第3話 不知 ――その①
「うぐあぁっ!!」
固いマットに背中から叩きつけられて、僕はもんどり打った。
息ができない。一瞬目が眩んだが、歯を食いしばって遠のく意識を引き戻す。
「オラ!どうした!BCL期待のサイト2号様はその程度かっ?」
いかにも楽しげに罵声を浴びせてくる狩谷くん。僕を投げ飛ばした張本人だ。
ここは体術修練場。射撃場に隣接していて、主に肉弾戦を想定した訓練に使われるらしい。
悠然と歩み寄る狩谷くんから逃れるため、懸命に飛び起きて距離を取る。まさかこの僕が格闘技の訓練をさせられるとは思っていなかった。
実力部隊の隊員としては当然なのだろうが、僕みたいな素人が、しかも同世代の学生と比べても見劣りするような身体能力しか持たない僕がいくら修練を積んだところで、使い物になるとは到底思えない。
「しゃあぁぁ!!うらぁ!!」
「・・・うっ、つうっ!!」
乱れ飛んでくる狩谷くんの拳に、僕は亀のように縮こまって身を守るのが精一杯だ。
型もそこそこに組み手に追いやられた僕は、目を白黒させながら狩谷くんの猛攻に晒されていた。
「はぁっ!!」
気合いと共に捩れる狩谷くんの下半身。タメの作られた左足がまさにこちら目掛けて飛んでこようとしている。
がしぃっっっ!!
瞬間、目の前が真っ白に弾けた。
ドスンと尻餅をついて、頭を混乱させたまま狩谷くんを見上げる。
蹴られてはいない。ということは、おそらく殴られたんだ。蹴りのフェイントに注意が引き摺られたところを狙われたのだろう。
「っらあぁぁぁ!!」
ドゴォォッッ!!
「ぐううっっっ・・・!!」
ここで渾身の左足。サッカーボールでも蹴るかのように低い位置の頭に襲い掛かったその蹴りを咄嗟に両腕で受け止めたものの、そのまま体もろとも吹き飛ばされ、僕はなす術無く地に転がった。
腕が痺れ、体を動かせない。
眼前に、腰を落とした狩谷くんの姿が覆い被さるように迫っていた。
引き絞られた右拳が僕に狙いを定めている。
「じゃあな。」
不吉な別れの言葉が、あどけなさが残るものの凶悪な形に歪められたその口から零れた。
(・・・あ・・・)
体中の血が沸騰したように熱い。一瞬が永遠へと引き伸ばされていく不思議な感覚に襲われる。
「そこまで!!」
鴉の鋭い静止の声に、狩谷くんの動きが止まった。
「ちっ、命拾いしたな。」
どっと噴き出した汗が滝のように頬を伝い落ちる。
鴉が止めなければ、あの拳は間違いなく振り下ろされていた。
彼に嫌われていることは何となく感じていたが、今のではっきりと分かった。
僕が死ぬことになろうと構わない・・・彼は本気でそう思っているんだ。
どんなに足掻こうと、僕の稚拙な防御では彼の拳を止めるのは不可能だった。彼と僕の格闘技能には、天と地ほどの大きな差があった。
嘲るような鴉の目は、しかし、地に這いつくばっている僕にではなく、狩谷くんに向けられていた。
「命拾いしたのはどっちだろうね。」
にべもなくそう言い放たれ、びくっと肩を震わせる狩谷くん。
「な、ど、どういう意味だよ。俺に制裁でもしようってのか?
訓練中の事故ぐらい珍しくねぇだろ。こんなんでくたばる程度じゃあ実戦に出てもどうせすぐに死ぬだろうよ。」
「それなら、止めないほうが良かったかい?ぼくとしてはキミがその“訓練中の事故”で命を落とすのが忍びなかったんだけど・・・遅かれ早かれ死ぬという覚悟なら、余計なお世話だったかな。」
「・・・俺が、だって?・・・殺されるってのか?こいつに?」
再び僕に向けられた狩谷くんの視線には、先程までは無かった戸惑いの色が混じっていた。
「冗談だろ!俺がこんなガキに殺られるか!」
食い掛かるように反論する狩谷くんに、鴉は小さく溜息を吐いて首を振った。
「ジン、キミも力の持ち主なら、自分で感じ取ってみるといいよ。今、龍さんがどんな状態なのかを・・・」
動悸の止まない胸を押さえる。吸って、吐いて・・・荒れた息を整えるため、僕は大きく深呼吸を繰り返した。
幻香とでも言ったらいいか・・・どこからとも無く立ち昇った潮の匂いが鼻の奥をくすぐる。体の内から溢れ出しそうだった海水は、しかし徐々にその水位を下げつつあった。
「・・・うあっ・・・」
怯えた表情でストンと腰を落とした狩谷くんと目が合った。
「ああっ!ひぁぁ・・・」
立ち上がる間すら惜しむように、マットに背中を擦りつけながら遠ざかっていく狩谷くん。
そんな慌てた様子が少し可笑しい。
「えげつねぇ力だとは聞いていたが、ここまでとはな・・・」
薄野さんの呟く声が聞こえた。アレクさんと組んで訓練中だった彼女だが、いつの間にか手を止めて遠間からこちらを窺っている。
僕は、もう少しでサイトを発動させてしまうところだったようだ。
人の精神を破滅に追いやる忌むべき力・・・ものの弾みで使っていい力ではない筈だが、それを押し留めるための防波堤が以前より随分低くなってしまっている気がする。
さっき、狩谷くんは地に倒れた僕の頭を上から殴りつけようとしていた。
いくらマットが敷かれているとは言っても、頭部が拳と地面の挟み撃ちにあえば本当に死んでしまうことも無いとは限らない。
そうでなくとも、何らかの後遺症が残ることだって考えられる。
しかし、それでも、力を解放して相手を殺さなければならない程の危機だったのか冷静になって考えてみると、今ひとつ自分を納得させられなかった。
意識的にサイトを使おうとした訳ではない。だが、黙って拳が振り下ろされるのを待つくらいなら狩谷くんを殺すことになっても構わない・・・と、あの瞬間そう思ったからこそ、僕の力は発動しかけたのではないか?
「ジン、これで少しは理解できたかい?ぼくが龍さんのことをサイトだと言った意味をよく考えておいてね。」
へたり込んだままの狩谷くんの脇をすり抜け、鴉が歩み寄ってくる。
「とは言っても、いつまでも抜き身の刀のままってのも問題かな。まあ、そんな龍さんもぼくには魅力的だけどね。」
言葉とは裏腹にまるで問題とは思っていないような表情でそう言うと、鴉は声を張り上げて鉄真を呼び付けた。
「マー!」
それを受け、水那方さんと稽古をしていた鉄真が鴉の前に進み出た。
「約束だったね、ぼくが力の使い方を教えるって。これからやってみせるから、ぼくのこと見ててね。」
屈託の無い笑みを僕に向けた鴉が、それと正反対の挑発的な視線を鉄真に送る。
「さあ、いつもと同じだよ。ぼくを倒すことができたら隊長の肩書きはキミに譲るよ。」
鉄真は言葉に出しては返事をせず、しかし重心を低くした独特の戦闘体勢でギラリと目を光らせた。
(・・・う・・・)
ぞくぞくと脇腹から寒気が這い上がり、肌が粟立つ。
治樹を相手にしてさえ余裕の表情だった。そんな鉄真が初めてみせる本気・・・その構えだけでも尋常でない威圧感を放っていた。
まさに怪物だ。この相手に鴉はどんな手立てで立ち向かおうというのか。
スルスルと滑らかな足運びで鉄真が鴉に近付いていく。
それに対し、鴉はその場にただ漫然と立ち尽くしていた。
鉄真の闘気を受け流すかのように、その立ち姿は奇妙な静けさを湛えていた。
さわさわとさざなみの音が耳の奥に渡来してくる。密度の違う不思議な空気が場に満ちているような感じがした。
歩を詰める鉄真の足取りは意外なほど慎重で、2人の間合いはまだ充分な余裕がある。
そう思った瞬間、バネで弾かれたように鉄真が一気に加速した。
届くはずが無いと思われた距離から一瞬で間合いを潰して放たれた右拳。しかし鴉は微塵も慌てる様子無く軽やかに身を翻してその一撃を躱す。
鉄真の攻撃は単発では終わらない。続け様に裏拳を繰り出し、鴉がそれを潜(くぐ)ったところを今度は膝で迎え撃つ。
自分目掛けて跳ね上がる鉄真の膝に両手を添えた鴉は、その勢いを利用しふわりと体を浮かせて間合いの外へと逃れた。
対する鉄真も即座に反応し、生じた距離を1足で詰める。
そのままラッシュを仕掛けた鉄真だが、鴉は右へ左へと木の葉のように身を逃がし、鉄真に切欠を掴ませない。
鮮やかな攻防だ。しかし・・・何だろう、一抹の違和感みたいなものを覚える。
鮮やか過ぎるのだ。
よく出来た殺陣を見ているような、とでも言えばいいか。息も吐かせない鉄真の連撃に対し、鴉の動きはあくまで緩やかだ。
あんなに優雅な動きでどうしてあの凄まじい攻撃を躱せるのだろう。次に来る技が鴉には分かっているのだろうか。
「気付いたかい?鴉はね、“力”を使って相手の攻撃のタイミングを読んでるんだ。」
僕の隣に並びかけてきたアレクさんがそう解説してくれた。
(・・・あっ・・・)
その言葉に、1つの疑問が氷解していく。
鴉は“力の使い方”を教えてくれると言っていた。鴉が“力”を使って鉄真の攻撃を捌いているのだとすれば、発動させているのは“心を読む”力ではないかと想像できる。
しかし、それで知ることができるのはあくまで相手の“心”だ。“思考”ではない。相手が次にどんな攻撃を仕掛けてくるのか知ることはできない筈である。
だが、“タイミング”ということであれば納得できる。
相手が攻撃を仕掛ける時の昂ぶりや緊張などを感じ取ることができれば、確かに防御として役立つだろう。
「格闘技の攻撃技術はね、大部分が初動を隠すために発達したものなんだ。体を揺すって、ステップを踏んで、あるいは重心移動の中に紛れ込ませて攻撃の気配を消す。
最も速い打撃技と言われるジャブの到達時間は0.1秒程度。パンチを出す意思決定をしてから筋肉を動かすまでの反応時間を0.2秒として、単純計算でも0.3秒のマージンがある。
つまり、相手の攻撃の意思を察知できれば、この約0.3秒の時間を自分のものにできるわけだ。
キミはゲームが得意だという話だから分かるだろ?0.3秒のラグがどれだけ大きな意味を持つか。」
確かに0.3秒をフレーム数に換算してみると、仮に格闘ゲームでそれだけのハンデを背負わされたら絶望的な気分になる。それだけのラグがあったら、例え相手が治樹であっても・・・いや、あいつになら勝てるか。少し例が悪すぎた。
「まあ、話はそこまで単純じゃなかったりするんだけどね。あれほど凄まじいコンビネーションで攻め立てられると、個々の技に対して攻撃意欲の高まりを読み解くのは相当難しい。加えて鉄真の打撃は軌道が多彩だから分かっていても食らってしまう。
BCLのメンバーで本気の鉄真を相手にできるのは鴉くらいさ。」
それはそうだろう。僕も力を使って涼子ちゃんの心に触れたことがあるが、あれを使ってパンチを躱せと言われても、単発ですら難しいように思える。
きっと鴉には僕とは違う次元のものが見えているのではないか。
ふと、鉄真の嵐のような攻撃が止んだ。
攻め疲れという訳ではないだろう。息が上がっている様子は全く無い。
重心をさらに低く、やや前掛かりの姿勢を取る鉄真。その両腕は左右に広げられ、見方によってはサッカーのゴールキーパーの構えにも似ている。
そのまま、鉄真がじりじりと歩を詰める。最初の攻撃を仕掛けた距離に達しても、今度は鉄真は一気に飛び込まずに、さらに少しずつ間合いを削っていく。
鴉が左右に動くと鉄真もそれに合わせて瞬時に同じ幅だけ動き、回り込むことを許さない。
(・・・っ、そうかっ)
次第に僕にも鉄真の狙いが分かってきた。鉄真はああやってプレッシャーを掛け続けて鴉を追い込むつもりなんだ。
鴉のやり方は、相手の攻撃を事前に察知し、その隙を突くというものだ。相手の方から攻撃を仕掛けてこなければ付け入る隙も生まれず“力”の優位性を生かせない。
お互いがずっと立ち尽くしていれば膠着状態が続くだけだが、鉄真はああやって徐々に間合いを詰めている。鉄真にしてみれば距離が無くなったところで鴉を掴まえて動きを封じてしまえばいいわけだ。
打撃を躱すのとは違って、予備動作の要らない近間からの“掴み”を躱すのはいかに“力”を駆使しても難しいように思われる。
プレッシャーに負けて飛び出せばそれこそ鉄真の思う壺だろう。まともにやって鉄真を打倒できる技が鴉にあれば別だが、ただでさえあの体格差だ。仮に格闘技術が同格だったとしてもこれでは厳しすぎる。
鴉にとって悪い要素しか浮かんでこない。
それでも、鴉の負ける姿なんて見たくなかった。圧倒的な暴力に対して、“力”を使って何ができるのか・・・その答えを見せて欲しかった。
少なくとも出だしにおいては鴉は見事にそれを体現してくれた。軽々と鉄真をあしらう姿に僕は確かに興奮を覚えていた。
しかし、鉄真は緻密な作戦で、その徹底したリアリズムで鴉の魔法を打ち破っていく。
僕の目の前で鴉は後退を余儀なくされ、ついには壁際まで追い詰められてしまった。
(・・・くっ・・・)
僕の思考はいつの間にか鴉の立場に置き換わり、この絶望的な状況からの逃げ道を必死に模索していた。だが、そのことごとくが最悪の結末を迎えてしまう。
絶体絶命だった。
退路を絶たれた鴉に向かい、鉄真はいよいよ勝負の趨勢を決定的なものにしつつあった。
もはや観念したかのように動きを止めた鴉。
石造りの壁にへばり付いた小さな体に、鉄真の両腕が猛然と襲い掛かる。
そして・・・
その瞬間に何が起こったのか、僕には全く理解できなかった。
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