第1話 悔恨 ――その②

ようやく手足から痺れが抜けて自由を取り戻したのは、龍輔が完全に視界から消えてしばらく経った後だった。

取り返しのつかない事をしてしまった・・・目の前の惨状に錯乱しそうになりながらも、治樹は自分の思い違いが龍輔を追い詰めてしまった事を理解した。

(・・・違う・・・違うんだ・・・お前じゃないんだ・・・)

自分は龍輔に罵声を浴びせた。絶対に許さないと、そう言った。

でもそれは、あいつに対して言った訳じゃない。太田と、その裏にあるはずの何かに対しての言葉だ。

『僕は、人殺しなんだ。』

違うっ!そうじゃない!

お前が身勝手な理由で人を殺す訳が無い。そんな事は分かり切ってるんだ。

この光景がお前の仕業だとしても・・・いや、お前がたとえ100人殺そうと、1000人殺そうと、お前は殺人鬼なんかじゃないと俺は断言できる。

お前は何も悪くない。ただ俺たちを助けただけじゃねぇか。

全部、俺のせいだ・・・この俺が、龍輔を絶望させたんだ。あいつがどれだけ苦しんでるかも知らずに、蚊帳の外だの親友じゃないだのと馬鹿な台詞であいつを罵ってしまった。

(くそっ!!・・・くそっ!!・・・くそ・・・!!くそっ・・・!!くそぉっ!!!!)

幾度も、幾度も、治樹は繰り返し己の拳を石畳に叩き付けた。

皮が擦り剥け、血が迸る。

それでも痛みは全く感じなかった。

(ふ・・・ふっ・・・西原をよろしく、か・・・あいつ、勘違いしてやがった・・・)

先日の屋上でのやり取りを受けての誤解だろう。当たり前だ。冷静に考えれば、普通の奴なら誰もがあの言葉をそう捉える・・・当初はそのことに全く気付かなかった自分に、治樹は心底呆れていた。

自分だと西原と釣り合わないとか、どうせあいつはそんなくだらない事を考えているに違いない。あいつは自分がどれだけ周りの人間の心の支えになっているか理解していないらしい。


「ん・・・ううっ・・・」

うめき声と共に、何やら蠢くものが治樹の視界の隅に飛び込んできた。

「・・・っ!智子っ!!」

先程まで昏倒していた治樹の頭に多少の混乱が生じていたのは無理からぬことだろう。治樹はようやく、自分と共に奮闘した少女の存在を思い出した。

(なんで・・・智子が倒れてるんだっ!!さっきの奴らにやられたのかっ!?)

青ざめながら、治樹は必死に智子を抱き起こす。

「大丈夫かっ!!智子!おいっ!!」

「う・・・ん・・・鈴、掛?」

うっすらと目を開けて返事をする智子の様子に、鈴掛は胸を撫で下ろした。頭に怪我をしているようだが、傷は大した事無さそうだ。

「・・・い・・・・いっ・・・・・!」

そんな安心も束の間、ぼんやりと周囲を見渡す智子の顔が見る見る引き攣っていった。

(・・・しまったっ!こんな所で起こすんじゃなかった!)

治樹は自分の迂闊さを呪った。

目覚めてすぐにこの状況を目の当たりにすれば気が動転するのは当然だ。下手をすると一生消えない傷を心に負いかねない。

実際、自分も正気を保つのがやっとなのだ。正常な判断力が多分に奪われている事を、治樹は自覚せざるを得なかった。

「・・・あ・・・・あは・・・・は・・・・」

「見るなっ!智子っ!!」

智子の頭を抱え込み、治樹はその視界を遮った。

「いいか、智子。もう危険は去った。安心しろ。俺が付いてる。」

正直、自分だって逃げ出したい。智子を守りきる自信がある訳でもない。しかし時には強がってでもこういう言葉を掛けてやる必要がある事を治樹は心得ていた。

「そのままでいい。ゆっくり立ち上がれ。・・・そう、そうだ。しっかり捕まってろよ。周りは見なくていいからな。俺の背中だけ見てればいい。」

「・・・う、うくっ・・・」

守るべき存在が治樹の心に冷静さを引き戻した。

(とにかく、できるだけ早くここから離れよう。)

屍の合間を縫って、石畳に広がる赤い血糊の絨毯から抜け出た治樹は、そのまま智子を引き連れて並木道を後にした。


「ちょっと携帯借りるぞ。」

道すがら、治樹は半ば強引に智子の携帯をポケットから抜き取った。

治樹自身は携帯を持っていないので、こういう時に電話を掛けるには人から借りる必要がある。

日常的に連絡を取り合っている知人の番号やアカウントは覚えている。望み薄と知りつつ、治樹は龍輔の番号をプッシュした。

『・・・ただいま、電話に出ることが出来ません。ご用件のあるかたは、発信音の後にメッセージをお願いします。ピ―――。』

(くそっ、やっぱ出ねぇか・・・)

留守番電話のアナウンスに苛立ちを覚えながら伝言を吹き込む。

「俺だ。治樹だ。今どこにいる?お前が何考えてるか知らないけど、自分を責める必要なんて無いからな。

すまん、全面的に俺が悪い。ホントに馬鹿だったよ。反省してる。」

言葉を連ねながらも、どんな呼び掛けをすれば今の龍輔に届くのか、どんどん分からなくなっていった。

「とにかく、すぐに戻ってこい。・・・頼むから、戻ってきてくれ。」

ピッ。

治樹は深く溜息を吐くと、今度は西原ゆうみにメッセージを送った。

西原からの電話ならあいつも出るかもしれない。

『俺だ。治樹だ。知り合いの携帯から送ってる。

龍輔と連絡が取れない。お前の方からも連絡してみてくれないか。』

とりあえずメッセージの内容はそんな感じに留めておく。

間もなく、ゆうみからの返信があった。

『ねえ、どういうこと?龍輔くんに何かあったの?』

それを読んでしばらく返答に頭を悩ませた後、治樹は次のようにメッセージ文を綴った。

『何でもない。別に心配するようなことじゃない。』

事件については触れていない。隠すつもりは無いが、詳細は明日本人に直接話そうと考えていた。動揺させないよう、どう伝えるかしっかり考えないといけない。


「なあ、鈴掛。その、あれは・・・何だったんだ?」

色を失った唇を震わせながらも、やや落ち着きを取り戻した智子が声を発した。

「・・・・・」

答えることのできない治樹。一体何が起こったのか・・・それは治樹自身が知りたい事だった。

「あいつが・・・白峰がやった事なのか?」

沈黙する治樹に、智子が問いを重ねてくる。

認めたくは無かった。しかし、治樹には分かってしまった。

龍輔のあの雰囲気、表情、口調・・・懺悔している様なその眼差しから、どうしようもなく伝わってきてしまった。

「・・・あいつは俺たちを守ったんだ。俺たちの為に、あいつは戦ったんだ。」

俺たちを守る為・・・そう、全ては俺が弱いせいだ。

俺があいつを守れなかったから、あいつはああせざるを得なかった。あの鉄真とかいう男に俺が負けなければ、こんな事にはならなかった筈だ。

弱い自分が憎かった。あいつを連れ戻せるだけの強さが欲しい・・・治樹は心からそう願った。

治樹の曖昧な返事に、「そうか・・・」とだけ応じる智子。

夜闇に包まれた2人の足元を、疎らな街灯が弱々しく照らしていた。

「それで、これからどうするんだ?」

「とりあえずあいつの家に寄ろう。もしかしたらどこかで連中に解放されて家に戻ってるかもしれねぇし。」

その言葉を治樹自身信じていない。ただ、このまま何もせずに家に帰る事など、到底できそうになかった。



--------



弟の様な存在だった。

初めて会ったあの雨の日、彼はおずおずと自分の傘の中に私を招いてくれた・・・


龍輔の事を考えるとき、西原ゆうみの脳裏にはいつもあの、いかにも人のよさそうなはにかみが蘇る。

優しくて、どこか儚げで、ちょっとだけ危なっかしい所もあって、どうも放っておけない・・・そんな表情。

彼の側についていてあげないといけない。何かあったら彼の力になってあげよう・・・そう思っていた筈だったが、実際に起こった事は、全くその逆だった。

「西原さん。今日もちょっと残って後輩たちを見てくれない?」

「うん、いいよ。」

最近、ゆうみは自主練に頻繁に顔を出すようになっていた。

全国コンクールも終わり、次の演奏会まで間があるこの時期に教えるのは、喉に負担をかけない正しい発声法。

ハミングを中心に頭声を意識する歌い方を身につけてもらうため、ゆうみは自分の持っているものを全て後輩たちに伝えたいと思っていた。

過酷な歌い込みには未だに賛同する事ができない。それでも、どうしても無理をする必要が出てきた時に備え、喉を痛めにくい発声を今の内からしっかり覚え込ませる事が、自分に出来る最大限だった。

「ありがとう、助かる。」

こうやって森田さんが自分に笑顔を向けてくれるようになるなんて、想像もできなかった。

それも偏に、弟の様に思っていたあの少年のおかげだ。

いつの間にか彼はたくましく成長していた。屋上で部員たちと揉めた時、私の為に怒ってくれた彼に胸が熱くなった。

その上、彼は親友の鈴掛くんと協力して、合唱部での私の居場所を取り戻してくれた。

自分の中で、彼の存在がどんどん大きくなっていく・・・そんな感覚がゆうみには少しくすぐったくて、それでいて心地よかった。


自主錬が始まるまでの間、練習中には切っている携帯の電源を何とはなしに入れるゆうみ。

するとそこには、1通のメッセージが届いていた。

登録されていない差出人アカウント、タイトルすら書かれていない事に気味の悪さを覚えながらも、ゆうみはそのメッセージを開いた。


『俺だ。治樹だ。知り合いの携帯から送ってる。

龍輔と連絡が取れない。お前の方からも電話してみてくれないか。』


表示された不吉な文面に、得体の知れない嫌な予感が走る。

(・・・え?・・・え?何?・・・どういう事?)

何だかよく分からないけれど、とにかくすぐに電話してみるしかない。

ゆうみは慌てて龍輔に電話を掛けたが、スピーカーの向こうからはコール音すら鳴らなかった。

『・・・お掛けになった電話は、ただいま電波の届かない所にあるか、電源が入っていないため・・・』

(どうしたのかな。地下のお店にいる、とか・・・)

何度リダイヤルを繰り返しても、聞こえてくるのは同じアナウンスばかり。

杞憂だと思いつつも湧き上がる不安を抑え切れないゆうみは、もう一度治樹のメッセージを読み返した。

『俺だ。治樹だ。知り合いの携帯から送ってる。

龍輔と連絡が取れない。お前の方からも連絡してみてくれないか。』

改めて見てみると何かが引っ掛かる。

その違和感の正体が分からず、しばらく首を傾げるゆうみ。

『俺だ。治樹だ。知り合いの携帯から送ってる。』

ここは問題ないだろう。鈴掛くんは携帯を持っていない。私と連絡を取るために近くにいた知人の携帯を借りたに違いない。

『龍輔と連絡が取れない。』

ここもまあ、おかしな内容ではない。実際私からも連絡が取れない訳だから・・・

(・・・私からも、連絡が取れない・・・?)

ゆうみはようやく、自分が抱いた違和感の正体に気付いた。

(そうか・・・『お前の方からも電話してみてくれないか』の部分が引っ掛かるんだ。)

鈴掛くんが電話して通じないのなら、私から電話する事に何の意味があるのだろう。

私が練習中ですぐには応じられない事くらい分かっていた筈だ。私が鈴掛くんとは違った連絡手段を持っているならともかく、私に頼る理由が分からない。

鈴掛くんからの電話には出なくても私からの電話なら出るかもしれないと考えた理由が、何かあるのだろうか?

分からないといえば、鈴掛くんが何のために連絡を取ろうとしているかという目的がメッセージに書かれていないのも変だ。

これでは、もし私が龍輔くんと連絡をとれたとしても、何を伝えればいいのか困ってしまう。

龍輔くんの居場所を知りたくて、私がそれを知っているかもと考えたのであれば、メッセージの内容は『龍輔がどこにいるか知らないか』となる筈だし・・・色々と納得のいかない事ばかりだった。

『ねえ、どういうこと?龍輔くんに何かあったの?』

治樹にそうメッセージを送ったところで、しかし自主練開始の時間となってしまい、ゆうみは渋々携帯の電源を切った。


「・・・こんな感じでどうですか?」

「え?・・・あ、うん、いい感じだと思う。」

とは言っても、ゆうみが練習に集中できる訳など無い。

「やったぁ!西原先輩に褒められちゃった!」

無邪気に喜ぶ後輩の姿に罪悪感を覚えつつも、気を抜くとすぐに心があらぬ方向へ彷徨っていってしまうのを止められない。

本当はすぐにだってここを飛び出したかった。

「ちょっと、全然集中できてないじゃない!どうしたの?あなたらしくもない。」

指導にまるで身が入っていないゆうみを見かねて、加奈がついに苦言を呈した。

「あの・・・その、ごめんなさい。大丈夫、何でもないから。」

こんなんじゃだめだ、もっとしっかりしないといけない・・・ゆうみは自分にそう言い聞かせた。

そうだ、せっかく白峰くんと鈴掛くんが頑張って合唱部内の私の居場所を取り戻してくれたんだ。ここで私が漫然としていたんじゃ、彼らに会わせる顔が無い。

そんな大切な2人に、今、何か重大なことが起こっているのではないか・・・だとしたら、今度は私が力になってあげたい。

とにかく事情を知りたかった。自主練は19:00終了。事態が切迫したものだとしたら時間を無駄にはできない。自主練後すぐに私にできる事といったら、一体何があるだろう・・・

「西原さん!西原さんってば!!」

強い口調で名前を呼ばれて我に返る。

「あ・・・えっと・・・」

またやってしまった。もう頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。

「そんな調子じゃ練習に出てても意味が無いよ。もう帰っていいから。」

森田さんから突き付けられた厳しい言葉・・・それを好機だと思ってしまった自分を叱咤する。

「あのっ!私、もう迷惑かけたりしないから!その・・・」

「歌い手の心が大切だっていっつも言ってるのはあなたでしょ?今日のあなたの顔を見てると練習は到底無理ね。

いいから、早く帰りなさい。そして、抱えてるものをすっきりさせてきなさい。

あなたが部に貢献しようと思うならそれが一番の方法だと思うけれど、どうかしら。」

口調こそ厳しい加奈の言葉に、ゆうみは涙が出そうになった。

思えば森田さんは、恨まれ役を買って出る事が多い。

相手への厳しさは、そのまま自分へと返ってくる。模範を示すべき義務が生まれ、その重圧に耐えなければいけない。

しかし加奈は、そういう重圧をものともせず、言いにくい事を言う事ができる。

そんな強さの持ち主が、森田加奈という人間なのだ。

かつては見えていなかった加奈の凄さが、ゆうみには見えるようになってきていた。

今だってそうだ。敢えて厳しい言葉を私に向けて、私を拘束する足枷を外してくれた。

「ごめん!ありがとう!」

気が付いたら、足が勝手に駆け出していた。

音楽室を後にしたゆうみは携帯の電源を入れる。

そこには、先程と同じアカウントから1通のメッセージが届いていた。治樹からの返信である。

『何でもない。別に心配するようなことじゃない。』

即座に直感した。やはり白峰くんの身に何かが起こってるんだ。

ゆうみは何度も龍輔の番号をリダイヤルしたが、相変わらず通じない。

威勢良く飛び出してきたものの、手掛かりなど全く無い。

(何も・・・何も無ければ、この時間なら白峰くんは家に帰ってる筈!)

お願いだから、家にいて!・・・繰り返しそう念じながら、ゆうみは急ぎ龍輔の家へと向かった。

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