攻防 (6)
日課を消化するだけの平坦な毎日だった。カヴェではこんな感じだったなと、ぼんやり過去を思う。
シャイネと組んでからの日々が充実していたせいで、それ以前のことはすっかり霞んでいる。むしろ、充実を実感していたことが驚きだった。時間は自分の周りをただ流れていくだけで、濃淡や密度が変わることなどないと思っていたのに。
宿場町に到着したのは陽が落ちてからだった。馬車から降りたカッツ一家や使用人たちはめいめいに体を伸ばし、ほぐしながら遠慮がちに宿に消える。
あれから三日が過ぎていた。シャイネの不在を誰もが意識した三日間でもあった。その後、魔物との遭遇の頻度は減っていたが、却って不気味だ。
とはいえ、魔物は襲撃を諦めたわけではないようで、上空につかず離れず、鳥型の黒い影が見えていた。
傭兵たちも気づいていたが、襲ってくる気配がなく、墜とす手段もないためにそのまま進むしかなかった。町に近づくと姿を消したが、あれが偵察要員ならば、遠からず魔物の襲撃があることだろう。
「町中だが、気を抜くな。どんな手を使ってくるかわからん」
ナルナティアの念押しが必要なほど緩んだ者はいなかったが、夜間の襲撃は勘弁して欲しいと誰もが思っていただろう。何故か魔物は人家を襲わないが、田畑を荒らし、家畜小屋を襲うことはある。人が犠牲にならないのなら良かろうとのんびり構えていられるわけもなかった。
警戒を緩めず、同時に精霊たちの声が聞こえやしないかと集中していたせいで、馬を下りた時には立ち眩みがして、足が
精霊の声は、今はもう聞こえない。剣をいくら揺すっても握っても反応がないし、あれほど騒がしかった精霊たちの声もない。以前の状態に戻っただけなのに、やけにしんとしていて、しきりに唾を飲んで、静寂の痛みをこらえた。
声が途絶えたことと、シャイネの生命の火が消えてしまったことが同意だとしたら。考えすぎだとはわかっていても、足元から這い上がってくる寒さを気のせいだと片付けることができないでいる。
馬を繋ぎ、水と餌を与えてブラシをかける。傭兵たちの食事は馬の世話が終わってからだ。
傭兵たちは、ぎこちないながらもシャイネを死んだものとして扱っていた。きっと、何度も経験してきた別れなのだろう。空いた馬は予備馬として、重装備のナルナティア、ラファール、ベアが交互に乗った。襲撃の後には乗り手を失って困惑していた馬もすぐに慣れ、呑気に草を食んでいる。
諦められないのはゼロだけだ。女々しいとか、未練だとか、どう思われようと構わないが、生きているかもしれない彼女を見捨てることは、生存を確信している己の不可思議な感覚を筋道立てて言葉で説明、説得できない無力さ、不甲斐なさを突きつけられるようで、全身を掻きむしりたくなる。
かといって、今からシャイネを探しに出かけたとしても徒労に終わるのは目に見えていた。夜で視界が悪いうえ、頼みにしていた精霊の声も聞こえず、負傷もある。とうに血は止まっているが、無理に動けばすぐ傷口が開いてしまうだろう。この葛藤に身を捩り、やり過ごすのも三度目だった。
誰もが黙って作業する中、小さな足音に振り向いたのはキースが一番早かった。明かりの輪の外に佇む人影がある。
「……誰だ?」
ナルナティアの誰何にどこか覇気がなかったのは、その眼が鮮やかな翠に輝いていたからだろう。そして、何かを抱えていることに気づいたからだろう。
人影が一歩進み出て、厩舎の灯りが整った卵形の輪郭を照らした。影の正体はゼロにはとうにわかっていたが、何をしに来たのだ、と八つ当たりでしかない問いは、喉の奥へ消えた。
森の王、ヴァルツはシャイネを抱きかかえていたからだ。
「シャイネ!」
悲鳴じみた声をあげたのは、誰だっただろう。自分か、それともナルナティアか。
シャイネはヴァルツに抱えられたまま、身じろぎひとつしない。瞼は固く閉ざされ、ゼロの欲する温かな金茶を覆い隠していた。
シャイネは見覚えのない黒い外套に包まれていたが、その下は裸であるらしい。裾から覗く包帯の白さ、傷だらけの脚から何とか視線をひき剥がした。経緯はさておき、ヴァルツが手当てを施したなら安心できる。
それなのに王の眼が険しく尖ったままなのはどういうことか。一瞬の安堵が、すぐさま恐怖に塗り替えられる。まさか。
不自然に呼吸が詰まり、喉が変な音をたてる。身体の奥で凶暴なものがぞろりと蠢く気がした。
精霊たちは主の帰還にも沈黙を保ち、傭兵たちはぐったりと動かないシャイネや、翠の眼を鋭く輝かせている麗人の登場に緊張を隠せないようだった。
生きているのか、それとも。
声にならない問いが強い視線となってヴァルツに集中するが、彼女は悠然と、ゼロに向けて顎をしゃくって見せた。誘われるまま、ふらふらと進み出る。
重い身体を預かって、痩せぎすの身体があまりに熱いことに驚いた。熱い。その事実が示す唯一の答えが、稲妻に打たれたかのごとく身体を震わせる。
命の灯。何をおいても、望んだ答え。
その重みに耐えきれず、膝をついた。
「……生きてる」
呟きは、みっともない涙声だった。
「生きているとも」
ヴァルツが応じると、傭兵たちが揃って大きく息をついた。死んだものと扱っていたとはいえ誰もがシャイネを案じており、彼女の無事は、二の次に追いやった良心が踏みにじられずに済んだに等しい。
熱い肢体をかたく抱きしめる。そうしないと、せっかく戻った体温が再び失われてしまいそうで怖かった。力を込めても身じろぎひとつしない体を、浅い呼吸を、鼓動を、直に感じる。
生きていてくれた。それだけで十分だった。
「有り難う、ヴァルツ」
「きみの為じゃない。礼を言われる筋合いなどない」
照れているのか本心なのか、返答は素っ気ない。では誰の為なのだろう、どうやってシャイネの危機を知ったのだろう、と疑問が押し寄せてくるが、翠の眼差しは物憂げに伏せられていて、こちらのことなど眼中になさそうだ。
「シャイネ」
にじり寄ってきたナルナティアが、シャイネの頬に触れる。傷だらけの左手を取って、そっと額に押しつけた。守るべき、忠誠を捧げるべき対象への、騎士の礼だった。
「生きててくれてよかった。あたし、あんたを見殺しにしようとしたのに……」
血を吐くような言葉にも、長い睫毛はそよとも動かない。閉ざされた瞼の端に涙の跡を見つけ、ゼロは小さく喘いだ。どれほど怖かっただろう。心細かっただろう。
傭兵たちの長としてのナルナティアの決断は、決して間違っていなかった。シャイネが生還したという結果だけを見れば、最善の選択だったとも言える。けれども、傭兵として正しい選択が人として正しい選択だとは限らない。それを重々承知しているからこそ彼女は項垂れ、そして、仲間の生存を心から喜んでいるのだろう。
「シャイネも馬鹿じゃない。あんたを責めたりはしないさ」
「……そうだね」
だからこそ、とはどちらも口にしなかった。シャイネがきっと恨みに思っていないことは通じていたからだ。
両腕に力をこめても、目を覚ます気配はない。細く漏れる熱い吐息と、微かに上下する薄い胸だけが彼女の生を示していた。
華奢な身体に宿る命の儚さ、そして強さを目の当たりにして、涙をこらえるのに苦労した。シャイネが呼吸している、つい先日までは当然だったことが、まったく当然ではなかった。こんなにも愛おしくて、嬉しくて、たまらない気持ちになる。生きててくれてよかった、とナルナティアは言った。まったくその通りだ。
守れなかった。けれど、今回は生きていてくれたのだ。
深い感慨から一気に醒めて、ゼロは青白いシャイネの顔を見つめた。
身動きしないシャイネを見て、やはり間に合わなかったのだと恐れる気持ちが胸に大きな黒い穴を開けた。心を飲み尽くす暗黒の淵にあらゆる感情が吸い込まれ、寂寞とした虚無だけが残る。やがてその穴から舞い戻ったあらゆる負が体じゅうを満たし、縛る――その感覚には確かに覚えがあった。
だから、シャイネが生きていることを知って、言葉も出ないほどの安堵に包まれたのだ。今回は、失わずに済んだのだと。
今回は。
では前回は、いつのことだったか。
(おれは、誰かと死に別れてる……? いや)
守れなかったのだ。あの輝きを。こうして胸に抱いていた身体は徐々に冷たくなって、温もりが戻ることはなかった。
頭ではなく、全身が覚えていた。体温と共に流れ出してゆく生命の輝き。冷えていく身体は重く腕に食い込み、遂には諦めてそっと横たえた――誰を?
覚えているのは、言葉にならない薄ら寒さ、息苦しさ、慟哭、身を引き千切らんばかりの咆哮。原因となった出来事は、ひとかけらも思い出せなかった。恐らくはク・メルドルの滅亡のときだ。
思い出せない過去に何があったのか、誰を失ったのか。記憶を探ろうと伸ばした手は空を切り、形を定めようとしていた靄が嘲笑とともに散る。思い出の欠片も掴めぬまま、ゼロは諦めて大きく息を吐いた。
失われた生命は戻らなくとも、シャイネは生きて帰ってきた。こんなにぼろぼろになりながらも、命を燃やしている。生きようとしている。その他に、何を望むことがあるだろう? 温かい何かが、痛いほどに胸に爪を立てる。
悲しくても嬉しくても心は疼き、びりびりと痺れる。喉が詰まって呼吸が苦しい。その全てが愛おしいなんて。
何も思い出せない。何もわからない。状況に変化はないのに、内心は溢れる感情に翻弄されている。堰を切って渦巻き、目まぐるしく色や形を変える感情が、こんなにも豊かなものであったことが驚きだった。
「いつまでめそめそしてるんだ、早く寝かせてやりな。ああ、その前に身体を拭いてやったほうがいいね。ところで」
目元を拭いながら立ち上がったナルナティアがようやくヴァルツに視線を移し、首を傾げた。
「あんた、誰」
今更かよ、とは全員の喉に引っかかったであろう一言だが、賢明にも、誰も声に出すことはなかった。
ナルナティアは精霊の眼のことを知っている。ヴァルツの輝く眼を見て、精霊か半精霊であるとすぐにわかったはずだ。敢えて尋ねたのは、他の傭兵たちへの配慮だろう。
「ヴァルツという。ゼロの保護者だ」
「お前な……」
しゃあしゃあと答えるヴァルツも、納得した風のナルナティアもどうなのだ。キースたちもめいめい好き勝手に頷いている。
反論する気力も萎えて、シャイネを抱えなおした。早く二人きりになりたい、と溜め息をついたときに胸を過った違和感の正体をよくよく考えてみれば、道中、女性二人は相部屋なのだった。
「おい、今夜は部屋を代われ」
「なんで。あたしをこのむさ苦しい連中と一緒にして、あんたの良心は痛まないの」
「おれがむさ苦しい連中と一緒なのは良心が痛まないのか」
「痛むわけないじゃない」
この女、と出かかった罵声を飲み込んで、昏々と眠るシャイネを軽く揺すった。
「手当てがある」
「着替えもだよ。そんなの、あたしがする」
罪滅ぼしのつもりか、彼女は妙にシャイネを構いたがった。意地を張るつもりはなかったが、腕の中の温もりを手放し難く渋面を作る。
「おれのほうが慣れてる」
「着替えさせるのが?」
「そっちじゃなくて!」
時間の無駄だと言い合いをやめ、立ち上がった腕からひょいと熱い重みが取り除かれた。
「私が看る。部屋はどこだ、さっさと案内しろ」
珍しく怒りを露わにしているヴァルツに一切の抵抗を封じられて、素直に宿を指した。こっち、とナルナティアが身を翻し、先に立って夜の闇に消える。
「……ナナさんさ、可愛い女の子に目がないんだよね」
キースが説明してくれたが、何にせよ遅すぎる。腑に落ちないわだかまりを抱えつつ、肩を叩いてくれる傭兵たちと大部屋に向かうしかなかった。
夜が明けてもシャイネは眠り続けていたが、予定を遅らせるわけにはいかず、一行は旅を続けることになった。
「魔物の襲撃は減るだろう。だが油断はするな」
低く囁いたヴァルツを見返すと、彼女は軽く肩を竦めた。
「私たちが背後にいることを、連中に教えておいたからだ」
「……そうか」
詳しい説明はなかったが、彼女なりの伝手があるのだろう。連中、とは魔物のことか。複数形なのが不吉だった。他にも隠しているようだが、問い詰めても躱されるのは目に見えている。人をはぐらかすことにかけては達人級だ。
「すまんな、助かる」
素直に礼を言うと、お前の為じゃないと繰り返し、ヴァルツは横を向いてしまった。
では誰のために、おれを助けたのだろう。答えの出ない問いは追い払うしかない。
「消耗がひどい。母君が眠りを施しているから、自然に目覚めるまで寝かせておいて欲しい」
言い置いてヴァルツは姿を消してしまった。どうやってシャイネを見つけたのか、それともシャイネがヴァルツを召んだのか、どこにいたのか、どんな状況だったのか、何も聞けていないが、さしあたって必要のない情報だから教えてもらえないのだろうと思うことにする。
カッツ一家には昨夜のうちに報告が済んでいる。シャイネ生還の報にジェンやユールは飛び上がって驚いていたが、精霊の力によるものだと曖昧かつ大雑把な説明だけで納得してくれたことにはゼロも驚いた。
半精霊だというだけで雨の降るカヴェの街を追い回され、殴られて酷い目に遭わされたのに比べて、ジェンらの反応は裏があるのではと疑ってしまうほど大らかだ。
「シャイネをどうしますか」
「幌車に寝かせればいい。なに、遠慮はいらんよ」
「あたしが看るわ!」
ユールが道中の看病を買って出、ジェンも快く毛布や敷布を提供してくれたが、伝染する熱ではないとはいえ、一家の幌車に乗せるのは気が引ける。相談の結果、荷馬車にシャイネを寝かせ、ユールがついてくれることになった。ゼロが荷馬車に乗ってしまえば、護衛が手薄になる。
昼になってもシャイネの熱は下がらず、目を覚ますこともなかった。時折ひどくうなされて、わけのわからない寝言を言うのだとユールが眉を寄せていた。夢に落ちているに違いない。
夢を渡ると疲れると言ったのはイーラだったか。闇の王が眠らせているにせよ、夢を見続ければ消耗するだろう。悪循環だと舌打ちの一つもしたくなるが、シャイネを夢から掬い上げる方法など思いつかない。手を握ってやれば、僅かに呼吸が和らぐのが救いだった。
そんな生温いことを考えていられるのも、ヴァルツの言った通り、魔物と遭遇する回数が格段に減ったからだった。街道に散発的に現れるのは小物ばかりで、待ち伏せを感じさせるものではない。
どういうことなんだ、と疑問はしこりとなって残り、傭兵たちも首を捻っていたが、好機は活かさねば損とばかりに足を速める指示を飛ばした。
魔物の襲撃が減ったせいで、旅路の後半は一転して楽なものとなった。隊商は行程の遅れを取り戻して予定通りに学問の都に到着し、ゼロは二人分の報酬を受け取った。
「シャイネは私たちの命の恩人だ。せめて宿の手配をさせてもらえないだろうか」
ジェンの申し出は有り難いものだったが、そこまでしてもらう訳にもいかない。シャイネは旅路の半分を寝て過ごし、護衛として一切の働きをしていないのだ。
恐縮するゼロを押し切って、彼は知り合いが経営しているという宿に掛け合い、格安で宿泊できるよう、そして治療に専念できるよう話をつけてくれた。厚意に甘えながらも、申し訳なさで胸が詰まる。
宿に落ち着いてからも、シャイネはずっと眠り続けていた。
医者に診せても、手当に不備はない、体力の回復と目覚めを待つしかないと言われるばかりで気休めにもならない。肝心のヴァルツは姿を見せず、精霊の声が聞こえることもなかった。
すっかり窶れたシャイネの頬を見つめていると、手にした金貨の価値も重さも輝きも、何もかもが色褪せてゆく。
寝台に腰掛け、呼びかける。手を握り、清潔を保ち、薄めたスープを運ぶ。それがゼロにできる全てだった。
じりじりと炙られるような焦燥は、きっと恐怖なのだろう。また失ってしまうのか。まだ繰り返すのか。
覚えている。あの絶望を。立つ瀬を、寄る辺を失い、瞬きも、呼吸さえ止めて見つめた死の深淵を。どれだけ時間が経っても、何もかも忘れてしまっても、天地が反転して呑み込まれる恐怖から逃れることはできなかった。
それは、もう二度と繰り返さないという決意の裏返しだ。
過去に何があったのかは未だ闇の中だ。けれど、これだけは確かだ。
シャイネを、失いたくない。
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