アーレクス (3)
「僕のことはいいんだよ。ゼロは? 何かわかったの?」
「ああ、まあ……」
食後の渋茶を啜りながら調査員の手記の話をしてやる。石卵に関する考察まで語り終えると、シャイネは唇を結んで目を伏せてしまった。
「……ひどい話だね。ほんとにそんなの、ゼロが持ってて大丈夫なのかな」
「さあな。ヴァルツが大丈夫って言うなら、そうなんだろ。今だって何ともないし、きっと使うには特殊な儀式とか準備が必要なんじゃないか。そうそう危険なものが危険なまま放り出されてるとは思えない」
そのまましばらく、彼女は黙って俯いていた。考え事をしているふうなのでそっとしておく。
ごみを纏めて捨てに行っても、難しい顔のままだった。皺になるぞと軽口を叩ける雰囲気でもない。
「ね、ク・メルドルの人が精霊と仲良くなって、困るのは誰なんだろう」
顔を上げるなり、不思議なことを言い出した。ゼロが怪訝な顔をしていることに気づいたのだろう、言葉を継ぎ足す。
「ええとね、だから、あの卵を使った理由は何だろうって考えたら、やっぱり一番は精霊に関わることなんじゃないかなって思うんだ。国のど真ん中に魔物が現れたってこともないだろうし、人間相手ならそんなの使わなくてもいいわけだし」
「ああ、そうか……。そうだな」
石卵について無知な者が誤って発動させた、もしくは偶然だとは考えにくい。大国のことであるから、体制や政治への不満は大なり小なりあっただろうし、組織だった反抗もあったかもしれない。が、反乱分子を黙らせるために国そのものを吹き飛ばしては意味がない。魔物に対しても同じだ。ではやはり、精霊に関することなのか。善悪や理屈を超えた何か、であるのは確かだ。
シャイネがどうして「仲良くなって困る」などと言い出したのか、よくわからないまま、慎重に答える。
「一番困るのは女神教の連中だろ。困るっていうか、憎々しい、かもな」
だよね、と頷くさまは、まるでゼロの答えを予想していたかのようだった。
「騎士団が精霊封じの剣を使ってたっていうことは、たぶん王様とか、そのくらい偉い人も精霊のことを認めてたってことだし」
「何が言いたい?」
彼女はやはり真実を知っている。神都に近づいたからか、ことの真相を調べるべく図書館を訪れたからか、精霊たちも黙ってはおれぬということだろう。闇の王のあの凄まじい眼はしばらく夢に見そうだ。あれほど睨まれねばならないことを、過去の自分はしでかしたのだ。
償いようもないことか。罰を望むことは許されるのだろうか。それとも、全て背負って生きてゆかねばならないのか。
精霊たちがシャイネを唆して、ゼロの記憶が戻るよう働きかけているのであれば、なかなかどうして、いい性格をしている。食べたばかりの弁当が腹に重い。
「ウォレンハイド家って、神都では有名なお家なんだってね。お家の人はみんな女神教に関わっていたわけでしょ。アーレクスだけが神職に就かずに騎士になったんだとしたら、たぶんすごく家にいづらかったと思うんだ。……あの、別に悪く言うつもりはないんだけど、それってお父さんやお母さんからしたらものすごく面白くないと思うのね。悪い仲間とつるんでる、みたいに」
「それで石卵を使ったって? そりゃあいくらなんでも、短絡的すぎだろ」
シャイネは何かを言いかけて、やめた。しばし眉を寄せて考え込んだ後、言葉を選んでいるのがはっきりわかる顔つきで、語り始めた。
「あのね、女神は精霊の助けを借りてこの世界を創ったって言ったでしょ。で、思ったんだけど、それって逆に考えれば、精霊を殺せば世界を滅ぼせるってことじゃない? 石卵って、精霊と魔物を殺すためのものじゃないのかな」
「魔物と精霊を……?」
魔物は剣で斬り、命を絶つことができるが、精霊はこちら側では炎や風といった現象としてしか見ることができず、斬ったり刺したりはできない。燃え盛る炎や猛る風に剣を振るったとしても精霊が傷つくわけではないし、こちら側で実体を持ったイーラやヴァルツを殴っても、存在そのものには何の影響もない。
「女神も精霊も魔物も、みんなこっちじゃないところの存在でしょ。そういうのだったら、お互いに影響しあうんじゃないかって」
「それは、そうかもしれないな。ただ……石卵で魔物を殺すのはわかるけど、精霊を殺してどんな利があるんだ?」
シャイネはふいと視線を逸らした。暗い光が何を見据えているのか、ゼロにはわからない。
「利とか損とか、そういうこととは関係なしにって、あるだろ。だって卵は武器なんだよ。敵を倒すためのものだよ」
「精霊もか。協力し合ったのに」
言いながら、何を甘いことをと自嘲する。精霊も敵だ。女神教の態度がそう告げている。
女神と精霊が協働して創り上げた世界を魔物が破壊するという構図ならば、女神と精霊は敵対関係にはないはずだ。なのに女神教は精霊を忌み嫌い、排除しようとしている。
いつ、何を理由に女神教は精霊を異端視するようになったのだろうか。図書館で読んだアースラ・ウォレンハイドとやらは既に精霊を敵視していた。神の為したことをねじ曲げた神話を流布する本意はどこにあるのだろう。
「母さんたちは、特に女神を嫌ってるとか、そういう感じじゃなかったんだよね」
「じゃあ、女神教側の事情ってわけか」
「……あっちで水の王に会ったんだ。ゼロのことを、よろしくって言われたよ」
やがて届いたシャイネの呟きは、風の音に紛れるほどの大きさだった。
「水の王が? まさかそれで呼びつけられたのか?」
「わかんないよ、僕には」
嘘をつくな、と問い詰めたい凶暴な気分を押し殺し、眩しい青空を見上げる。雲の白さが目に沁みて、焦りと恐怖が水位を増す。いっそ、自分にも知らせてほしかった。
アーレクスは水の半精霊と結ばれたという。ならば王はたいそう複雑な気分だろう。娘は死に、女神教に連なる男はのうのうと生きて、昔のことなど忘れてしまったと
埋めた記憶を自分の手で掘り返せ、その過程もみな身に刻めとは、酷だ。
自分自身が思い出せないことを、まったく部外者の精霊たちやシャイネが知っているのは決していい気分ではなかったが、だからこそ黙ってくれている彼女の無力感も理解できるから、腹の奥で煮える怒りと苛立ちを表に出さぬよう、掌に閉じ込めた。
「……ゼロ」
手の甲に触れたシャイネの指は蝶の羽ばたきよりも儚く、すぐに離れてゆく。
人気のない湯屋でひとり、ゼロは物思いに耽っていた。シャイネの目がない方が考え事には向いている。
天井近くの換気窓からは、酔っ払いの調子外れな歌声や喧嘩を囃し立てる声が聞こえてくる。夜も更け、通りに面した宿ではないのに賑やかなことだ。カヴェやマジェスタットに比べてお上品な印象があったが、余所者が集まる宿屋街はどこでも雰囲気が似通っている。
すっかりふやけた指を折って数えつつ、昨日からの出来事を順に辿った。たくさんのことが一度に起こりすぎて、混乱している。
シャイネは女神と精霊について調べると意気込んでいた。そして突然現れた闇の王に連れられてあちら側へ行き、精霊の王たちと言葉を交わした。
そう、様子がおかしいのはそれからだ。彼女が何かを隠していることは傍目にも明らかで、それは間違いなく、ゼロの過去に関することだ。
ヴァルツに助けられ、森で横になっていたところからゼロの記憶は始まるが、思えば精霊の王たる彼女に助けられたこと自体が不自然だ。森は広く、遭難する者も少なくはないはずで、ヴァルツがそんな彼らにも救いの手を差し伸べていたとは思えない。
それなのにどうして自分を助けたかと言えば、思い当たる節はひとつ――アーレクス・ウォレンハイド、神都で重要な地位にあるウォレンハイド家の嫡子だから、だ。
とはいえ、それも今ひとつ納得がいかない。ク・メルドルは精霊に寛容だったようだが、ウォレンハイドは神都二家、女神教の中心であり、精霊をよく思っていない筆頭である。いくら精霊封じの剣を持ち、半精霊と結ばれたといっても彼女にすれば耳元の蚊に等しい存在だったはずで、生命を救いたいと思う相手ではなかろう。
何もかも全て、芝居だったのだろうか。それともウォレンハイドやら精霊やらは無関係に、気紛れで助けられたのだろうか。
例外中の例外、と言ったシャイネの言葉を思い出すが、確信には至らない。ウォレンハイドであることが例外だとも思えるし、気紛れが例外だとも思える。それに、水の王がシャイネを呼びつけてよろしくと宣うなんて。
神都生まれなのに、女神より精霊に縁が深い。まったく皮肉な話だ。隙あらば顔を出す怯懦をこそげ落とすべく、頭から湯をかぶる。
『趣味は変わってないって』
『ゼロのことを、よろしくって』
耳の奥を過ぎる声に、石鹸を泡立てる手を止める。腕の中で細い身体が冷たくなっていく感覚がまたも生々しく蘇った。
誰か大切な人が奪われたことを、覚えている。
どうして、何故、失われたのだったか。
アーレクスが半精霊と結ばれたから? 違う。そんな程度で石卵を使うほど連中は愚かではない。無用の破壊は内部からの批判を招く。石卵は敵を一掃するとともに、使用者の地位を危うくする可能性をも秘めている。
では、アーレクスが絶望したのか。結ばれないのならいっそ、と。
(いや、まさかな。レイノルドのことだってあるし)
ウォレンハイド家だけ、女神教だけの話では、レイノルドの憎しみの理由にはならない。
精霊に親しむ国の騎士団長だった彼が、女神教の門を叩いてまでアーレクスを殺したいほど憎む。二人の間に何があったのだろう。彼が石卵を求めるのは、それが滅びを招いた原因だからか。
上せそうになったので、湯屋を出た。ざっと頭を拭いて服を身につける。全身に残る傷跡の多くは、ヴァルツによれば滅びの日につけられたものだ。色街では驚かれることも、武芸者だと持て囃されることもあるが、自分ではもう何とも思わない。ただ、誰にやられたのかだけは気になった。
ナルナティアの話では、レイノルドは滅びの夜にク・メルドルにいなかった。彼でなければ、誰の仕業なのか。そいつは今どうしているのだろう。気配はないが、未だにつけ狙われている可能性だってある。レイノルドに憎まれ、何者かにはいたぶり殺されかける。一体どんな恨みを買っていたのだ。
首を捻りながら部屋に戻ると、とうに寝ていたはずのシャイネが、床に座って膝を抱えていた。
「あ、おかえり」
微妙に目を逸らしたことからして、また遊んできたと思われているのかもしれない。舌先に僅かな苦みを覚える。
「眠れないのか」
「んー、ちょっと変な夢を見てさ」
ああ、と無力な相槌がこぼれた。半魔に攫われた後、荷台でずっとうなされていたことを思い出す。眠りながら暴れる手を握ってやれば、悪夢は去ることを彼女は知っているだろうか。いや、もう少しだけ黙っておこう。
いつもは夜半過ぎか夜明け前といった頃合いに目を覚ますのに、よほどの悪夢だったのか。それにしてはシャイネは取り乱しもせず、落ち着き払っている。
「シャイネ、あんた、もしかして」
月の光が寝台を銀と黒灰に染め分けるさまはどこか現実味がなく、まるで一枚の絵のようだった。こちらを見上げる金茶の眼は穏やかで、意図せず足が前に出た。止められなかった。
精霊の眼が人を、昔の想い人を操ったのだと彼女は言った。それを深く悔やんで恥じてもいるらしいが、恐らくそいつは、精霊の眼に魅了されたことを汚点などとは思っていないだろうし、そのことで彼女を軽蔑することもないだろう。むしろ、進んで支配を望んだのではないか。
人ならざる力で人を縛ることを良しとせず、そのくせ一時の快楽を求めることに抵抗を覚えない危うげな倫理観、道徳心をとやかく言う気はないし、つけ込むつもりもないが、どうあってもゼロは言葉を呑み、口を噤むべきだ。選択権は彼女に委ねられねばならない。
「夢を制御できるようになったのか」
「……たぶんね」
膝を抱えて小さくなったまま、返答は素っ気ない。何を見たんだと問おうとして、今更ながらの遠慮が声を吐息に変えた。
――ああ、あの夜もこんなふうだった。
唐突な感慨が記憶の扉を叩く。
彼女は体を丸めて、失われゆく生命を少しでも長く留めようとしていた。月の光がじわじわと広がる血までも二色に染め上げていて、怖くなった。彼女の生命が流れてゆく。彼女が水に還ってしまう。
恋い焦がれ、愛おしく思った輝く蒼い眼はもう見えていなかっただろう。腕の中で最期の息をついた彼女に、痛切な声は届いただろうか。イシュレア、と、何もかも振り絞って紡いだ声は。
何度も何度も、おれを呼んだだろうに。
助けを求めただろうに。
間に合わなかった。助けることができなかった。
愛した女。半精霊。あの夜に失われた、すべてのもの。
今までどうしても解けず、もどかしかった結び目がするりと解け、満ちて、流れていった。
「イシュレア……」
堰き止められた水が溢れ、目まぐるしく、狂おしく、いくつもの光景が目の前を流れすぎていく。封じ込めた言葉が、閉ざした感情が、激流となって心を切りつけてゆく。
あの夜、腕の中で呼吸を止めた、水に愛された半精霊イシュレア。
彼女はアーレクスを愛し、アーレクスもまた、彼女を愛した。
「ゼロ」
洗い清めたばかりの頬を熱いものが流れ落ち、シャイネの指がそれを掬った。抗わずに体温に縋る。
いま守るべき、大切な存在に。
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