脱出

脱出 (1)

 目覚めた時、食事の盆はなくなっていた。ゼロが回収に来たに違いなかった。牢番に盆や食器を見られるのも、差し入れがばれるのもまずかろう。

 久方ぶりに古巣へ戻った彼が、神都の主に気取られぬよう行動するのは相当な危険を伴うはずだ。新しい暮らしが始まったばかりなのに、力になってくれる人はいるのだろうか。心を許せる人はできただろうか。

 食事や着替えを差し入れてくれたのだから、もしかすると厨房や洗濯場の女性たちをたらしこんだのかもしれない。市中で買い求めたにしては戻りが早かった。まめだなあ、と思うと、呆れ半分、感謝半分のため息がこぼれる。

 息をついたことで、胸が軽くなる。ひとりで思いつめていたのが馬鹿らしく、シャイネは牢の入り口に背を向けたまま、くすくすと笑った。

 ここに閉じ込められてから、はじめて笑えた。

 血を流し続ける下半身はむくんで重く、腹も鈍く痛むけれど、確かに笑えた。

 大丈夫。僕はミルとリアラをおびき寄せるための、大切な切り札だ。その時まで殺されはしないだろう。

 大丈夫。神都に来たすぐはあんなに気分が悪かったのに、今はそうでもない。

 大丈夫。時間はある。萎えた体はどうにでもなる。丸腰だって、精霊がいなくたって、身ひとつで、何だってできる。かえって油断を誘えるはずだ。魅了の眼が使えるかもしれない。

 大丈夫。今までに何度も、困ったことはあったじゃないか。何とかなったし、何とかしてきたじゃないか。だから、今回も大丈夫に決まってる。

 牢番が戻ってきた。不在の間の穴埋めをするつもりか、威勢良く鉄棒を振り回して騒いでいる。

 その視線を避け、シャイネは牢の隅の暗がりで身体をゆっくりとほぐした。頭のてっぺんから足の指先まで、両手を使って撫でさする。少しでも血が通うように。体温が戻るように。

 肉が削げ、骨が浮いた体を鍛えなおすには、長い時間と根気が必要だ。広いところを走り回れたらと思うが、現実的ではないし、満足な環境を求めても叶わない。わずかな機を見逃さないことが活路に繋がる。せめて気持ちだけは強く持っていたかった。

 暗闇で身じろぎしていると、鉄扉の大仰な悲鳴とともにゼロが姿を現した。相変わらずの徹底した無表情に、前を向いた気持ちがふにゃりと萎れる。

 いや、とどうにか踏みとどまる。きっと彼は様子を見に来てくれたのだ。そうに違いない。だとすれば、食事の礼を言うべきだろう。

 言わずに後悔するのは、もう嫌だ。牢番が姿を消したのを見届けてから、鉄格子に近づいた。隣の牢には相変わらず人の気配がない。


「昨日はありがとう、ゼロ」

「その名で呼ぶなと言った」


 口調も態度もそっけない。慇懃な召し使いのように、同じことしか言わなかった。ここでめげてはだめだ、と握った拳に力を込める。


「ねえ、ゼロ。訊きたいんだけどさ、ここでの僕の扱いはなに? 死刑待ちの囚人? 便利な駒? まさか、お客様っていうんじゃないだろうけど」

「知る必要はない」


 音をたてないのが不思議なほどの鋭さで放たれた言葉にも、何とか耐えた。でも、と食い下がる。


「もしミルとリアラがメリアまで来たとしても、僕を見かけなかったら不自然だろ。そんなところに青服が押し寄せたら、ふたりともすぐさま精霊をんで逃げるよ。何より、イーラが黙ってないだろうね。メリアが火の海になる」


 前もって考えていたわけではないのに、言葉は次々に浮かんだ。自分のことを口下手だと思っていたけれど、案外そうでもないのかもしれない。


「ふたりを神都まで連れて来るつもりなら、僕の協力が必要になると思うけどなあ」

「……何が言いたい」


 ゼロの眉が動いた。食いついた、と内心で天高く拳を突き上げる。


「僕っていう大切なお客様を、こんな暗くてじめじめして汚らしいところに閉じ込めておいていいのかって、確かめたかっただけ」


 答えはなかった。しんと静かな地下牢は、時間が止まっているようにも感じられる。一瞬だけ揺らいだゼロの表情が無に戻り、ひびの入った氷の上に新しい氷が張って強度を増した。漆黒の冬空が暗く陰る。

 彼はそのまま無言で踵を返し、甲高く叫ぶ鉄扉の向こうに消えた。シャイネは重い疲労を感じて再び牢の隅の闇に身を浸す。少し話をしただけでこんなになるなんて。

 しかし、言うことは言った。あとはどう判断されるかだ。

 こちらの武器は少ない。言葉と、切り札の魅了の眼、それから、人々が抱く精霊使いへの印象。これらをうまく組み合わせて利用して、脱出の隙を見つけなければならない。ゼロを助けなければならない。

 決意や想いの激しさが伝わったのかもしれない。数日後、数人の青服を伴ったゼロがやってきて、場所を変える、と短く宣言した。



 太陽の光とは、こんなに明るく眩しいものだったか。眩しさが痛みとなって突き刺さり、闇に慣れた目からはとめどなく涙が流れた。

 精霊の気配は感じられぬままだった。やっぱり、と思う気持ちが希望を圧倒してゆく。期待などするほうが間違っているのだ。

 ただでさえ体が弱っているのに、手枷のせいで歩きにくいことこの上ない。縄を持つ青服に引かれ、様相の変わらぬ通路を延々と進み、よく手入れのされた庭園を抜けた。神都神殿は想像していたよりもずっと広く、行けども行けども果てがない。

 足がもつれ、膝が笑い、息が上がる。こんなに土地が余っているなら、地下牢をもっと広くしてくれれば良かったのに。いや、そうじゃない。何を考えてるんだ、僕は。

 疲れ果てて目が回る。何度も躓き、転んだが、そのたびに縄を引かれて小突かれ、氷のごとき視線を浴びるのみで、休憩が許されることはなかった。じゃああんたたちも僕と同じ状況でこれだけ歩けるのか? 怒鳴る体力もない。苛立ちが募り、侮蔑の視線を隠そうともしない、前の青服を睨み返した。

 まともに顔を見てすらいなかった彼の眼は夏毛のウサギのような灰褐色で、


「あ」


 瞬時に繋がった実感があった。すうっと目の前が暗くなって、夢をわたるのに似た浮遊感がある。

 きらめく細い糸が、彼の眼に繋がっているのが見えた。彼はひとつふたつばかり年長のようで、まだ少年の面影がある。名は、そう、キロンというの。


「どうした」


 先頭のゼロが足を止め、その後ろに付き従っていた年配の青服が横柄に尋ねた。シャイネは膝をついてうずくまり、眼に金の光を浮かべたキロンは縄を手にぼうっと立ち尽くしている。


「立て」


 目眩でも起こしたと解釈されたらしい。当然いたわりはなく、のろのろとした歩みが再開される。シャイネは目に見えない金色の糸を手放した。常に握っていなくても、糸の端は探せばすぐに見つかったからだ。

 あのときのキムとも、こうして金の糸で繋がっていたのだろう。シャイネにはまだ糸が見えず、断ち切った糸を探すこともしなかった。こうするのか、と遅すぎる理解が腹の底に広がってゆく。

 試しに、何気なさを装って背後を守る青服も睨んでみた。キロンの時と同じく、浮遊感とともに男の名が転がり込んできた。彼はベーター。レイノルドくらいの歳のようだ。妻と、娘がひとり。なるほどと頷いて、こちらも糸を手放す。今度は倒れもせず、少し足をもつれさせるだけで済んだ。

 一行は神殿の外れの塔に向かっているようだった。見張り塔かと思ったが、それにしては構えが脆弱だ。実際、中に入ってみて得心がいった。地下牢に入れるのとは性質の違った者を閉じ込めておくための場所だ。

 塔の中央部分が階段、両脇に扉がある。どの扉にも重厚な錠前がぶら下がっていたが、人の気配はやはりなかった。

 気が遠くなるほど何度も折り返して階段を上った先、塔の最上階がシャイネの新たな牢となった。がらんとした円形の部屋には、地下牢と同じく用を足すための溝と穴、大きな水瓶、歪んだ机と椅子、そして寝台があるきりだ。―寝台!

 ゼロが抜剣して警戒する中、枷を外されて小部屋に閉じ込められた。錠が下りる重い音、遠ざかってゆく足音。ふたすじの金の糸は頼りなく中空をさまよっている。

 よし、と拳を握る。扉を閉めればひとりだ。見張り番の姿もなく、窓からは陽光が射して、おまけに風が通る。地下牢とは大違いだ。

 扉の両脇の壁には燭台があるが、蝋燭はなかった。誰かが蝋燭や火種を持ってくる気配もない。日中はよいとしても、夜になれば部屋は真っ暗になるだろう。夜目が利くとはいえ、灯りのない部屋で過ごすのは気持ちのよいものではない。寝てしまうしかなかろう。健康的な生活、と頬を歪める。

 窓は壁の厚みをぶち抜いただけの簡素なもので、格子はなかった。悠々肩を通せるだけの大きさがあるので身を乗り出してみたが、案の定の絶壁である。脱出の手がかりとなりそうなものは何もなかった。精霊を召べないいま、窓の外は死の世界に直結している。

 さらに言えば、窓には格子だけでなく、雨風を遮る戸も、吊り布も何もなかった。室温の調節に悩むことになるだろうが、地下の暗さ、陰鬱さに比べれば百倍ましだ。

 ひとしきり部屋の検分を終え、水の臭いを確かめてから顔を洗い、体と髪を拭って寝台に飛び込んだ。冷や汗が出るほど軋んだが、どういうわけかかびくささも、湿っぽさもない。太陽の匂いがするとまでは言わないが、清潔である。一体、何日ぶりの敷布だろうか。体の中が空っぽになるようなため息が出た。

 水瓶の水がきれいで、敷布がきちんと干されていた。長いこと使われていなかったにしては埃もなく、蜘蛛の巣も払われている。つまり、シャイネのために部屋が整えられたのだ。真相など知りようがないのだから、ゼロが手配してくれたのだと思うことにした。

 萎えた足で階段を上らされ、腰がもげそうに痛む。膝はまだ小刻みに震えているし、明るさで目が疲れ、額の奥が痛みを訴えていた。

 敷布の柔らかさを全身で確かめるべく、寝返りを打つ。もう冷たく固い石床の上で眠らずともよいのだ。牢番の恫喝や卑猥な言葉、おぞましい視線に耐えずともよいのだ。不潔さと狭さ、暗さにいつ気が狂れるかと怯えずともよいのだ。

 ここには太陽がある。風もある。明るくて空気が良くて、静かだ。精霊の声がないと静かすぎて耳が痛いし、地面ははるか遠くだが、それはまた追い追い考えればいい。

 ほら、大丈夫だった。少しずつ少しずつ、進めばいい。いつかはゼロに手が届くはず。

 差し伸べた手を、彼は握ってくれるだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る