暗雲 (5)
また、じっと数を数える日が始まった。
食事は格段にましなものが出されるようになったが、固いパンを水で流し込む以外は手をつけなかった。肉と野菜の屑が浮いたスープは香辛料の匂いがきつく、味が濃すぎて口に合わなかったのだ。
果てしなく続く数に飽きたときには、考えに耽る。
二通書かされた手紙はどちらも同じ内容で、「メリアで暮らしているので、ぜひ一度遊びに来てください」、要するにミルとリアラをおびき出すためのものだった。
でっち上げを一字一句違えずに書き写すのは屈辱以外の何でもなかったが、危険を訴える機転は利かず、諾々と従うしかなかった。突然の手紙に皆が不審を抱いてくれればよいが。
シャイネが新生活の場として神都を選ぶはずがないからメリアの名を出したのだろうが、そもそも、あんな手紙ひとつでメリアくんだりまで出向こうという気になるだろうか。
多忙な日々を過ごすミルが、工房の仕事を放り出して足を伸ばしてくれるとはとても思えないし、リアラとて、旅暮らしで身軽ではあるが、依頼の都合もあるだろう。メリアまでの行程や旅費のことを思えば、まったく図々しい誘い文句だ。
シャイネとリアラ、それに、ミル、マックス、ダグ。半精霊を集めて何をするのかといえば、呪卵を使うとしか考えられない。メリアに集結した半精霊と、神都を包囲する魔物、両者をいちどきに滅ぼす。目障りな存在が消えれば、女神教は安泰というわけだ。
けれども、それだけでは危険を顧みず魔物の包囲を許した理由にはならない。魔物と半精霊を同時に消さねばならないのは何故だ。神都は、アンバーは何を待っているのだろう。
もやもやとした苛立ちは晴れない。いつまでもいじけて膝を抱えているのではなく、ここを出てリアラとミルたちに警告し、彼らの企みを暴くくらいはすべきではないのか。
これは、シャイネにしかできない。シャイネが行動しなければ、皆が呪卵の餌食になってしまう。
でも、と即座に言い訳を重ねる。
どうやって外に出るんだ? 僕は丸腰で、精霊も召べなくて、すっかり痩せてしまってるのに。
いま動かねば必ず後悔する、友人たちを危険な目に遭わせるつもりかと叫ぶ理性と、こんなちっぽけな自分に何ができると冷笑する諦念とがせめぎあう。
こうして生かされている以上、少々派手なことをしてもすぐに殺されはしないだろう、と強気に牢の中を歩き回るも、すぐに疲れて悲観的な思いに囚われる。
身体が萎えているせいで、気持ちまで弱くなっているのだろう。立ち上がって歩くにもふらつくありさまで、走ったり、階段を上ったり、激しい運動はとてもできそうにない。牢番相手に立ち回るなど、もってのほかだ。
無為に過ごすなら、せめて立っていればよかった。手足も肩も血管が浮き出るほどに肉が落ちて、ずっと気だるく体が重い。傷はいっこうに良くならず、生乾きのままだ。食事も悪いし太陽もない。血が足りない。ここで体力を戻すのは無理だ。
どうする、どうすれば、と気が急くに任せ、牢番が不在なのをいいことに暗がりを行きつ戻りつしていたシャイネは、ふとした違和感に足を止めた。
腿の内側を伝い落ちる、熱い感触。
それが何であるか察した瞬間、血の気が引いた。
男性の格好でいても、男性の仕草を真似ても、男性名を名乗っても、根本的に性別を変えることはできない。こうして身体から血を流す期間がある限りは―どれだけ間遠で、不定期だとしても、シャイネは女で、子を産む性なのだ。
よりにもよってこんな時に、とままならぬ体を憎む。無駄に血を流している場合ではなかろうに。
不快さと衛生面はさておき、いちばんの問題は、牢番が戻ってきたときに間違いなく血の臭いに気づくだろうことだ。
彼はシャイネを問いつめ、血を流す部位と原因を知ろうとするだろう。そして遅かれ早かれ、傷口からの出血ではないと気づくだろう。女であることがばれてしまう。
さらに悪いことに、
処置ができる清潔な布はここにはない。牢番は今にも帰ってくるかもしれない。焦りのあまり背中に汗が滲み、良い考えなど少しも浮かばなかった。
胸に閃くのは、冬空の静謐。シャイン、と男子名を呼んだ、ゼロだけだった。
彼がもし、シャイネが女であることを隠しておきたいなら、力になってくれるのではないか。分の悪い賭けだが、他に選択肢はない。
牢番が戻ったらすぐ、ゼロを呼んでもらおう。理由なんてどうでもいい。何だってする。
不自然な内股の姿勢で暗がりの壁際に立ち、牢番を待つ。いまだかつて彼を待ち遠しいなどと思ったことはないし、今後一切思うことはないだろうが、今だけ、今だけは、ひと呼吸ぶんでも早く戻ってきて欲しかった。
鉄扉が軋む音を、どれだけ待っただろう。
耳を歪ませる甲高い金属音とともに現れたのは、牢番ではなくゼロその人だった。無表情の黒い眼に不機嫌が瞬く。
あまりに突然だったので、喜ぶよりも先に困惑が頭をもたげた。
「ゼロ……どうして」
「その名で呼ぶなと言った」
疑問には答えず、ゼロはぴしゃりと言い切った。そのまま、腕を組んで鉄格子を隔てて立つ。彼が出てゆくまで牢番は扉を開けないはずだ。
先んじるべく、シャイネは必死に感情のない漆黒を見上げた。
「ゼロ、あのね、お、お願いがあるんだ」
「その名で呼ぶな」
吐き捨てる声音に動じる余裕もない。こうしている間にも、じわじわと血は流れ出している。
「その……着替えが欲しいんだ。晒し布と、あの、僕……」
ゼロはシャイネを睨んだ。特に、下半身を。顔から火が出たのではと思うほど頬が熱くなったが、どうやら通じたらしい。
「そうか」
淡々と応じ、彼は騒々しい扉の音とともに姿を消した。戻ってきたのは、シャイネの不安が苛立ちに変わるほど長い時間が経ってからだ。
無用心にも鉄扉は開け放たれたまま、鍵もかかっていない。ゼロは気にしたふうもなく鉄格子を開けて牢に入ってくる。逃げるべきだ、と頭の片隅をよぎったが、すぐに打ち消した。今はそれどころではない、着替えが先だ。
ゼロは黒の下衣と下着の替えを二枚ずつと、清潔なたっぷりの晒し布と綿、それに汚れ物を入れる布袋を持ってきてくれた。おまけに、きれいな水まである。
「あ、ありがとう……」
よかった。ゼロは、やっぱりゼロだ。気配りのしかたは少しも変わっていない。
が、見上げた彼が唇の端を歪めてにやにやと笑っていたので、胸に灯った温もりも感謝の言葉も、見る間に冷えて砕け散った。
「あの、着替えたいんだけど」
「今さら、何を気にしてるんだ。見ていてやるから、早く着替えろよ」
え、と中途半端に開いた口が、そのまま固まった。言葉が出てこない。
この場で着替え、流れる血の処置をしろと言うのか。女であること、それをここで
これまで慎重に距離を置いてきた問題に無遠慮に踏み込まれ、羞恥と嫌悪とが燃え上がった。
シャイネは男性を装う女性で、ゼロは男性で。
カヴェを発って以来、無言のままに譲り合い、支え合ってきた均衡を、彼は何の躊躇もなくあっさりと崩したのだ。
「できないのか? それとも、着替えさせて欲しいのか?」
薄笑いを浮かべたまま、そのくせ表情がぽっかり抜け落ちたゼロに組み敷かれて、恐怖に背筋が凍りつく。手足をばたつかせるも、のしかかる彼の体はびくともしなかった。
「いやだ! 放して!」
欲望もなく、ただ虚ろな黒い眼がこちらを見ている。月のない夜だってもっと明るい。
安らぎのない暗闇をシャイネは恐れた。精霊の宿る闇はいつだってそばにいて、やさしく包み込んでくれた。けれど彼の眼は違う。ただ黒いだけ。暗いだけ。底なしの穴だ。
汚れた衣服を難なく引き裂いた手に、空をかく腕が束ねて持ち上げられる。太腿を割って押しつけられる腰には何の情熱もない。
せめて何らかの欲望があれば、それが慰めとなったろうに。暴力、支配、優越、すべてがぽっかり抜け落ちた空虚な、ただの作業でしかない行為に恐怖する。
「やだったら! お願い、やめて、お願いだから!」
涙があふれて目の前がぼやけ、息が詰まって喉が震えた。ひ、と哀れっぽい嗚咽が漏れる。
「やめて……お願い」
胸をまさぐる手の動きが止まった。
彼は無言のままシャイネを見つめ、やがて興味を失ったかのように立ち上がって、牢を出て行ってしまった。
どうして。疑問は声にならない。
血を流す身体を暴かれるのだと思っていた。どうしてゼロは手を止めたのだろう。立ち止まる理由など何もなかったはずなのに。
憐憫か。それならばはじめから、あんな真似はするまい。
嗚咽がおさまってから、牢の隅の暗がりで身体を拭い、着替えた。汚れた服を袋に詰めてバケツの水をこぼし、冷たい石の上で身体を丸める。下腹部が熱を持って、鼓動に合わせて低く疼く。
拭っても拭ってもあふれてくる涙をどうすることもできず、泣きながら眠った。
腹痛で目を覚ました。目が腫れて瞼が開かない。
空のバケツと汚れ物を詰めた袋はなくなっており、その代わりに、パンとスープの盆があった。
器にはまだ温もりが残っている。その温もりに誘われたか、とんとお目にかからなかった牛乳入りのスープだったからか、食べてみようという気になった。そっとかき混ぜてから啜る。
「あれ」
臭みも、香辛料のきつい匂いもない。今まで出されていたものとは違って、食べ慣れた、くせのない味のスープだった。
「……ゼ、ロ?」
パンは冷めてはいたものの、表面は香ばしく、もっちりと甘くて弾力がある。牢で出されていたものとは、ものからして違った。
滋養のある牛乳スープと上質のパンを手に入れられて、この牢に降りてこられる人物。そう多くはあるまい。
たとえば、神殿長。いとし子。女神の子。
先刻とは違った涙がぽたぽたとスープに落ちた。
「ゼロ」
唱えると、胸がほのかな熱を宿す。
彼の真意はわからない。けれど、想うのは自由だ。
彼を頼もしく思い、心の支えにするのはシャイネの自由だ。
――だとすれば、これからすべきことはただひとつ。
ゼロを奪い返して、この街を出るのだ。ふたりで。
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