失われたもの (6)

 ソラリスの眼は潤んだままだった。ヴィオラがそよ風めいた吐息を漏らし、背後のヴァルツが肩に手を置く。その温かさに違う種類の涙が鼻の奥を刺激する。


「ありがとう、シャイネ。ああ言ったけれど、あの子は、アーレクスは失われてはならないの。何があってもね。あたしたちだって、あの子を傷つけるつもりはないわ」

「女神の子だから?」


 ソラリスが頷き、そちらにアーレクスがいるとでもいうふうに視線を逸らした。青ざめた唇に浮かぶのは、紛れもない親愛の笑みだ。彼は半精霊を愛し、王に愛されてもいた。つかえていたものが消え、胸が軽くなる。


「ゼロはあの日、何をしたんですか? 女神の子って、何ですか?」


 ヴァルツが難しい顔をする。


「あの日、アーレクスは例の呪卵を使った。バスカーが狙っていたやつだ。たぶん、私とソラリスが拠り所にしていた森を守るために」


 森を守る、と繰り返す。卵は破壊のためのものではなかったか。破壊の力を使って、何かを守ることができるのだろうか。いや、剣だって、この拳だって同じだ。力そのものに意志はない。壊すも守るも、使い方次第。


「森って、ゼロを見つけたっていう……」

「そうだ。アーレクスが倒れていたそばに、呪卵の残骸が転がっていた」


 やはり、ヴァルツは知っていた。ゼロが何者であるか承知のうえで彼を助け、付き添ったのだ。沈黙の嘘を責めるつもりはない。王たちが失われてはならないと言うからには、それなりの理由があるはずだ。シャイネが知らない、そしてゼロ自身も知らない、重大な理由が。

 ハリスは石の卵と言い、ヴァルツは呪いの卵だと言う。その差がひどく苦かった。


「あの力は大きすぎるから、精霊の力では止められない。呪卵に対抗するには呪卵を使うしかないの」

「どういうこと? 誰か別の人が呪卵を使おうとしてたってこと? そんなにたくさんあるの?」


 今度は、ため息と頷きが入り混じった曖昧な声を出すばかりで、誰もはっきりとした肯定を返してはくれなかった。精霊たちを統べる王とて窺い知れぬということか。それとも、この後に及んで言葉を濁す事情があるのか。

 ただ、ゼロが――アーレクスが、ク・メルドルを滅ぼすべく卵を使ったとは誰も思っていないことは、とても頼もしく思えた。


「じゃあ、ゼロは呪卵が使われたことを知っていたんだよね。だからそれに対抗するために呪卵を使ったけど、結局ク・メルドルは滅びてしまった……?」


 シャイネの独り言と思考が落ち着くまで、王たちは黙っていてくれた。仮定の上に積み重ねられたさらなる仮定は、真実とはほど遠く歪むことだろう。そうとわかっていても、もしも、を連ねてしまう。

 呪卵に対抗するには同じく呪卵を使うしかなく、ゼロが森を守るためにそれを使ったのであれば、最初に呪卵を使った人物は誰なのか。

 女神教の秘宝たる呪卵を手に入れることができて、破壊の力を行使するだけの理由が、動機がある人物。となればそう多くはないはずで、真っ先に浮かぶのは彼の家族たちだった。


「結局、あのとき何があったのかを知っているのは、アーレクスだけなの。騎士団長は留守にしていたし、あたしたちは状況から推測するしかないから」


 ク・メルドルは滅び、森は残った。国を守る騎士であり、半精霊の夫であり、女神の子だったアーレクスは、忠誠を誓った国と、愛する妻と、精霊の住む森、どれを守りたいと願ったのだろう。ヴァルツの言うように、森を守るために呪卵を使ったのなら、彼にとって妻と国とは何だったのだろう。

 ハリスは石の卵のことを魔を払う武器だと語ったが、罪なき者の生命までをも奪うのならば「魔を払う」どころではない。

 はじめに呪卵を使った誰かは、大国ひとつを消し去るほどのものだと知って力を行使したのだろうか。もしもそうだとしたら、かの人の憎しみの大きさ、絶望の深さは、シャイネにはとても想像できない。

 何もかもなくなってしまえと願い、呪い、憎むほど、根深く強い感情を抱いたことがなかった。

 自分がとてつもなく脳天気で薄っぺらい人間であるように思える。幸福、というならばそうなのだろう。


「ゼロが思い出すのを待つしかないのかな……」


 ため息には、まだ涙が混じる。

 ゼロのことを信じている。結果として呪卵がク・メルドルを滅ぼしてしまったのだとしても、無差別な破壊を望んだわけではないと思う。たとえどんな理由があっても、彼は命の重さや尊さを蔑ろにしたりはしない、決して。そうでなければ薬の使い方を学び、人を癒やそうとするはずがない。


「それから、女神の子は半精霊とか、半魔とかいう意味での半神っていうのじゃないの。女神の子の親はどちらも人間で、女神の力は宿るだけ。借り物ってことね」

「じゃあ、ゼロのお父さんかお母さんも女神の力を持ってて、女神の子って呼ばれてたの?」

「そう。女神の子が、女神教の首座……『いとし子』に就任するみたい。今のいとし子のアンバー・メイヒェムもそう」


 シャイネは首を傾げる。


「女神の子って、そんなにたくさんいるの?」

「ふたりっきり。あの子と、アンバー。子どもが生まれると、親の力は徐々に弱まって失われるから」

「生まれなければ?」

「女神の力が途絶えることはないから、血筋の近い子に発現する。でも、女神の子が血縁にいると、神都ではそれだけで権力になりえるのね。授かった女神の力に固執して子を持たずにいても、遅かれ早かれ親戚筋に女神の力が移ってしまう。だから女神の子も親戚筋も、権力欲しさに子どもを作るってわけ。で、子どものうちに徹底的に教育を施す。そうなれば力を失って年老いても安泰って算段」


 そこまで知っていて、と呆れるが、女神教に対処するのは王の仕事ではないのも事実だ。


「最低だけど、よくできてるね。いっそ感心するなあ……そんなに、権力っていいものなの?」


 王たちは揃って肩をすくめる。尋ねる相手がまずかった。

 では、とシャイネは考える。女神の力を持つもう一人も半魔に狙われているのかもしれない。


「半魔たちは、女神の子を殺すって言ってた。アンバーって人も危険なんじゃないの? 女神の力が危険だってこと? 半魔が女神の子を殺しちゃえば、どうなるの」

「人間の住む世界は、女神が創った骨組みと、私たち精霊の力が合わさった強固な城だと考えてみてくれ。女神の力は強大な守りにも、破城槌にもなりうる。女神の力が守護として使われている間は、城の破壊は容易ではない」

「魔物は城を壊そうとしているけど、女神の子が護りを担う限りは城に大きな損害を与えられない。でも、主が片方でも失われたら、次の主が力の使い方を覚えるまで、城側……人間たちは苦しい戦いを強いられることになる。もちろん、あたしたちも城を守るけど、結局のところ主体は女神なのよ。あたしたちは留守を預かる以上のことはできないし、魔物たちにとっては好機ってことになる」

「だから、ゼロもアンバーも、失われてはならない?」


 王たちはめいめいに頷く。何やら大がかりな話になってきたが、その一端に自分がいることが信じられない。


「私たちも創世に関わっていますが、世界のありよう……ことわりを定めたのは女神です。その力は、今あるこの世界そのものに影響します」

「ものすごく極端に言うと、もうこんな世界消えてなくなってしまえ、って思ったなら、それが実現されてしまいかねないってこと」


 母の恐ろしい喩えに涙が引っ込んだ。そんな簡単に消えてなくなっては困る。


「それだけでなくなっちゃうの? なくなっちゃうってことは、みんな死んじゃうってことでしょ?」

「まあ、女神の子ひとりが望んだところで、世界を消すだなんて大技、簡単にはできっこないけどね。そう心配しなさんな」


 母の口調は軽いが、不安は消えない。女神教の指導者は精霊や半精霊を疎んじているのだから、精霊よ消えるべしと望んだなら?

 そんなふうに想像したこともないのだろうヴィオラの話は続いた。


「でね、ここが難しいところなんだけど、魔物を根絶することはできないの。魔物の存在を含めた世界を創ったのだから、魔物込みで健全な世界があるってこと。逆に、精霊だけを根絶することもできない。そんなことをすれば城が壊れちゃうからね。だから、そういう点では安心していいわ」


 健全。クロアもそう言っていた。意図するところはまったく違っているだろうが。


「城は不変のものではないし、それほど単純なものでもない。魔物によって失われた命や、つけられた傷を癒やすために形を変え、質を変え、ゆっくりと変化し続けるものなんだ。もしも魔物がいなくなれば、その流れは淀んで腐り、人は増え続け、やがては自重で崩壊してしまうだろう」

「絶えず変わり続けること。変化を受容し、柔軟であること。古き傷を癒やしながら、流れ続けること。私たちもその大きな流れの中にいるのです。あちらもこちらも、互いに密接に関わりながら変化し、他方に影響を与え続ける。そういうふうに創られたのだから、何が欠けてもいけないのです。私たちと魔物たちが直接ぶつかれば、それだけで均衡が崩れてしまう。ですから、制約の中で魔物たちは城を攻め、私たちは守る。それが暗黙の了解なんです」


 規模の大きな話に圧倒され、息をするのも忘れて王たちの透明な声に聞き入った。すぐに理解できなくとも、覚えておかねばならない。忘れてはならない。それだけはわかった。

 魔物の行動にも制約があるというのは、例えば街や村そのものを襲わないといったことだろう。まるで陣取り遊びのようだ、と感じたのは不謹慎だろうか。


「もしアンバーが死んでしまえば、守るには不利になるんじゃないの? どうして神都の魔物を放っておくんだろう」


 そこがわかんないのよ、と母は眉間に皺を寄せた。


「アーレクスは女神の力の使い方も、自分が女神の子だってことも覚えていないでしょう。だから、いまアンバーが殺されると、女神の負けはほぼ確定。そんなに都合良く次の世代に力が移るとも思えないし、あたしたちも時間稼ぎはするけれど、かなり厳しくなるでしょうね。あんな大群に囲まれて平然としているなんて、考えられない」

「何か策があるのかも知れないよ。魔物の大群をぱっと消してしまえる……」


 言葉は尻すぼみに消えた。魔物の大群を消し去る、そのためにこそ呪卵があるのではないか。それに王たちが気づいていないはずがない。目で問いかけると、気まずそうな頷きが返ってきた。


「たぶん、そう。アンバーは呪卵を使う気なんだと思う」


 母はうえっと舌を出して見せた。

 だが、女神教の頂点が卵を用いて魔物だけを消すだろうか。まとめて精霊や半精霊も、と考えても不思議ではない。


「精霊は女神に協力したのに、女神教の人は僕たちを嫌うんだね」

「よくわかんないけど、協力関係なのが嫌なんじゃないの。下僕じゃなくってさ。自分たちの歩みを歪めて、歴史とか伝統とかって名づけるのは得意だしね。あたしたちを敵に回して平然としていられるのも、歪んだ歴史を学んできたからでしょう」

「僕は、どうすればいいの」


 右手をソラリスが握った。ひやりと冷たい、滑らかな手だった。


「誰にも呪卵を使わせてはならない。レイノルドを……息子を止めてください。あの子は真面目すぎて、考えが凝り固まっているんです。マリエラを失って、怒りで周りが見えなくなっています。何か恐ろしいことを考えているに違いありません。そうでなければ、どうしてわざわざ女神教の要職に就くでしょうか」

「僕にはすごく良くしてくれたのに……」

「ええ。だから、どうかお願いします。呪卵はあの子が思っているよりもずっと、恐ろしいものです。女神の力を欲してはいけない……呪卵を使って復讐するなんて、望んではいけない」


 復讐、とシャイネは呟く。マジェスタットで炎に包まれた薬草店を、床に這いつくばったハリスを思い出した。同時に、名前しか知らぬ男への憎しみをくすぶらせ続けた日々のことも。

 これらは決していい思い出ではないが、過去をなかったことにはできないし、どす黒く胸を焦がした粘つく感情も経験してよかったと思う。過去の日々を反省するための糧となるならば、悪いことも嫌なできごとも、きっと何かしら意味があったのだ。


「呪卵のことを知れば、ク・メルドルの滅びの原因であることはすぐにわかるでしょう。レイノルドがアーレクスの命までも狙っているとしたら、あの子たちは義理とはいえ、兄弟で殺し合おうとしていることになります。悲しすぎるでしょう」


 カヴェでいいように使われていたときとは違う。レイノルドの動機が知れたいま、うまくすれば止められるかもしれない。ゼロがすべてを思い出して、どうして呪卵を使ったのか説明できれば、あるいは。


「できる限りのことはします」

「ありがとう、シャイネ」


 水の王の、触れればひび割れそうな微笑みの中に友愛がはっきりと感じられた。この綺麗で哀しい王のためにも、ゼロのためにも、レイノルドのためにも、できることを探したかった。


「子どもたちにすべてを教え授けないのは、人の血を混ぜた以上、人と関わって暮らすしかないからです。私と同じ能力が娘たちにもあれば、死なずにすんだかもしれません。その代わり、レイノルドやアーレクスを愛することもなかったでしょう。人に交じって暮らすなら、精霊を感じ、使役して親しむ力があれば十分でしょう。どうか恨みに思わないでください」

「そんなこと……」


 断言はできなかった。力は欲しい。ゼロを守り、半魔を退けられるほどの力が。しかし、母から受け継いだ精霊の力は、今でさえ十分に使いこなせているとは言えず、これ以上の力を与えられたとしても、持て余すばかりか力に振り回されることになりかねない。ソラリスの言うこともわかる。


「ごめんね、シャイネ」

「いいよ。抱えきれなくなったら、またそのときに言うから」

「違うわよ。あたしが母親で、ごめんねってこと。精霊の力があるから、こんな厄介ごとに巻き込まれちゃったんだもの」


 冗談で言っているふうではなかった。


「えっ、そんなこと、思ったことないよ。ゼロは僕の眼を褒めてくれたし、エニィを……あ、ゼロの剣だけど、召んだことも喜んでくれたし」


 王たちが好奇心を隠そうともせずにやにやと笑っているのに気づき、赤面して口を閉じる。


「若いわねえ」


 母がしみじみ言うのが恥ずかしい。違うと言いたいが、何が違うのかはどうしても説明できなかった。

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