漣 第二波
やどっく
波間 (第一波~第二波)
第1話 悔恨 ――その①
私は、どうしてここにいるんだろう・・・
陸橋の上で満天の星空を眺めつつ、静子はぼんやりと思考を巡らせた。
(ああ、そうだ。帰る途中だっけ、あの子の家から。)
そう、私はさっきまであの子の家に・・・
「・・・っ!」
別れ際の龍輔の言葉が、静子の耳にありありと蘇る。
それは、静子にとって死刑宣告だった。
母親面・・・私はあの子の母親でいることを許してもらえなかった。
母親ぶっているだけの他人だと、そう言われてしまった。
何を間違ったのか・・・などと振り返るまでも無く、これまでの自分が間違いに塗れていた事を、静子は自覚していた。
静子は、龍輔が怖かった。
龍輔が何を考えているのか、自分は一体何をしてやればいいのか分からなかった。
中学の頃息子が何かしらの問題を抱えていたのには気付いていたが、その時も、彼の心に踏み込んでいく勇気が持てないまま、静子はただうろたえる事しかできなかった。
頼ってきてくれたら全力で相談に乗ってあげよう・・・それが、苦しむ我が子を傍観してしまっている自分への言い訳だった。
(こんなんじゃ、見限られて当然、か・・・)
何の責任も無いあの子に当たってしまった自分が憎い。
息子との距離を計りかねるなんて、普通の親子にもあるんだろうか・・・他の家族との比較など意味が無いと知りつつも、今の静子にとって“普通”には至上の価値があった。
いつから私は母親の資格を失っていたのか。そもそも私はあの子にとって母親でいられた事があったのか。
あの子と過ごした歳月は一体何だったのだろう。それを考えると、静子は嗚咽を堪えることなどできなかった。
一頻り泣き続けると、頭の中が呆けた様に真っ白になり、そしてまたむくむくと後悔が湧き上がってくる・・・さっきからずっとそれの繰り返しだった。
半ば夢遊の状態にあった静子の足が彼女を導いた先は、彼女の
思えばあの子は、義父には随分と打ち解けていた・・・自分には見せてくれない息子の表情が義父に向けられるたびに、嫉妬心が呼び起こされたものだ。
静子は、寡黙な義父が苦手だった。
日頃あまり義父に相談を持ちかけたりはしない静子だったが、今はもう、他に縋るものが無かった。
豊輔の家に、在宅する者は無かった。
いつもの静子なら、迷わず出直したことだろう。しかし、ここへ来て今までの疲れがどっと肩に圧し掛かり、もはや静子には1歩たりとも動く力など残されていなかった。
圧倒的な脱力感に抗う術無く、静子は玄関先にぺたんと腰を下ろした。
「・・・静子さん」
普段と変わらぬ落ち着いた声を静子が聞いたのは、どれくらい経ってからの事だろうか。
どうも時間の感覚が曖昧だ。
静子の突然の来訪・・・その上、彼女が玄関に座り込んで呆けているという事態においても、豊輔の声に動揺の色は見られなかった。
「とりあえず、中に入りなさい。」
豊輔に促され、静子はふらふらとその背を追った。
静子が通されたのは、居間や客間ではなく、渡り廊下を歩いた先にある離れ・・・畳敷きの道場だった。
長い時を掛けて研磨された静謐な空気が、そこには満ちていた。
少しの間1人で待たされた静子の前に現れたのは、道着姿の豊輔だった。
正面に腰を下ろし、真っ直ぐに静子を見据える豊輔。背筋を綺麗に伸ばした正座の姿勢は、それだけでも彼が自己の鍛錬に費やした歳月の膨大な累積を窺わせた。
誤解を受けやすいが、義父がただの偏屈な老人では無い事を、静子は理解していた。
義父の目は、相手の心の本質を丸裸にする。取り繕うような会話など、義父には無意味なのだろう。だからこそ、上辺だけの言葉を投げ掛ける人間に対して、義父の反応は芳しくないのだ。
静子が義父を苦手とする理由もそこにあった。義父の前にいると、弱い心が見透かされている気がして、知らない内に心の周りに壁を築いてしまう自分がいた。
しかしこの日、静子の心の壁はここに来る前から既にガタガタに崩壊していた。そして、それを再び積み上げる間も気力も無かった。
「今日は、どうしたんかのう?」
豊輔の問い掛けに、静子が口を開く。
「私、龍輔に・・・龍輔が私を・・・母親ぶってるって・・・それで・・・私が悪いのに・・・1度も、私はあの子を救えなくて・・・」
取り留めの無い言葉ばかりが零れていく・・・それがしばらく続いたものの、静子はこの時自分が何を言ったのかよく覚えていない。
静子の話を、豊輔はただ黙って聞いていた。
「それで・・・」
ややあって、おもむろに発せられた豊輔の声は、厳格な裁定者の如き重みがあった。
「静子さんは、諦めるのかね?あやつの、龍輔の母親であることを。」
「そんなことっ・・・」
咄嗟に声を上げたものの、静子はすぐに言葉を継ぐことができなかった。
いくら自分が諦めずにいても、相手に母親として認められていないならば、何の意味があるというのだろう。
私はあの子にとって、必要の無い邪魔なだけの存在という事なのか。あの子はもう、私を『母さん』とは呼んでくれないのだろうか・・・そう考えると、身が張り裂けそうだった。
しかし、それでも静子は、引き下がる訳にはいかなかった。
「あの子が何と言っても、私を母親と思ってくれなくても・・・私にとっては、あの子はかけがえの無い息子です!絶対に、それだけは譲りません!!」
がむしゃらだった。大声を出したせいでむせ返りつつ、はぁはぁと肩で息をする静子。体の中身を全部吐き出した思いがした。
そうだ、あの子がどう思おうと関係ない。私にとってあの子が息子である事は、誰にも否定できない私の真実なのだ。
あの子が私を必要としていなくても、私が・・・私があの子を必要としている。
言うなれば、これは私のわがままだ。
無視されるかもしれない・・・拒絶されるかもしれない・・・それでも、このまま諦めるのだけは絶対に嫌だった。
もう1度あの子と向き合おう。そして、今度こそ逃げずにちゃんと話をしよう。
そう腹を括った瞬間、胸につかえていたものがストンと落ちた。
「・・・ふむ、よう分かった。」
噛みしめる様に呟いて、豊輔が頷く。
静子には、自分を見つめる義父の視線が先程までと打って変わって温かなものに感じられた。
普段は龍輔に向けられている柔らかな眼差しが、初めて自分の方に向いている・・・それを意識すると何やら込み上げてくるものがあったが、静子はそれをぐっと堪えた。
「人の心なんぞは、他人には・・・いや自分でさえも分からんもんじゃ。だからこそ、ぶつかり合って確かめるしかない。それができんようなら、たとえ親子であっても永遠に赤の他人のままじゃ。」
訓告じみた豊輔の言葉は、静子の心に深く染み渡った。
「私、あの子がいちばん大変な時に、側にいてやれなかった。ぶつかるのが怖くて逃げ回ってばかりだった・・・」
後悔してもしきれない。果たして今からでもやり直しがきくのだろうか・・・分からない、分からないけれど、やるしかない。
「いちばん大変な時、か・・・」
豊輔の呟きには妙な含みがあった。
「龍輔が大変なのは、むしろこれからじゃ。」
その言葉の真意が掴めず、豊輔に問い掛ける静子。
「あ、あの、お義父さん?それってどういう・・・」
「静子さん。」
豊輔の声が物々しく響く。
言い知れぬ威圧感に、静子は思わず身震いをした。
「真実を知る覚悟はあるかね?」
--------
「父さん!・・・父さん!いるんでしょ!?」
「ん、何だ?涼子。」
とあるホテルの一室。ガタンとドアを乱暴に開きつつ踏み込んできた涼子に、真澄は冷静な返答を寄越した。
「何って・・・父さんにももう報告来てるんだよね!?」
「ああ、龍輔のことか。」
「どういうこと!?私たちの特別監視が解けた途端に、こうも都合よくBCLの奴らに連れて行かれるなんて・・・
特別監視体制継続の必要無しって報告したのは父さんでしょ!?」
苛立ちをあらわにして、涼子は真澄に食ってかかる。
涼子の通信端末に報告が入ったのはつい先程である。監視対象のC01が監視ルートを逸れた隙に何者かに連れ去られたという旨のものだった。
異変に気付き監視部隊が駆けつけた時には既にC01の姿は無く、多数の遺体に囲まれて座り込むC01の学友の姿があった・・・文面にはそう記されていた。
資料として添付してあった現場写真の凄惨さに、涼子は思わず目を逸らしてしまう。
C01への監視レベルが引き下げられた矢先の出来事だ。主要ルートに認定された限定的なエリアを残してC01の監視が解かれ、居住監視も打ち切られたばかりである。
「そうだ、俺の判断ミスだな。ミコトからの接触も1度きりでその後はぱったり途絶えていたから、そろそろ通常監視に切り替えてもいいと思ったんだが・・・」
「そうじゃなくてっ、タイミングが良過ぎじゃない!」
「確かにな、内通者の存在を考慮すべきかもしれない。」
真澄の言葉は論理的でいちいちもっともだが、それが逆に涼子の神経を逆撫でした。
「どうしてそんなに冷静でいられるのっ!!」
ヒートアップする涼子の様子を見て、真澄は小さく息を吐く。
「涼子、お前こそ熱くなりすぎだ。お前にはもっと冷静に状況を判断できる力があった筈だが、一体どうしたんだ?」
「どうしたって・・・どうも・・・しないよ・・・」
C01と家族の如く生活を共にし、在宅時の監視をせよ・・・それがつい先日まで涼子たちに与えられていた任務である。あくまでC01は任務上の観察・保護対象に過ぎない。
対象の人間性を否定するものではなく、対象と良好な関係を築くのも重要なオペレーションの1つだが、彼との関係はそれ以上でもそれ以下でもない。
(でも・・・)
あの人は・・・龍輔さんは、不思議な人だった。
最初の印象は、ウジウジしていて、ぱっとしない感じの人。
けれども、彼の心に触れた時、表現しがたい空虚さとともに包み込むような温かさを感じ、純粋な興味が湧いた。
心地いい感触・・・ではあったが、彼の頼りなげな笑顔を見ていると、それを素直に認めるのは何となく癪だった。
あの家を出る時に書き残したメッセージには、多分にデタラメが含まれる。自分の母親を許すつもりなど無い。触られることを想像するだけでも吐き気がする。
だが、龍輔さんとの生活が楽しかったというのは正直な気持ちである。それくらいは認めてあげてもいいだろう。
今でも彼がサイトなどとは到底信じられない。だが、ミコトが彼にそう告げたというなら間違いは無いのだろう。それに、涼子は以前、その身をもってサイトとしての彼の力の一端を味わっている。
しかし、だとすれば彼は、あのしまりのない顔の裏に一体どれだけの苦しみを抱えているというのか・・・それを考えると、何だか胸が締め付けられた。
涼子の釈然としない心中を知ってか知らずか、真澄は微塵の後悔も感じさせない口調で言葉を続けた。
「俺が言うのも何だが、起こってしまった事はしょうがない。問題はこれからどうするかだ。今のところGPS追跡は順調にいっている。これで奴らのアジトが炙り出される筈だ。
事態はこれからどんどん動いていくぞ。振り返っている暇は無い。」
そう、事態は動き始めた・・・でも、動かしたのはBCL?内通者?それとも・・・
涼子の頭の中で、疑念が大きく膨らんでいく。
「早速だが涼子、あいつの・・・C01の奪還計画に関する任務がある。計画遂行に有用と思われる民間人に協力を要請する任務だ。」
「民間協力者を登用するの?今から?」
情報漏洩のリスク1つとっても、今の状態で民間人に協力を仰ぐことが得策とは思えない。それだけの価値がある人物ということだろうか。
「・・・それで、私は休学届けを出しておけばいいのね。」
「いや、とりあえずその必要は無い。しばらくは通学しながら任務に就いてもらう。その方が色々とやりやすいだろうしな。」
「色々と・・・やりやすい?」
首を傾げる涼子。学校に通いながらでは自ずと時間や行動範囲に制限が生まれてしまう。任務がやりやすい訳が無い。
「ほら、これが協力を仰ぐ民間人のリストだ。お前に渡しておく。」
真澄の端末から送られてきたそのリストに目を通した瞬間、涼子は息を呑んだ。
「・・・これ、正気?」
「今のあいつを連れ戻すには、適任の人選だろ?」
涼子が見上げた父の顔には、人の悪い笑みが浮かんでいた。
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