第1話 アジト ――その②

刹那、僕は強烈な違和感に襲われた。

(・・・違うっ!!)

違う・・・これは、涼子ちゃんじゃない!!


「ほら、玲香。はやく列に並べ。」

「は~い。」

アレクさんに促され、その少女はトコトコと集団のほうに歩いていく。

似ている。似ているけど、違う。

この娘のほうが涼子ちゃんより若干小柄で、顔付きもやや幼いだろうか・・・しかし、他人の空似というには不自然な程似過ぎている。

つい凝視してしまった僕の視線に気付いたのか、玲香と呼ばれた少女は列の中からこちらに目を戻し、にっこりと笑いかけてきた。

「お兄ちゃん、ここに来る前は涼子と一緒だったんだよね?玲香はね、太田玲香っていうの。涼子のお姉ちゃんなんだよ。」

えへん、と胸を反らすその表情は自慢げだ。

「え、お姉、さん・・・?」

というよりは、むしろ・・・

「あ~っ!今『どっちかって言うと妹だ』って顔した~~!!」

「い、いや、そういう訳じゃ・・・」

図星を突かれて思わず狼狽えてしまった。だが、今重要なのはそこではない。

「きみが・・・っ、お姉さんのきみがいるってことは、涼子ちゃんもここにいるの!?」

「・・・ふ~ん、そんなに涼子に会いたい?」

まじまじとこちらを観察する玲香さん。見透かすようなその瞳も、涼子ちゃんを強く思い起こさせる。

「いや、その・・・」

一瞬返答を躊躇う僕。そこに「残念だけど・・・」と口を挟んできたのは、鴉だった。

「カリスはここにはいないよ。彼女はむしろきみを連れ戻そうとする側だ。」

「か、カリス?」

「神谷涼子のことさ。」

連れ戻そうとする側・・・それを聞いて、急速に嫌な予感が膨らんだ。

「・・・っ、じゃあ、もしかして、今鉄真が戦ってる相手って・・・」


ばたんっ!


丁度その時、入り口のドアが乱暴に開かれた。

入ってきたのは、今しがた僕が名を口にしたばかりの鉄真だった。

「御堂(みどう)鉄真(てつま)。任務を終了し帰投した。報告は端末に送った通りだ。いつものように雑魚ばかりだよ。締め上げてみたが本丸にはかすりもしねぇ。当然、カリスもいなかったぞ。」

鉄真は僕のほうをチラッと見て、ふん、と鼻を鳴らした。

「あちらさんの手口だよ。武闘系の非合法な調査会社を表に立たせて自分たちの尻尾は掴ませない・・・うちとの直接的な衝突はここのところ無いから、小康状態とも言えるね。

君が懸念しているような、カリスとの直接の戦闘は、取り敢えずは起こらないと思ってくれていい。」

アレクさんがそう補足してくれる。

その説明に、僕は眩暈がしそうだった。大田先生も、涼子ちゃんも、色々と謎が多いとは思っていたが、話から漂ってくるきな臭さは想像を絶する。


「ちょっと話が逸れちゃったけど、自己紹介に戻ろうか。」

鴉がそう言った直後、突然傍らから声が湧いた。

「それじゃ、次は私かな?」

驚いて振り向いたものの、そこには人影など見当たらない。

「えっ?えっ?ええっ?」

きょろきょろと首を振り回していたら、薄野さんや玲香さんに大爆笑されてしまった。

狩谷くんも鴉も・・・果ては鉄真までが、にやりと笑いに顔を歪めている。

「ふふっ、彼女は後方任務を一手に引き受けるエージェントで、名前はクラウディーネだ。キミの携帯にもダウンロードされたBCLイグザミニーズ専用OS ”NAVIOUS”の開発者だよ。」

アレクさんがそう紹介するものの、当の本人の姿が見えないことには・・・

「携帯OSって・・・あっ!」

僕は慌ててポケットから携帯を取り出した。

「わぁ、すごーい!君って勘がいいね!」

携帯の中から声が聞こえてくる。画面にはピンク色の髪の可愛いキャラクターが映し出され、ひらひらとこちらに手を振っていた。

なるほど、通信を使って遠隔でこのミーティングに参加しているということか・・・この画像はアバターみたいなものだろうか。

しかし、さっきは耳元あたりから声が聞こえた気がする。まだどうも釈然としない。

「ふふん、不思議そうな顔をしてるね。」

キャラクターの女の子がピコピコ動き回りつつ携帯画面からフレームアウトした。

「ほーら、こっちだよ!」

再び、クラウディーネさんの声があらぬ方向から聞こえてくる。

「えっ?あれっ?」

「もー、ちゃんと追っかけてこないとダメだよ。ほら、携帯をこっちに向けてみて。」

言われた通りにしてみると、携帯の画面の向こうに透けるような感じでピンク髪の容姿が現れた。

「改めまして、私の名前はクラウディーネ。ディーネって呼んでね!」

呆然としている僕の表情を面白そうに観察しながら、この不思議な現象を耳打ちで説明してくれたのは、薄野さんだった。

「これはあいつの得意な悪戯だよ。携帯の位置情報を利用して画像と音声を制御することで、あいつはどこにでも存在できる。音声のほうはメンバー全員の携帯のスピーカーを使って立体音響を作ってんだ。」

これは面白い。まるでマジックショーだ。画像制御のほうは知られた技術ではあるが、複数の端末を利用して生成された立体音響が加わると、途端に魔法が掛かってアバターに命が吹き込まれたみたいに感じられた。

こんな愉快な発想をする人の顔を是非見てみたいものだが、ディーネさんがこの場にいないことに誰も言及しないところを見ると、彼女にはこういう出席の形が認められているのだろう。

「さて、俺の番だな。改めまして、アレックス・クロフォードだ。BCLイグザミニーズの副長を任されている。偉そうな肩書だがこんなもんは飾りだと思っていい。ランチでも何でも気軽に誘ってくれ。」

柔らかい物腰には、余裕のようなものが窺える。アレクさんはこのメンバーの中においては頼りがいのある年長者という印象だが、そう判断するのは早計だろうか・・・みんなのことをもっと詳しく知るまでは、安易に相談を持ちかけたりするのは危険かも知れない。


最後に、鴉が口を開いた。

「ぼくは鴉・・・って、名付けてくれた龍さんに言うのも変な話だね。BCLイグザミニーズの隊長だよ。

今ぼくはすごく気分がいいんだ。だってぼくはね、龍さんをこのアジトに招待できる日をずっと待ってたんだよ。初めて龍さんに会ったときからね。」

どこかうっとりしたような目で見上げてくる鴉に、僕は照れてしまい視線を外した。何をそこまで期待されているのかさっぱり見当が付かない。

こんなに期待値が高いと、逆にそれを裏切ってしまった時のことが今から怖くなってくる。

「それじゃ、夜も遅いし、この場はこれで解散にするよ。アレクは龍さんを彼の居室に案内して。」

鴉の一声でミーティングは打ち切られた。

僕はまだ若干呆然としたまま、アレクさんに連れられて部屋を後にした。


コンテナのような無骨なエレベータでしばし登ると、そこには先程までとは打って変わって綺麗に整備されたスペースが広がっていた。

話によるとこのフロアは居住区と言われる区画らしく、ここにメンバーの居室が集まっているらしい。

「どうだい?うまくやっていけそうかい?」

無言で歩く僕にそう問い掛けてくるアレクさん。

「あ、はい・・・」

反射的に答えたものの、頭の中は混乱し切っている。

「アレクさん。」

「なんだい?」

「BCLって・・・軍隊・・・なんですか?」

いつの間にか、自分の力は、自分の命は、思っていたよりずっと世俗的で血生臭い争いの渦へと巻き込まれようとしているのではないか・・・

『自分でも訳が解らんまま自棄んなって生きとる内に、いつの間にやら殺すか殺されるかの世界に足を踏み入れとったわ。』

いつか聞いた達治さんの話が思い起こされ、僕は身震いした。

そんな僕の不安をよそに、アレクさんがくくっと笑い声を漏らす。

「まあ、傭兵隊と言ってしまえば間違いではないが、BCLは基本的に研究所だ。俺たちのような特殊能力を持った人間によって構成される部隊が発揮するパフォーマンスの実地計測が目的の機関だよ。

何も戦争に駆り出される訳じゃないし、どうやら成果強調の意味合いもあるらしくてミッションの難易度はメンバーの能力に対し比較的低く抑えられてる印象があるね。」

アレクさんの説明にも、困惑半分といったところだ。何かしらの作戦行動に従事するという点では結局のところ変わりが無いように思える。

「ふむ、何が引っかかっているのかな・・・実際の作戦の中では、当然、人の命を奪わなければいけないことだってあるが・・・しかし、君はここに来る前に既に多くの人を殺めていると聞いたけどな。」

「・・・っ」

アレクさんの言葉がナイフのように僕の胸を抉る。

特に責めているような口調ではない。ただ単に事実を言っている・・・純粋な疑問を呈しているだけといった口振りだ。

その疑問はもっともだろう。僕は人を殺した。それも、尋常でない数の人を・・・本来なら僕がいるべきはこんな場所でなく、刑務所なのかも知れない。

「それとも、ターゲットになる相手のことを気に掛けているのかな?それなら全く心配いらないよ。クライアントの意向なのか分からないが、作戦で標的になるのは正真正銘のクズばかりだから。人身、ドラッグ売買のサプライヤーやバイヤー、詐欺グループのリーダーなんてのもいる。」

「クズだから、殺してもいいってことですか?」

「その辺の判断は君に任せるよ。まあ、俺がBCLに拾われた時にはそんな事考える余裕なんて無かったけどな。ここでやっていく以外の選択肢は無かったから、もし無茶な要求をされたとしても従うしかないと思ってたんだが、実際の待遇は拍子抜けするほど理性的だと感じたよ。」

話しながらアレクさんが肩を竦めてみせる。気楽そうに言ってのけてはいるものの、その言葉が示唆するものは決して軽くはない。当たり前かも知れないが、ここにいる人たちは皆それなりの事情を抱えていると考えたほうがいいかもしれない。

「そういう意味では、君には選択権があるという点で恵まれてると言えるかもね。君はあくまで仮所属で、脱退したくなったらいつでも脱退できるという話じゃないか。

まずは自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じてみるといい。そうして時間を掛けて、自分の納得する答えを探すといいだろう。

・・・っと、着いた。ここだ。」

1つの扉の前で、アレクさんが足を止めた。

「ここが君の居住室だ。そして隣が君の執務室。2つは中でも繋がっている。」

扉の向こうには、意外と長い廊下があった。アレクさんに先導されて、その奥へと踏み入っていく。

壁に施された彫刻、煌びやかなランプの明かり・・・内装は高級感に溢れていた。

アレクさんが突き当たりのドアを開け放つ。そこに現れた空間の格調の高さに、僕は圧倒された。

部屋中に散りばめられているこの象牙や大理石は本物なのだろうか、木目の美しいテーブルや椅子も、かなりの値打ち物に見える。

置かれたテレビはスクリーンのように大きく、その両脇には背丈ほどのスピーカーが添えられている。

あの如何にもフカフカしていそうなソファーは、テレビを見る時には特等席となるに違いない。

「お待ちしておりました。龍輔さん。」

何故か、部屋の中央で美しい立ち姿の女性がこちらに笑顔を向けていた。年齢は僕より上だろうが、アレクさんよりはやや若く見える。だいたい20歳くらいだろうか。

その身は漆黒のドレスと純白のエプロンに包まれている。

「紹介しておくよ、こちらはBCL専属家政官の櫻井さくらいのぞみさんだ。彼女にはきみの部屋を調えてもらっていたんだ。」

「初めまして、櫻井希と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」

「あ、は、初めまして。白峰龍輔です。えっと、これって、メイド・・・さん、ですか?」

「はい、メイドでございます。BCLの皆様のお食事の準備や、お洗濯、お部屋のお掃除など、家事全般を担当させていただきます。

至らない点が多々あるとは存じますが、ご不満がございましたらどんな些細なことでも結構ですので何なりとお申し付けくださいませ。

未熟者ではございますが精一杯努めさせていただきます。」

やたらと丁寧な挨拶にビックリして、僕はアレクさんのほうに振り返った。

「メ、メイドさんを雇ってるんですか?」

「ああ、彼女はBCLの作戦行動によって凋落した資産家の使用人でね。以来うちで仕事をしてもらってる。

それじゃ、俺はそろそろ行くよ。後のことは希さんに任せてある。明日以降の予定はきみの携帯に行くようになってるから、チェックしておいてくれ。」

そう言い残してアレクさんが部屋を出ていき、後には僕と櫻井さんの2人が残された。

「それでは、簡単にこの居室を案内させていただきます。」

バスルームやベッドルームのドアが開かれる度に、僕はその上質さに驚かされた。アレクさんの車から降りてあの入り口の鉄扉を見たときは、こんないい部屋に寝泊りできるなんて考えてもみなかった。

「こちらがクローゼットです。」

むしろドレスルームと呼んだほうがいいのではないかと思わせるほど大きなクローゼットの中には、センスのいい衣服が豊富に取り揃えられていた。

「拝見しましたデータを基に、白峰様のご嗜好になるべく合わせたお召し物をご用意させていただきました。」

いつデータを取られていたのかと思うと若干気味が悪いが、確かに店に展示してあったらつい手を伸ばしてしまいそうなものばかりだ。

「朝は時間を指定してくださればモーニングコールをお掛けします。それと、ご要望がございましたら夜伽のお相手も努めさせていただきます。」

(へぇ、モーニングコールね。まあ、僕はそんなに朝弱くないから、目覚まし時計さえあれば・・・)

一拍置いて、櫻井さんの言葉におかしな単語が混ざっていたことに気付いた。

「よ、夜伽!?」

「はい、皆様の心身をお慰めするのも私の役目でございます。」

ぜ、絶対に変だ、そんなの・・・自分の顔が真っ赤になっていくのが分かる。

「そ、そんな・・・そんなのダメだよ!体を売るなんて、そんなことっ・・・自分のことはもっと・・・その、大切にしないと・・・」

なかなか上手く言葉が出ない。僕の慌てる様子を見て、櫻井さんがふふっと笑いを零した。

「サイトであられるといっても、やはりまだ子供でいらっしゃるんですね。」

挑発なのかもしれないが、こういう言い回しで熱くなるような気性を僕は持っていない。僕が大人に程遠いのは自覚しているし、背伸びしても仕方が無い。

「皆様は大変優秀な方々ばかりでございますが、それでも作戦には常に危険が付き纏っておりますので、大きなストレスをお抱えになることもあるかと存じます。

ご存知ですか?ストレスを溜め込んだ部隊が凶暴性を増して残虐な行為に及んだ例なんて、いくらでも溢れているものですよ?

皆様の心身をお慰めし、ストレスによる暴走を未然に防ぐのは、むしろ人道的で意義深いお勤めであると私は心得ております。憐れみをいただくようなことは何一つございません。」

櫻井さんの口から発せられたのは、思いもよらない反論だった。

お金に任せて女性を意のままに従わせる・・・僕が持っていたそういうイメージとは全く別の考え方を突きつけられて、自分の常識が揺さぶられた。

この言葉は櫻井さんの本心なのだろうか?あるいは櫻井さんが自分自身を納得させるための言い訳に過ぎないのではないか?

僕が彼女の言葉を鵜呑みにできないのは何故なのか、考えてみる。

それは多分、そういう仕事は卑しいものだという認識が僕にあるからだ。

じゃあ、卑しい仕事って何だろう?

人を騙すこと?苦しめること?殺すこと?

だとしたら、その“卑しい”という基準に当て嵌まるのは、むしろ僕のほうではないか。

僕は人のことを言えた立場なのか?

「私はどのような形であれ、皆様のお役に立てることを誇りに思っております。」

確固たるものを感じさせる櫻井さんの言葉に、僕はようやく気付いた。

櫻井さんが言葉通り自分の務めに意義を感じているというのならば、僕が薄っぺらな同情を向けることは、彼女自身を貶めているのと同義になってしまう。

「ごめんなさい・・・あの、僕、そういうつもりで言った訳じゃ・・・」

「おやめください。別に謝っていただく類のものではございませんので。

私も言葉が過ぎました。どうぞお許しくださいまし。」

櫻井さんが微笑みかけてくれて、僕もほっと胸を撫で下ろした。

「それでは、今夜はどうなさいますか?早速夜伽をご希望なされますか?」

上目遣いで顔を覗かれて、僕の心臓は跳ね上がった。

「いや!いやいやいや!それはいいですから!その・・・これは僕のほうの問題っていうか、そういうのはまだ早いっていうか・・・」

「ふふっ、畏まりました。それでは今日はこれで失礼させていただきますね。明日からもよろしくお願いいたします。」

「あ、はい、こちらこそよろしくお願いいたします。」

平身低頭のようでいて、僕を諭しているのか、からかっているのか、どうにも掴み所の無い櫻井さん・・・彼女は最後に細心の行き届いた綺麗なお辞儀を残し、この部屋を後にした。



--------



疲れた体に、ジャグジーつきの湯船は格別だった。

白く曇った空気を吸い込みながら、僕はその心地よい刺激に身を委ねた。

今日という日は、余りにも多くのことがあり過ぎた。

僕の人生が大きなうねりの中に呑み込まれていく・・・そんな実感が全身を包む。

一つ一つ思い返して整理していくという作業を、本来であればしないといけないのだろう。

しかし、今は何も考えたくなかった。

脳裏に刻まれたあの光景・・・無闇に思い返すと心が壊れてしまうのではないかという恐怖が、僕の中にあった。


ガラッ


「お兄ちゃ~~ん!入るよ~~~!」

体を洗おうと湯船から出てバスチェアに腰掛けたとき、元気のいい声と共にいきなりお風呂のドアが開いた。

「うわあっ!!・・・き、きみは・・・玲香・・・さん?」

湯気が次第に晴れ、バスタオル一枚の肢体が鮮明になっていく。珠のような肌は艶やかに光沢を放ち、その美しさに意識が引き込まれそうだった。

「ご、ごめんっ・・・!!」

咄嗟に謝罪の言葉が口をついて、僕は慌てて背を向けた。

「背中流してあげるね!」

玲香さんは何の躊躇も無く浴室に踏み入ってきた。間を置かず、ボディーソープを染み込ませたスポンジが背中に当てられる感触があった。

「い、いや!いいって!自分でできるから!」

「もう、遠慮しないの。いいから私に任せて。」

その手付きは思いの外絶妙な力加減で、スポンジが滑らかに背中を動き回る。

「どーお?気持ちいいでしょ?さっちゃんとかも、一緒に入ったとき褒めてくれるんだ。」

「さっ・・・ちゃん?」

「水那方皐月ちゃんだよ。顔合わせの時にいたでしょ?」

僕がこれだけドキドキしているというのに、玲香さんは女友達と一緒にお風呂に入っている感覚らしい。

空いている側の手が、背中に添えられた。

「辛いこととかあったら、この玲香ちゃんに何でも言ってね。」

その一言を切欠に、涼子ちゃんと出会った頃の思い出が、猛烈な勢いで蘇ってきた。

(あの時も、涼子ちゃんがいきなりお風呂に入ってきて、ビックリしたんだよな・・・)

涼子ちゃんは今頃どこにいて、何をしているのだろうか・・・

コーヒーでも飲んでるのかも・・・角砂糖とミルクを1つずつ入れた、香り立つキリマンジャロを。

そういえば、あの部屋が空っぽだったってことは、デパートで買ったあの服はどうしたのかな。

あれも持っていったのかな。

・・・まさか、たまに着てたりするのかな?

姿見で恥しそうに着付けを確認する様子を想像しながら、僕は笑うつもりだった。

だけど、込み上げてきたのは笑いではなかった。

「お兄ちゃん、どうしたの?・・・泣いてるの・・・?」

「・・・何でもない・・・何でもないんだ・・・」

みっともないと思いつつも、滴り落ちる熱い雫をせき止めることができない。

(くそっ、泣いてどうなるっていうんだ!)

感傷に振り回される自分の心の弱さが腹立たしくて、僕は唇を噛んで必死にそれに抗おうとした。


その時、突然、背中がふんわりとした温かいものに包まれた。


肩越しに細い腕が巻きついているのを見て、僕はようやく抱きしめられたのだと気付いた。

「大丈夫だよ、玲香がついてるから。泣かないで・・・」

普段の僕ならば、女の子にこんな格好で密着されたら間違いなくパニックになるところだが、体を覆うその感触は不思議と僕の心を落ち着かせてくれた。

玲香さんの体躯の小ささを考えると、今の状態はまるで僕が彼女をおんぶするような格好になっていることだろう。

それでいながら子供をあやすように呼びかけられたのが何だか可笑しくて、僕はやっと、笑うことができたのだった。

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