第3話 強さ ――その①
その日、帰宅したゆうみは両親の不安げな顔に迎えられた。
時刻は夜9時を迎えようとしていた。
遅くなるとの連絡を入れてはいたものの、明確な理由も告げずに平日の帰りがこんな時間になる事は今まで無かったのだから、両親が心配するのも当然のことだった。
「今日は大目に見るが、もしこんなことが続くようなら下校中の寄り道については色々考え直さなければいけないな。」
ゆうみの父親などは夕食中にしかめ面しくそう説教してみせた。
「ごめんなさい・・・もうしないから。」
しかし、謝罪を口にするゆうみは完全に上の空だった。
頭の中を色々なことがぐるぐる回っている。たった今父親に言ったことも、これからを考えると守れる気がしなかった。
涼子ちゃんは白峰くんを助け出すと言った。
あの時確かめたかったのは、白峰くんに対する涼子ちゃんの気持ち。私の質問に対する涼子ちゃんの回答は、それを知るのに充分なものだったように思う。
その涼子ちゃんが落ち着いていることが、僅かながらの救いに感じられる。白峰くんの状況が差し迫ったものだったら、涼子ちゃんはあんなに冷静ではいられない筈だ。いられる訳なんて無い。
部屋に戻った後も、ゆうみはしばらくぼーっとしていた。
どうにも現実感が薄く、ふわふわ浮いているような心地がする。
これまでの日常が突如音を立てて崩れ去ったのだ。今自分がいる世界はどういうものなのか・・・以前は思い浮かべることも無かったそんな疑問が胸に巣食い、不安がこみ上げてきた。
こんなんじゃいけない・・・ゆうみは両手で自分の頬をパンと叩いた。
しっかりしないとダメだ。できる限りのことをして白峰くんを連れ戻す・・・その為には、何が起こっても最善の選択ができるような心構えを作っておかないといけない。
コンコン
「ちょっと入っていいか。」
「あ、うん。」
ドア越しに聞こえてきた兄の声に、ゆうみは少しほっとした。
西原孝毅・・・9つ歳の離れたこの青年は、ゆうみにとって自慢の兄だった。
成績優秀、スポーツ万能の兄は学生の頃から世間でも評判だった。友人との噂話の中にも兄の名がちょくちょく顔を出し、紹介して欲しいと頼まれたこともあった。
それほど人気があるのも当然のことだとゆうみは思う。
今は兄は警視庁に所属している。部署や役職など詳しいことは知らないが、治安を守り市民を助ける仕事は兄に相応しい。兄は常にゆうみの心の中のヒーローだった。
「どうかしたの?お兄ちゃん。」
隅のベッドにゆっくりと腰掛けた孝毅にそう尋ねたゆうみだったが、兄の来訪の目的には心当たりがあった。
親と意見が食い違って関係がぎこちなくなったり、悲しいことがあったり・・・そんな時、兄は決まって優しい言葉を掛けてくれた。
今日も自分を心配して来てくれたのだろうことをゆうみは疑わなかった。
「いや、今日はどうしたのかなと思って。何か悩みがあるなら聞くよ。」
柔らかい声色からは、余計なプレッシャーを感じないようにという配慮が感じられる。
「・・・ごめんなさい。友達と色々話をしてたらつい時間を忘れちゃって。これからは気を付けるから。」
「・・・そうか。」
ゆうみの誤魔化しに対し、孝毅は何の不満も示さなかった。
あくまでゆうみが話したくなるまで待つ・・・その寛大さもゆうみが兄に心酔している大きな一因だった。
「お兄ちゃんって、今どんな事件担当してるの?」
「前にも言ったかも知れないけど、そういう情報は家族にも漏らしたらいけないんだ。ごめんな。お前を信用してない訳じゃなくて、それが規則だからね。」
「あ、そんな、私こそ・・・」
思わぬ謝罪の言葉にゆうみは慌てて首を振った。
「お前にも色々と話せないことがあるのは分かってるつもりだよ。」
もしかしたら、私が相手の秘密を引き合いに出して自分の悩みも打ち明けられるものではないことを暗に主張したと、そう思ったのだろうか・・・そういう兄の気の回し方はやや過剰ではないかと感じることがゆうみには時々あった。
「ところで、この前うちの学校で、その・・・集団飛び降り事件があったじゃない?あれって今どうなってるの?」
いかにも無関係の思い付きを装って訊いてみる。
「ん?あの事件か・・・あれについては俺も報道されてる以上のことは知らないけど、刑事事件としては大体カタがついてるよ。屋上でドラックに興じていた連中が集団催眠に陥って暴挙に出た・・・背後で連中に薬を回していた暴力団組員も検挙されたし、これはあまり出していい情報じゃないけど・・・捜査本部も近々解散するみたいだからな。」
それを聞いて、ゆうみはほっと胸を撫で下ろした。ここで安堵するのもおかしな話だと思うが、それが正直な心情だった。
「あの事件がどうかしたのかい?」
「いえ、別に、どうもしないけど・・・」
ゆうみの反応に、孝毅は覗き込むような視線を送ってきた。
「何か知ってることがあるなら教えてくれないか?噂話とか、些細なことでいい。裏を取るのは俺たち警察の仕事だから。」
頼もしい兄の言葉。いっそのこと全てを兄に委ねてしまったほうがいいのではないかという考えが頭を過ぎる。
「本当に何でもないの。あれだけの出来事だったからちょっと気になっただけで。」
しかし、ゆうみはそうしなかった。
『警察が信用してくれたとして、その際に殺人犯として扱われるのは、あなたの大事なお友達ではないの?』
刹那、涼子の言葉がゆうみの脳裏に浮かんだからだ。
兄を信じていないわけではない。しかし、真実の解明がいつでも幸福に繋がると考えるほど、ゆうみは子供ではなかった。
「そうか、まあ、悩みがあったら何でも相談してくれ。」
そう言って部屋を出る孝毅の背中を、ゆうみは少しの後ろめたさを抱きながら見送った。
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翌日の放課後、治樹が智子の教室を訪れた時、そこに智子の姿は無かった。
「何か用ですか?」
背後からの声に、治樹は慌てて振り返る。
「な・・・か、神谷涼子。何でお前がここにいるんだ。」
「何でって、ここは私の教室ですから。そこに立たれてると邪魔なんですけど・・・鈴掛先輩こそ、私に用が無いんだったらどうしてこんなところに?」
「俺は智子に会いに来たんだよ。」
「ああ、新沼さんですか・・・彼女ならもう帰りましたけど。」
「・・・あいつは、何か言ってたか?」
「いえ、今日は彼女とは話してませんし。」
「・・・そうか・・・」
治樹は、苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
あいつが協力しないというなら、それはそれでいいかもしれない。神谷涼子の言うことが信頼できるとは限らない訳だし、どんな危険が待ち受けているかも分からない。智子の判断の方が正しい可能性は充分にありうる。
だけど・・・
治樹が心配しているのはそこではなかった。
あれを見てしまってからのあいつはまるであいつらしくない。いつもの智子なら、あんなか細い声で猶予を求めたりなんてしない。
まるで人が変わってしまったかのような智子の様子が、治樹は気掛かりでならなかった。
もしかしたら、智子は心に大きなトラウマを抱えてしまったのではないか・・・昨日の地獄さながらの光景を思い出すと、それは充分に有り得ることに思えてくるのだ。
「それにしても、私は新沼さんを買い被ってたみたいですね。多少思い込みは激しくても、真実から逃げずに1歩を踏み出せる人だと思ってましたけど・・・あれくらいで心が折れるなんて、ちょっと失望かも。」
「そんなんじゃねえっ!!」
咄嗟の大声で注目を集めてしまい、治樹は1つ咳払いをした。
周囲に気を配って声を潜めつつ、それでも治樹は反論を続ける。
「そんなんじゃねえ。心が折れたとか、あいつはそんな弱い奴じゃねえよ。」
智子が道場を去っていった日のことを、治樹は思い出していた。
だるくなったとか、もう飽きたとか、あいつはそんなことを言っていた。しかし、後から知ったことだが、それは暴力を受けていた同級生を助けるための決断だった。
格闘技を習得する者は日常生活でそれを武器として振り回してはならない・・・自分と智子が通っていた道場は特にそういうところに厳しかった。
あれは、智子なりのけじめだったらしい。自分の行動には徹底して筋を通す・・・それが智子という人間なのだ。
「あいつがどう答えを出すにしても、そのときはきっと前をしっかり見据えているさ。中途半端に逃げるなんて、あいつは絶対にしない!」
「だといいですけどね。」
そっけなく応じながら、涼子は肩を竦めた。ついでに、その答えが“協力しない”というものであってくれたらなおいい。任務とはいえ、ずぶの素人を作戦に同行させることに、涼子はどうも乗り気になれなかった。
西原先輩と鈴掛先輩・・・既に2人も厄介者を抱え込んでしまっている。これ以上足手纏いが増えるのは、正直勘弁して欲しいというのが本音だった。
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智子は、純一の病室にいた。
窓から差し込む赤みがかった光が、眠りこけている兄の頬を優しく撫でる。
指でそっとその前髪を払うと、天使のように無垢な寝顔がそこにあった。
「ねえ、兄貴。あたし、どうしたらいいかな。」
兄の口から返ってくるのは穏やかな寝息の音ばかり。
「復讐したい?兄貴をこんなにした奴が憎い?」
あの日、病院に駆け付けたとき、目を覚ました兄が発した最初の一言を、智子は忘れることができない。
『お姉ちゃん。誰?』
地面が揺れて、膝が崩れそうだった。胸の奥から吐き気と共にぐつぐつと煮えたぎるものが込み上げてきた。
許さない・・・絶対に許さない!兄貴をこんなにした奴はもう殺すしかない。どこに隠れていても必ず引きずり出して殺してやる!!
兄貴をこんなにした奴・・・それは程なく見つかった。
しょうもないチンピラに囲まれてカツアゲされていた弱々しい少年こそが、智子の探し求めていた犯人だった。
兄貴をやったのがこんなに女々しい奴だとは信じたくなかった。暴力を向ければ成す術無く吹き飛んでいきそうな少年にどう向き合えばいいか分からず、苛立ちをぶつけることしかできなかった。
どちらかといえばあいつも被害者の1人だろう。あいつの立場からすれば一方的に責められる筋合いは無いのかもしれない。
なのに、あいつは、あたしの言葉を正面から受け止めた。無視することもできた筈なのに、律儀にあたしの八つ当たりに付き合い続けた。
(ホント、バカだよな、あいつ・・・)
龍輔に対する印象のうち、貧弱という言葉は、もう智子の中から消え去っていた。
彼は彼なりの強さを持っているということを智子は認め始めていた。
ふと、自分の中で彼への感情が変化していっていることに気付く。智子はそれが怖かった。
あたしはもっと、あいつを憎むべきじゃないのか・・・
『私たちの目的は、龍輔さんを連れ戻すこと』・・・神谷はそう言っていた。神谷に加担し、白峰を助け出すことは、兄貴に対する裏切りになるんじゃないか・・・そう思うと、智子は兄の側を離れることができなかった。
ちらりと時計を見る。時刻はもうすぐ18:30になろうとしていた。今から学校に向かったとしても19:00には間に合いそうに無い。
もう、終わったんだ。
あたしは兄貴の側にいることを選んだ。それを間違ってるとは思わないし、誰かに非難されるものでも無い筈だ。
なのに・・・何でこんな気持ちになるんだろう・・・
(くそっ・・・何だってんだ!)
頭を抱えて項垂れる智子。正体不明の焦燥感が智子の心を苛んだ。
「ん・・・うんっ・・・!」
聞こえてきた微かな呻き声にハッとなって兄の様子を窺う。
悪い夢でも見ているのだろうか。純一は苦しそうにうなされながら、額に汗を浮かべていた。
「兄貴っ!大丈夫だよ。あたしが付いてるから。」
智子はハンカチを取り出すと、純一の顔を丁寧に拭った.
「・・・ん・・・すぅ・・・」
労るように優しく布を押し当て、汗を吸い取っていくと、やがて純一の表情は安らかさを取り戻し、呼吸も穏やかに落ち着いた。
今でも兄のこの姿を見ると、やり場の無い怒りが智子の心に巻き起こる。
そうだ、兄貴の味方はあたししかいない。1年前、怪我をした兄貴に親父が掛けた無神経な言葉を聞いて、あたしは決意したんだ。兄貴を理解しない親父、親父に阿るお袋・・・みんなが兄貴を見放しても、あたしは、あたしだけは、兄貴を絶対に見捨てないと。
だから、あたしは行けない。行くわけには・・・
不意に、兄の汗を拭っているハンカチに気が留まった。
『えっと、新沼さん。さっき見慣れない男子がこれを新沼さんにって届けに来たんだけど・・・』
数週間前、そう言うクラスメイトに手渡されたハンカチだ。
見覚えのあるハンカチ・・・当然だ。渡されたのは自分のハンカチだったのだから。
それを意識した途端に、ハンカチが手元を離れた前後の出来事が、智子の脳裏に鮮明に蘇った。
あたしに襟首を締め上げられ、壁に押し付けられながらも、あいつはこれをあたしに差し出してきた。
あいつだって苦しい筈なのに、あたしの涙なんかを心配してやがった・・・
その時、智子の中で、何かが弾けた。
純一の手を取り、両手でぐっと握る。
「兄貴!ごめんっ・・・ちょっと行ってくるね。心配しないで。あたしはこれからも兄貴の味方だから!」
眠り込んだままの兄にそう言葉を掛け、智子は猛然と走り出した。
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