暗雲 (4)
牢の暗がりで膝を抱え、悶々と過ごした。
じくじく痛む胸の傷を掘っては舐め、埋めては掘り返して、無益な対話を延々と繰り返す。
(僕が)
(僕のせいで)
(ゼロは)
胸が
光が射さないため、時間の感覚が失われた。食事二回で一日、と数えていたのも数日のみで、日にちの経過を数える意味を見失うまではすぐだった。
牢番はシャイネへの興味を隠そうとしなかった。灯りを掲げて光の輪に誘ったり、鉄格子を揺さぶったり鉄棒で殴ったり、気を引こうと騒いでいる。暗がりで動かずにいると、さかんに卑猥な言葉を発して一人で笑っていた。
地下牢には他にも人がいた。誰も声をあげず、気配も薄い。男なのか女なのかも定かではない。無反応に苛立った牢番が囚人に対し殴る蹴る犯すの虐待を行うのは日常茶飯事で、彼の暴力の矛先は遠からず自分に向くだろうが、それさえもどうでも良かった。
「アーレクス様がいなくて寂しいんだろぉ? オレが相手になってやんよ。なあ!」
つまり、そちらの方面のお相手だと思われているのだ。彼は鍵束をじゃらつかせ、外に出してやるぜと歯をむきだして笑ったが、か細く残る理性が頷くことを押しとどめていた。
――シャイン。
あのとき、ゼロは男子名を呼んだ。カヴェ以来だ。それが意味することはひとつだけ。
牢番の誘いや挑発、侮辱を聞き流すのは難しくはなかった。ゼロを想うだけで胸が締めつけられるように痛むし、彼がどうしてアンバーに
牢番はしばしば癇癪を起こすので、恫喝にはすぐに慣れてしまった。恐怖も、不安もない。そう遠くないうちに死ぬだろう。ならばその日までは生きている。それだけのことだ。このままで終わらせてなるものかと、強い思いが芽吹くこともなかった。
ゼロは飾り紐を切り、いとし子として神都で暮らすことを選んだ。旅暮らしを止め、シャイネを差し出す。彼自身がそう決めたのだ。ならば、意見する筋合いはない。
もとよりそういう関係だったのだ。ただの旅の連れ。惰性で半年ばかり共に過ごしただけの。
油断しきって、急な別れへの備えを忘れていたのが悪い。
光の当たらぬ暗がりで膝を抱えた。目を閉じ、耳を塞いで、数を数える。精霊の息吹がなかろうと、湿度と臭いが酷かろうと、このまま誰に顧みられることもなく、ひっそりと死にたかった。
空腹と体の不潔さに朦朧とし始めたのは何日めか。
「おい、聞いてんのか!」
気づけば牢番が目の前にいた。牢の中である。気を失っていたのか眠っていたのか、いつ鉄格子が開いたのか、まったくわからない。
鉄格子は開いたままだ。それはおよそ、彼が初めて見せた隙だった。牢番の手を振り払い、シャイネはよろめきながら立ち上がった。膝が震えて足の裏が痛む。
ゼロが迎えに来てくれたのだ、と思った。
「ゼロ……!」
踏み出した一歩目で、足がもつれて天地がひっくり返る。
「いやだああああ!」
ああ、ゼロが遠くに行ってしまう。
ゼロに会わなければ。ゼロと話さなくては。
ゼロと。ゼロに。
「あああ、ゼロ、ゼロぉ……! どうして! どうして!」
手足を振り回してもがき叫ぶ。すかさず鉄棒が降ってきた。目の前が真っ赤に染まる。
「てめえ、勝手な真似してんじゃねぇ!」
「触るな! 殺すぞ! うああ、あああ……ゼロ……!」
「うるせえ、黙れ!」
鉄棒が鉄格子を打った。錆びた鉄がぶつかり合うけたたましい音に、牢番の怒声とシャイネの絶叫が重なる。かっとなって伸ばした腕を鉄棒が容赦なく打ち払った。
「あぁぁ、アア、触るな、出て行けっ、がああ、ひとりにしろ……ちがう……いやだ……ひとりにしないで……ゼロ、ゼロ、僕は……僕が……ああ、うぁ……」
「ちっ、もう壊れやがったか」
ゼロ、ゼロ、と繰り返すシャイネを忌ま忌ましげに蹴り飛ばして、牢番は鉄格子を閉めた。錠が下りる音が氷水のごとく頭を冷やし、冷静さが舞い戻ってくる。
喉が鳴り、目眩は翻弄される木の葉のよう。赤く明滅する頭痛を、体を丸めて時間をかけて鎮めた。鉄棒で殴られた腕、蹴られた腹、あちこちが熱を持って軋む。瞼が切れたか、腫れぼったく視野が狭かった。
痛みの大合唱と熱感、吐き気をやりすごすために目を閉じている間に、眠ったか気を失ったかしたらしい。目を開けると牢番の姿はなかった。
全身が燃え上がり、どうどうと脈打っている。さすがと言うべきか、牢番は力加減を熟知していた。骨を折らずに最大の苦痛が残るように殴られている。
肺がからっぽになるほど大きなため息をひとつ、そろそろと壁にもたれる。疲労が重い。このまま崩れて粉々になってしまってもおかしくない。あんなに取り乱すなんて、まったくどうかしていた。
後悔しても遅い。ゼロはもう、行ってしまったのだ。
それからまたしばらく経った。
膝を抱えたまま、千三百七十二より進まない数を数えていると、鳥肌が立つ軋みとともに、地上に続く扉が開いた。顔を伏せていても、足音のうち片方は聞き慣れたゼロのものだと、浅ましい耳が聞き分けている。
それでも、顔は上げなかった。上げられなかった。怖くて。
「これは、アンバー様、アーレクス様。このようなむさ苦しい所へ……」
「下がれ」
アンバーが短く言い放つと、牢番の卑屈な気配はすぐさま消えた。ややあって、灯りが向けられる。
「シャイン」
声を聞くのは何日ぶりか。
なんて懐かしくて、冷たい声。親しみも安堵も心配も、一切を凍土に閉じ込めた平坦さと鋭さに、見えない血がどくどくとあふれ出す。
「何も食べていないそうじゃないか。腹が減ったろう」
アンバーの猫撫で声とともに、包みを開く音、それから、焼きたてのパンの甘い香りが広がった。諦めも決意もすべて覆しかねない暴力的な仕打ちに、惨めったらしく腹が鳴る。すりきれるほどの羞恥を覚えるが、本能には逆らえなかった。
鉄格子が開き、足音と破滅的な幸福の香りが近づく。シャイネは恐る恐る、顔を上げた。
街で見たときと同じ、白い長衣のアンバーと、対であることを誇るかのような漆黒の制服に身を包んだゼロが、薄い笑いを浮かべながらこちらを見下ろしている。
すぐに俯く。闇に慣れた眼には、灯りがきつすぎた。
「シャイン」
荒地を抜ける風よりも空虚な声が呼んだ。返事できずにいると、顎を長剣の鞘で持ち上げられた。踏ん張れずに姿勢を崩したまま、黒と白、ふたりの男を見上げる。
舌打ちが静寂を割った。
「アンバー、今日は無理だ。このままでは本当に死ぬ。何か食えるものを与えてやれ」
「つまらんな」
「いま、こいつに死なれると困るだろう。こんなに衰弱していては薬も使えない」
「好きにしろ」
吐き捨てて、アンバーは去っていった。お育ちのよい彼のこと、地下牢の環境は耐え難かろう。
鉄扉の残響が消えるまで、シャイネはしばしゼロを見つめた。
出会ったときよりもなお鋭い孤独と拒絶を纏い、感情のない夜の闇を抱いた影となって立つ男を。
「ゼ、ロ」
かすれた声は、何を求めたのでもなかった。たぶんきっと、彼がそこにいることを確かめたかっただけ。
「ゼロはもういない。その名で呼ぶな」
吐息さえも白く凍らせる無慈悲な声音に、ようやく理解が追いついた。納得せざるを得なかった。
ゼロは、もうゼロではない。
これまでに交わした約束は、言葉は、信頼は―すべて、その価値を失ったのだと。
残された親指ほどの大きさのパンを、舐め溶かして食べた。食べる意味がどこにあるのか、答えは陰鬱が覆い隠している。
「手紙を書くんだ、シャイン。マジェスタットのミル。それから、リンドのリアラ」
翌日、再び姿を現したゼロの声音に感情はなかった。背後のアンバーは腕を組んだまま、苛立たしげにあちこちを見回している。一秒でも早く立ち去りたいと思っているのが伝わってくる。帰りたいなら帰れ。内心で唾を吐いた。
昨日もきっと、まともな食べ物と引き換えに手紙を書かせようとしていたのだろう。シャイネが危険なほど消耗していたために先送りになったわけだ。ならば待遇を改めろ、と冷ややかに思う。
ゼロを諦めれば混乱は収まり、こころは凪いだ。けれども、彼らの意図は量れない。何のための手紙だろう? 詳細はともかく、大切な友人たちを危険に晒す内容であるのは間違いない。そこまで堕ちろというのか。
「痛い目に遭わないとわからないか」
雨の具合を尋ねるのと変わらぬ淡々とした声音だった。彼は「いい子には見せられないこと」をする度胸も残酷さも冷静さも持ち合わせている。
けれども、今のシャイネには犠牲にするものなどない。与えられたパンはもう腹の中だ。
「嫌だ」
答えた瞬間、左腕に灼熱が走った。
ゼロの腕が動いたのは見えなかったし、彼の視線はシャイネをすり抜けた先の壁に固定されたまま微動だにしなかったのに、いつの間にかその右手には乗馬用の鞭があった。
牢番に打たれて腫れあがる腕が真っ直ぐに裂けて、血が滲む。
痛みなどどうでもよかった。それよりも、かたくなに守り続けていたものが手折られ、踏みにじられ、汚された動揺が大きい。熱いものが噴き出してくるのを、奥歯を噛んでこらえた。
悲鳴も呻き声も、何ひとつ聞かせてやるものか。意地と変わらぬ強さで思う。
「シャイン、いいことを教えてやろう」
ゼロの声は平らなままだ。右手の鞭はどこかに消え、抑揚のない言葉だけが牢に響く。
「あんたがおれたちの要求を拒むたび、学問の都で人が死ぬ」
死という不穏さに、顔を上げる。虚ろな黒さに飲み込まれそうになり、身体がすくんだ。
「マジェスタットか、リンドか、カヴェか、モルドヴァか。どこかで、誰かが死ぬ。不思議なことに、その誰かはあんたの知り合いだ」
アンバーは何も言わず、薄笑いを浮かべて経緯を見守っている。
「変な話だろう。女神にも精霊にも無関係の人間が死ぬなんてな。この世はよくわからないことだらけだ。不条理ばかりで、救いがない」
そう言うゼロこそが、シャイネの理解の及ばぬ存在になっている。
左腕から音もなく流れ落ちる血を見つめ、黙って右手を差し出した。握らされたペンは氷のようで、まだ冷たさを感じるのかと驚く。
「この通りに書け」
渡された下書きの通りに文字のひとつひとつを、便箋に書き写してゆく。悪筆の自覚はあるが、悔しさとやりきれなさとで手が震え、さらにみっともない字になった。
父がお手本をくれ、何度も何度も練習した自署だけはまるで別人が書いたかのように流暢なのが滑稽で、みじめさは増すばかりだった。
「汚ねえ字」
黒と白の男たちが格子の外で笑うが、泣く気力も、怒る気概も残っていなかった。
鉄の扉が、絶望を高らかに歌い上げる。
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