それぞれの理由 (7)

「しっかりしてください」


 メリア神殿の一角、あてがわれた客室に、ユーレカの配慮が虚ろに響く。泥のようにわだかまる疲労が波立ち、力一杯張られた頬がじんじんと痛む。

 彼女はレイノルドの迷いを的確に見抜いた。躊躇せずアーレクスから卵を奪い、神都を滅ぼす計画を進めたなら制止されはしなかっただろう。中途半端な正義を貫くくらいならば、何もしないほうがましだ。しかし。

 いつの間に、自分はこんなにも腑抜けてしまったのだろう。

 決して消えぬと思っていた憎しみは日々の安寧に紛れ、薄らいでいた。失せぬと信じていた怒りはいとも容易く喜びや充実に塗り潰され、不安定にそよいでいる。

 あの日の誓いは、マリエラの生命は、そんなにも軽かったのか。生きる糧ではなかったのか。ク・メルドルの片を付けるまで、先に進まぬつもりだったのに。

 何も言えず、レイノルドは長椅子に身体を投げ出して項垂れる。



 ク・メルドルは女神教の都合で滅びた。

 アレクシアは我慢強く真面目な性格だったが、その反面、思い詰めると梃子でも考えを変えない頑なさがあり、感情のたがが外れると手がつけられぬほどに荒れる。国王への思慕や奔放な弟、大司教としての重責などが彼女を追い詰め、苦しめていたとしても不思議はない。

 思い悩むアレクシアに卵を渡し、囁けばいい。これは本来ならば女神の子にしか与えられぬものだが、君は優秀なので特別に預けておこうと思う。ただし、決して発動させてはならない。全てが壊れてしまうから。

 圧倒的な破壊の力は、思うままに振る舞えぬ彼女にはたいそう魅力的だっただろう。選ばれないのであれば、何も手に入らないのであればいっそ、と。

 女神教にとって重要なのは、精霊の集う地が滅びることだった。何を犠牲にしても、アーレクスまでもが破壊に巻き込まれる状況であっても。

 由緒ある大国ク・メルドルの消滅は諸地域に激しい動揺を与えた。街道で結ばれ、同じく精霊に親しむ学問の都、海運を通じて共に発展を遂げた港町カヴェ。周辺に点在する町村。

 レイノルドを含め、ク・メルドル滅亡の報を耳にした者は、事件の不可解さに首を傾げると共に、その重大さに震え上がった。学問の都の調査団をもってしても原因を突き止めることができなかったことも、混乱に拍車をかけている。

 不安を抱き、怯えた民は女神教に縋った。女神ならばと心を預ける民を、精霊どもに気を許したから足元を掬われたのだと神官たちが煽る。寄進が集まり、精霊は疎まれた。まったく、メイヒェムとウォレンハイドの思惑通りに。

 己が繁栄の為に他者の犠牲を厭わぬその独善が、許されてよいものか。

 否、そんなことは建前に過ぎない。レイノルドはマリエラが半精霊だから愛したのではなかった。マリエラだから愛した。しかし連中は、半精霊だから彼女を殺した。

 彼らはその醜悪さを思い知るべきだ。半精霊だから死に値するなら、二家に連なる者だから死に値する。ありとあらゆる捻じ曲がった理屈が通るのだと、身をもって知るべきだ。

 ク・メルドルの誰に、死なねばならぬ理由があっただろう。彼らの生命を侵す権利が、どこの誰にあるというのだろう。

 確たる理由もなく卵に喰われた者たち。卵や、それを放った思惑を悪とするならば、民らを守る立場にありながらも使命を果たせず、そして償いもせずにのうのうと生き永らえている己もまた、悪だ。罪の重さはいかばかりか。

 しかし、罰せられる日が来るまでに、必ず復讐を果たすと誓った。女神教と神都を呪卵で滅ぼすためには何を犠牲にしても構わないし、誇りや矜持を捨てることも厭わなかった。自分のちっぽけな誇りひとつで、連中にク・メルドルの惨劇を味わわせることができるのなら、安過ぎる買い物だ。喜んで地に這おう。

 そう思っていた。何でもする、復讐の為ならば何でもできると思っていたのに。

 いとし子の捜索に加わり、アンバーから預かった呪卵を前にした時は理性を総動員して耐えたのに、カヴェ神殿に現れたアーレクスと傍らの半精霊の様子に、骨が崩れるような安堵を覚えてしまったのだ。

 義弟にして部下の生存と、彼が再び心を許せる者を見つけたことに、喜びを覚えずにはいられなかったのだ。

 己の生を支えてきた信念はあっけなく砕けた。もしかすると、再会の前にシャイネが彼を語るさまを見て、ひびくらいは入っていたのかもしれない。

 こんなことになるなら、あの森で一思いに殺しておけばよかった。物事を複雑に考えすぎる悪い癖が出た。

 いつもいつも、間に合わない。そして身を、心を苛む後悔に、血の涙を流すのだ。


「いつまでそうしておられるのですか」


 ユーレカの声が険を帯びる。

 答えはどこにもない。彼女の正しさに縋ることも、一笑に付すこともできず、混乱と動揺の海でもがき続けている。足の立つ浅瀬で大騒ぎしている滑稽さを嘲笑する者はおらず、いくらでも悲劇に酔っていられた。


「隊長が、ク・メルドルのことを大切に思っていらっしゃるのは分かります……いえ、分かると思います。わたしにとってのカヴェが、隊長にとってのク・メルドルなのでしたら」


 ユーレカが言葉を選んでいる。そんなにも難しそうな顔をしているのだろうか、自分は? 言葉尻を捉えて揚げ足を取るのではと思わせるほどに?


「ただ、わたしは、隊長のなさっていることが後悔の上塗りのような気がするんです。ク・メルドルの復讐を遂げても、きっとまた隊長は後悔する。違いますか」

「その時になってみなければ、どうとも言えんだろう」


 応じると、ほら、と勝ち誇った笑みを浮かべる。


「しない、と断言できないことこそが迷いです。迷いの先に、心からの満足があるとは思えません」

「それはきみの場合だ。私は、違う」


 言い募るほどに見苦しさが増す。必要なのは、選ぶべきはただ一つなのに。


「今、真に守るべきものは何ですか? アスタナ殿とアンリが神都に帰ったからこそ動いたのではないのですか? もしも心から復讐を望んでいるなら、神都神殿に忍び込んで暗殺でも何でもなさればよかったんです。お得意でしょう、どこかに潜り込むのは?」

「痛烈だな」

「それをしないことが、言い訳です。本当に神都を滅ぼしたいのですか? 罪なき人々を殺したいのですか?」

「いや、それは……」

「ならば、止めるべきです」


 にべもない。が、正しい。

 レイノルドが掲げる理由は、全て言い訳に過ぎない。そのことは自分自身が一番よく知っている。

 女神教の理不尽を、呪卵を追い求めた。手にするまでは生きていて良いのだと、その為に生きているのだと、みっともなく生き延びた己を正当化することができた。

 だから、卵を諦めてしまえば。復讐を投げ出してしまえば。


「何の為に生きているのか、分からなくなってしまうじゃないか……」

「神都の罪なき人々を殺す為の生というのは、あまりに傲慢ではありませんか」


 ユーレカの正しさは、その正しさ故に、レイノルドには到底達し得ぬものだった。闇の泥濘を進んできた四年のうちに、光があることさえ忘れかけていたのだから。


「きみは、私に理想を見ているだけだ」


 彼女が思うレイノルドと、今の自分との差異は大きい。鏡に映した絵のように、似てはいるが決して重なることのないもの。ただの似姿だ。


「そうかもしれません。隊長は私の理想です。理想が壊れて欲しくないと思う気持ちも確かにあります。ですが……」


 ユーレカは口を噤んだ。気持ちの迷いではなく、気持ちに添う言葉を選んでいるのだと肌でわかる。ならば罰の宣告を待つのみだ。頭を垂れて、粛々と。


「隊長は卵を求めていて……それなのに、カヴェでも神都でも手に入れ損ねたのでしょう? それは、隊長が手にするには相応しくないからです。きっとそうです。もっと別の方法を考えよと言っているのです」

「誰が? 今更、誰が私を諌めるんだ」


 自嘲気味に笑ったその瞬間に、答えが閃いた。曇り空の切れ間から光が射すがごとき鮮やかさで。

 自信に満ちた笑みが、赦しの眼差しが重なる。


「あなたの、愛した人が」


 ああ、そうだ。そうだとも。

 ユーレカ、きみはいつも正しい。


「先へ進むこと、過去の過ちを繰り返さないこと。それが騎士たる者の務めだと、わたしは思います」


 彼女の声は凜と澄んで、潔く、力強く、泥濘の中の道を照らした。憎悪と悔恨で満たされた大地を貫く道を。

 そして、生きてその道を往けと言う。まったく、かなわない。

 どうにか顔を上げた。唇は自然と弧を描く。


「きみたちは、いつも正しい」

「光栄です」


 制服を着ている間は、色気や甘さの欠片も見せなかったマリエラも、つんと澄まして同じことを言っただろう。

 吐息とともに逡巡と躊躇を捨て、膝を叩いて立ち上がる。胸に渦巻く復讐の誓いも、流した涙の思い出も、重ねた後悔の痛みも、完全に断ち切ることはできずとも、道は示された。

 騎士は敵に背を向けてはならぬ。

 守るべき者を守らねばならぬ。

 困難を切り裂く剣も、挫折に屈せぬ意思も、ここにある。変わらずある。退くに値する理由だけが見当たらない。


「神都に使いを。アンリ・ウォレンハイドと連絡を絶やすな。それと……便箋とペンを」

「どちらに?」


 葡萄酒色の眼も不敵にきらめいている。それでよいのだと褒められた気がした。


「種は蒔いてある。次のいとし子、アズライト・メイヒェムに付く。詳細を詰めるぞ」

「は」


 身を翻して準備にかかるユーレカの様子に紛れもない充足を覚えながら、窓辺に立つ。東の空が白み、夜明けが近いことを告げていた。

 眩く輝く雲の底を見ながら、レイノルドは窓に額を押し付けて目を細めた。ひやりと駆け降りてゆく冷気が眠気を遠ざける。マリエラの眼差しを反芻する。

 きみたちは、いつも正しい。その正しさが眩しい。

 今日もまた、新しい太陽が昇る。

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