それぞれの理由 (6)
何食わぬ顔をして戻ったところで、アンバーに呼び止められた。
狙い澄ました登場に顔が強張るが、試験が近いための緊張と受け止められたらしい。彼の笑みは気安かった。
「ずいぶん肩に力が入ってるじゃないか。楽にしたまえ。ところで、入日の大祭のことなんだが」
「ああ、はい」
アンバーはいつになく上機嫌だった。嫌な予感がする。彼にこんな不安を抱いたことなどなかったのに。
「大祭に次いで、魔物の討伐隊を派遣する」
皆が全幅の信頼を寄せるいとし子、アンバーとアーレクス。彼らが真に女神の力を受け継ぐ者であり、人々を救い導くのだと示す日が近づいている。
「なるほど、機が熟すのを待っているのですね。一網打尽にすべく」
したり、と頷いてみせると、彼は満足げに目を細めた。選ばれし者の証しだと思えた色違いの眼ももはや、個性のひとつにすぎない。かつて見た威光は何だったのだろう。ほんの少し目を開くだけで、辺りを見回すだけで、こんなにも違う。
「魔物の討伐には、カヴェとシン・レスタール神殿が協力を申し出てくれた。神殿長はどちらも凄腕でな。青服たちの士気も上がるだろうし、義勇兵を集めることも考えている。この忌ま忌ましい状態に、一気にけりをつけようじゃないか」
力強い言葉にも心は動かなかった。驚きこそしたが、それは今になって魔物の討伐を企図したことではなく、青服たちとわずかばかりの義勇兵だけで魔物を掃討できるだろうという楽観にだ。
「魔物は相当な数を揃えているようですが、備えは十全でしょうか」
それだけを言うのがやっとのアンリを、神都の王は朗らかに笑い飛ばした。
「案ずるな、卵を使う。そのための半精霊だ。各地の半精霊たちにも呼びかけているから、贄の数は十分だろう。魔物をおびき寄せ、卵で葬り去る」
しかしそれでは、戦いの場にいる青服たちは助かるまい。大都市ク・メルドルの住民の生命を根こそぎ奪った石卵。半精霊と魔物だけを消し去る器用な芸当は、望むべくもない。
それに、魔物にも知能がある。そうでなければあのレイノルドやユーレカが警戒するものか。彼らは魔物出現の報を得るや、斥候を放って正確な情報を収集した。数、種類、その様子。くどいほどに綿密な討伐計画を立て、命令系統を整理し、上官には絶対服従の綱紀を定め、一方で、現場においては個々に柔軟な対応を求めた。
「そううまくいくでしょうか。半精霊たちをここに集めるのは難しいのでは……」
「アーレクスもそう言った。だから、半精霊どもはメリアに集めて、レイノルドが捕らえる手はずになっている。奴は半精霊の扱いに慣れているだろうからな」
そのアーレクスとレイノルドが信用ならないのだ。それを知らぬアンバーではあるまいに。
「半精霊たちには協力を求めているのだよ」
「協力ですって?」
「素直に協力するなら良し、駄目ならば地下牢の半精霊を使う。どちらにせよ、卵の餌食だ。もし半精霊が余れば、遠征するのもいいな。学問の都やマジェスタットを卵で均し、女神の街として造り直そうじゃないか」
「それは……」
現実味のかけらもない、案とも呼べぬ夢物語だ。学問と工業とで名を馳せる二都市に理不尽を通せば、大きな反発を招くに違いない。彼はこんな浅慮に流される人物ではなかったはずなのに、いったいどうしてしまったのだ。
「作戦は単純なほどうまくいく。心配するな、アンリ」
これは作戦などではない。達成不可能な予測や希望は作戦とは言わない。兄は止めなかったのだろうか。長老たちは?
まさか、そんなはずはない。誰かが煽っているのだ。より愚かな選択をするように。御しやすいように。それはレイノルドかもしれないし、アーレクスかもしれなかった。
「半精霊は世間知らずのお人好しばかりだそうだからな。目の前で私たちが魔物と戦っているのを、黙って眺めてはいられまいよ」
そうだろうか。少なくとも、兄と行動していた半精霊には決断力があったし、勝ち目のない戦いに進んで協力を申し出るほど馬鹿ではなさそうだった。カヴェ神殿の色ガラスが粉々に砕けた春の日のことを、アンリはまだ鮮明に覚えている。
世間知らずは自分であり、アンバーだ。彼は神都で生まれ育ち、神都を出たことがない。信仰の要でありながら、人々の暮らしも、魔物の脅威も、半精霊のことも、何ひとつ知らないのだ。知っているのは、書物に書いてあることと、人から伝え聞いたことのみ。
それでも彼がいとし子として神都に、人々の心に君臨できるのは、身に宿す女神の素質と血筋ゆえだ。女神教という基盤が人々の暮らしに深く根ざしているからこそ、王の資質を疑われずにいる。
魔物と半精霊を女神の遺産で滅ぼす。では、次に脅威となるものが現れたら、彼はそれをも消し去るのだろうか。
彼は自分が王者であり、他者の隷属と服従を当然だと思っている。それはあまりに傲慢で、視野の狭い考え方だ。一部の熱狂的な信者を除いて、大抵は差し迫った危機の前には信仰を捨て保身に走るだろう。そうなれば、自らを支える民にまで卵を向けるのか。
女神はいる。けれど見守るのみで、恵みを与えてはくれない。
いや、恩恵を与え慈悲を授けるために女神がこの世界を創ったのだとしても、女神教は女神の代弁者ではないのだ。
指先が震えた。気づいてしまうと、もう後には退けなかった。
女神教の構造そのものがメイヒェムとウォレンハイドの存続のためにあるように思えた。事実そうなのだろう。魔物も精霊も、人までも滅ぼす力を手に君臨する。その温く緩い環境で守り育てられたのが自分たちだ。
呆然とアンバーを見送ってから、兄を思った。
ク・メルドルで精霊と親しみ、騎士として命を張り、世界を旅したアーレクスは、記憶を取り戻した今、この現実をどう捉え、受け止め、咀嚼しているのだろうか。
ぐずぐず躊躇っているうちに時間は過ぎた。冬の足音が迫る深夜、幾度目かの密会ののち神殿に戻ったアンリは、遠くに水音が聞こえた気がして木立を覗いた。
耳を澄ませ、目を凝らすと、地下牢から監獄塔に移されたはずの半精霊が、寒風のなか池で身体を洗っているではないか。骨が浮き、不気味なまでに痩せ細ったその体には、紛う事なき女性のふくらみがあった。
女? どうしてここに? 混乱から立ち直れぬうちに当て身を食らわされ、情けなくも昏倒していた。冷えきった地面から見上げる夜は底なしの沼だ。いや、自分がいるのが沼の底か。もがいてももがいても、水面が見えない。
――女だった。
それが意味することを必死に考える。兄が知らなかったはずがない。マジェスタットの夜の光景が脳裏に浮かび、またしても得体の知れない焦燥に駆られる。あいつはまた半精霊を選んだのか。それとも偶然?
夜明けが近かったが、とても眠るどころではない。あてもなく神殿を歩き回っていると、まったく間の悪いことにアーレクスに出くわした。
半精霊の逃亡で、神殿内は殺気立っている。だというのに兄の周りだけはしんと凪いで静かだ。訊くべきことはたくさんあるのに、そのどれもが言葉にならない。あまりのもどかしさに頭がおかしくなりそうだった。
「あいつ、女だったのか」
「そうだ」
前置きなしに切り出しても、彼は戸惑いを見せず、言い淀むこともなかった。
「どうして黙っていた? 庇ったのか」
「誰にも訊かれなかったからな。そういうお前はどうなんだ。おれではなくて、アンバーに知らせるべきことだ」
「はぐらかすな、逃げられたんだろう」
アーレクスは何の表情もないままに頷いた。
「なら、もう少し焦れ! あんたはいつもそうだ」
「どうしてお前が怒るんだ」
淡々と問い返され、黙る。去りゆく兄の背中は何も語らなかった。考えろ、とレイノルドの声だけが記憶の中で響く。
半精霊が女であると隠していた。庇っていた。つまり、彼もまたアンバーの思惑の外で何かを企んでいるのだ。だから、表向きは従順なふりをして、半精霊の逃亡には目を瞑っているのだろう。
半精霊の逃亡にも眉ひとつ動かさず、まるで予期していたかのようだった。まさか、あいつが手引きしたのか? どうやって?
混乱と疑問符とではち切れそうな体を引きずり、自室へ戻った。昼夜を問わず湯が使える二家の特権に
あいつはまた、半精霊を愛したのか。答えはどこにもなく、ク・メルドルで過ごした日々が蘇るばかりだ。
国王に恋したアレクシア、半精霊を重用し、彼女を無下に扱った国王。姉は悲しみのあまり卵で半精霊を殺し、その復讐として兄が、姉と国を消滅させた。
痴話喧嘩だ、とレイノルドが一蹴する滅びの顛末を、アンリは未だに受け止めることができない。
姉は冷静で考え深い人だった。我を忘れて卵を放つ短気とは無縁だったし、卵を持つ資格もなかった。
どうやってアレクシアは卵を手に入れたのだろう。何を贄にしたのだろう。卵は女神の子を除いた全ての生命を平らげると熟知する姉をして、破壊の力を解放させるに至った激情とは。
誰に訊いても、真相ははっきりしなかった。生き残ったのはアーレクスのみ。姉も、半精霊も、国王も、みな卵の餌食となった。
姉が卵を使うように焚き付けた者がいるのではないか。女神教にとってはいささか目障りな、かの国を滅ぼすように仕向けた誰かが。冷静な部分がそう囁くまでに時間はかからなかった。
もしかするとレイノルドは裏の事情を知っているかもしれない。アーレクスは口外できない秘密を抱えているかもしれない。そしてアンバーは想像を絶する規模で企みを推し進めているかもしれない。
誰もがそれぞれの思惑を秘め、立ち回り、演じている。
だとすれば、誰からも見下され、利用されるばかりの自分こそが最も有利なのではないか? 油断につけ入る隙はいくらでもある。
アンリは大きく息を吸って、吐く。この決断は、人生において重要な転換点となるだろう。笑いすらこみ上げてくるほどに。
ちらりと目をやった空に雲はなく、物憂げな秋の青に染まっていた。
――霧は、晴れた。
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