第3話 強さ ――その②

病室から飛び出した智子は壁に体をぶつけた反動で方向転換し、そのまま廊下を突っ走る。

「ちょっとあなた!院内の廊下は・・・」

すれ違った看護婦の小言も智子の耳には届かない。

エレベーターを待つ時間ももどかしく、智子は階段を2、3段飛ばしで駆け下りた。

病院のエントランスを抜けて外に出る。薄暗い路地を智子はただひたすら走った。

「はあっ!はあっ!はあっ!はあっ!」

自分の行動が正しいかなんて分からない。今はもうそんなことを考えるのはやめよう。

あたしはあいつを連れ戻す。そしてあいつには、あたしが心のケジメをつけるのにとことん付き合わせてやる。

そうしないと、きっとあたしはここから前に歩き出せない。

そう、これはあいつのためじゃない、自分のためだ。

智子は力を振り絞って地を蹴り続けた。19:00に間に合わせるのは相当厳しいが、諦めるという選択肢は無い。

心許ない街灯の明かりは路面を照らし切るには不充分で、無我夢中だった智子は歩道の切れ目に足を取られた。

「・・・ぐっ・・・!!」

体が宙に浮き、直後、アスファルトに叩きつけられる。

(う・・・くそっ・・・みっともねぇ・・・)

擦れた膝を立てて起き上がりながら智子が思い浮かべたのは、体育祭の徒競走でゴールに転がり込む白峰の姿だった。

あの時のあいつは、みっともなさなんてものともしなかった。体裁を気にすることなく、ひたむきに前を目指していた。

あれが、あいつの強さの正体なのかもしれない。

あいつには絶対負けたくない・・・軋む手足を強引に振り回し、智子は走った。

(間に合えっ!間に合えぇぇっ!!)

全力疾走だ。ペース配分などというものは頭から消え去っていた。

「ぜぇっ、ぜぇっ、かはっ・・・!」

とうに呼吸器官は悲鳴をあげており、息をするのもままならない。窒息死しそうなほどの苦しさの中でも、智子は足を緩めなかった。


電車での8分を含む学校への道のりの中で、最短時間を目指すならば必ず通らなければならない道がある。今日、病院に向かう時は避けた道だが、今は遠回りする余裕など無い。

その道・・・石畳の並木道に、智子は差し掛かろうとしていた。

燃えるように熱くなっていた体が一気に冷める。

気が付くと膝がガクガク震え始めていた。

不気味な暗がりが辺りを覆う中、智子はたった1人でこの道に入っていかなければならなかった。

(何を躊躇う必要があるってんだ!怖がる理由なんてねぇだろっ!昨日神谷に連れられて戻ってきた時には、もう道は綺麗になってたじゃねぇか!!)


綺麗に・・・綺麗になる前、路面は一体どんなもので汚されていたのか・・・


智子の目には、狂った景色がこびり付いていた。

赤い液体を撒き散らしながら、地に伏し転がる人、人、人の群れ・・・

半開きの眼を宙に彷徨わせて、能面のように表情を失った顔の幾つかは、こちらを向いたまま固まっていた。

いや・・・いやだ・・・見るなっ!こっちを見るな!!

記憶と現実の境が段々怪しくなってくる。

吐き気を催すにおいまでもが鼻腔に蘇った。

(やめろっ・・・来るな!・・・死んでんだよもう、お前らはっ!!)

思うように足が動かない。智子は拳を太股に打ち付けて引き摺るように歩を進めた。

「くそっ、動けっ!!動けよっ!!」

じっとりとした空気が纏わり付く。

「・・・ひっ!!」

首筋を撫でた風が冷たい指の感触に変わり、智子の首をゆるりと締め付けた。

ズタズタに切り刻まれた無数の青白い腕がミミズのように追い縋ってくる。

まるで悪夢だ。もしかしたら、あの時から自分はずっと夢を見ているのではないだろうか。

ダメだと思いつつも、一度浮かんだその考えは、智子を捉えて離さなかった。

夢・・・そう、これは夢だ。白峰のことも、兄貴のことも、全部夢なんだ。

(はは・・・そうだよな。あるわけ無いんだ。あんなこと・・・)

家に帰ったら、きっと兄貴が何も無かったような顔をして、優しい笑みで迎えてくれるんだ。『おかえり、智子。よく頑張ったね』って、そう言って励ましてくれるんだ・・・


目の前の闇が一層深くなり、巨大な壁となって智子の行く手を遮る。

智子はもう、足を前に踏み出せなくなっていた。


「たすけて、兄貴・・・」

無意識に漏れたその声は、智子自身も聞いた事の無い響きを含んでいた。



--------



約束の時間を目前に、治樹はうっすらときらめく星空を眺めていた。

ここは旧校舎の屋上。涼子の言った通り、本当に鍵は掛かっていなかった。

神谷涼子・・・一体あいつは何者なのか・・・

正体を明かさない涼子に対し、治樹の不信感は募っていった。

あいつはどうやら知っているらしい。今、龍輔が何に巻き込まれていて、どうやってあれほどのことを成し得たのか・・・

本来なら、胸倉を掴んででも真相を聞きだすところだ。どれほど実力差があろうと関係ない。

だが、涼子は俺たちに協力を依頼してきた。『龍輔さんを連れ戻す』と言って・・・

どうもあいつは俺たちに手伝いをさせるだけさせて、最小限の情報以外は寄越さないつもりのようだ。

気に食わない、気に食わないが、それで龍輔が戻ってくるなら堪えるしかない。

龍輔のことについては是が非でも真実を知りたい。しかし、龍輔に辿り着くためにはある程度従順にならざるを得ない・・・そんなジレンマに治樹は陥っていた。

「智子さん・・・だっけ?あの娘、まだ来ないね。」

隣に腰掛けていたゆうみがそう声を掛けてきて、治樹は疲れたように項垂れた。

「そうだな、来ないな。」

そう、智子のことも気掛かりだ。涼子が言うには、智子はもう帰ったらしい。

それが智子の選択というのなら、口を挟むべきではないかもしれない。

自分だって100パーセントの確信を持って涼子への協力を決めた訳では無いのだ。

本当にこのまま涼子の要請を受け入れてもいいのか・・・この期に及んでも治樹は迷いを断ち切れていなかった。

自身がこういう状態なのに、智子に声を掛けたとしてあいつの助けになれるのか?余計に困惑させてしまうだけではないか・・・

「・・・くっ、西原!携帯を貸してくれ。」

それでも治樹は、智子をこのまま放っておくことはできなかった。

「あ、うん。」

ゆうみから受け取った携帯で、治樹は智子に電話を掛けた。


トゥルルルル・・・トゥルルルル・・・


『ただいま、電話に出ることができません。ご用件のあるかたは・・・』


ピッ


「くそっ!!」

智子は電話に出てはくれない。

(ったく、どいつもこいつも・・・電話に出ねぇんじゃ携帯の意味ねぇじゃねぇか・・・)

自分が携帯を持っていないことを棚に上げ、治樹は心の中でそう毒づいた。

「心配だよね、智子さんのこと・・・」

何やら思案しながらゆうみが話しかけてくる。

「?・・・ああ、まあな。」

そのおかしな雰囲気に首を傾げる治樹。

ややあって、ゆうみが意を決したように口を開いた。

「鈴掛くん、すぐに智子さんのところに行ってあげて。」

「はぁ?何言ってんだ!もうあと数分で7時になるのに行けるワケねぇだろ。」

「大丈夫。私は1人でも何とかなるから。昨日の智子さん、何か思い詰めてるみたいだったし・・・彼女のほうが心配だよ。」

「いや、ダメだ。お前を1人にはできねぇ。」

「でも・・・!」

西原は頑固に主張したが、治樹が首を縦に振る事は無かった。

「とにかくダメだ。あいつの状況は大変かも知れねぇけど、普通に考えれば神谷涼子に付いていくほうがよっぽど危ないんだ。それに・・・」

唐突に肩をがっしり掴まれ、ゆうみはドキリとした。

「俺は、別れ際に龍輔からお前のことを任されたんだ。お前に何かあったら龍輔に顔向けできねぇ。」

「えっ・・・白峰くんが・・・?」

思い掛けない言葉が、ゆうみの胸中に衝撃をもたらした。

鈴掛くんと・・・親友と別れる差し迫った場面で、彼は私の名前を口にした。私のことを気遣っていた・・・そう言うのだろうか。

(何でっ、私のことなんか・・・白峰くんのほうがよっぽど大変なのに、私のことなんかどうだっていいじゃない!)

何と表現すればいいか分からない。色んな感情が綯い交ぜになってこんこんと湧き上がり、溢れ出しそうだった。

自分の情動を持て余しながらも、心を落ち着けようと必死に胸元を押さえるゆうみ。

「それに・・・」

そんな彼女に向けて、治樹が言葉を続ける。

「智子が・・・あいつが来ないってまだ決まった訳じゃねぇだろ?」

一縷の望みを、治樹は捨て去ってはいなかった。


そして、ついに午後7時を迎えた、ちょうどその時・・・


ガチャッ


屋上の入り口のドアが開け放たれた。

「・・・っ!智子!?」

思わず叫びながら治樹が立ち上がる。

しかし、そこに現れたのは智子ではなかった。気の強い性格を象徴するような目元は智子に似ていると言えなくは無いものの、彼女とは全く異なる真っ黒な艶髪の持ち主である小柄な少女が、扉の影から歩み出てきた。

その姿を確認したゆうみがぽつりと呟く。

「あ、涼子ちゃん・・・」

涼子はゆうみと治樹の顔をじっと見ると、今度は周囲の何も無い空間に目を泳がせた。

「ここにいるのは、西原先輩と鈴掛先輩の2人だけですか?」

「・・・ああ、そうだ。」

涼子の問いに、治樹が渋々肯定を示す。

「それでは、これで決まりですね。私の協力要請を承諾したのは西原先輩と鈴掛先輩の2名・・・」

「ち、ちょっと待ってくれ!もうちょっとだけ待ってくれないか?」

堪らず治樹は猶予を乞うた。

「待っていたらどうなるんですか?智子さんが遅れてここに来るという連絡でも受けてるんですか?」

「いや、その・・・」

「どちらにせよ無理ですね。私は19:00にここにいるようにと確かに伝えました。それが守れない時点で話は終わりです。

こっちも遊びでやってるんじゃないんです。先輩がたも甘い考えは捨ててもらえるとありがたいですね。」

その物言いに一切の容赦は無く、治樹は二の句を継げなかった。

「別に強制じゃありませんから、新沼さんが協力しないという選択をするのも自由です。先輩がたはむしろ自分の心配をしたらどうです?協力いただくからには、気を抜いていたら身の安全は保障できませんよ?」

涼子の言う通りだった。

自分たちはこれから龍輔の奪還という重要な目的を果たさなければならないのだ。そのためにはしっかり前を見据える必要がある。いつまでも後ろを振り返っているわけにはいかないだろう。

しかし、それでも治樹は、すぐには割り切ることができないでいた。

(本当にこのままでいいのかよ・・・智子っ・・・・!)

協力しないにしても、沈黙を決め込むなんてのはあいつのやり方じゃない。堂々と正面から啖呵の1つくらい切ってみせてこそ、智子というものだ。

智子が心配されたり、見限られたりしたままで終わる事に、治樹は屈辱に似た感情を覚えていた。

そうじゃない!あいつはもっと強い奴だ!・・・その事を、治樹は智子自身に証明して欲しかった。

しかし結局のところ、智子は来なかったのだ。いくら納得がいかなくても、現実が突きつけられたからには治樹も諦めざるを得なかった。

(今はそれどころじゃねぇ。あいつの事は・・・後回しだ。)

俺はあいつに強さを求め過ぎているのかもしれねぇ・・・治樹は自省の念に駆られた。

この機会に、あいつはゆっくり休めばいい。

誰にだって逃げたくなる時はあるんだ。あいつにとっては辛い事が続いてる訳だし、ここは俺たちだけで頑張って、あいつに楽をさせてやろうじゃないか。

「それじゃ、改めて確認しますけど・・・」

諦念を浮かべた治樹の顔を見て、涼子が問い掛けてくる。

「私に協力いただけるのは、西原先輩と鈴掛先輩の2人という事でいいですね?」

もう治樹には否定する理由が残されていない。

隠し切れない脱力感に肩を落としつつ、治樹は口を開いた。

「ああ、それで構わな・・・」


ガチャッ!!


勢いよくドアを開く音が夜闇に響いた。

コンクリート打ち付けの外壁を冷たく照らす白銀の月明かりの下に姿を現したのは、金色の髪を振り乱しつつ絶え絶えの息で喘ぐ、1人の少女だった。

「智子っ!!」「智子さん!!」

治樹とゆうみが口々にその名を呼ぶ。

智子はふらつきながら涼子の方に歩み寄ると、力尽きたように大の字に寝転がった。

「大丈夫かっ!智子!」

慌てて駆け寄った治樹に僅かな笑みだけを返し、智子は涼子を見つめた。

「ぜえっ、はあっ、ぜえっ、はあっ、私も、ぜえっ、お前、に、はあっ、協力して、ぜえっ、白峰を、連れ戻すっ。」

やっとのことで智子が紡ぎだした言葉を聞いて、治樹の胸に歓喜が込み上げてきた。

やっぱり俺は間違ってなかった・・・どうだ!これが智子だ!こいつは強い奴なんだ!

体力的に恵まれている筈の智子が立てないくらい疲弊しているのを見て、彼女がどれほど必死に戦ったか治樹には痛いほど分かった。

(よくやった!よく頑張った!)

心の中で称揚を繰り返す治樹。

安堵の言葉がその口から漏れた。

「よかった・・・間に合って・・・」


「間に合ってないです。」


間髪入れず、涼子が口を挟んだ。

綻びかけた治樹とゆうみの表情が一気に凍りついた。智子は半ば予想していたかのように軽く目を瞑る。

「智子さんの到着は19:03です。3分過ぎてます。私言いましたよね、19:00を過ぎた時点で話は終わりだって。」

「なっ!・・・だ、だけど、さっきまだ最終確認の途中だったじゃねぇか!そこに智子が入ってきたんだ!俺はまだお前の確認に答え終わってなかった。ギリギリセーフだろ!!」

「確かに最終確認の途中でした。19:00に間に合った鈴掛先輩と西原先輩が私に協力するか、それとも思い直して辞退するかについてね。新沼さんについては、あの時点ではもう対象外です。」

「・・・くっ・・・!」

歯軋りする治樹の代わりに、今度は智子が口を開いた。

「すま・・・ない、あたしが、迷ったから、あたしが弱かったから、間に合わなかった・・・

神谷、お前、言ってたよな。白峰は、強いって・・・

ここに来る途中・・・足が、動かなくなって、前に進めなくなって、ようやくお前の言ってた事が、本当の意味で、理解できた、気がする。

あいつは、あんな悲惨な世界にいて、それでも、戦ってたんだな。

兄貴にした事は、許せねぇ・・・許せねぇけど、あたしは、あいつを連れ戻したい。お前に、協力させてくれないか。頼むっ・・・!」

必死に声を絞り出しての懇願にも、涼子の態度は揺るがなかった。

「19:00に集合するというのは、最初にクリアすべき前提条件なの。あなたはそれに間に合わなかった・・・」

「たった3分だろ!!」

横から口を挟んだ治樹を涼子がキッと睨んだ。

「いい加減にしてください!甘い考えは捨てるようにと何度言ったら分かるんですか!実際の作戦ではその3分の遅れがチーム全員の命を危険に晒すことだってあるんですよ?軽い気持ちで付いてこられたら逆に迷惑です!!」

語気を荒げてそう怒鳴りつけてから、智子に視線を戻す。

「いい?今回のようなことがあると、あなただけじゃなく周りのみんなを巻き込む事態に繋がる可能性だってあるの。だから・・・」

説教じみた口調で苦言を呈すと、涼子は智子に向けて徐に手を差し出した。


「これからは気を付けて。」


一瞬、智子は涼子の言葉が何を示唆しているのか分からなかった。

しかし、次第にその意味が理解されるにつれ、智子の胸はじんわりと熱を帯び、やがて全身を高揚感が支配していった。

「ああ、分かった。よろしく頼む。」

涼子の手をしっかり握って、身を起こす智子。

「あはっ!何だよ神谷涼子。もったいぶってんじゃねぇよ!」

治樹などは大はしゃぎで涼子の背中をバンバン叩いた。

「いった!ちょっとやめてください!・・・全く、緊張感の続かない人ですね。」

「ありがとう涼子ちゃん!ホントにありがとう!」

謝辞を繰り返すゆうみの目尻には涙さえ浮かんでいる。

「感謝するのはまだ早いですよ。せいぜい後になって協力要請を受け入れた事を後悔しないよう、気を引き締めておいてくださいね。」

目の前の喜びようを見ると、涼子はそう釘を刺さずにいられなかった。

我ながら随分甘い判断を下したものだ・・・自分がこの3人に毒され始めているような気がして、どうも面白くない。

個人的な感情は別として、3人の協力を取り付けるという任務は結果的にほぼ完全な形で達成された事になる。

けれど、この任務はC01を取り戻すまでの道のりにおいて、ほんの1歩目に過ぎない。むしろこれでようやく作戦がスタートするのだ。

「本時刻一九○六、鈴掛治樹、西原ゆうみ、新沼智子、以上3名の作戦への参加を、各位の同意をもって確定します。」

涼子が堅苦しい言い回しで宣言し、場の空気が俄かに張り詰める。

順々にその覚悟の表情を確かめて、涼子は1つ頷いた。


「まず、最初に皆さんに行っていただく任務は・・・」


3人は固唾を呑んで、涼子の発する言葉に耳を傾けた。







―――― 波間 (第一波~第二波) 完

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