笑みを浮かべる薄野さん。彼女自身その評を本気で信じているようには到底見えない。

僕から視線を外して前に向き直り、薄野さんは言葉を続けた。

「私は組織に入ったことで、ようやくこのクソったれな世界から逃げ出せたんだ。」

語調は先程までと打って変わり、奇妙な空虚さを感じさせるものだった。


「でもな、いつまでも穴倉に引き篭っていられるワケじゃねぇ。うじ虫どもに捕まって連れ戻されるのは死ぬほど恐ろしかったけど、結局はこの世界と関わって生きていかなきゃいけねぇんだ。

組織が私に与えてくれたのは逃げ場所じゃねぇ。戦う牙だ。」

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