神都へ (3)
翌日からは、目が回るほどの忙しさだった。
決裁や承認を待つ書類が文字通り山となって待ち構えており、留守中に発生した事件や神殿内でのいざこざの仲介と解決と事後処理に追われ、新たに飛び込んでくる要請を捌き、バスカーや港湾局、宿城の主シドウをはじめ、街の有力者のもとへ挨拶回りに出向く。
道なき道を突き進む旅も命懸けだったが、積もり積もった業務を消化するのもまた、命懸けだった。ユーレカが予め仕事を分別、分類し、優先順位をつけてくれていなければ、倍以上の時間がかかったことだろう。
彼女の机には、店名らしきものを綴った紙がこれ見よがしに残されていた。私服で街を巡回させている青服らに探りを入れたところ、どれも北東の市にある食堂や料亭だという。文句の言える立場ではない。
いくらか仕事の山が低くなってきた頃にアンリ帰還の報せが舞い込み、神職の能無しどもが帰還を祝う宴を催すと通知してきた。
レイノルドやユーレカがいない方が双方楽しめると思うのだが、それは体面を重んじる杓子定規な老人どもが許さない。面倒が過ぎる。
おまけに、東方へ迎えの一隊を展開して、アンリと合流した後で街中を行進すると言うのだから、ついに噴き出してしまった。怒りのあまり笑うなど、久方ぶりのことだ。
準備にかかる費用を負担せねばならないと聞いて
「いいか、奴は体よく追っ払われての帰路だ。相当気が立ってるとみて間違いない。徹底的に持ち上げて、いい気にさせておけ。そうでないと、後が大変だからな」
懲りるということを知らぬウォレンハイドの末弟が、酒肴と共に出迎えたレイノルドに、東への旅の困難と彼の勇敢な数々の指揮と決断、そして憎き兄との再会と卑劣な半精霊の仕打ち、見るもおぞましい、汚らわしき抱擁! と調子よくぶちまけてくれたのは何よりの成果だろう。
話の最中、アーレクスとシャイネが港からマジェスタットを抜け出したと聞いて、内心で膝を打った。
船を使ったなら、間違いなく南へ向かったはずだ。北にも町はあるが、「背骨」を越えて西へ向かう道が拓かれていない。追われていると知って、好んで袋小路へ進みはしないだろう。恐らくはモルドヴァに立ち寄ってナナに出会い、学問の都を目指すはずだ。
妹は細かな策を弄する性格ではないが、必ずや、アーレクスを大学府図書館まで導くだろう。そこで記憶が戻るならそれも良し、戻らないのなら彼女に誘導を任せ、少々荒っぽい手段に出るのもやむを得ないかもしれない。彼の記憶が戻らぬままに命を奪ってしまうのでは、あまりに手緩い。
程なくして、ナナからアーレクスと合流したので学問の都に向かうと報せが届いた。
彼女はその後、宿場町からも頻繁に手紙を寄越してくれているようだが、魔物が増えているせいで到着が遅い。ひどいときには、日付が古いものが後から届く。
手紙には、アーレクスと手合わせしたこと、シャイネとの親しげな様子、魔物の待ち伏せとシャイネの負傷、森の王が姿を見せたことなど、道中の様子が詳しく綴られている。傭兵を辞めても文筆業で食べてゆけるのではと思わせる巧みな描写に、何度か現実を忘れかけた。
おまえは、あのときク・メルドルにいなかったから。
レイノルドは妹を突き放して自らの温度を下げる。シャイネとアーレクスが親しくする様は、まるでク・メルドルの悲劇の再来を告げているようで平静ではいられなかった。
ウォレンハイド、そして半精霊。凡庸な幸福とは最も縁のない組み合わせだ。マリエラとイシュレアにもたらされた死を、あの人の好さそうな半精霊もまた負わされるだけではないのか。
その後、学問の都に到着した報せから少し間が空いて、次の手紙には、アーレクスの記憶が戻ったと短く記されていた。
――ようやく。
ようやく、だ。
しかし、魔物のおかげで手紙のやり取りもままならなくなっている。これまで一週間とかからず届いていた手紙が十日、二十日と遅れる。失われたものがあっても知りようがなく、とても指示など出せない。おまけに、アーレクスはシャイネを連れて、神都回りでカヴェに戻ってくるとある。それも、この自分に会うために!
馬鹿か、と罵声が迸った。アーレクスが神都に立ち寄れば、必ずやアンバーの知るところとなるだろう。神都の君主の威光、絶対性を、彼らは知らないのだ。
この身はカヴェを離れられず、自由に動かせる者もいない。どうする?
考えを巡らせるレイノルドの元に、更なる悪い知らせが飛び込んできた。神都神殿からの使者、アスタナ・ウォレンハイド、つまりアーレクスの叔父の来訪である。名目は神殿間の交流と視察、アンリの大司教任命に伴う面談と試験。
(今、この時期にか?)
魔物の包囲を抜けてわざわざ来るのだ、名目はさておき、いくらでも悪い方向に考えることができた。牽制以外の何でもなかろう。
レイノルドがク・メルドルの騎士団長であったことは、アンバーもアスタナも承知しているはずだ。神殿との対立もアレクシアの報告などなくとも知られているだろうし、半精霊を妻に持った男が女神教の門を叩いたのだから、警戒されるには十分だと自覚もしている。
国亡きあと、青服を着るのは能力を活かすため、他意はないと目立たぬよう振る舞っていたのに。
アーレクスがアンバーと接触することだけは避けねばならないのに、それを防ぐ手立てがない。すべてを
復讐は何にも優先するはずだった。なのに、今の地位を、立場を、カヴェを、多くの部下を――ユーレカを切り捨てられない。
焦るレイノルドに構わず、日々は緩やかな起伏とともに過ぎ、本格的な夏を迎えたカヴェ神殿に、二組の来訪者があった。
片方はアスタナ・ウォレンハイド一行。
もう片方は、街を訪れた旅人。半精霊を連れている。
「半精霊だと?」
上がってきた報告に、隠しようもなく声が上ずった。シャイネの引き起こした騒動を思い出し、知らず顔を顰めている。
「巡回中の者が出会って、ともかく連れてきたとか。……あの、シャイネたちとは違って、その、態度が大きいというか、ふてぶてしいというか、今にも暴れだしそうな雰囲気で……」
珍しく、ユーレカの声には困惑が滲んでいる。彼女も取り調べ担当者に泣きつかれたそうだ。
こう頻繁に半精霊と出くわすのも何かの縁、もしかすると使えるかもしれない。レイノルドは重い腰を上げ、取調室に向かった。
旅人らは、男が二人に女が一人だった。女が半精霊で、三人とも突然の勾留に不満を抱いているのがよくわかる。とすると、半精霊に寛容な土地の者か。
男二人はどちらも上背があり、片方は幅も厚みもあった。狩人なのだろう、両手剣や長弓など、体格に見合った凶悪な武器が部屋の隅に固めて置かれているが、安全を保証するものではなかった。狩人たちは丸腰にも関わらず、ぴんと張った弓弦のように、気を緩めることなく腰掛けている。
レイノルドとユーレカが敵なのか味方なのか、それとも取るに足らぬものなのか。野生の獣のごとき逞しさと集中力で見極めようとしているのだろう。
分厚いほうの男は素手で机を割れそうだし、細いほうは視線で人を射殺しそうだ。女は静かに座っているが、半精霊の力はよくよく知っている。群青の制服の若者が今にも泣き出しそうな顔で座っているのにも頷けた。
さて、どう出るか。小細工の必要はまだない、直感が告げる。
「神殿長のレイノルドだ。突然の非礼、まずはお詫びしよう。驚かれたのではないかな」
「まったくだ。ここでは、街を歩くだけで罪人かい?」
黒髪の大男が肩を竦めた。巨躯から発せられる声は豊かで深い。ナルナティアと同じ年頃だろうか、年齢を感じさせぬ溌剌とした物言いだった。
「半精霊が歩くだけで危険視されることもある、というのは知っておいたほうがいいな、狩人殿」
「知識としては、知ってるさ」
やはり、彼らは精霊に寛容な土地から初めてこの街に来たようだ。マジェスタットから来たにしては垢抜けない。とすると、北からか。
見た目は野暮ったいが、狩人たちは少しも臆せず、冷静に振る舞っている。話が通じる相手かもしれないと、微かな期待が兆した。
「つい先日も、神殿で暴れた半精霊がいてね。……こちらにも非はあったことは認めるが、窓を全て破られた。その修繕が終わったばかりで、みな気が立っているんだ」
半精霊の視線が僅かに泳いだ。
「この街を訪れた理由を教えてほしい。なに、調書を作るだけだ」
細身の男と視線のみを戦わせながら、ユーレカが書類を用意する。纏め役らしい大男が語るのかと思ったが、口を開いたのは意外にも、半精霊の女だった。
「人に頼まれて、神都に向かっています。お使い、ということです」
「ほう。いま南は魔物が溢れていて、かなり危険だぞ。狩人の方に失礼かも知れないが、耳に入れておく」
「魔物が、そんなに」
女の呟きは、ごく小さい。大男が後を継いだ。
「俺たちの雇い主もそれを心配していて、少し様子を見てきてくれと頼まれたんだ。別に何をしようってわけじゃない、観光みたいなものだよ」
彼らの雇い主がどうやってそれを知ったのか疑問は残るが、ともかくもこの物騒な三人組が南へ向かうのはわかった。
――使える。
レイノルドの頭が猛烈に回転をはじめ、起こり得る事象を想定し、あらゆる可能性を吟味する。使える手札を選び出し、並び替え、使う順序を考える。細かい修正は必要だとしても、いける、と結論した。
「君たちは傭兵か?」
「違う」
短く答えたのは、目つきの鋭い細身の男だった。
「必ずしも金目当てに動くわけじゃないが、今回は訳ありでね、傭兵まがいのことをやってる。普段はお察しの通り、魔物を狩ってる善良な狩人だよ。拠点はリンドで、エージェル中を巡ってる」
大男の言葉になるほどと頷いて見せ、声を潜めた。
「私も君たちを雇えるか?」
へえ、と大男は楽しそうに目を輝かせた。黒い髪、黒い眼。色合いはアーレクスを思い出させるが、人となりはまったく違う。
「あんた……ええと、レイノルドさん? 依頼を受けたとして、あんたは、俺たちに何をくれるんだ」
半精霊が窘める視線を向けるが、大男は一顧だにしない。
「金と情報と自由」
「そりゃあいい」
くくく、と彼は笑った。大男を止められぬと知ってか、細身の男も半精霊も、何も言わなかった。あまり表情のないまま、次の言葉を待っている。
「別に難しい話じゃない。学問の都に妹がいるんだが、速く確実に届けたい手紙があってな。頼めるだろうか」
魔物のせいで手紙の行き来も遅れているのだ、と補足する。
「ただの手紙ではないから、それだけの報酬を下さる、と?」
半精霊の女は空色に輝く眼で真っ直ぐにこちらを見つめている。思い出すことも少なくなった妻の眼が脳裏を過った。
マリエラにもこうしてじっと見つめられることがあった。多くはレイノルドの独走を咎める視線だったが、堪える間もなく湧き上がった強烈な懐かしさに、不覚にも堰が揺らいだ。
「……その通りだ」
「事情を伺っても?」
しばし口を噤み、どう言い抜けるかを考えたが、精霊の眼がちらついて碌に考えが纏まらなかった。
「詳しい事情は、話せない。……私にも立場があって、女神教と一口に言っても、いろいろ派閥があるということだ」
「あなたは半精霊を恐れていませんね。それに関わることですか」
なかなかどうして、鋭い女だ。苦笑しながら頷く。彼女は更に質問を重ねてきた。
「以前に半精霊がここで暴れた、と仰いましたね。その、半精霊の名を教えてはいただけませんか」
そういったことは話せない、と突っぱねることもできただろう。けれど、どうしてか素直に、シャイネの名を告げていた。背後でユーレカが咎める気配を放つ。
ところが、シャイネの名に反応したのは、目の前の三人だった。真摯な眼をした大男が、ずいと身を乗り出す。
「依頼を受けよう」
「あなた方は、シャイネを知っているのですか」
ユーレカが口を挟んだ。普段ならば考えられないことだ。それほど、この狩人たちはこちらの調子を狂わせる。それが狩人としての素質なのか、或いは半精霊の力なのかはわからない。
「シャイネは、私たちの妹のようなものです」
女は薄く笑った。それぞれに頷く男たちの様子からしても、彼らがどれほど彼女を慈しみ、可愛がっていたのかが伺い知れる。かつての仲間なのかもしれない。
「もし、あの子が何か危険に晒されているのだとしたら、私たちは全力で危険を排除します。……改めてお伺いしますが、その手紙を届けることで、シャイネが不利益を被ることはありませんね?」
心の中、頭の中までも見透かす透明な視線。声は静かで、殆ど感情の波が感じられない。だというのに半精霊の声はレイノルドの奥深くを抉るかのごとく鋭く響く。
自然と、腹に力を込めていた。そう、彼女は失われてはならない。ものには順番がある。
「断言はできない。だが、その危険が回避できるものならば、回避したいと思っている」
「そうですか」
女は視線を逸らし、小さく息をついた。その吐息に僅かの諦めが含まれていると思えたのは、気のせいだろうか。
レイノルドもまた無意識に止めていた呼吸を再開しながら、全身の力を抜く。
交渉は成功したのだ。あとは細部を詰めて、ナナへの手紙を記すのみ。
「手紙ができれば、宿に届けよう。……名前を教えてもらえるか」
「そうだった」
大男は快活に笑った。獰猛な獣がその下に潜んでいることは、十分に承知している。この獣をうまく飼い慣らすことができるだろうか?
自問し、できるさ、と笑う。今までもそうしてきたじゃないか、レイノルド。
男は無造作に手を差し出す。大きく、厚みのある手だった。
「ヨアキムだ。キムと呼んでくれていい」
――第四章「旅路の果て」に続く
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