攻防 (5)

 ゼロはむっつりと黙ったまま、毒抜きの手当てを受けていた。

 シャイネが手傷を負わせた獣型は暴れのたうち、おぞましい咆哮をあげていたが、逆上して冷静さを欠いたところに止めを刺すのは難しくはなかった。

 しかし、最期の一息で振るわれた爪を避けきれず、右肩から左の脇腹にかけて大きな傷を負ってしまったのは、ゼロもまた、怒りで我を忘れていたからだ。

 ――怒り。そう、怒りだ。

 それはシャイネを傷つけた魔物へのものであり、彼女を守りきれなかった自分自身へ向けたものでもあった。



 あんなに多くの精霊が召喚されるのは初めて見た。

 その狂乱は、ゼロとナルナティア、いつも冷静なラファールまでが足を止めてしまったほど激しい召喚だった。背筋が一斉に粟立ったのは、精霊たちの乱舞がとてつもなく美しかったことと、派手な召喚を成し遂げた後のシャイネの体調を案じたがゆえだ。

 精霊たちの光が消え去ったのち、魔物は息も絶え絶えであったが、シャイネ自身も同程度に消耗していた。生々しく血を滴らせる傷のせいでもあっただろうし、召喚のせいでもあっただろう。胸元を染めた血と吐瀉物、魔物の口中にすっぽり飲み込まれた腕を見て冷静でいることなどできなかった。

 シャイネとて、一人であれほどの魔物を相手にできるなどと慢心していたわけではあるまい。護衛として評価されたかったのでもなかろう。それでも単独で立ち向かったのは、魔物の向かう先には依頼人たるカッツ一家がいたからだし、皆の援護を信じていたからに違いない。

 だというのに、命懸けの信頼に応えることはできなかった。息詰まる後悔も、焼けつく焦燥も、全てが遅すぎた。ぼろきれのようになったシャイネは鳥型とともに西の空に姿を消し、怒りに慚愧が加わって目の前が真っ赤になった。

 無力感、羞恥、憤怒、憎悪。逆巻く激情に、シャイネの安否も何もかもが塗り込められ、ゼロは手負いの魔物に踊りかかっていた。惨たらしく切り刻んで、できる限りの苦痛を与えてやりたかったのに、魔物もほどなく息絶えた。

 内心の衝動に踊らされた上に嗜虐心に由来する油断が負傷を招いたなど、剣を使う者として未熟と言う他はない。何もかも全て、気持ちの乱れが原因だった。

 こうして淡々と振り返ることはできても、瀕死のシャイネを目の当たりにして冷静さを保つにはどうすればよかったのか、とんと見当がつかない。

 ナルナティアは苛立ちを隠そうともせず、散々にゼロを罵倒した。あまりの剣幕に、ジェン・カッツが慌てて止めに入ったほどだったが、彼女の心情は手に取るように理解できる。ゼロが魔物相手に怒りを、鬱憤を、苛立ちを発散したのと同じく、彼女はこちらに八つ当たりをしたのだ。

 とはいえ、悪手であったのは事実だ。足を止めず、呆けず、シャイネを助けねばならなかった。自分たちにはその義務も責任もあったのに、身体が動かなかった。動揺し、我を忘れ、精霊のわざに見惚れるだけで。

 煮えたぎる熱い感情をぶつけるべき魔物はもういない。鳥型が今どこにいるのか、彼女がどんな目に遭っているのか、想像もできなかった。

 なぜ鳥型は、彼女を拉致したのだろう。拉致が目的ならばもっと早くにできた。連れ去ったのだから殺されはするまい。情報が目当てとも思えないし、魔物に有利な状況でなぜ退いたのか。わからないことばかりなのも苛立ちをかきたてる。

 四方から馬車に迫った魔物は、すべて黒い屍となって周囲に散らばっている。ほとんどが融解を始めていた。

 新手の気配がなかったため、傷の手当てを兼ねて休憩を取ることになった。誰もが負傷し、それ以上に疲れ果てていたのだ。ナルナティアが状況をジェンに伝え、小器用なキースがてきぱきと毒抜きをするのを悶々としながら見守る。

 身が軽く、射手であるキースはほとんど傷を負っていなかった。傷口を洗って薬を塗りつけ、包帯を巻く手際はなかなかのものだ。いつものことさ、と彼は笑っている。

 傷が大きく、スチャヤの痛み止めが必要なほどだったが、重症のシャイネを思えば、この程度の痛みで騒ぎ立てるわけにはいかなかった。

 どうしているのだろう。どこにいるのだろう。召喚の後、彼女は目が見えていないようだった。助けを求める力もなかったのか、魔物に引きずられ、倒れてからは立ち上がることもできずに咳き込むばかりだった。細い背を思い描くたびに頭が痛んで、目が眩む。負傷がなければ、とうに鳥型を追って西を目指していたに違いない。

 目的があって攫われたにせよ、シャイネは瀕死だった。毒抜き、消毒をして体を温め、適切な処置をせねば今夜を越せまい。


(……いや)


 死んではいない。彼女は生きて、助けを待っている。何の根拠もないが、その感覚は明確に、疑いようもない現実感と不可思議な客観性を伴って、ゼロに切々と訴えていた。

 シャイネは、生きている。

 理解できない、今までに感じたこともない強い感情が溢れてきて、戸惑う。感情というよりもむしろ、知識や情報に近かった。同時に、彼女の無事を気遣う不安も同じくゼロのもので、その曖昧さと儚さに眩暈がした。おれは一体どうしたんだと、額に手を当てる。

 傷が痛むのだと誤解したらしいキースが、ちらりと顔を上げた。大丈夫だ、と答える以外にない。何か縋るものが欲しくて、無意識にエニィに触れた。

 途端、指先に走った刺激に肩が跳ねる。


『はやく』


 突然聞こえた声に、驚いて周囲を見回す。そんなことをせずとも、誰の声でもないことはわかっていた。傭兵たちは重い沈黙の中にいる。

 まさか、と声にならぬ驚愕を呑み込み、再度エニィの柄を握る。額の奥に遠い声を感じた。


『はやく』

『しんじゃう』

『たいようのほう』

『たすけて』

『ひめさまをたすけて』


 聞き間違いではない。それは、確かにゼロに向けられた声だった。


『おい、やめろよ、どうせ聞こえちゃいねえんだから』


 先程とは違う声が諫める。

 何だこれは。精霊たちに決まっている。疑問と根拠のない答えが同時に降ってきた。それはシャイネの安否と生存を同時に思い、ったのと同じ感覚で、二度目の今は多少冷静に受け止めることができた。

 精霊。信じられないと思う一方で、ああそうか、と曇っていた空が晴れ渡るのに似た爽快感が訪れる。

 よくよく考えてみれば、声の聞こえ方はカヴェで剣を折られた時の風の悲鳴と同じだった。耳で聞くのではなく、頭の中に響くような、声なのに「見える」ような、掴みどころのない囁き。

 聞こえなかったことにすることもできたが、ヴァルツやシャイネと過ごす時間が長かったからか、未知の感覚を精霊に関わるものだと断じるのに抵抗はなかった。

 正直なところ、精霊でも何でもよかったのだ。声の主がシャイネの居所を知っていることこそが重要で、ならば考えず、悩まず、動けばいい。今ならまだ間に合う、彼女は生きているのだから。

 きっと精霊たちがゼロを導いてくれるだろう。王の子を救うために。いや、シャイネを助けるために精霊がゼロに助力を求めているのだとすれば、精霊の声らしきものが聞こえることにも納得がいく。道理など、通らずともよい。


「……ほら」


 抜き身のままの刺突剣を手渡される。全員の手当てを終えたキースが、放り出されたままのディーを洗い清めてくれたのだ。先端だけ端切れに包まれている。

 手入れの行き届いた刺突剣の輝きは、しかしシャイネの手にある時とは比べるべくもない。


『げんきだしてよ』

『こんな状況で元気でいられるかよ! なんでシャイネが攫われなきゃなんねえんだ。あんなぼろぼろで、生きていられるわけない……オレ、レンさんに何て言えばいいんだよ……』


 舌っ足らずな幼い声がエニィ、はきはきとした、けれど悲嘆に暮れた方がディーか。剣たちが親しげに言葉を交わしていたことを、ゼロは初めて知った。


『お前のご主人が悪いんだ、口ばっかでぜんぜん役に立たなくて! こいつがもうちょっとしっかりしてれば、シャイネだって無理せずに済んだかもしれないだろ!』

『やめてよ、そんないいかたしないで。ごしゅじんもいっぱいがんばったよ。まものがおおすぎたんだよ』

「いや、おれのせいだ」


 思わず呟くと、精霊たちはぴたりとお喋りを止め、それきり揺すっても叩いても、何の反応もなかった。


「……シャイネは生きてる。たぶん。どうしてだかわからないが、わかる。生きてる。お前たちはシャイネの居所がわかるんだろう、助けに行くから力を貸してくれ」


 だんまりを続ける剣に囁きかけ、包帯を固く留めて服を着た。


「どうしたんだ」

「すまん、急ぐ」


 訝しげなキースには構わず、外套を羽織って剣帯を確かめる。エニィが微かに、金属音をたてた。

 何とはなしに勇気づけられて一歩を踏み出した目前に、腕を組んだナルナティアが立ち塞がった。


「どこへ行く」


 低い声は苛立ちと不機嫌と押し殺した怒りに揺れ、整った顔だちを一層、鋭く艶やかに彩った。レイノルドと同じ顔だが、対等の立場で言葉を尽くせるよう計らってくれるところや面倒見の良さ、大らかさと朗らかさを併せ持つ彼女のことは、心からいいやつだと思っているし、ジェンに信頼されるのも頷ける。


「シャイネを助けに」

「許可できない。お前が今すべきことは何だ。どこにいるかわからないあの子を探すことか? その間、ジェンさんに危険がないと言い切れるか。お前も護衛の契約を結んだんだから、この場でそれを破棄できるものじゃないってことくらい、わかるだろう」

「あんたはシャイネを見殺しにするって言うのか」


 口にしてみたが、情に訴えるなどといった稚拙な恫喝に動じる女ではなかった。そうでなければ傭兵を束ねることなどできまい。


「ではお前は私情で、ジェンさんたちを見殺しにするのか。それは無責任で、契約違反っていうんだ、わかるか。兄がお前に教えたことを忘れたか」


 教わったことが何なのかは思い出せないが、彼女の言うことはいちいち正論で、だからこそ苛立つ。お前だって今すぐシャイネを探しに行きたいくせに、と罵りたいのをどうにか堪えた。

 危険な傭兵稼業において、最優先されるべきは契約、そして依頼主の命だ。脱落者は冷徹に、合理的に切り捨て、守るべきものを守る。どれだけ辛くとも、悲しくとも、腹立たしくとも、情が介入する余地はない。だからこその契約だ。ゼロ自身、十分すぎるほどにわかっている。

 わかっているつもりだった。


「そりゃあ、あたしだって助けに行きたいさ。……助けられるものならね」


 助けられる、シャイネは生きている。今この瞬間にも助けを求めているのだ。しかし、根拠のない確信は妄想にすぎない。説得の言葉をゼロは持たなかった。救出に向かう正当性も、利も、理も、何もない。

 彼女は刻一刻と死に近づいている。最悪の想像に呼応するかのように、精霊たちは懇願の悲鳴をあげ、西へ西へと促す。

 ――ゼロ。

 ふと、呼ばれた気がして瞬く。

 青ざめたまま、唇を引き結んで立つナルナティアの足元にシャイネが仰向けに横たわっていた。


「シャイネ……!」


 醜く腫れ上がった腕、血で染まった胸と腹。光を失った虚ろな眼は空の青を映すばかりで、温かな金茶も命の灯も抜け落ちてしまっている。蝋の色の肌に体温がないことは一見して明らかで、それでも手を伸ばさずにはいられない。

 肌に張りはなく、生はすでに遠ざかっている。抜け殻の体をかき抱いて――我に返った。

 傷ついたシャイネは消え、ナルナティアが怒りを湛えてこちらを睥睨するばかり。


「どうしたの、ホントに大丈夫?」


 目を凝らしても、瞬きをしても、シャイネの姿はもう見えない。エニィとディーの声はなかったが、変わらず精霊たちは耳元で喚いている。助けて、早く、と。精霊が幻を見せたのか、焦るあまりにありもしない光景を見たのか、判断がつかなかった。

 沈黙するゼロに構わず、ナルナティアは装備と馬車を点検するよう言い渡して、愛馬の側に戻った。キースとベアはわずかばかりの同情の視線を投げて寄越しはしたが、言葉はなかった。

 彼らの言いたいことはよくわかる。シャイネを一番に守りたいのであれば、ナルナティアと手を組まねばよかったのだ。傷つき、連れ去られたのが彼女でなければきっぱりと割り切った。割り切れただろうと思う。

 一行から離脱せずとも、西に向かうのは同じだ。単騎で街道を抜けられるとも思えない。焦っても碌なことにならない。落ち着け。冷静になれ。視野を広く持て。耳を澄まして、呼吸を深く。

 千々になった集中力を取り戻すのに、ずいぶんかかった。


「ゼロさん……」


 ジェンの娘、ユールがゼロを見上げていた。シャイネと仲良くしていたこの娘も、思うところがあるようだ。積み荷の点検をしているジェンでさえ気遣わしげだった。契約が第一であるにせよ、誰しも生命に順列をつけることにいい気はしない。


「大丈夫、シャイネは生きてる」

「わかるんですか」


 ほっと表情を緩めつつも、少女の眼差しから疑問の色は消えない。それも当然だろう、確信を抱くゼロでさえ筋道立てて説明することはできないのだ。希望混じりの憶測と取られても仕方がない。ましてや、半精霊でもないのに精霊の声が聞こえたなど、妄言以外の何でもなかろう。信じてもらえるはずがないし、自分自身が信じきれていなかった。

 再び呼ばれた気がして、顔を上げる。西の方角、誰かが――精霊が手招きしている。それはやはり、聞こえるのとも見えるのとも違う、奇妙な感覚だった。耳や鼻や目を一つにしたようなまったく新しい何かでもって、感じるのだ。

 シャイネはやはり、西にいる。慣れない感覚を信じることへの抵抗はさておき、利用できるものは利用してやる、と腹を括った。


「あの、ゼロさんも大丈夫ですか。すごく顔色が……」


 視界の隅に映ったユールは不安を煮詰めた表情のままだ。魔物の襲撃に命がけで立ち向かったシャイネを案じてくれていることがひどく嬉しい。こうして半精霊を自然に受け入れてくれることが。


「大丈夫だ、たぶんな」


 こんなにも漠然としているのに、呼びかける声は、指し示す光は、奇妙に澄んでいる。シャイネはいつもこの光景を目にし、ざわめきを耳にしているのだろうかと思うと、熱いものが胸を満たした。

 彼女も今、精霊を感じているのだろうか。おれを探しているだろうか。

 伸ばした手指が触れあうように、互いの感覚で互いを探り当てることができたら。そう夢想することは場違いの喜びをゼロにもたらした。知らず、唇の端が持ち上がる。

 大丈夫、シャイネは生きている。生きて、おれを導いてくれている。

 ――そうでなければ、おれは頭がおかしくなってしまったのだ。

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