神都へ (2)

 神都や学問の都の周辺に魔物が増えていて、思いがけず時間を食った。

 ナナに会ってアーレクスの監視を頼んだ時には、既に日程にはかなりの遅れが生じており、神都に立ち寄って情報収集する余裕はなかった。仕方なく、レイノルドは馬首を巡らせてひたすらに北上する。

 アンリ一行よりは早く戻らねばならない。彼に不在を知られるのは避けようがないが、それを理由にユーレカや青服たちの仕事に横槍を入れられてはたまらない。アンリの留守を狙ってレイノルドが逸脱したのと同じく、己の不在は彼にとって格好の機会となる。日程には余裕をみていたが、大量の魔物が全てを台無しにしてしまった。

 この魔物の数と様子は、どう考えても異常だ。

 今でこそ指揮官として後方に構える身ではあるが、かつては騎士として魔物討伐の最前線にあった。倒しても倒しても魔物はあちこちに現れ、行商人や家畜を襲った。そう、魔物とはそういうものだ。どこからともなく現れて、人や家畜を襲う。

 ところが、神都の周辺に群がる魔物はまるで動く気配を見せなかった。彼らの警戒域に踏み込むと襲いかかってはくるものの、頭上を飛び交う鳥型や羽虫達はこちらの存在と武装に気づいていながらも旋回を続けるばかりで、不気味なことこの上ない。

 レイノルドとて、神都近辺の魔物全てを相手にするのは不可能だ。待ちの姿勢を保つ様子に不穏なものを感じつつも、積極的に襲ってこない魔物が多かったために、単騎で切り抜けられたようなものだった。

 これを僥倖とみるか、何かの前触れとみるか。考えるまでもない、後者に決まっている。

 アーレクスと石卵の一件が片付いていない状態で、さらに神都という面倒を抱えるのは、少々荷が重い。今でさえ綱渡りなのだ、これ以上綱を細めると、均衡を失う。

 焦りと不安を蹴散らして、カヴェの外門を潜って街に入った。馬を下りて労ってやると、門を守っていた青服の童顔が輝く。

 マジェスタットに向かったアンリらはまだ戻っていないようで、街に目立った変化はなかった。ユーレカたちがよく働いてくれているらしい。

 馴染んだ街の匂い、雑踏、喧騒、汽笛、風の音。旅の間の緊張が解れてゆく。守るべき街の静穏に、レイノルドは知らず、溜め息をついていた。

 全ては手段だった。神殿長の位も、カヴェ神殿への配置も、目的の達成のためにこなすべき手順に過ぎなかった。それなのに、街で日々が安らかに営まれていることに、こんなにも安堵を覚える。

 ここはク・メルドルではない。守れなかった国の代替ではない。

 そう言い聞かせるも、新兵達が育ち、手がけた防犯策が実を結び、様々な感謝の笑みを向けられると、ガラスの破片を踏むがごとく痛み軋む滅びの記憶が遠のき、為すべきことを為した達成感と充実が胸に広がってゆく。温い感慨を押しのけて、自嘲の笑みが浮かんだ。

 そうして心がけねば、抱いた氷までもがいつしか溶け出してしまいそうで、怖い。あの時の虚無と憎悪が日常に塗り潰されることが何よりも恐ろしかった。

 南門から神殿までを歩き通すのはちょっとした運動だ。騎乗での強行軍で悲鳴を上げる足腰には辛いものがある。もう若くないのだ、と微かな諦念が再び、自嘲の笑みを刻んだ。

 神殿入り口の番兵に軽く手を挙げて、訓練場に向かった。強引な旅路に耐えてくれた愛馬は、さすがに疲労している。蹄の音を聞きつけたか、馬番の娘が厩舎から飛び出してきた。

 行き先を告げてはいないが、レイノルドが馬を酷使したことなど彼女の目には明らかだろう。非難の視線を背中に感じながら鞍を外すと、すかさず娘がたっぷりの水と餌を抱えてやってきた。

 熱心に馬の手入れをする様子に感心し、下町の宿から引き抜いた娘は、余計な詮索をしないところも気に入っている。むしろ、意思疎通に会話を必要とする人間よりも、物言わぬ馬に愛情が深いようだった。


「頼んだぞ」


 声をかけると、無言のまま娘は頷いた。馬のそばに寄ってからは、仮にも雇い主のレイノルドには一瞥もくれない。苦笑しつつ顔を上げると、訓練場側の入り口にいたユーレカと目が合った。

 見えもしない光を眩しく感じた自分自身を、次の瞬間に嘲笑する。馬鹿なことを。


「お待ちしていました。ご無事で何よりです」


 完璧な礼をとる彼女の表情は、眉の端まで乱れない。動揺している様子もなく、レイノルドの帰還を待ち侘びている風でもない。まったく、憎らしいほど出来た部下だ。

 神殿長の矜持と葡萄色の視線が姿勢を正させた。胸に広がる温かいものが信頼と安堵だと認めないわけにはいかない。


「遅くなったな、すまない」

「いえ」


 言いたいことは山ほどあるだろうに、その片鱗をも感じさせない。神殿の通路を辿り、階上へと向かうレイノルドの半歩後ろに影のように従うのも変わらなかった。

 たった一月離れていただけで懐かしく思えるほど、カヴェ神殿での日々や彼女との距離感は身体に馴染んでいる。


「報告があれば聞くが」

「大きなものは特に。皆がよく守ってくれました。出動の記録と日誌は机に」


 そうか、と返事を終えて間もなく、神殿二階の執務室に着いた。滅多に使う機会のない部屋だとはいえ、壁も扉も分厚いから、内密の話には向いている。既に連絡が行っているのか、普段ここを占拠している会計係の姿はなかった。書類と算盤だけが卓に散らばっている。


「お疲れでしょう。大事ありませんでしたか」


 そつなく茶の準備をするユーレカをぼんやりと見つめながら長椅子に身体を投げ出す。体が石になったかのようだ。


「南は魔物が多すぎてな、思っていた半分も動けなかった」

「魔物が……」

「特に神都だな。様子がおかしい。魔物たちは神都を包囲して、何かを待っているふうだった」


 小型の魔物ほど群れで動くものだが、大して知能のない小型の魔物の群れが待ち構えているのは異様と言うほかなかった。何かあると思わない方がおかしい。


「街そのものを狙っているのでしょうか」

「そうだろうな。住民の生活が心配だ。神都は食物を自給できないから」

「ええ」


 神都の周辺は土地が極めて痩せており、農地には向かない。それが、かつて使われたという石卵と関係があるのか、レイノルドは知らない。けれども、神都の北に位置する大都市メリア周辺には肥沃な土地が広がり、小麦や豆などが大規模に栽培されているし、学問の都付近でも農業は行われている。ク・メルドルの森も豊かだったし、神都だけがとなれば、何らかの影響があったと見るのが自然だろう。

 メリアから運ばれる農作物は神都の全住民の生命を支えている。魔物が隊商を襲い、食糧の輸送が止まればそれだけで飢えに晒されよう。周辺に魔物がどれほど増えようとも作物の買い入れを止めるはずがないから、輸送には常に危険が伴う。魔物たちが食糧の供給線を断つ知性を持たずとも、通りかかる馬車を黙って通してくれようはずがない。

 或いは、魔物の群れを統率する者がいるのかもしれなかった。精霊を束ねる王がいて、半精霊がいるように、魔物を統べる王がいて、半魔がいてもおかしくはない。

 最悪、女神教首座アンバー・メイヒェムが魔物を統べている可能性さえある。周囲を魔物に囲まれ、食糧の確保すら危ういのに何の対抗手段も取らないのは、悠長なのでも愚鈍なのでもなく、何らかの勝算があるからに違いなかった。


「お母様のご様子は、如何でした」


 思索を断ち切ったユーレカの嫌味からは、彼女の心情は図れない。平然と湯を注いでいる。


「私の顔を見たらすっかり良くなったらしい。まったく、人騒がせなことだ」

「何よりです」


 彼女は俯き、言葉を切った。茶器がかたりと鳴る。


「ユーレカ、すまない。心配をかけた」

「ええ」

「この埋め合わせはきっとする」

「……ええ」


 泣いているのだとばかり思っていたが、違うらしい。

 泣いているのではないとすれば、怒っているのだろうか。蔑ろにしたことは確かだが、それは信頼があったからこそで、と言い訳をしかけ、手綱を絞る。咳払いしたい気持ちをこらえた。


「……会いたかった、ユーレカ」


 ごとんと音をたてて茶器が卓に置かれる。振り返ったユーレカは凄まじい形相だった。思わず居住まいを正す。


「どうして今、そんなことを仰るんですか!」

「怒っているのか」

「違います!」


 怒鳴り返される。ここまできて、怒っているじゃないかと指摘するほど愚かではない。


「……なるほど」


 旅の疲れと帰還の喜び、再会の高揚が身体を動かした。

 壁は厚いのだ、何を恥じることがあろうか。

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