第2話 依頼 ――その①

その日、あらたは純白のシーツに覆われたベッドの上で目を覚ました。

窓越しに見下ろす大地に広がる緑の毛布は、自分が今いるベッドよりもふかふかと心地よさそうな見栄えで新の心をいざなう。

(・・・あそこじゃない。)

自分が帰るべきところは別にある。

新はむくりと身を起こすと、両の手を閉じ開きしてその感触を確かめた。

思い通りに動く。こんなのはいつ振りだろう。

ずっと“彼”に閉じ込められていた。無視され、存在を否定され続けてきた。

でも、そんなのは全部無駄だった訳だ。自分はついに存在を取り戻し、今こうして自由を得ている。


さあ、いらっしゃい。早く帰っておいで。


柔らかな声が、そう呼び掛けてくる。

そうだ、こんな所でぐずぐずしている理由は無い。

「・・・帰ろう。」

すぐさま部屋を出てエレベーターで1階まで降りた新は、聳え立つ巨塔を後にし、閑散とした朝闇の中へと歩み出した。


目の前に広がる世界は、いつも遠くから眺めていたものだ。しかし、こうやって肌で感じる世界はまるで別物で、8年ぶりに細胞の1つ1つが蘇ってくる心地だった。


目的地までは電車の乗り継ぎを含む遠路を経なければならなかったが、道順は全て“彼”が知っていたので、迷う事は無かった。

眼前にはだだっ広い砂浜。朝日を孕んだ海はその白い指で岸辺をなぞる。

全ての命が生まれた場所。そして、全ての命が還る場所。

新自身が還る場所も、ここ以外には考えられなかった。

新はゆっくり歩を進めた。さくりさくりと靴底が沈み、まっさらな砂のキャンバスに一筋の足跡が描かれていく。

水面が徐々に近付くにつれ、体の奥から熱いものが迸り出てくるのを新は感じていた。


どくん どくん


心臓の打ちつける音が全身を支配する。無駄な感覚がそぎ落とされ、まるで自分が命そのものに変わっていくようだ。

何という皮肉だろう。生きるのに必要なものは残らず魂から抜け落ちてしまったとばかり思っていたのに、間際に立ってこれほどまで自分の生を体感させられることになるとは・・・

命などという無意味なものに、未だに縛られている・・・それが可笑しい一方で、酷く苛ついた。

でも、それも今日で終わりだ。もうすぐ存在から解き放たれ、霧散して世界と溶け合う。

今まで決して自分を受け入れることの無かったこの世界と、同一になる。

(大丈夫。何も怖くない。)

大海原は母の懐・・・だからきっと、この暴走する熱を包み込み、やさしく鎮めてくれる筈だ。

打ち寄せる波の音が耳に染みる。その音のみに意識を集中すると、心を拘束する様々な枷は次第に融解していった。


「ごめん、待たせたね。」


新は澄み切った笑みを浮かべ、浜を洗う穏やかな水へと足を踏み入れた。



--------



龍輔の家の玄関前。ひっそりとした佇まいから漏れ出る光は無く、治樹は小さく舌打ちした。

分かっていた事ではあるが、龍輔の在宅は期待できそうにない。

その場に立ち尽くす2人。完全に八方塞がりだった。

吹き荒ぶ木枯らしは2人の体温を徐々に奪い、かじかむ手に吹きかける息が白く濁る。

「鈴掛。あんたは・・・白峰と会ったら、何を話すつもりなんだ?」

ぽつりとそう問う智子。

その声は普段の活き活きとした張りを失っており、相手から答えを得ようとする明確な意図すら感じられない漠然とした調子だった。

「そんなもん会ってから考えるさ。とにかくあいつに会って、首根っこ掴んででも連れ帰るんだ。」

龍輔の事を信じ切っているのだろう。その口振りは、智子のものとは対照的に力強い。

一方、智子は、龍輔を手放しでは信じられずにいた。

これまで智子が見てきた龍輔は、あんな残酷な事ができる人間ではない。

だからこそ、智子は事態の異常さを意識せずにいられなかった。

普段の彼の優しげな表情と、今しがた目にした光景が、どうしても1本に結びつかない。

あの光景を生み出した時、そこにいたのは果たして自分の知っている白峰だったのか?

再び龍輔と相見えたとき、彼が以前とは全くの別人に成り果てているのではないかという懸念を、智子は拭い切れなかった。


そのとき、タッタッタッという小刻みな足音と苦しそうな息遣いが、2人の耳に届いてきた。

振り返ると、そこには、息せき切って駆け寄ってくるゆうみの姿があった。

「に、西原!・・・来たのか・・・」

「鈴掛くんっ!・・・何が、あったのっ!?白峰くんがどうかしたの!?」

物凄い勢いで治樹に詰め寄るゆうみ。

「ああ、その、だな・・・」

不意打ちで現れたゆうみに応対する心理的な用意が治樹にはできていなかった。

「ちょっと、連絡が取れなくて・・・その、大事は無いと思うけど、念の為というか・・・」

「うそっ!それだけだったらこんな時間に家にまで来たりしないでしょ。ちゃんと教えてよ!ねえ!」

お茶を濁す治樹に、ゆうみがそう畳み掛ける。真っ直ぐな彼女の目は、一切のごまかしを許してくれそうにない。

ガリガリと頭を掻いて、治樹は諦めたように首を左右に振った。

「分かった、話す。頼むから落ち着いて聞いてくれよ。」

他ならぬ龍輔のことである。いずれはゆうみに説明しなければならないと治樹も考えてはいたのだ。

慎重に言葉を選びながら、治樹は事の経緯を説明した。

智子の兄である純一の許に3人で見舞いに行く途中、得体の知れない連中に取り囲まれた事。自分と智子は気絶させられ、目覚めたときに龍輔が黒服の少年に連れ去られるところを目撃した事。龍輔を連れ去った連中にはとりあえず龍輔に危害を加えるような雰囲気は感じられなかった事・・・

そのとき目の当たりにした周囲の光景については言及しなかった。というより、できなかった。

ゆうみの心情を慮ったという面もあるが、何より治樹自身の恐怖が、あの惨状に触れる事を躊躇わせた。

「つ、連れ去られたって・・・何、それ・・・じゃあ何で、鈴掛くんはこんなところにいるの!?」

「それは・・・もしかしたらどこかで連中に解放されて家に戻ってるかもって・・・」

治樹が言い終わらないうちに、ゆうみは治樹の脇をすり抜けて玄関のドアに張り付いた。


ピンポーン ピンポーン


「ねえ!白峰くん!いるの!?いたら返事して!ねえ!!」

仕舞いには拳でドアを叩きながら、ゆうみは呼び掛けを続けた。

「白峰くん!ねえ!返事して!!お願いだから!!白峰くん!白峰くんっ!!」

しかし、中から応じる声は無く、ゆうみの叫びはただひたすら宵闇へと吸い込まれ消えていった。

不安が限界に達したゆうみの目から、次々と涙が零れ落ちる。

「警察!!早く警察に通報してっ・・・!!」


「・・・しても無駄ですよ。」


いきなり投げ掛けられた、落ち着き払ったその声に、3人は一斉に振り向いた。

いつからいたのだろう。そこには、神谷涼子が平然とした面持ちで佇んでいた。

「んだとコラ!どういう意味だ!?お前何か知ってるのかよ!!」

涼子の言葉に即座に反応した治樹が猛然と掴み掛かる。だが涼子はゆらりと体を翻し、難なく治樹に肩透かしを食わせた。

「くっ!このっ!!」

なおも追い縋ろうとする治樹の視界が、突如反転した。

投げられた!・・・そう自覚した時には、既に治樹はアスファルトの道路を背に涼子を見上げる格好になっていた。

慌てて飛び起き、涼子と距離を取る治樹。

不思議な感覚だった。

決して涼子の動きが速い訳ではない。けれどもあらかじめ自分の動きが涼子に筒抜けになっているかのように先回りされ、触れる事も叶わなかった。

緩やかな動作でいなされた事が圧倒的実力差を示しているように感じられ、治樹は慎重に間合いを計った。

「待ってください。私はあなたがたと闘いに来た訳じゃないんですから。」

涼子が治樹に制止の言葉を掛ける。

「どういうことだよ!?何が目的なんだ!!」

治樹の問いに、涼子ははっきりと答えた。

「私たちの目的は、龍輔さんを連れ戻すことです。私はあなたたちにその協力を依頼しに来たんです。」

「居場所知ってるの!?白峰くんはどこっ!!??」

悲鳴のような声でゆうみが訊ねる。

「正確なところは私たちも掴めてません。今はまだ解析中です。」

「待て待て、それ以前にお前の言う事は信用できるのかよ!?」

いきなり現れた涼子に対し、治樹は不信を露にした。

「大体、警察に言っても無駄なんてどうして断言できるんだ!?」

「鈴掛先輩は警察にどう説明するつもりですか?先輩の説明を警察は信じてくれると思います?」

まるで現場を見ていたかのような涼子の物言いに、言葉に詰まる治樹。一方、中途半端にしか事情を知らないゆうみはその様子に首を傾げる。

「もし、警察が信用してくれたとして、その際に殺人犯として扱われるのは、先輩がたの大事なお友達ではないんですか?」

「・・・な、何、それ・・・鈴掛くんっ・・・どういう、ことなの・・・?」

ゆうみは、涼子の不吉な示唆を治樹に否定して欲しかった。いつも通りの陽気な声で、意味が分からないと笑い飛ばして欲しかった。

「くっ・・・正当、防衛だ。奴らが急に襲いかかってきて、あいつは俺たちを守ったんだ。・・・それだけの事だ。」

「過剰防衛、ではなくて?」

「お前に何が分かるっ!!龍輔は必要も無いのに人を傷つけるなんてできない奴だ!!あいつは・・・あいつが、今、一番苦しんでる筈なんだ!!」

2人の会話に、ゆうみは全くついていけない。強引に割り込んででも事情を訊くべきだと思うものの、飛び交う単語から想起される事態の重大さが、ゆうみの足を竦ませた。

「そんなに興奮しないでください。私じゃなくて、警察がどう考えるかって話をしてるだけです。それに・・・」

激昂する治樹に対していささかも動揺する素振りを見せず、涼子は淡々と語った。

「警察に言っても、どうせ黙殺されますから。」

「・・・な、に・・・?」

「付いて来てください。」

踵を返し、すたすたと歩き始める涼子。

訝しさに躊躇いつつも、3人はその背を追うしかなかった。

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