第2話 正しさ ――その①

ジリリリリリ・・・


翌日の朝、僕はフカフカのベッドの中で目を覚ました。

モザイク文様の天井が目に鮮やかで、眠気はそれ程後を引かなかった。

モーニングコールは流石に頼まなかった。電話で起こしてもらうなんて、1人じゃ起きられない子供みたいで嫌だ。


ベッドから這い出て、洗面所で顔を洗う。

一点の曇りも無いガラスに映し出されるのは、見紛いようのない僕の顔だ。

どんなにしっくりこなくても、僕はこれなんだ。

なぜ、これが自分なのだろう・・・


何をすることもなく目を瞑り、思考を巡らせると、意識はどこまででも飛んでいける。

膨張する宇宙の最果てまでも、細胞の中、原子核の内側までも・・・

意識のみとなった自分は、客観的な視点を持った絶対神であり、ニュースに出てくる政治家たちに無能の烙印を押すことができる。テロリストたちの独善を暴くことができる。


だけど、こうやって鏡の前に立つと、それがただの錯覚であることを思い知らされる。

僕の意識は、いつだってこの肉の中に押し込まれていて、一歩も外に出ることなどできていないのだ。

政治家より無能で、テロリストより独善的で、臆病で意地汚い僕の現実の姿・・・それを外から見つめる純理性的な意識なんてものは、自分の小ささを受け入れられないがために生み出された幻想でしかない。

客観だと思っていたのは客観のフリをした主観・・・自分の欠陥を棚に上げた卑怯な主観に過ぎず、どこまで潜っても自分の中には客観など存在しないのだということを・・・

サイトを使っている時に感じる“もう1人の自分”も、元を辿れば他でもない僕自身なのだろう。

もしかしたら僕は、自分の罪過に耐え切れず、心の内に作り出した“彼”に全てを押し付けようとしているだけなのかも知れない。


カラン カラン


「朝食をお持ちしました。」

懐古的な呼び鈴と共に櫻井さんの声が聞こえて、僕は入り口のドアを開錠した。

「失礼いたします。おはようございます、白峰様。」

「あ、お、おはようございます。」

ワゴンに乗せられていたのは、瑞々しい桜色のハムと黄金に輝くスクランブルエッグ、香ばしいトーストに、湯気が立ち昇るホットミルクだ。フルーツが混ぜ込まれたヨーグルトも添えられている。

典型的な洋風スタイルの朝食。特段目新しさは無いものの、こうやって眺めただけでその上等さが窺える。

ただ、僕はその朝食に、1点だけ物足りなさを感じていた。

「あの、櫻井さん・・・」

「何でございましょう?」

「トマトジュースみたいなのって、あります?」

「トマトを主原料とした緑黄色野菜系のミックスジュースでしたらございますが・・・」

「えっと、できればトマトだけのものがいいんですけど・・・」

「申し訳ございません。今すぐにはご用意できませんが、今後はいつでも召し上がっていただけるようこちらの居室の冷蔵庫に常備いたしますね。」

「ありがとうございます。わがまま言ってすみません。」

「滅相もございません。他にもご要望がございましたらなんなりとお申し付けください。」

ここまで丁寧な言葉が返ってくると逆にこちらが恐縮してしまう。

僕なんか適当に接してくれればいいのだが、職業柄というやつだろうか。

「それでは、失礼いたします。」

テーブルに朝食を並べ終えた櫻井さんは、他の居室にも朝食を配給するらしく、ワゴンを押して部屋を出て行った。


「いただきます。」

手を合わせた直後に、僕は思わず苦笑した。

この部屋で今、僕は1人なのだ。食事の挨拶なんて必要ない。

涼子ちゃんがうちに来た頃は、いただきますの挨拶を口にするのが何だか新鮮だった。それがいつの間にか習慣として身に染み付いてしまっていたらしい。

「ははっ・・・」

漏れた笑いが乾いていることを自覚する。

肩に重いものを感じながら、フォークでスクランブルエッグを一掬いしたとき・・・


カラン カラン


再び呼び鈴が鳴り響いた。

「あの、お食事中の所申し訳ございません。」

櫻井さんの声に何事だろうと扉を開けると、1人の少女が勢いよく飛び込んできた。

「お兄ちゃ~~ん!一緒に朝ごはん食べよっ!」

「わ、わ・・・!」

慌てふためく僕のことなどお構い無しに、玲香さんはテーブルに駆け寄って僕の向かいの席を占領した。

入り口の傍では、櫻井さんが微妙な笑みを浮かべている。

「玲香様が是非白峰様と朝食を共にしたいと仰っていたものですから・・・その、ご迷惑でなければと思ったのですが・・・」

「あ、ああ、僕なら構いませんけど・・・」

「助かりました。ご許可いただきありがとうございます。」

安堵の息を漏らす櫻井さん。もしかしたらいつもこんな調子で玲香さんのわがままを聞かされているのだろうか。

「ねーねー、希ちゃ~ん、はやく~~!ご~は~ん~~!」

玲香さんにねだられながら櫻井さんが手早く配膳を済ませ、テーブルの上の皿の枚数は瞬く間に2倍に増えた。

「いただきまーす!」

給仕を終えて櫻井さんが部屋を出るなり、凄い勢いでフォークを行き来させて、トロトロの卵をいっぱいに頬張る玲香さん。

「もふもふ・・・ん、おいひぃー!おにいひゃんもはやくたべふぇよ。おいひぃーよ。」

「あ、うん、いただきます。」

ついつい今朝2度目のいただきますを口にした僕は、掬った黄身をそのまま舌に乗せた。

「・・・んっ!ホントにおいしい・・・!」

ふんわりとした感触と共に豊かな甘みが口内に広がり、自然と頬が緩んでしまう。

「んっん~、でしょ~~!」

玲香さんがまるで自分の手柄のように胸を張る。

「ところで、玲香さんって・・・」

「はいはい、ちょっとストップ!なに?その“玲香さん”って呼び方!レディに対して失礼なんじゃない?」

「え?あ・・・ご、ごめんなさい。」

確かに、いきなり下の名前で呼ぶのは失礼かもしれない。自分の中で太田先生と区別する意図もあったのだが、この娘は意外にもそういうところに厳しいらしい。

「じゃあ、何て呼べばいいかな?太田さん、とか・・・?」

「玲香ちゃん。」

「・・・」

えーっと・・・僕の記憶違いでなければ、“レディに対して失礼”という理由で呼び方を変えさせられている最中だった気がするのだけれど・・・

「ほら、練習!“玲香ちゃん”って呼んでみて。」

ちゃん付けが淑女を呼ぶマナーとして正しいかは知らないが、彼女がそれを望むのなら従っておくのが無難だろう。

「えっと、玲香、ちゃん・・・」

「なあに?お兄ちゃん。」

「・・・ていうか、その“お兄ちゃん”てのは何なの?」

「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。お兄ちゃん日本語知らないの?」

日本語を知っているからこその疑問である。彼女と話していると、本当に同じ日本語を使っているのか自信が無くなってきそうだ。

(お兄ちゃん・・・か・・・)

涼子ちゃんそっくりの容姿でそう呼ばれると、掴めなかった可能性が突然目の前に現れたような気がして、変な感覚になる。

(あの時“お兄ちゃん”って呼ばせていれば、なんて・・・)

そうしていたとしても、何も変わらなかっただろう。無意味な想像であることは理解しているはずなのに、些細な切欠でそこに引き戻されてしまう自分がいた。

「ほらほらお兄ちゃん。フォークが進んでないよ。ちゃんと食べないと大きくならないよ。」

「・・・うん、そうだね。」

「どうしたの?元気が無いよ?」

「そんなこと無いよ、元気だよ。心配してくれなくていいから。」

「何考えてるか当ててあげようか。」

玲香ちゃんはやけに自信ありげな表情をしている。折角一緒にご飯を食べていることだし、ここは1つ彼女の戯れに乗ってあげよう。

「え~~っ、ホントに僕が考えてること分かるのかなぁ。何だと思う?」

「涼子のことでしょ。」

「・・・」

僕はそんなに分かりやすい性格をしていただろうか?

むしろ“お前は何を考えているのか分からない”と言われた記憶しか掘り起こせないのだが・・・

「好きなの?涼子のこと。」

口に含んだホットミルクを吹き出しそうになったが、必死に堪えた。

そういえば、“分かりやすい”と言われたことが1度だけあった。同じような状況で無様に咳き込んで、涼子ちゃんに“分かりやすい反応”と言われたんだった。

「い、いやっ、好きっていうより・・・その、家族みたいっていうか・・・」

家族?・・・いや、それも違う。勘違いだ。勘違いだということに、昨日気付かされたばかりだった。

「ごめん、間違えた・・・居候だよ、ただの。家族みたいってのは、僕が勝手にそう思ってただけなんだ。」

そう説明する自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

1人でいるのには慣れていたし、期待し過ぎないことが僕の基本思考だった筈なのに、随分とおめでたい思い違いをしていたものだ。

「そんなことないよ!」

きっぱりと否定する玲香ちゃんの声が、僕の意表を突いた。

「涼子だって、お兄ちゃんのこと大切に思ってるよ。お兄ちゃんのこと大好きだって、そう思ってるよ。」

瓜二つの顔をしているといっても、玲香ちゃんは涼子ちゃんとは別の人間だ。なぜそこまで断言できるのか・・・

「どうして、そんなことが分かるの?」

「分かるよ。だって、涼子は私の妹だもん。」

何の論理性も見出せない玲香ちゃんの答え・・・しかし、今はそのむちゃくちゃな言葉に、ただ縋っていたかった。



--------



少し早めに部屋を出たので、携帯に入っていたミーティング予定時刻の10分ほど前に僕は会議室に着いた。

「おっ、早いじゃん。」

横手から掛けられた声に振り向くと、1人の女性が壁にもたれてこちらに笑いかけていた。

「アンタ、サイトなんだろ?すっげぇよな。」

薄野さんだ。昨日と同じで寒そうな格好をしている。上着を除けば夏と変わらない服装だ。

「えっと、あの・・・おはようございます。」

「アハハ、おはよー。これからよろしく。」

薄野さんみたいなギャルっぽい人の前に立つと、何となく自分が馬鹿にされているというか、見下されているような気がしてきて、どうにも落ち着かない。

「鴉の名前もアンタが考えたんだって?マジでびびったよ。」

「え・・・あ、そ、そのことなんですけど・・・」

先日の顔合わせで鴉がその事実を口にしたときにみんなが不可解な反応を示したことを思い出し、僕は薄野さんに理由を訊いてみた。

「鴉はな、自分の名を名乗らなかったんだよ。だから、みんなが勝手な呼び名であいつを呼んでたんだ。“隊長”とか“黒”とか色々あったけど、結局は“サイト”が一番通りが良かった。

でも、ちょっと前になって、あいつは急に自分を“サイト”と呼ぶのを禁止したんだ。みんな不思議に思ったけど、ちょうどその頃、あいつが新しいサイトを追ってるっていう噂が立ち始めたから、『そいつをBCLに迎え入れるための準備をしてる』ってのが定説になった。BCLのサイトが2人になったら、どっちが呼ばれたか分からないからだってね。

それで、これからあいつをどう呼ぶかってのがイグザミニーズで話題になって・・・あいつがどの呼び名を気に入るかの賭けも持ち上がったりして結構盛り上がったんだ。

けど、いきなりあいつは“自分のことは鴉と呼べ”って言い始めてな。」

にやっと笑う薄野さん。あけすけな所は新沼さんに通じるところがあるが、どことなく妖しい色気のようなものを感じる。

茶色い髪をかき上げると、ふわりと香水の香りが漂った。

「それが、アンタが付けた名前だっていうんだからなぁ。龍クン・・・だっけ?鴉はホントにアンタのこと気に入ってんだな。」

「はっ、あの隊長のことだ。ただの気紛れだろうよ。」

入り口の方から不意に声が掛かった。

敵意を露にした態度は忘れようも無い。狩谷陣くん、だったか・・・僕のどの辺りが彼の気に障ってしまったのか・・・

声の方に目を向けて見ると、そこにあった顔は昨日とは随分印象が変わっていた。

あの大きな痣が見当たらないのだ。

「隊長がこんな奴を気に入ってるハズがねぇ。いかにも世間知らずそうな間抜け面を晒してるただのガキじゃねぇか。」

ファンデーションか何かで隠しているらしい。こうして痣の無い顔を見てみると、存外すっきりした顔立ちをしている。こうなると毒づく口調の辛辣さだけが不釣合いに際立っているように感じられた。

「そーお?いいじゃん、純情そうで。カワイイ顔してるしさぁ。私は結構気に入ったよ。」

「お前は男なら何でもいいんだろ。尻軽女らしく早速新入りにコナかけてるって訳か。」

「自分が相手にされないからって拗ねてんじゃねーよ。寂しいなら今度相手してやっから黙っとけ。」

「んだとコラ!やんのかよ!!」


「やめろ、陣。見苦しいぞ。それに芹花、お前も挑発するな。」


2人の口論を遮るように現れたのは、鉄真だった。

凄みのある声に、沸騰しかけの空気が一気に冷まされた。

「ぐっ・・・だって、鉄真さん、こいつが・・・」

「やめろと言ったのが聞こえなかったか?」

苦し紛れに抗弁しようとする少年の言葉を封じて、鉄真がこちらを向いた。

冷徹な眼光に射抜かれ、足が震えそうだった。

しかし、彼には・・・鉄真には弱みを見せたくない。治樹を殺そうとした奴を前に頭を垂れるなんて、絶対にしたくない。

逃げそうになる目を気力で押さえ付けて、僕は鉄真に視線を返した。

沈黙が、危うい空気を2人の間に呼び込む。

「お、おい鉄真。なに妙な雰囲気出してんだ。龍クンも熱くなるなって。」

薄野さんが割って入ってきて両手をパタパタと振った。

「何でもねぇよ。ただの挨拶だ。」

意外と落ち着いた口調で鉄真がそう返す。

「貧相な見てくれに騙されるな。こいつはただのガキじゃねぇ。」

しかし、送られてくる視線が好意的なものと程遠いことは変わらない。


「羊の皮を被っちゃいるが、こいつは腹ん中にとんでもねぇ悪魔を飼ってやがる。反吐が出るくらいえげつねぇ奴をな。」

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