第二波

第1話 アジト ――その①

ヴー、ヴー、ヴー、ヴー・・・


携帯が鳴っている。治樹からの電話であることを僕は直感していた。


ヴー、ヴー、ヴー、ヴー・・・


むず痒いバイブレーションが胸の奥にまで響いてきて、不快だった。

出ることはできない。出られる訳がない。先程別れを告げたばかりの彼と、一体どんな会話を交わせばいいというのか。


薄暗い道を、僕は鴉の背について歩いていた。落ちかけの太陽が振りまく赤い光は次第に濃紺に溶け、世界は暗澹たる黒に沈みつつあった。


ややあって、ようやく携帯が鳴り止んだ。留守番電話に繋がったのだろう。

これ以上電話が掛かってくることに僕の心が耐えられそうにない。しばらく経った後、僕は携帯の電源を切った。

その瞬間、聴いたことのないメロディーが手元で鳴り響いた。

「わっ!」

僕はビックリして携帯を取り落としそうになった。

電源を切ったにも関わらず、画面には今までと全く違うマリンブルーの明かりが点っている。

その中央にいきなりメッセージウインドウがポップアップした。

『Hello, Ryusuke! BCLにようこそ^o^)ノシ』

何が起こっているのかまるで分からない。僕の理解を超えることがこの携帯の中で進行している・・・気味の悪さに身震いしながら、僕は呆然と自分の携帯を眺めた。

ふと顔を上げると、鴉がこちらに悪戯っぽい笑みを向けていた。

「驚いた?」

そう尋ねてくる少年のしたり顔に、僕は少しだけほっとした。

「これは・・・きみの仕業?」

「ぼくの、じゃないけどね。ぼくらの仲間にそういうのに詳しいのがいてね。こっそりその携帯にアクセスして、シャットダウンシーケンスを乗っ取っておいたんだ。」

嬉々として手品のタネを明かしつつ、鴉は言葉を続けた。

「これからその携帯は僕らのチームの専用通信端末として使ってもらうから。

前のOSとかデータは全部消しちゃったよ。GPSもオフになってる。」

「へぇ、なるほど・・・凄いね。」

確かに良くできている。じっくり見てみると結構カッコいいこの操作画面もそうだが、シャットダウンシーケンスが起動のトリガーになっているところなどは、弄ばれているような気さえしてくる。

起動操作の実行をユーザーに委ねる・・・周囲との繋がりを遮断することを選んだのは、あくまで僕自身という訳だ。

「元に戻してくれ・・・とは言わないんだね。」

鴉が興味深そうに僕の顔を覗き込む。

ああ、今のはもしかしたら携帯の中身を勝手に変えられたことを怒るべきところだったのかもしれないな・・・と、人事ひとごとのようにそう思った。

「そっか、そうだね・・・でも、悪いのは迷いを捨てきれない僕のほうだから。」

そう答える僕はどんな顔をしていただろうか。

「それは殊勝な心掛けだね。」

鴉は変わらず笑みを浮かべている。その微笑はどことなく超然としていた。

自分もあんな風に、現実を飛び越えた存在になれたらどんなにいいか・・・ちょっとしたことで苦しんだり、悲しんだり、すぐに逃げ出そうとする弱い自分がどうしようもなく嫌だった。

まあ少なくとも、携帯の仕掛けによって僕は今までの現実から強制的に切り離されたらしい。GPSまで切られたというなら警察でも僕を追うのは困難かもしれない。

そこまで考えた時、ふと気に掛かったことがあった。

「もしかして、この仕掛けをする前から僕の携帯にアクセスとかしてた?」

鴉は少しだけ目を見開くと、その笑みを一層深くした。

「龍さんって、結構頭働くほう?」

「えっと、そんなことは無いと思うけど・・・」

推理というほどのものではない。追跡を躱す為にGPSを切ったというのであれば、逆に彼らからすれば僕の携帯を頼りに僕の所在を探ることは造作もなかっただろうと思っただけだ。

「ぼくらは力を持つ者同士である程度相手の存在を感じられることもあるけど、距離的な制限もあるし、不確実性が大きいからね。携帯GPSってのは便利なトレーサーさ。」

それにしても・・・と呟いて、鴉は僕を見つめた。

「こういう状況でも頭が回るってのはいいことだよ。やっぱり龍さんは面白いね。」

くつくつと笑いつつ、鴉は懐から見たことも無い携帯端末を取り出した。

「そう、常に考えを巡らせておかないと、誰に出し抜かれるか分からない・・・」

僕の体にその携帯を近付けて探るように動かす鴉・・・首を傾げる僕の耳に、ピピピッという電子音が届いた。

「おっと、やっぱりか・・・」

呟きながら次に鴉が懐から出したのは、小振りのナイフだった。

物騒な光沢に僕は思わず後ずさりする。

鴉は構わず僕のジャケットの裾を掴み、いきなりそのナイフを一閃した。

「・・・っ!」

本能的に体が硬直する。

しかし、痛みが到来することは無く、僕の体には傷1つ付いていなかった。

ほんの少しだけ、僕のジャケットが被害を受けたようだ。その小さな切り口に指を入れ、鴉はそこから欠片のようなものを取り出した。

マイクロチップ・・・だろうか。なぜ僕の制服からそんなものが出てくるんだろう。

「発信機・・・ね。こういう保険を用意してるんじゃないかと思ったよ。」

(・・・は、発信機??)

それはつまり、僕は監視されていたということではないのか。

誰に?いつから?

いや、それより、どうやってこれをジャケットに仕込んだんだろうか。

少なくとも僕がこれを着ている間は不可能に思える。

だとすれば・・・これが脱ぎ置かれている時に仕込まれたとすれば、発信機を入れたのは・・・

「はい、マー、これ。」

鴉が鉄真に発信機を投げ寄越す。

「マーはここに待機。状況に対処して、終了後にアジトへ直接帰投すること。」

「ああ、分かった。今回は遠慮せずにやっていいんだな?」

口角を吊り上げてそう問う鉄真。禍々しさすら漂うその表情に、ぞわぞわと鳥肌が立った。

さっき僕はこんな奴と対峙していたのか・・・改めて思い返すと嫌な汗が手に滲んでくる。

「構わないよ。好きなだけ気晴らしするといい。ただし、向こうのエース級が出てきたら直ちに現場を放棄。・・・2度は無いからね。」

「ちっ・・・分かったよ。」

ぶっきらぼうに返事して踵を返す鉄真。その背が徐々に小さくなっていく。

「・・・大丈夫なの?さっきのは彼が囮になるってことでしょ?」

傍らの鴉に聞いてみる。僕の服に仕込まれた発信機を持ってあの場に残った彼にどういう“状況”が訪れるのか、想像に難くなかった。

追っ手が来るということなのだろう。だとすると、鉄真が受け取った発信機を頼りにするに違いない。その只中に1人残るというのはいくらなんでも無謀な気がした。

「大丈夫さ。マーはあれで無能じゃない。彼は徒手格闘の天才なんだ。」

無能だなんて微塵も思っていない。運動神経の塊のような治樹を子供の如くあしらったのだ。僕も怒りで我を忘れていなければ向かっていこうなどとは考えもしなかっただろう。

しかし、それでも、鴉が“天才”という言葉を使ったことが僕には少し驚きだった。

あの鴉にそこまで評価される程の技量というものが、俄かには想像できない。

ともあれ、鴉がこれほど自信を持って送り出したのならば、心配は無用なのだろう・・・そう思っていても、僕は不安を拭い切ることが出来ずにいた。そもそも僕が心配しているのは自分の身であって、間違っても鉄真ではない。

僕は今、追われているのだ。

僕を追っているのは一体何者だろうか・・・追っ手にとって、僕は保護の対象なのか、それとも、攻撃の標的なのか・・・

木々の枝葉が擦れる音、犬の遠吠えなど、感覚器に届く些細な刺激の一つ一つが、いちいち僕の神経を磨耗させてゆく。

どこかの物陰から無慈悲な銃口が僕に狙いを定めている・・・そんなイメージが勝手に湧いてきて、ひりひりと肌が焼け付きそうだった。

「怖い?龍さん。」

「い、いや、その・・・うん、少し。」

僕は素直に認めた。鴉相手に適当な誤魔化しなど通じる気がしない。

どの辺りがツボだったのか分からないが、小さく声を漏らして笑う鴉。

「そういう普通の感覚を無くしてないのが、龍さんの一番面白いところだよ。サイトでありながら普通でいられるって中々凄い事じゃないかな。」

鴉の言うことは、僕には不可解だった。

鴉のほうが余程凄く思える。歳に不釣合いな風格を感じさせるこの少年は、鉄真のような人間に平然と指示を出して落ち着き払っているのだ。

一体どんな人生を送ったらこのような貫禄が身に付くのか・・・

そんな謎多き鴉のことはさておき、僕が普通だという評価も間違っているように思う。

僕は普通に満たない人間だ。

せめて普通の水準に達していれば、周りの人間を傷つけることも無かっただろうし、こうして鴉の背を追ってはいなかったに違いない。

今のままではいられない。だから、今までを捨てるんだ。

顔を上げ、つま先に力を込めて、僕は鴉に並びかける。

嬉しそうにこちらを見上げた鴉は、僕の手を取って足を弾ませた。



しばらく歩いていると、やがて僕らは国道沿いに出た。

この辺りの交通の要となっている幹線道路だけあって、多くの車が引っ切り無しに脇をすり抜けていく。


ブロロロロロォーーーーン


一際ドスの利いたエンジン音が傍らで鳴り響いた。

何事だろうと振り向いた先には、一目で高級車と分かる車高の低いダークグレイの車がゆっくりと路肩に寄って来ていた。

凄い車だなと思っていると、いきなり後部座席のドアが跳ね上がるように開いた。

その車に、鴉は僕の手を引いたまま何の躊躇も無く歩み寄り、さも当然の如く後部座席に乗り込んだ。

「ほら、龍さんも乗って。」

(・・・えっ・・・えぇっ・・・・?)

状況が理解できていない僕が促されるまま鴉の後に続いて座席に座ると、車は一気に速度を上げ、無数のヘッドライトが織り成す光の小川へと舞い戻った。

「やあ、君が龍くんかい?」

バックミラー越しに運転手と目が合った。

スタイリッシュなブラウンヘアーに端正な顔立ち、ブルーのサングラスの奥の目は柔和ながらも、その瞳には鋭い光が秘められているように感じられた。

「えっと、その・・・そうです。」

正しくは龍輔なのだが・・・おそらく鴉から僕のことが伝わったのだろう。そのまま呼び名が踏襲されているようだ。

「俺はアレックス・クロフォード。アレクと呼んでくれ。」

「アレクさん・・・ですか。」

「敬称は無くてもいいんだが・・・日本人には年上の人間に敬称を付けないと落ち着かないっていう人もいるらしいからな。好きに呼ぶといい。」

流暢な日本語だけれども、彼は日本人では無いらしい。

薄暗い車内ではよく見えないものの、ミラーに写ったその目鼻立ちは確かに日本人のものよりくっきりとしている。

「ところで、鴉、これは一体どこに向かって・・・」

そう問いながら隣を見やると、呆れたことに鴉はスヤスヤと寝息を立てて眠りこけていた。

なんとも暢気な寝顔だ。こうやって寝顔を見ている限りでは普通の子供となんら変わらない。まるで子猫ようにあどけない表情をしている。

「今日は色々と疲れただろう。君も眠っていて構わないよ。心配しなくても君のことは責任を持ってしっかりアジトまで連れて行くから。」

優しく声を掛けられたものの、眠れるわけが無い。こんなに神経がささくれ立っていては気を休めることなんてできない。

その筈だったが、自分が思っている以上に疲れていたのか、ふかふかのシートに身を沈めていると、しばらくして急速に瞼が重くなり始めた。

ハーブの一種だろうか・・・甘やかなカーコロンの香りが鼻をくすぐる。

(西原・・・治樹・・・新沼さん・・・)

みんなの顔が、次々に頭に浮かぶ。霞がかった思考は纏まらずに霧散し、やがて僕の意識は夢幻の波に呑まれていった。



--------



「それじゃ、新しいBCLの仲間を紹介するね。」

鴉の声が室内に響く。

僕と鴉とアレクさんを含め、6人の男女がその部屋に集まっていた。

年齢は様々だが、アレクさんより上に見える人はいない。最年長は20歳半ばといったところか。


「さあ、着いたよ。」

アレクさんの呼び掛けで目を覚ましたのはつい先刻のことだ。

剥き出しの岩壁に囲まれた駐車場を明々と屋内灯が照らしていた。

車を降りると、目の前に待ち構えていたのは物々しい鉄製の扉だった。

扉を潜った先には細く入り組んだ通路が張り巡らされており、アレクさんの先導が無ければ間違いなく迷っていただろう。

整備されているのは足元だけ。他は先程の駐車場と同様ゴツゴツとした岩に囲まれていた。


やがて辿り着いたこの部屋には僕ら以外の3人が先に待機していた。

1人はやや退廃的な空気を漂わせている茶髪の女性。ホットパンツにキャミソールという、この時期にはおよそそぐわない格好で、上にはゆったりとした厚手のカーディガンを羽織っている。

1人はショートカットの女の子。明るい笑顔が印象的な娘で、キラキラと好奇心に満ちた眼差しをこちらに注いでいる。

そして、もう1人は・・・

目を向けた瞬間、漏れ出そうになった悲鳴を僕はすんでのところで押し留めた。

年の頃は僕と同じくらいに見える。挑発的な目でこちらを睨んでいるが、それ自体は鉄真ほどの迫力があるわけではない。

問題は、表情ではなく、皮膚だった。彼の顔の右半分は、火に炙られたかのように黒ずんでいた。

怪我・・・だとしても、新しい傷では無さそうだ。変色して機能を失った真皮が真っ当な表皮の再生を阻んでいるのだろう。

「ジン。服務中は痣を隠すように言ってなかったっけ?」

たしなめるように鴉が言う。

「分かってるよ。けどこれは顔見せってんだからレクリエーションみたいなもんだろ?」

「全く、しょうがないなぁ・・・まぁ、今回だけは許してあげる。それより早く紹介に移ったほうがいいかな。」

鴉の手がすっと僕の胸元に差し向けられた。

「話には聞いてると思うけど、彼が龍さん。BCL2人目のサイトだ。」

BCL・・・先程もその単語を聞いたが、それがチームの名称だろうか。何の略かは想像が付かない。

それにしても、どうやらここでもサイトという言葉は特別な意味を持っているらしい。鴉が口にしたときのみんなの反応が明らかに違っていた。

「そうそう、今の僕の“鴉”って名前は、この龍さんが付けてくれたんだよ。」

鴉がそう言った途端に、室内が大きくどよめいた。僕がサイトであると告げられた時よりも彼らの動揺はむしろ大きいくらいだ。

呼び名1つがそれ程重要な問題なのだろうか?

「それじゃ、みんなにも軽く自己紹介してもらおうか。」

鴉の指示を受けて、まずは茶髪の女性が声を上げた。

「どーも初めまして。私は薄野すすきの芹花せりか。これからよろしく。」

繁華街などで見かける奔放そうな女性たちと同じ空気がこの人からは感じられる。

僕の知り合いにはそういうタイプはいないので、何となく萎縮してしまう。

次に名乗り出たのは、ショートカットの女の子だ。

「私の名前は水那方みなかた皐月さつきですっ。趣味は・・・ん~っと、スポーツ全般が好きです!空き時間とか一緒に遊ぼうねっ!」

見た目の印象通り、溌剌とした挨拶だ。陰湿な地下の空気を吹き飛ばすような元気さに、僕の心は少し和んだ。

続いて、痣の少年が口を開く。

「俺は狩谷かりやじんだ。ちっとも使える奴に見えねぇが・・・まあいい、無能な奴は死ぬだけだしな。面倒だから死ぬときは俺の関わらないところで死んでくれよ。」

多分に毒気の含まれた言葉が突き刺さってくる。水那方さんの挨拶で折角心が軽くなったのに、一気に不安の渦の只中へと引き摺り下ろされた。僕を待ち受けている厳しい現実を暗示しているかのような言葉だ。


ギィ・・・


思考に耽っていると、不意にドアが開け放たれた。

「おい!遅いじゃないか!」

アレクさんの叱咤が響く。

入り口に姿を現した華奢な少女は、そんな注意の言葉などまるで気に留める様子も無く、悠然と部屋に歩み入った。

(ま、待って・・・そんな筈は・・・)

「うちは問題児ばかりだからね。」

苦笑しながら呟く鴉。目の前の光景が僕には信じられなかった。

何故・・・どうして、こんな場所に・・・


涼子ちゃんがいるんだ!?


つい昨日まで、涼子ちゃんは僕と一緒に暮らしてて、それで、今朝いなくなってて・・・

訳が分からない。

心残りな別れかたをした。もう2度と会うことは無いかもしれないと、そう思っていた。

その涼子ちゃんが、こうやって僕の目の前に立っている。

言いたいこと、訊きたいこと、色々あった筈だった。しかし、実際にこうして涼子ちゃんを前にしてみると、頭が真っ白になってしまい、何も考えることが出来ない。


目が、合った。


涼子ちゃんの表情に微笑が浮かび、やがてそれは弾けんばかりの飛び切りの笑顔に変わる。

その唇が、言葉を紡いだ。


「お帰り!お兄ちゃん。」

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