失われたもの (2)

 ゼロは窓を開けたり閉めたり、食事やお茶を運んだりと細やかに気を遣ってくれた。お姫様にでもなった気がする。世話を焼いてもらって申し訳なく思うが、ごめんねと謝るよりは、ありがとうと言うべきなのだろう。嫌々付き添ってくれているわけではないのだから。


「……ありがとう、ゼロ」

「気にするな」


 右腕はおまじないの効果もあってずいぶん良くなっている。獣型の歯にこすれてできたぎざぎざの傷は治りが遅いが、他はほとんどが塞がっていた。


「だいぶ良くなったな」


 促され、ゆっくりと腕を曲げ伸ばししてみる。打ち身に似ただるい感じは残るが、ちゃんと動くし、感覚もある。処置が遅れたにも関わらず、大事に至らずに済んだのはヴァルツのおかげだ。それから、看病を続けてくれたゼロの。

 傷口に化膿止めの軟膏をたっぷりと、ぎゃあぎゃあ悲鳴をあげるのにも構わずに塗られ、湿布を貼って、元通りに包帯を巻く。軟膏が沁みると文句を言いかけた口に干し杏が放り込まれては黙るしかない。何て抜かりのない!

 道具を片づけ、それでだ、とゼロは冷ました炒豆茶に口をつけた。香ばしくすっきりした味わいで、花茶の独特の風味を嫌う彼も、豆茶や麦茶は好んで飲む。


「順番に話そうか。あのあとどうなった?」

「しばらく寝てたんだけど、クロアが助けてくれたみたいで」


 いきなり、ゼロはむせた。


「半魔が? あんたを? なんでだよ」

「僕の父が悲しむからって……本当のところはどうだかわかんないけど。クロアと、もう一人イルージャって名前の、たぶん獣型を使う男の人も一緒でさ。いろいろ聞いたんだけど、まだ整理しきれてなくて。うまく話せるかわからない」

「いいさ。で、連中はなんであんたを連れて行ったんだ? 攫ってったんだから何かしら目的があったんだろ」


 質問の的確さにたじろぐ。いきなり重要なところを突かれるとは思わなかった。


「マジェスタットで会ったときにも、世界を破壊するって言ってたけど、今回もそれの延長みたい。まず神都を包囲して攻撃するって。僕はその妨げになるから、遠ざけておこうってことだと思う」


 シャイネは言葉を選びながら、慎重に話した。間違っても、彼の失われた記憶には触れないように。


「女神に関するものを滅ぼすなら妥当なとこだな。女神教の本拠地だし、神都がちれば誰だって動揺するだろう。それだけこっちの事情が向こうに伝わってるのも、誰も知らないんだよな……。それで西には魔物が多いのか。なのに一気に攻めないのは、何か理由があるんだろうか」


 もっともな質問に、シャイネは首を傾げる。


「何かって……わかんないけど。でも、クロアたちは僕たちよりずっと強く親の……魔物の能力を受け継いでるんだって。だから世界中に魔物を放ったり、あっちを通ってこっちの好きなところに移動したりできるみたいで」

「何だそれ」

「マジェスタットで、突然現れたり消えたりしたのがそうだよ。ヴァルツもそうじゃない。僕はやったことないけど、クロアが言うには、半魔にできて僕たちにできないことはないんだってさ」


 ふん、と面白くなさそうにゼロは鼻を鳴らした。


「魔物と精霊は同じ、か」


 初めて言われたときは全力で否定したが、今となってはそれほど変わらないのではと思える。世界の外側、あちらに属するものはみな同じ性質なのだろうか。つまるところ、女神も。女神の力を持つらしいゼロも。


「ふたりとも女神のことは敵視してるみたいなんだけど、どうしてか精霊はそうじゃないみたい。無関心っていうのかな。クロアは昔の一件で父さんにすごく恩を感じてるみたいで、それで助けてもらったんだけど……」

「よくわからんな。親父さんへ義理立てできれば、それ以外はどうなってもいいってことか」

「たぶん」


 父スイレンが命の恩人だから、子のシャイネも特別だというのはわからないでもない。けれども、父以外の人間の命を等しくつまらないものとして扱うのには我慢ならなかった。

 シャイネを半精霊だと知ってつらく当たる人、冷たい視線を向ける人がいるのと同様に、優しく声をかけてくれる人、手を差し伸べてくれる人もいた。ひとくくりに隔てることはできないし、受け入れてくれる人だけを選んで守らねば、とも思わなかった。半精霊を認めてほしいと願うのは、シャイネ自身が他人のさまざまなあり方を認めることと同じだ。

 金髪の人がいて、黒髪の人がいて、赤毛の人がいる。青い眼の人、茶色の眼の人、緑の眼の人がいる。その違いをことさら気にかけないのと同じで、半精霊がいて、半魔がいる。それでいい、とシャイネは思う。人に害を及ぼす以上、魔物との共存は望めないが、確たる理由なく精霊を嫌悪する女神教とは違う。


「女神が精霊を使って世界を創ったの、知ってる? なのにどうして魔物にとって女神は敵で、精霊はそうじゃないのかすごく不思議」

「ちょっと待て、どういうことだ? 精霊を使った? じゃあ何だって女神教は精霊を目の敵にするんだ」

「知らないよ。ゼロのほうが詳しいんじゃないの」


 つるりと滑った言葉に、彼は敏感に反応した。眉が跳ね上がり、言葉の意味を噛みしめるように訝しげに目が細まる。

 しまったと思ったが、もう遅い。


「何でだよ」

「え、いや、その、だってゼロ、学校行ってたんでしょ? 物知りだし、頭いいし」

「おだてても、何も出ないぞ。だいたい、そんなことを学校で教わるかよ。教師も学校も女神教に睨まれて終わりだろうが」


 言い終わるなり遠くへ視線を投げ、彼は思考に沈んだ。確かにそうだ。そう教わって以来、精霊の秘密のひとつくらいに考えていたが、女神が精霊を使って世界を創ったことを、女神教はなぜ秘密にし、あまつさえ精霊を異端視するのだろう。偽りの歴史を説くのはどちらだ。

 考えても、答えの出ることではなかった。ふと思いついて、難しい顔をしているゼロをつつく。


「そういうのを、図書館に行って調べればいいんじゃないの?」

「そうだな。資料があるといいんだが」


 学問の都の図書館は世界一だと言われている。大学府の付属図書館にはこの世に存在するすべての本が集まっていると、はるばるリンドにまで評判が流れてくるほどだ。どこまで行っても本が並んでいて、迷宮のようだったと酒で舌が滑らかになった旅人が語ったのを覚えている。

 すべての本とはさすがに誇張だろうが、そこまで言わしめる規模には期待できる。


「どうかな。蔵書が多ければ多いほど、調べるのに時間がかかるわけで」


 ゼロは渋面のままだ。抱えていた膝を離して身を乗り出した。


「僕も行くよ。手分けして調べればいいじゃない」


 勉強は得意ではないが、読み書きはできる。いないよりはましという程度であっても、できることがあるならば手助けしたい。寝ているだけとか、見ているだけとかいうのは、性に合わない。


「いや、そういうことじゃなくて。その、女神に関することを調べるんだから、あんたの具合が悪くなるんじゃないかと」

「やってみなくちゃわかんないよ」

「じゃあ、もう少し具合が良くなったら行ってみるか。ナナのところにも顔を出さなきゃならんしな」


 ナルナティアはカッツ一家を送り届けた後、すぐ別の仕事が入ったために街を発ったそうだ。ゼロはシャイネの看病にかかりきりで、まだ一度も図書館に行っていないと言う。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、単独行動が危険を招きかねないことを考えると、これで良かったのかもしれない。半魔たちがいつ襲ってくるか、まったくわからないのだから。

 失われた記憶に直結するかどうかはともかく、知識はゼロに新しい選択肢を与えるに違いない。女神のこと、滅びのこと、ク・メルドルのこと。知っているのと知らないのとでは余裕が違ってくる。襲撃に備えて少しでも早く、多くの知識を得るべきだと思えた。

 シャイネはそっとため息をつく。ゼロが知識を得ることと、記憶を取り戻すことはほとんど同じ意味なのだ。

 一度手放した記憶を、生命の危機が迫っているからとふたたび求めなければならないなんて、悲しすぎる。

 大切なものの喪失を突きつけられ、ゼロはきっと辛いだろう。胸が張り裂けるほど痛むだろう。そのとき僕は、彼に何ができるだろうか。

 考えを巡らすけれども、よい思いつきにはたどり着けなかった。こんなに良くしてもらっているのに返せるものがないなんて、自分自身のつまらなさに泣きそうになる。ただ庇護され、甘やかされるのではなくて、隣に並び立ちたい。互いの背を守りあって、呼吸を合わせて、困難を切り拓いて。


「ねえゼロ、僕、そんなに弱っちく見える?」


 僕はそんなに頼りない?

 僕はそんなに、ひとりでは何もできないように見える?

 僕はもう、子どもじゃないんだよ。


「弱っちいというか、いや、そんなのじゃない、と思う……」


 突然の問いかけに、ゼロは視線を泳がせた。一所を見つめて考え込んでいたかと思えば天井を、床を、シャイネを見遣り、やがて膝に置いた両手を睨んでぽつりと呟いた。


「前にも、こんなことがあったと思うんだ」

「思い出せたの?」

「いや。あんたがいなくなったときの気持ちを、何となく覚えてたんだ。もう二度と戻ってこないんじゃないかって……自分でもびっくりするほど怖かった」

「大丈夫だよ、ゼロ。僕はそんなすぐに壊れたりしないよ。そりゃあさ、今回僕が助かったのは母さんとヴァルツのお陰だけど」


 つとゼロが顔を上げる。首を傾げつつも、好奇心は隠しきれていない。


「じゃあ、ふたりに助けられたってことか? 召んだんじゃなく?」

「そうだよ。……たぶん、手を出すきっかけを見計らってたんだと思うな。すごくいいところで出てきたから」


 ううん、とゼロは唸った。様子を窺うなんてことをせず、早くに手助けしてくれればよかったのだと顔に書いてある。

 ふと悪戯心が頭をもたげた。二、三度瞬きして目を潤ませ、上目遣いになって尋ねる。


「僕がいなくなると、悲しい?」

「あんたはどうだ? おれがいなくなると、悲しいか?」


 余裕綽々で卑怯な躱しかたをする。怯んでなるものか。


「悲しいよ、僕はね」

「そうか」


 こんなつもりじゃなかった、とぬるい豆茶をあおるが、彼はやはり余裕の笑みを浮かべていて、さっきまで落ち着きをなくしていたのが嘘のようだった。やられっぱなしは流儀に反するが、下手を打つと傷を広げかねない。茶を注いで、だからね、と続ける。


「ゼロもいなくならないでね。約束だよ」

「ああ、約束する」


 右手の中指と薬指を唇につけ、彼の手の甲に触れる。口にした言葉を違えないという、他愛ない仕草だった。神妙に同じ動きを繰り返すゼロが、何だかおかしい。


「半魔かー。少なくともヴァルツやあんたの母さんは、半魔よりも力があるんだな?」

「そうだね」

「で、あんたも半魔と同程度の力を持ってる、と」

「らしいよ」


 肩を竦めてみせる。人に交じって生きてゆくなら、大きな力など必要ないと思っていた。が、今は違う。どうにかして力を手に入れたい。ゼロを守り、半魔たちを退けられる力が得られるなら、どんな不利益があったとしても迷わずに望むだろう。

 半魔たちのように、人の身に眠る精霊の力すべてを自在に使うことができれば。噛みしめた奥歯が低く鳴った。

 魔物たちが神都を攻め、女神に縁あるものを――女神の子や女神教だけでなく、何の罪もない人々までをも害するなら、攻勢を防ぎうるのは半精霊だけだ。もちろん、シャイネひとりの力だけでは不可能だから、リアラやミル、ダグとマックスの兄弟にも協力を請わねばならないだろう。

 壮大な話だ、と頭を抱える。半魔たちの神都侵攻は差し迫ったものではないようだが、のんびりと準備をする時間があるとも思えない。

 母とヴァルツによる牽制が、いくばくかの時間稼ぎになるのを期待するしかなかった。その貴重な時間に、シャイネは何をせねばならないのだろう。何ができるのだろう?

 ディーとエニィ、そして召喚に応じてくれる精霊たち。持てる力といえばこれぽっちでしかないのに。

 立てかけられた刺突剣がことりと鳴った。励ましてくれているのか。

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