邂逅 (5)
夕方というには早い時間に、雨は止んだ。
雨が降っていた時分の暗さが嘘のように空は晴れて、春の薄青が広がっている。
レイノルドの案内で、シャイネは買ったばかりの外套と汚れた旅服を洗濯屋に預けた。代わりに、彼の妻のものだという上着を押しつけられる。
恐縮したが、彼は笑うばかりで取り合ってくれない。風邪をひくから、と重ねて諭され、久しぶりに男装を解いて街を歩くことになった。
身体は痛んだが、立って歩くくらいならば何ともない。今はヴァルツに教わったおまじないを試す気にはなれなかったが、顔を腫らしたままというのはいただけない。何より目立つ。青服に見つかれば終わりだ。宿に戻ってからにしよう、と先延ばしにする。
先に立って進むレイノルドの背中を追っていると、すぐに見慣れた宿屋街の通りに出た。
「道中気をつけて。旅の無事を祈っているよ」
通りで手を挙げた彼の眼を太陽が照らし、雲が陽光を透かしているのに似た銀色に煌めいた。シャイネは丁重に礼を述べ、雑踏に紛れる。
散々な目に遭ったが、レイノルドと知り合えたことは大きな収穫だと思えたし、ク・メルドルだけではなく、遠い異国の話にはずいぶん慰められた。またいつでもおいで、と握手を交わした乾いた手からは、凄みも偉大さもすべてを含んだ人となりが伝わってきた。
道を確認した後は、顔が見えないよう俯いて宿を目指した。左の頬を中心に熱と痺れがひどい。風除け布で隠してはいるものの、絶えず視線を感じて憂鬱になった。
旅人や狩人が行き交う宿屋街のこと、怪我人の姿など珍しくもないが、顔の半分を腫らした女は目立つ。自然と足早になった。
『なあ、大丈夫か? ちゃんと施療院に行けよ』
レイノルドと別れるなり、ディーがやかましく騒ぎはじめた。父の剣であったからか、それとも旅暮らしの経験が長いからか、かれはまるで保護者のような口振りで話すことがある。一人きりの旅路ではそれが愉快で、楽しくもあるのだが今に限っては鬱陶しかった。
レイノルドと話して少しは気が楽になったと思っていたのに、喧噪の中にあっては錆びた全身鎧を引きずっているに等しかった。人目がなければすぐさまうずくまって膝を抱えていただろう。
暗い部屋で一人になりたかった。
話に聞いた半精霊の姉妹は、レイノルドに愛され、尊ばれ、慈しまれていた。彼らの在りようが羨ましく、理想的だと賛美するほどに、青服に殴られた自分自身との落差を感じて惨めになる。
比べることに意味はない。ここはク・メルドルではないし、シャイネは流れてきたばかりの駆け出しの旅人だ。何もかもが違いすぎる。いつもならばこの辺りで気持ちが切り替わって、名も顔も知らぬ半精霊たちとレイノルドが過ごせたことを喜び、彼女らの死を悼むことができるのに、今日はだめだった。
生まれて初めて半精霊だと指差され、傷つけられたことが重くのしかかっていた。秘密にしておきなさい、誰にも知られないようにと言い含めた両親の顔が浮かび、リアラの笑顔と、それを追うフェニクスの生真面目な表情が浮かんだ。シャイネを殴った青服の厳つい顔が浮かんですぐ消え、想い出を語るレイノルドの静謐な横顔が浮かんだ。飄々としたヴァルツの翠の眼と、ゼロの冬の夜闇を思った。
認められたい、それは半精霊だけの願いではなかろう。居場所を探しているのも、異物と見なされることも、多種多様な暴力をふるわれることも。
自分だけが特別ではないとわかっているつもりだが、それでも時折、世界で一番不幸な目に遭っているのだと、自己憐憫の甘い波に足を掬われる。
シャイネを尊いものだと言ってくれる人が、いつかは現れるのだろうか。なすすべもなく隔てられてしまってなお、交わした思いと信頼を誇ることができるならば、何があっても膝を折らず、胸を張って背を伸ばしていられるだろうに。レイノルドが見せた強い憧憬が羨ましかった。
街中を歩くのも宿に戻るのも同じくらい嫌だったが、ついに帰り着いてしまった。開け放された戸からは、中の様子は窺えない。意を決して戸口を潜った。
帳場には誰もいなかった。夕食時を前に厨房が立て込んでいるのかもしれない。誰にも顔を見られたくないので、足音を忍ばせてそそくさと階段を上る。
「遅かったじゃないか」
頭上から降ってきた静かな声に驚いて足を止めた。階段を上りきった先、廊下の端に、ゼロが腕を組んで立っている。
買い物は先に済ませて、頼まれものは部屋にある。彼に咎められることはしていないはずだし、どうして部屋の外でシャイネを待ち構えていたのかちっともわからない。傷に障るのではないか。痛まないのか。何かあったのか。
疑問が渦を巻くが、まずはっきりと形になったのは、見られた、という怯えにも似た何かだった。階段を下りて逃げるか、それとも部屋に駆け込むか。迷った一瞬の隙に、ゼロが壁に寄りかかりつつ足を引いて近寄ってきたために、片方の退路が断たれた。顔を見られたくない一心で後ろを向く。
「何があった? 誰に何をされた? その服はどうした?」
矢継ぎ早の問いかけが、背中を打つ。怒っているわけではない、むしろ心配しているふうな声音だったにも関わらず、答えるのは躊躇われた。
道を歩いていたら青服の連中と鉢合わせて殴られた。言うのは簡単だけれど、それでも。
「シャイネ」
低い声が、苛立ちを含む。
観念して階段を上りきった。何も言えずに突っ立っていることしかできない。やがてゼロは、看てやる、と短く呟いた。
「なんで」
「なんでって。痛いだろ。顔だし、早く冷やさないと、もっとひどくなるぞ」
「違う、そうじゃなくて。どうしてゼロはそんなに親切にしてくれるのってこと!」
青白いおもてが露骨に歪んだ。口を尖らせ、えー、と不満の声を漏らす。
「あのさあ、そういうの面倒臭いからやめようぜ。あんただっておれに親切にしてくれたし、それはおれのことが好きだとか惚れてるとか、そんなの抜きでだろ。あんたが最低な顔でしょぼくれてて、うわーって思うことに理由がいるのかよ」
「だって、僕は」
「だから、それが面倒臭いんだって。ほら早く。ヴァルツー、駄々っ子一名様ご案内するぞー」
はいはい、と呆れたような声と同時にゼロの部屋の扉が内側から開いた。痛ましげに目を細めたヴァルツはやはりすべてを見透かしているようで、視線が痛い。疚しさゆえだとしても、何もかもを打ち明け、どうしたらいいのかわからないなどとぶちまけることはできない。
招き入れられ座らされ、ふたりがああでもないこうでもないと他愛もないことを話しつつ軟膏だの湿布だのを用意してくれるのを、身を縮めてぼんやりと眺めた。傍らに腰を下ろしたヴァルツの腕が背中を支えていて、抱きしめられる格好なのがくすぐったく恥ずかしく、けれどいい匂いがして居心地が良かった。
ゼロの手が頬を掠めて髪を持ち上げ、傷を露わにする。右目を覆えばほとんど何も見えず、目に入った砂のせいなのか殴られて腫れているからなのかよくわからなかった。
「ゼロ……ほうしゃって、持ってる?」
「硼砂? あるけど……目もやられたのか」
「じゃあこの中で瞬きして。ゆっくりだよ」
「早ぇよ」
どこにあったものか、ヴァルツが水を張った桶を差し出す。わけがわからないままに、言われたとおりにした。
「シャイネ、今夜はここで過ごすといい。私が隣にいるから。きみに必要なのは巣だよ。温かい毛布とすばらしい寝床と、美味しい食べ物。あいつが邪魔なら追い出すからね」
「隣でやれよ。何でおれが放り出されるんだ」
もっともな言い分に、ようやく笑えた。シャイネが笑うと、ヴァルツもゼロもほっとした様子で肩の力を抜いたのがわかった。
「よかった。やっと笑ってくれたね。私の姫君をこんなにするなんて、本当に身の程を知らないやつだ。よく頑張ったね。痛かっただろう。おまじないは? 今はつらい?」
「いえ……大丈夫」
「そっか、おまじないってのをすれば、傷が治るんだっけか」
「治らない傷もあるさ。ねえ? でもそれも、ゆっくり時間をかければ、きっと良くなるから。諦めないで薬になるものを探すんだよ」
ヴァルツの手が背や肩を撫でさすり、ゼロの指が軟膏を塗り伸ばしてゆく。茉莉花に似た香りがする軟膏で、ひんやりして気持ちが良かった。
「……もしかして、全部わかってるんですか」
「まさか。精霊は万能じゃない。ただ……人間ふうに言うなら想像はつくし、予想もできる。何があったか調べようと思えばできなくはないけれど、きみはそんなこと望んではいないだろう。私は大切な半精霊たちの巣を守って、背を押してあげる存在でありたい。それだけだよ」
顔に軟膏を塗り終えたゼロは手を拭いて、軟膏を練っていた小さな台やら小さな
「あ、あの、ありがとう……」
おまじないをするには落ち着かない。あんな目に遭ったあとすぐに、半分は精霊であると誇る自信もない。毛布に包まってヴァルツに抱かれていると、ここにいていいのだということ、ここは安全なのだということがようやっと全身に行きわたり、深くまで染みていった。
「……で、誰にやられた。そもそも、何でそうなった」
言い逃れは許さん、という宣言が聞こえた気がした。彼は左脚を投げ出し、右脚を身体に沿うよう折り曲げて、前屈みになっている。高く澄んだ冬の夜空の眼がじっとシャイネを見つめていた。夜に属するひとだ、とふと思う。
答えないでいると、ゼロの表情が曇った。視線が揺れる。
「言えないようなことをされたのか? 服を着替える必要があったくらいに」
「や、そんなのじゃなくて、ただ、ちょっと殴られて……」
「こんなになるまで?」
ゼロの周囲の空気が冷えていくのを感じて戸惑う。彼が怒る理由がよくわからなかった。シャイネが受けた暴力に対し、怒りを感じてくれているのは嬉しいのだが。
――嬉しい?
「雨が降ったときに眼が光ってたのを、巡回の青服に見つかって……でも、しょうがないよ。あいつらは僕らを捕まえるのも仕事のうちだもん。半精霊なんて滅多に会わないだろうに、咄嗟に身体が動いて偉かったよ」
「あのなー、だから殴られたのもしょうがないとか、そんなわけねーだろ。あんたは何もしてないんだから、殴った青服が一方的に悪いに決まってるだろうが。あんたまで教団の取り決めに従う必要がどこにあるんだ、何が偉いもんかよ」
「……うん……そうかな……そう、だよね」
「そうだよ、何揺らいでんだ、しっかりしろよ」
ヴァルツは口を挟まず、くすくす笑うばかりだった。
心強く思えて、北の市でのことを順を追って話した。逃げようとしたら殴られたこと。親切な男に助けられたこと。亡くなった奥さんの服をもらったこと。
「それで、副神殿長と親しいらしいんだけど、何でか青服をごまかしてくれて……。いい人だったよ。剣を使う手をしてた。雨が降ってるのに足音もたてずに歩いてさ、しかもすごく物知りで、いろんな土地のことを何でも知ってた。いい意味で計算づくってふうな大人の人で……。不思議な匂いのする煙草を吸ってたよ。竹の葉みたいな青っぽい匂いの」
「……へえ」
いつでもおいで、と言ってくれた穏やかな声と大きな手を思い出すと、わけもなくふにゃふにゃと頬が緩む。
「奥さんの服をもらったってことは、女だってばれたのか」
「そう、それが、すぐわかったみたいで……。わかる人には、わかるのかな」
さあな、と投げやりな声は不機嫌さを閉じ込めて刺々しい。なぜ怒る。シャイネに手を差し伸べることに理由がないのなら、苛立つことにも理由はないのか。勝手な話だ。
レイノルドがク・メルドルの騎士団に在籍していた半精霊と近しい仲だったことは、伏せておいた。今思えば、ゼロのことを知っていたのではないか。いや、騎士団といっても規模は様々だから、必ずしも知り合いだとは限らないけれども。
「不思議な眼の色をしててね……青みがかった灰色なんだけど、光が当たると銀色に見えるんだ」
ゼロがはっとした様子で手を振り、話を遮った。表情が硬い。
「……そいつだ」
「何が」
「本命君」
シャイネはぽかんと口を開ける。
「うそ」
『……まさか気づいてなかったのか?』
呆れ返ったディーの声が、耳を素通りする。気づいたなら教えてくれても、と思うが、教わったところでどうしようもないし、かえってぎくしゃくして不自然になるのは明らかだった。
「うわあああちょっと待ってちょっと待って、意味がわかんない」
ゼロと二人して頭を抱える。
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