失われたもの

失われたもの (1)

 何年かぶりの、故郷の冬だった。

 吹雪いているからと火を焚いて、薬草を浮かべた湯を煮立てている。懐かしい、冬ならではの香りだ。喉を守り、室内の乾燥を防ぐ薬草は、寒さが本格的になる前に束で買っておくのが常だった。

 ぱちぱちと軽やかな音をたてる火のそばで、父さんの昔語りを聞いたり、飾り紐を編んだりして過ごす。傍らでは老犬のフマが丸まって、気持ちよさげに目を閉じていた。子どもの頃はフマの背中に乗せてもらうこともあったし、お腹に寄り添って眠ることもあった。ひとりっ子のシャイネにとってかれは兄であり、友であり、野歩きの先輩であった。あと何回、フマと冬を過ごせるだろう。


「ほんとすごい吹雪。ほら、シャイネ、わかる?」


 荒ぶる風、凍てつく水、身を縮める木々、沈黙する大地、全てを包む闇。精霊はいつだって隣にいた。


「うん。わかる。人の世界じゃないみたい」

「……そうね」


 母の小さな手が髪を撫でる。




 雪は止んだだろうか。上階の扉を開けると、あまりの眩しさに涙が出た。そうだ、積もった雪の白さをすっかり忘れていた。帽子を取りに戻って、再び雪野原に飛び出す。

 遠くに、黒い人影があった。積もった雪にも動じず、歩みは滑らかだ。振り返らずに村から去ろうとする背中に呼びかける。


「ねえ、まだ外は危ないよ。また吹雪が来るし、吹雪の合間には魔物が出る。もう少し休んでいったら?」


 影は足を止めて、腰に佩いた長剣をすらりと抜いた。陽光にきらめく夜明け色の鋼が、逆光で表情の見えない人物が、揃って言った。


『だいじょうぶですよ、ひめさま』

「平気だ」




 吹雪が続いている。家に閉じこもっていても、暴れる雪風の凄まじさを感じる。源泉から引いた温水で暖められているこの部屋と外界の落差は、身をもって学んできた。

 自然の偉大さ、雄大さ、恐ろしさと共存すべく、人は知恵を絞り、工夫を凝らし、道具を用いた。はるか昔からの歩みに思いを馳せ、すごいなあとため息をつく。

 もしも、半精霊がもっとたくさん存在して、皆が呼吸するように精霊を使えたなら、こんな工夫はなかったかもしれない。あるいは、もっと効率よく、少しの力で精霊をべる工夫がなされただろうか。

 精霊封じの武具も、そんな工夫のひとつかもしれない。陽気なディー、生まれたばかりの、シャイネがこちらに召んだばかりのエニィ。

 ――そういえば、剣はどこにやったっけ。


「もう寝る時間よ」

「はぁい」


 家にいる限り、剣は必要ないけれど。




 黒い旅人はやはり村を出るようだった。吹雪の合間の、空気までもが凍りそうな晴れた日。骨の髄まで沁みる寒さなのに、彼は行くと言う。


「おれは行くよ」

「どこまで?」


 この前(いつだっけ?)剣を抜いたその右手で遠くを指し示す。


「行けるところまで」


 行けるところ。繰り返した言葉が声ごと青く透き通って砕け散った。


「雪がある。魔物もいる。危ないことばかりだよ」

「まあね」


 声は平らかだった。危険を承知で切り抜けられる自信があるのか、それとも危険を危険と判断できない愚かさゆえか、判断しかねる。

 剣帯を確かめる右手に代わって、左手がすいと差し出された。


「あんたも一緒に行くか?」


 左手には飾り紐がある。青と白の色糸で編まれた雪の紋様がはっきり見えた。

 途切れぬ縁を意味する図案が。

 この手で編んだものが。


「行く!」


 声は矢となって銀世界を貫いた。彼のほのかな笑みが答えだった。

 母さん、父さん。僕は行くよ。


「待ってて、ゼロ!」


 すぐに追いつくから。




 長い夢のなかで、たくさんの人と出会った。

 大きな天幕で舞い踊るリアラを、高い綱をわたるフェニクスを見た。

 木刀を掲げ、素振りをする少年のキムを見た。

 四人の男に囲まれながらも、巧みに捌いて全員を叩き伏せるユーレカを見た。

 細いおもてに緊張をみなぎらせ、主君の前に膝をつくレイノルドを見た。

 リトリと並んで歩むマックスを、工房を掃除するミルとダグラスを見た。

 元気よく泣き声をあげる赤子を両腕に抱えて狼狽するナルナティアを、街道を往く狩人の男たちを。

 読書に没頭するアンリを、札束を数えるダム・バスカーを。

 ひとりきりで立ち尽くすゼロを、見た。

 彼はぼんやりと立っていた。宿の一室だろうか、何をするでもなく立っている。死者と変わりない様子で長い長い時間そうしたあと、荷物から薬草の束を取り出して猛然と刻み始めた。

 ゼロが登場する夢はどれも同じだった。呆然と立ち、急に薬草の調製やら、便覧の書写やらをはじめ、夜遅くまで作業を続け、灯芯が尽きたかのように眠ってしまう。ヴァルツに命を救われた後のことであるらしかった。

 たまりかねて伸ばした手はむなしく空をかくばかりで、青ざめた頬を包むことも、強張る肩を抱くこともできない。見たことのない、知らないゼロの姿だった。

 夢のなかで時間は進む。やがて、何やら見知った場所に出たと思えば、カヴェの宿城ではないか。窓際の席で、机に突っ伏して眠っている少年がいる。

 ここからはよく知っている。ともに経験した時間だ。けれども、虚無そのものの眼、押し潰されそうな孤独と不安、ひとりで背負った過去、それらを礎にふたりで過ごした時間があると改めて知った。

 ああそうか、とシャイネは思う。

 これは僕が見たのではなくて、ゼロが見せてくれたのだ。導いてくれたのだ。

 出番を終えた役者は舞台袖に下がるのみ。そのまま静かに夢を離れる。

 忘れよう、と決めた。



 柔らかな寝台で目を覚ました。寝間着は体になじんだ自分のもの、それなのにぎこちなく感じられるのは体のあちこちに包帯や湿布、さまざまな色の痣やかさぶたが残っているからだ。

 包帯を巻いてくれたのはゼロだ。特徴的な平たい結び目だからすぐにわかる。何度教えてもらっても手本の通りに留められず、あとは経験だ、と匙を投げられたやり方だ。

 痛みはあるが、動けないほどではない。起きあがって、水差しが空になるまで立て続けに水を飲んだ。その隣には籠入りの果物が置かれていて、添えられていた紙を開いてみると、シャイネの体調を気遣い、早い快復を祈る旨が流麗な文字で綴られていた。差出人はジェン・カッツ。


『起きたのか?』

『おはようございます、ひめさま』

「うん。おはよう、ディー、エニィ」


 声はがさつくが、出血しないほどには良くなっていた。

 右側は窓、左側に置かれた衝立に剣が立てかけられている。奥にはもう一つ寝台があるようだった。そうでなければエニィはここにはいまい。しかし部屋にはシャイネの他に誰の姿もなかった。

 昼時のようだし、食事に出ているのかもしれない。水を汲みがてら探してみようと部屋の扉を開けると、そこに当のゼロがいた。今まさに戻るところだったようで、左手には膨らんだ紙袋を持ち、右手が取っ手に伸べられている。

 真っ赤に充血した冬空の眼が瞬いて、無精髭の散る頬にさっと朱が差した。ゼロ、と呼ぶ前に抱きしめられて、水差しの蓋が転がり、紙袋が音をたてて落ちる。

 のしかかってくる体重を支えきれずに床に倒れ込んでも、ゼロはシャイネの肩に顔を埋めたままで、巻きついた腕もほどける気配がない。


「ゼロ、どうしたの、大丈夫?」

「……あんたは?」

「僕? 僕は大丈夫。ありがとう、またずっとついててくれたんでしょ」

「わかってるならもうちょっとだけこのままで」


 不埒だ、野蛮だ、破廉恥だと喚くディーと興味津々のエニィの存在が気恥ずかしいが、下敷きになっていた腕を抜いて広い背中を撫でてやった。

 ずいぶん長い「もうちょっと」の後、渋々といったふうにゼロは体を起こし、シャイネを寝台に戻してから床に転がった諸々を拾い上げた。


「そのまま寝てるんだぞ、いいか、動くなよ、出歩くなよ」


 返事も聞かず出ていったゼロは、水差しと盆に載った椀とともに戻ってきた。椀の中身は透明の液体で、なにがしかのスープのようだったが、塩胡椒はおろか、味があるのかさえ定かではなかった。

 自分で食べると言うと、ひどく傷ついた顔をする。ここは下心よりも快復を尊重すべきではと思うが、寝たきりで体力が衰えているのは事実だ。匙を持つ手が震えた。


「水が飲めるならまあ、大丈夫だろう。おまじないもあるし」

「そだね。もっと力のつくものが食べたい」

「胃が驚くから少しずつだ。明日からは粥にしよう」


 スープはほぼ湯で、遠くにかすかな塩やら人参やら玉葱やらの味を感じるといった程度のものだったが、腹が温まるといくぶんか良くなったと感じるのが不思議だった。皿を空けると、スグリの果汁を割って蜂蜜を垂らしたものが出てきた。


「うわぁ、ありがとう! ゼロってほんとこういうの手慣れてるよね。気が回るっていうのかな、看病されてて嬉しい」

「肝を冷やすような看病はしたくないんだが」

「う、そうだよね……ごめん。軽率だった。でもさ、ほんとにゼロみたいな人はどこでも歓迎されると思うよ。僕の故郷にもちゃんとしたお医者さんはいなくて、大きな病気をするとリンドまで行かなくちゃなんないんだよね」


 産婆は隣村におり、シャイネが産まれたときはノールに泊まりがけで来てもらったそうだ。辺境の、そう人数も多くない村だから滅多にないことだが、産み月が重なると数人が産婆のもとに集まるらしい。


「そりゃあ大変だな。病気でなくとも、怪我だって事故だってあるだろうし……」

「まあね。わりとばたばた死んじゃうねえ」


 ひと冬だけでもゼロがノールに来てくれれば、皆きっと安心するだろう。けれども、わざわざ北の果てまで連れて行って医師の代わりにこき使うのも酷い話だ。おいでよ、と気軽に誘える距離でもない。


「でもさ、そんなの抜きでいいから、一度はノールに来てよ。僕の命の恩人だよって、父さんに紹介しなきゃ」

「そっちに行くのは構わんが紹介はやめてくれ、殺されかねん」

「え、なんで?」


 なんでも。ゼロは寝台に背を預け、紙袋から薬草類を取り出して仕分けを始めた。シャイネも追求はせずに、甘い香りの湯気にふうふうと息を吹きかける。

 しばらく黙って、そうしていた。

 半分ほど開いた窓からは向かいに建つ宿が見えた。通りを行く重装備の者は傭兵、軽装なのは旅人か狩人だろう。宿屋街の規模や建物の様子から、学問の都に着いたのだろうと察する。

 護衛としてはろくな働きをしていないのに、ジェン・カッツは同行を許してくれたのか。ナルナティアにも謝罪に行かねば。謝罪というなら、母やヴァルツにもだ。

 あの後、魔物はどうなったのか。半魔たちの動向は。気になることはたくさんある。ゼロも同じだろう。焦らさずにいてくれることが嬉しかった。

 元気だし食欲もあるが、気だるい熱さが頭の奥に残っており、万全には程遠い。半魔たちに威圧されていたときや、不思議な長い夢を漂っていたときとは比べるべくもないが、そうそう寝込んでもいられなかった。

 半魔たちの狙いはゼロなのだ。彼の様子を見る限り、知っているとは思えない。かつて、クロアがカヴェを襲ったことを思えば、街にいれば安全と断じることもできなかった。


「じゃあ、おれはジェンさんに知らせてくるから、あんたはもう少し寝てろ」

「行っちゃだめ!」


 咄嗟に身を起こして袖を掴むと、鼻の下を伸ばしてやに下がる。そうじゃなくて、と目の前が暗くなった。血が足りないせいではない、きっと。

 危険なのはゼロの命だ。王たちの介入で仕留め損なって、半魔たちはさぞや悔しがっていることだろう。鳥型や獣型を集めて襲ってくることは十分に考えられるし、そうでなくともクロアやイルージャが単独で人混みに紛れるのを防ぐ手段はない。すべてを説明するには体力も気力も足りず、外は危ない、と馬鹿みたいなことを言うのがせいぜいだった。

 ゼロは自身の過去についてまだ何も思い出していないのに、半魔たちも、恐らくは精霊の王たちもすべて承知している。それがひどく卑怯で、不釣り合いに思えた。沈黙を続けるシャイネとて、卑怯者の一人だ。

 今ならわかる。ヴァルツは、ゼロが女神の子だから助けたのだ。死にかけている人間を何の理由もなく救ってやるほど、王たちは暇ではない。

 もどかしく晴れない気持ちのまま、掴んだ袖を放す。どうすればうまく伝えられるのか、まったくわからなかった。


「すぐ戻る。そうしたら、ずっとついててやるから。な?」


 ゼロは身の危険などこれっぽっちも感じていない様子だった。死地を潜り抜けてきたシャイネが心細いのだと何の疑いも持っていないらしい。めでたい話である。

 右腕が自由に動けば、目を覚ませと引っぱたいてやるところだが、こちらを見下ろす漆黒の視線は優しく、とどめとばかりに額に手を置かれて、色とりどりの文句は喉の奥で泡のように弾けて消えていった。

 膨らまなかったパンを前にしたときの気分で、上掛けを口元まで引き上げる。


「……気をつけて」

「わかってる。いい子にしてろよ」


 何でもない一言に、どうしてかどぎまぎした。子ども扱いするなと一蹴するべきところなのに、不思議と胸が痛い。


「うん」


 ゼロが戻るまでに、気の利いた説明を考えておかなければ。聞きたいことも、言わなければならないこともたくさんある。遠ざかる足音を聞きながら考えているうちに、いつしか眠りに落ちていた。

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