アーレクス
アーレクス (1)
シャイネが戻ったのはすっかり夜も更けてからだった。湯を使い、味気ない夕食を終えて、夜の街に出かけるかと思案しているのを察したとしか思えず、気まずい。
「遅かったな、飯は?」
「お腹空いてない」
剣帯の留め具を外し、寝台に刺突剣を放り出した彼女はひどく疲れているふうで、母親に連れられて行った先で何があったのか、半日でげっそり痩せたように見えた。病み上がりなのだし、無理はして欲しくない。
大丈夫か、と言いかけたところに腕が伸びてきて、締め上げ――抱きしめられた。
「えっ、どうしたんだ……」
肩に押しつけられた額、体温と汗の匂い、力の籠もった腕。無様に狼狽え、声が震える。おれは、抱き返してよいのか。それとも試されているのか。ぎゅっとした瞬間に、闇やら森やらの王が現れて死刑宣告される図しか思い描けない。
「罠か」
「なんの」
不機嫌そうな声に、慌てて細い背中に腕を回す。薄い体だった。
これまで、彼女がこんなふうに甘えてきたことは一度だってなかった。マジェスタットの海辺の倉庫で交わした抱擁の強さ、熱さは記憶に新しいが、抱き合った輪の中に甘さはついぞ生まれなかったし、想いを告げた時には精霊の眼で恋情が揺らいだどころか、現状の快適さを放棄するか否かの選択肢が突きつけられただけだった。
甲斐性がないと断じられればそれまでだが、雰囲気に流された交歓であればすぐに我に返るだろうし、そうでなければ巧くやる自信はあった。何故なら、シャイネも同じだと感じるからだ。自惚れではないと思う。
彼女がひとつ頷きさえすれば、と待ち構えていたつもりだったが、それでも思いがけぬ積極性には動揺した。強張った体の力を抜くと、ますますしがみついてくる腕の力が強まる。なんだ、おれはここで死ぬのか。もしかして幻? 感慨深すぎて良からぬ想像しかできない。
「ゼロはさあ、頑張ってるよね」
「は? どうしたんだよ」
酔ってるのか、と訊きたいが、どんな答えが聞きたいのかはわからなかった。はいと答えて欲しいのか、いいえなのか。
「死んじゃだめだからね。危ないことしないで」
「ああ、うん……?」
答えは歯切れ悪く消えた。こちらを気遣う彼女にこそ、気遣いが必要だと思える。母親からどんな話を聞いたのか、何を見たのか、どこへ連れて行かれたのか、ともかくもゼロには窺い知れぬ何かを、彼女は知ったのだろう。
「あんたこそ頑張ってるだろ。大丈夫なのか。まだ本調子じゃないだろうに」
「僕? 僕なら平気。こんなに元気なのに寝てるなんて退屈だよ。動いてるうちに調子も戻るって」
腕を緩めて顔を上げたシャイネと視線が絡んだ。輝く金茶の眼がこんなにも真っ直ぐにこちらを見たことがあっただろうか。いつも眉間なり鼻の頭なりに視線を逃がしていたのに?
それがどれほど自分の為になっていたか、ゼロは今初めて理解したし、ようやく彼女とまともに目を合わせて、眼で会話した気がした。
「……今日は目を逸らさないんだな」
「今日から大丈夫になったんだ」
またわけのわからないことを言う。今日までは大丈夫ではなかったのか。だから目を合わせなかったのか。――つまり、大丈夫だと王たちに教わった?
ちらりと引っかかった何かを、敢えて直視しないようにした。例えば、どうして大丈夫になったのか、ということを。
「あれからどうしてたんだ、って訊けば、教えてもらえるか?」
「色んな話を聞いたよ。女神と精霊と魔物の関係をあっち側から見た話。なんかね、馬鹿にするなって思うんだけど……うまく言葉にならなくて。そういうものだって言われたら、答えようがないしさ」
シャイネは街道での交戦後に、半魔と言葉を交わした。そればかりか、傷を洗い、毒抜きしてくれたのはその半魔たちだと言う。マジェスタットで出会ったクロアは飄々とした態度だったが、朱金の眼には底知れぬ力を感じたし、舌舐めずりせんばかりにこちらを見る視線は明らかに捕食者のものだった。
シャイネを介抱したことも、
「でも、母たちが……たぶんヴァルツもだけど、僕たちの手助けをしたり、助言をくれたりって世話を焼きたがらないのは、情が移るからなんだって、なんとなくわかった」
「どういうことだ。あんたは十分愛されてると思うけど」
「それはまあ、そうなんだけど。でも、母は父よりも僕よりも長く生きるから。特定の人間にこだわりすぎると、先立たれたとき悲しいんだろうなって。それを割り切れるほど、精霊は淡泊じゃないし」
するりと腕から抜け出したシャイネは寝台に腰掛け、ゼロを見上げて唇を歪めた。
「神都に動きはないみたい。母もヴァルツもそれを気味悪がってた」
「……そうか」
ふと、彼女はもう全部知っているのではないかと予感が兆した。半魔や精霊の王たちと対面したなら、何が起こっているのか、誰が何を企んでいるのか問うたことだろう。滅びの全容も聞き知ったかもしれない。だから、急に態度が軟化したのではないだろうか。こうして話してくれているのは彼女なりの思い遣りなのではないか。
それを質すこともできず、沈黙する。話術に長けているとは言い難いシャイネに何を訊いても「知らない」としか答えないだろうから。こちらの心中を思い遣ってくれている、それだけで十分だ。
「目を合わせて大丈夫になったっていうの、ほんとか。試してみるか」
人を意のままに操る精霊の眼。それに魅了されないこの身はなんだ。それとも、誰に対しても効力を失ったのか。まさか!
自分でも冗談なのか本気なのかわからぬままに、シャイネの寝台に膝をつく。意外にも、抵抗はなかった。同意ではなくて投げやりになっているだけのようだが。
「ゼロがそうしたいなら、別にいいよ」
「別にいいって、あのな」
「言っただろ、僕、宿城で働いてたんだよ。そういうお客さんだっていたよ」
「見ず知らずの流れ者と寝たのか! 三誓は?」
思わず大声になった。彼女は顔を顰めて口を尖らせる。
「無理やりじゃないもの。それに、いくら何でも一見さんは断るよ。病気持ってたりとか、面倒事に巻き込まれたら困るし。顔も名前も知ってて、ある程度身元も仕事もはっきりしてる人じゃないとやだ。その点ゼロは安心できるだろ。殴ったり痛いことしたりしないだろうし」
「ば……」
馬鹿、と罵りかけて、どうにかこうにか怒声を呑み込んだ。清く正しい人生にこそ価値があるなど、口が裂けても言えない。シャイネを罵倒し、賢しらに道徳を説く権利など持ち合わせていないのだ。彼女なりに線引きはしていたようだし、自分だって色街で遊ぶ。
それでも、別にいい、などと譲歩で許されるのは自尊心が許さなかった。ということにしておく。
「おれがいい、って言われるまではやめとく」
「すごい自信だ」
くすくす笑うシャイネに背を向けて衝立を隔てる。
「そういうとこ、好きだな」
本当に酔ってるのかもしれないし、子どもに振り回されるのも面白くない。沈黙を保った。
寝た、寝ないに関わらず彼女は大切な旅の連れだ。そのことに変わりはない。ゼロが何者か知ってなお隣にいてくれるのなら、その態度こそが答えではないか。
それは、欲しかった答えのひとつだ。
図書館には独特の静けさと、ざわめきが満ちている。海に似ているのだ、と感慨が去来し、己にそぐわぬ詩的な叙情に内心で苦笑した。
「何かあったら、呼んでね」
「ああ。気をつけて」
「危ないことなんてないよ」
昨夜のことなどなかったかのように、シャイネの態度はいつもと変わりなかった。
昨日聞いた話がどう伝わっているか調べたいと語る彼女は三階に、ゼロはク・メルドルの地理と歴史を当たるために二階にと別行動することになっている。
人の世ではないあちらに生身の人間が行けるのかと意外な気はしたが、シャイネは半精霊、絶大な精霊の力を受け継いでいる。本人も知らない力を秘めているのかもしれなかった。
王たちの話は、創世にまつわる事柄だけではあるまい。女神が精霊の力を借りて創世し、魔物は女神と敵対し、世界を破壊する。それだけならば、ゼロを遠ざける必要はないからだ。
時が来れば、きっと話してくれるだろうと思うしかない。こちらもたくさんのことを抱える余裕はなく、目の前に立ち並ぶ書架を攻略するので手一杯なのだ。
「歴史」の書架に並ぶ立派な体裁の王国史には、ク・メルドル建国以来のさまざまな出来事が記されており、国の発展の様子や祝祭、王宮行事の由来がよくわかった。王家の系譜、政治形態や政府機関の組織図など、図表も多く添えられていて、読み物としても面白そうだ。建国までの紆余曲折や、その後の歴史が細かく記されていることからも、よい歴史家がいたこと、王家が文官を重んじていたことが窺える。つまらぬ文言が並んでいるのだろうと思っていただけに意外だった。
王国史は五年に一度発行されており、最新のものの日付は滅びの前年だった。王の急病、崩御と若き新王が打ち出した政治改革についての記述で終わっており、新しい時代への不安と期待がありありと想像できた。
大きく息をついて、本を書架に戻す。十冊ばかりざっと眺めただけなのに、肩と首に疲労を感じた。
「地理」の書架を見渡してみても、ク・メルドルがもっとも多くの書物を発行しているようだった。何気なく手に取った一冊を開くと、表紙の見返しに大判の絵地図が貼付されていた。懐かしさも感慨もないまま、しばし見入る。
大陸西岸、カヴェのはるか南に位置するク・メルドルは、海と森に挟まれた狭い平地に興り、南北に細長い国土を持つ。温暖な気候と海産物、森林資源に恵まれ、海運を通じて大国と呼ばれるまでに発展した。
農耕地が少なく、穀物は北東の農業地帯からの輸入に頼っていたが、東に広がる豊かな森で採れる果物、木の実、茸、苔などは薬草学、医学の発展に大きく貢献することになった。
国が豊かになるほどに人口が増え、経済活動が活発化し、さらなる豊かさをもたらす。目覚しい発展を遂げ、栄え富むク・メルドルだが、国が抱える問題が解消されることはなかった。
豊かさゆえに高い生活水準を誇ってはいたものの、富める者は富み、貧しい者はより貧しくと経済格差は大きくなる一方で、貧民街と呼ばれるに至った低所得者層の住む一帯は治安も悪く、街の整備も追いつかない。
困窮者を虐げるのは文化的な先進国家のすることではない、等しく生活環境を整えよと唱える者、自分たちの税をくれてやる謂われはないと怒る者。対応は遅れ、あるいは担当の政務官が露骨に嫌な顔をしてみせることもあった。
ク・メルドルには他国からの移住者や旅人も多い。人々の流入が多種多様な犯罪を生み出したことも否めず、国土が狭いことも一因として、住民同士の揉め事や強盗、あるいは殺人などは頻繁に発生していた。
他国と同様に、ク・メルドルでも女神教所属の青服と王国騎士団、それに街の有志で結成された自警団が共同で治安維持や犯罪の摘発を行っていたが、手柄争い、縄張り意識などが互いの職務を妨げることも多々あった――
これらを知識として知っているのか、実感として知っているのか、その境界はとても曖昧で、自分でもどちらなのかはっきりとわからなかった。あの酷い船酔いの時のように脚がふらつき、考えが纏まらない。目眩を覚え、本を戻すついでに書架に寄りかかる。
(……知ってる)
そう、恐らくは、実感として知っているのだ。
他人事めいて遠い感覚だが、海から吹く風の匂い、港を発つ船の帆のはためき、森を彩る木々の緑の濃淡、白い石が敷かれた大通りの活気と猥雑さ、それらは胸の奥底でひっそりと、けれど確かな存在感を持って息づいていた。
知っている。かつて自分はク・メルドルで暮らし、学び、それらを目の当たりにしたのだ。頭は覚えておらずとも、身体が覚えていた。
手を伸ばしても届かないもどかしさと諦めと、ほんの少しの憧憬が、遠い記憶を縁取っている。あともう少しなのに、とゼロは奥歯を噛む。もう少し手がかりがあれば思い出せるのに。
悔しさを飲み込み、書架に寄りかかったまま目を開けると、一番下の段の隅に、ぞんざいに紙束が突っ込まれているのが目に入った。
質や厚みに差はあれど、上段にはきちんと製本されたものが整然と並んでいるだけに、一度目に留めると妙に気になる。あまりにも異質だ。
床に膝をつき、紙束を抜き出した。紙の端は破れたり折れ曲がったりしていたが、古いものではない。紐で綴じられただけの紙束の表紙に捺されたシン・レスタール大学府の印は興味を引くに十分だった。
ぱらぱらと紙をめくったあと、深呼吸をして初めから読み直す。題すら明らかでないこの紙束は、捜し求めていたク・メルドルの滅びに関する調査書だった。
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