冬の大祭

冬の大祭 (1)

 アンリは夜が更けた頃合いにやって来て、午後の閣議の内容や、カヴェ、シン・レスタール両隊の動向を教えてくれるようになった。

 彼は戸口で用件のみを告げてすぐに去る。アズライトがどれだけ勧めても室内には一切立ち入ろうとせず、たとえば最近は北風が強いとか、夕食に出た鳩がとてもよい味だったことなど、世間話を口にするつもりもないようだった。


「お堅いやつ。どうせぼくたちふたりを持て余すと思ってるんだろ」


 と彼女は人の悪い笑みを浮かべる。それはそれとして、彼のもたらす情報が非常に有益であることは確かだった。

 アズは呪卵をすり替える計画をレイノルドに伝えてくれるよう頼んでいるが、ほとんど一方的にアンリが喋るだけの密会では、きちんと伝わっているのか定かではなかった。こちらの手の内を垂れ流しているだけだったらどうしよう、と恐ろしくももどかしくもあるが、今はこの風に任せて、流されてゆくしかない。


「明後日の午後から、大祭に向けての会議と、段取りの確認がある。青服たちも小隊長やら班長まで、かなりの数が集められることになっている」


 ゼロとよく似た顔が、よく似た声で話す。わけのわからない衝動がこみあげ、叫び声があふれそうになって、シャイネは服の裾を握ってやり過ごした。


「へえ。じゃあ、警備が手薄になっちゃうねえ。隙を突いて良からぬことを考えるやつもいるだろうし、気をつけないと」


 ぬけぬけ、とはこのことか。まったく動じていない華奢な背を見つめながら、小さく息をつく。


「それから、シン・レスタール神殿の野営地にマジェスタットの半精霊たちと北の狩人が到着したそうだ」


 眉間に深い皺を刻んだアンリによると、レイノルドとは早馬で連絡を取り合っており、神殿間の連絡はイーラが担当しているそうだ。

 久しぶりにいい報せが聞けたから、とお茶を用意してお祝いした。もう夜更けだが、上等の茶葉と炒った木の実、砂糖漬けの果物などが卓に並ぶ。


「でもさ、アンリはさんざん僕を追いかけ回して精霊を敵視してたのに、なにがきっかけで考えを変えたんだろ。レイノルドさんに説得されたとしてもおかしくはないんだけど、なんで今になって心変わりしたのかなあ」


 レイノルドの名に、アズは敏感に反応した。


「つくづく羨ましいよ、シャイネ。ぼくがもっと大人だったらよかったのに。あいつはさ、アーレクスが戻ってきて現実を見たんじゃない? これまではウォレンハイド家の男子だってことで多少は目をかけられてたけど、女神の子が帰ってきた以上、あいつに構う利点はほとんどないからね」

「ちょっと可哀想な気もするけどな。あいつも結局、周りの都合に振り回されてたんだし」

「甘やかしすぎだよ。立派な大人なのにさ」


 アズライトはアンバーだけでなく、神都の大人たちに対しては辛辣だった。でも、と腕を組んで続ける。


「めいっぱい唆してくれたね。明後日の午後かぁ」

「ね、アズ」


 大祭は十日後に迫っている。決断を先延ばしにする余裕はなかった。


「僕が地下にいる間、アズは上で警備の気を引いててよ。陽動ってやつ」

「……やってくれる気になったの?」

「誰かがしなきゃならないんだろ。僕が適任なら、僕がすればいいだけのことだ」


 当然のことを言ったまでなのに、彼女は居ずまいを正した。


「怒ってる?」

「怒ってないよ」


 怒ってはいない。ただ、卵の重圧に打ち勝つことができるのか、それだけが問題だった。夜の街で見た卵は背筋が凍るように恐ろしく、それに触れ、持ち帰ると考えただけで苦いものがせり上がってくる。

 呪卵がどれほどの苦痛をもたらすか、アズに伝えるのは難しい。けれども、うまくいかなかったときのことを考えると、彼女を危険に晒すわけにはいかなかった。


「うん……じゃあ、お願いする」


 アズライトは衣装戸棚をごそごそと探り、藤籠と布の袋を取り出した。


「これが、偽物。八個ある」


 袋の口を開けて中を覗くと、石の卵が入っていた。丁寧に研磨したのだろう、あの不気味な圧こそないものの、見た目はまったく同じだ。


「この袋に入れて持って帰ってきて。シャイネが頑張るなら、ぼくはその頑張りに応えなくちゃだめなんだよね。きっとうまくやる。ちゃんと卵を使えなくするから」

「ほんとにそんなことができるの? アズの力ってなに?」


 彼女は答えず、手のひらを上にして差し伸べた。眉間に皺を寄せて難しい顔をしたかと思うと、突如どこからともなく丸パンが現れた。焼きたての香ばしい匂いが立ちのぼる。驚いたなんてものではない。目と口をいっぱいに開いていた。


「えっ、どういうこと? このパン、どこから出てきたの?」


 にやりと笑ったアズライトはパンをちぎり、半分を自分の口へ、もう半分をシャイネの口へ押し込んだ。ほのかに甘く、噛むと焼き目がぱりぱりと音をたてる。


「女神の力で創った」

「つくった? えっ、すごいすごい! 何もないところからパンを出すの? 飢えないね」


 両の拳も心からの賞賛も、吹雪のごとき一瞥に力なく地に伏した。


「違うってば。何でも出せるし、何でも消せる力。例外はあるけど、基本的には何でもできる力だと思ってくれていい」

「何でもできるって、すごいじゃない。本当に神様みたい」


 なくなれと思うだけで、世界を消せる。かつて母が語ったことを思い出した。ゼロの精霊を使う能力に比べてずいぶん使いでがある。精霊の力で世界を消せるものだろうか? そこまで考えて、ふと立ち止まった。


「何でもできるなら、卵に頼らなくてもいいんじゃないの」

「それが『基本的には』だよ。何でもできるけど、こうしてパンを出すくらいならともかく、世界を滅ぼすとか新たに創るなんて規模の話になると、今のぼくには無理だ。生き物を創るのも難しい。たぶんだけど、よく知らないものは創れないんだと思う。女神にしたって、たくさんの生き物とか空とか海とか星とか地面とか……全部を創るのは大変だから、精霊に助けを求めたんじゃないかな」

「そんなものなの? でもまあ、力を使うには自覚的にならなきゃいけないっていうのはまっとうな気もするなあ」


 力を使うこと、使いこなすことも含め、万能ということがうまく想像できない。

 女神の力を使いこなすために広く深い知識が不可欠なのであれば、いとし子として皆に認められるのが最終目的にはなり得ない。何を学び、何を生み出すかが名君と暗君の線引きになるとは、授かった巨大な力に相応しい審判であろう。

 一言で「何でもできる力」といえば、本質を知らぬ誰もが都合よく想像し、その力を巡って争いになりかねない。病める者、貧しい者、欲深い者、心悪しき者も善良な者も、誰もが欲するだろう力の詳細を伏せたまま街を囲い、女神の神秘を受け継ぐ象徴として立つのはうまいやり方だと思えた。

 何ひとつ具体的な話をしないなら、街がどんな窮地に陥ろうとも、女神教がどれほどの非道をなそうとも、批判も糾弾ものらくら躱せる。

 アズライトは泣きそうに眉を寄せて唇を震わせていた。


「だからぼくたち、神話になぞらえて言うなら、何でもできるはずなんだよ。やらなくちゃ、何も始まらない」

「そうだね。大丈夫。石八個くらい、何でもないさ」


 互いを励ますようにかたく抱き合う。女神と精霊もこんなふうにして、この世界を創ったのだろうか。



 みな打ち合わせで出払っているのだろう、図書室には人気がなく、いつもにも増して静寂が重い。作り付けの書棚は高い天井にまで達し、そのどれにもきっちりと革表紙の本が並べられている。

 蔵書の数は、学問の都シン・レスタールの大学府図書館とは比べものにならないが、立派な本しか納められていないため、ぱっと見の図書館らしさはこちらが勝っていた。威厳があるし、お呼びでないとも感じる。


「ここには女神教にまつわるあらゆる記録が収められてるんだけど、わざと整理をしないんだって。そうすれば本の価値も真贋も外部の人にはわからないでしょ。司書だけは全部の本の題名と内容を把握してるんだってさ。本当かどうか知らないけど」

「外部の人って?」

「副神殿長と神殿長、司教と大司教ならどこの神殿所属でも入室できるんだよ、ここ。まあ、外から来るのはほとんど神職の人たちだし、あとは学問の都の研究者かな」

「レイノルドさんは探し出したんだね、呪卵の本」


 きっとね。呟くアズライトは遠くを見ている。

 図書室の入り口は二階部分だが、一階から吹き抜けになっていて、そちらには外周以外にも書架が並んでいる。一階の出入り口は司書専用で、神殿の廊下から事務室を経て閲覧室に至る。

 隠し扉は一階、事務室とは対角線上にある。書架の間をすり抜けながら、大学府の図書館で、ゼロと額をつき合わせて調べものをした日々が思い出された。記憶の中の光景はいつだって美しい。

 分厚い歴史書を抜き、背を奥にして本棚に収める。すると、仕掛けが働いて書架の一部が奥に引っ込み、横手の壁に引き戸が現れた。屈まないと通れない大きさだ。


「じゃ、行ってくるね」

「気をつけて。でも、無理はしないで」


 壁紙の変色や埃の積もり具合からするに、長いこと使われていないようだ。予想に反して音もたてずに横に滑った扉の先は、一転して無骨で冷ややかな通路だった。

 灯りはなく、真っ暗闇だ。入り口こそ小さいが、大人ふたりが並んで歩けるほどの広さがある。籠を持って這い進まなくてよいのは有り難い。

 書棚をそのままにはしておけないので、アズが隠し扉を閉め、仕掛けを元通りにしておく手はずになっていた。シャイネは卵をすり替えた後、池のほとりの出口を使って居住区に戻る計画である。


「待ってるから。気をつけてね」

「任せて。アズも気をつけて。何かあったら、僕に脅されたって言うんだよ」


 扉を閉めてもらい、闇が満ちてから大きく深呼吸する。神殿の全体図を思い浮かべ、左手で壁に触れながら進んだ。

 図書室は東棟、目指すは大神殿の地下。暗闇で目が利くといっても、明るいところでの見え方とはずいぶん違うし、圧迫感、役目への緊張、未知の場所への警戒はある。次第に息が苦しくなって、つられて動悸も速まった。立ち止まり、固く目を瞑って呼吸を落ち着ける。

 普通の歩幅で歩いているのに、ちっとも進んでいる気がしない。周囲の壁に変化がないせいで、前へ進んでいるのか、沈んでいるのか、宙を歩いているのかはっきりせず、気分が悪かった。馬車酔いしたときに似ているが、風が通らず、精霊もいないのでは、何を頼りにして良いかわからない。大丈夫、と繰り返し唱える。

 暗闇はいつも優しかった。闇の王の血を引くシャイネにとって、暗いところや夜、黒々と焼きつく影は近しく親しみの持てるものだったのに、ここの暗闇はまったく違っている。単調で薄っぺらな黒。安らぎも憩いも、親愛の息吹も感じられない。

 夜の色とも、日陰の色とも、もちろんゼロの眼の色とも違う。ただ黒いだけ、暗いだけ。シャイネの領域ではない。

 誰かのつめたい眼差しを思い出し、息をつく。心をくじく無表情さえも懐かしかった。春風のようにかすかに目元と頬を緩めるさまも。

 彼に笑ってもらうためにも、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。下腹と膝に力を込めて右足を踏み出した。

 遅くなればアズライトにいらぬ心配をかけてしまう。早く戻るに越したことはなかった。固く拳を握り、足早に進む。

 ほどなくして、半円形の開けたところに出た。弦にあたる部分には両開きの大きな扉、そして弧の部分からは、シャイネが通ってきたものを含め、三方向へ通路が伸びている。

 扉の奥が棺の間だと思われたが、空の棺をさも重要であるかのように装う意味がわからない。神都の中枢には女神が眠る棺がある、と噂を流すだけでは足りないのだろうか。誰に対して体面を繕い、実のない嘘で飾りたてているのだ。

 扉には凝った装飾が施され、いかにも貴人の墓といった風情だが、よく見ると錆だらけだ。押し開けるとひどい音がする。手入れもされていないことに呆れた。

 部屋の幅はシャイネの足で五歩ほど、奥行きは十歩もないだろう。もっと広いのかと思っていたが、石の棺と祭壇があるきりで、扉の装飾にはそぐわない、簡素に過ぎる小部屋だった。

 祭壇に卵が置かれているという話だったが、それらしいものは見当たらない。祭壇にも棺にも埃が分厚い層をなし、卵を前にしたときの重圧も、気分の悪さも感じなかった。淀んだ空気だけがシャイネの動きに合わせて揺れる。

 床も祭壇も埃まみれで、しばらく人の出入りがなかったことは明らかだ。しゃがみ、背伸びし、あちこちを見回すが、卵は見つからない。ここまできて、と汗が滲む。

 計画が漏れていたのか。話を知っているのはアンリとアズライトだけで、しかも最近の話だ。計画を知って卵を移動させたなら、そのときの足跡や痕跡が残っているはず。

 そもそもアズライトの知識が古かった可能性はある。警備が薄いと情報をくれたのはアンリだ。そして疑いもせず、シャイネはのこのこと棺の間に現れた。

 冷たい汗が背中を伝い落ちる。

 アンリだ、と囁く声と、打ち消す声がせめぎ合う。棺の間に卵はなかった。罠でなければ、これをどう説明するのか。

 なすすべなく立ち尽くす。どうしよう、どうしようと思考を空回りさせていると、背後にほのかな光が差した。重い足音が近づく。


「やはり来たな」


 蝋燭の黄色い灯りに揺らめく色違いの眼が、冷ややかにシャイネを見下ろす。

 神都の主、アンバー・メイヒェムの姿に、ごくりと喉が鳴った。

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