邂逅 (4)

「……大丈夫か」


 低い声に驚いて、顔を上げる。

 長身の男がシャイネに傘を差しかけていた。曇り空のような青みがかった灰色の眼、印象深い珍しい色が、じっとこちらを見つめている。

 人の気配も足音も、何も感じなかったのに、いつからいたのだろう。胸を締め上げるものは、恐怖だ。


「追われているのか?」


 男の声は静かで、何の感情も含まれていない。


『……シャイネ、気をつけろ』


 ディーが囁いたのと同時に、青服のものらしい怒声とざわめきが遠くに聞こえた。身体が強張る。

 男はシャイネを抱えて壁際の暗がりに寄せると、外套を脱いで着せかけてくれた。汚れることなど微塵も気にしていない素振りだった。


「ここでじっとしていろ」


 有無を言わせぬ口調で命じ、男は背を向けて路地を出ていった。泥濘を歩いているはずなのに足音がしない。

 シャイネは身を固くしたまま、濡れた壁に張りついていた。外套に残る体温に気が緩んで、またも泣きそうになる。

(……誰だろう)

 いや、気を許すのは早すぎる。彼が何者なのか、敵なのか味方なのか、何もわからないのだから。

 初対面であるのは確かだ。あんな色の眼ははじめて見た。


「何の騒ぎだ。呼子は、お前たちか」


 男が咎めた。声は静かなのに張りがあってよく通る。水溜りを散らすたくさんの足音は、青服たちだろう。


「レイノルドさま!」

「実は、精霊が現れまして」


 青服たちはみな興奮しているようだった。獲物を追い込んだ自信と手柄を前にした期待で、息が弾んでいる。レイノルドと呼ばれた男は一瞬たりとも揺るがぬ完璧な静寂を身に纏い、そこにいると知らなければ気配を察することさえできなかっただろう。


「金髪の若い男です。ガンディが妙な術でのされました」

「この辺りに逃げ込んだのは確かなんですが」


 次々に放たれる言葉に、ぎゅうと拳を握る。彼が女神教の関係者でないという保証はどこにもない。自分の外套を着て震えているのが精霊だと聞いて、考えを変えることもあるだろう。


「私は見なかったが、この辺りは道が複雑だからな……」


 しかし、レイノルドは事実と異なることを言った。なぜ。助けられたにも関わらず、シャイネは唖然とする。


「そうですか。もう少し探します。お騒がせしました」

「ああ、ご苦労」


 指示を出す声が飛び交ったのち、やがて人の気配は遠ざかっていった。十分な時間がたってから、やはり足音もなく男が戻ってくる。

 すくい上げるように抱き起こされたかと思うと、レイノルドは外套をシャイネの肩にしっかりと羽織らせた。

 黒い生地は質がよく、温かくて軽い。泥まみれの服の上に着てよいものではない、と身じろぎするが、大きな手がそれを止める。一目で剣を使うことが知れる、分厚く硬い手指だった。濡れた地面を歩いても音をたてない独特の足運びも、武術を極めた者ゆえか。

 彼はほとんど無表情のまま、シャイネの金茶を眺めた。


「……精霊の眼だな」


 息を呑む。精霊の眼の輝きを知っているなら、出会ってすぐにそうとわかっただろう。

 青服たちが追っているのはシャイネだということは明らかなのに、なぜ見ていないと彼らに言ったのか。


「私はレイノルドという。とりあえず、中に入らないか。ここは冷える」


 レイノルドは背を向け、無雑作に歩き始める。ゆったりとした歩みだが、どこにも隙がない。はいそうですかと後に続くことはできなかった。

 得体が知れない。精霊の眼をもつシャイネを庇ってくれた理由、目的は何なのだろう。青服たちに敬語を使われる彼が手を差し伸べたのはどうしてなのか、回らない頭では何も考えることができない。ディーも緊張して様子を窺っている。

 黙って立っていると、レイノルドが静かに振り向いた。表情はなく、何を考えているのかまったく読み取れない。


「どうした」

「……僕は、半精霊です。あなたが言うとおりだ」

「だろうな」

「じゃあ、どうして嘘をついたんですか。見ていない、なんて」


 シャイネが追われていることは、わかっていたはずなのに。

 レイノルドは目を細めた。はじめて笑みのようなものを浮かべて、手を差し出した。


「連中が探しているのは、金髪の男だろう。君は金髪だが、女じゃないか」




 レイノルドは一人で暮らしているらしかった。

 家具は最低限のものがあるきりで、しんと静まりかえった室内は整いすぎるほどに片づけられており、いやに広く見えた。炊事場には使用の形跡はあるが目立った汚れはなく、まるで生活感がない。 

 彼はシャイネを招き入れ、大鍋に湯を沸かし、桶に汲んだ水で顔と目を洗わせてくれた。泥の入った目にはざらざらと異物感が残り、痛みもあったが、前は見えたのでほっとする。

涙が止まらないのは細かな砂を出すためだからそのままにしておくようにと言われて新しい晒し布をもらい、涙を押さえたり瞬きしている間にもレイノルドの動きは滞ることなく、清潔な手巾と女物の衣服一式が差し出され、盥には沸かした湯が半分ほど張られており、間仕切りの吊り布が閉じられ、シャイネは湯浴みの準備が済んだ炊事場に一人でいた。


「身体を拭いて着替えなさい。風邪をひくといけないから」


 この服は誰のものか。甘えるわけにはいかない。疑問や言い訳は次々に浮かんだけれども、彼の言葉にはすべてを封じる勢いと重さ、命じることに慣れた抑揚があった。

 痛めつけられている間に頭を覆っていた怒りや混乱はどこかへ消え、レイノルドに対する漠然とした恐怖と畏怖、警戒と感謝がぶつかり合って、何はともあれ厚意に甘えておくべきだと常識的な判断が残って背を押した。


「……はい」


 素直に頷く。ディーは取り上げられることなく腰にあるが、精霊のわざを使わなければ剣技で彼をどうにかできるとは思えなかった。彼我の間にあるのは歴然とした実力と経験の差であり、目に見えぬそれを理解できる程度にはシャイネは自分の実力を把握していたし、冷静だった。

 湯をうめて身体を拭く。蹴られた腹はひどい赤みと内出血で斑になっていた。触れれば痛むが、内臓や骨には異常がないようだ。背中は確かめようがない。顔は殴られた左側に傾くほど腫れて痛む。目が開きにくいのは泥のせいばかりではない。熱を持ってずきずきと疼く傷を、痛みをこらえて拭き、最後に髪を洗った。

 顔はきっと紫色に腫れあがっている。鏡がないのは幸いだった。見れば一段と気が滅入るだろうから。つまらない顔で宿まで帰るのかと思うだけで、暗澹たる気分になった。

 用意された服に着替えて盥の水を溝にこぼし、吊り布を畳むと、客間には薬箱の中身を広げたレイノルドが待ち構えていた。


「旅の人か。雨が止んだら宿屋街まで送っていこう。施療院に行くといい。顔の傷だし、目もきちんと消毒しておかないと後で困ったことになるかもしれないから。さすがに硼砂までは持ち合わせがなくてね」


 ほうしゃって何ですかと問う気力はなかった。擦り傷を洗って砂を出し、腫れた頬を冷やすだけの簡単な手当てだったが、ずいぶんと手慣れている。

施療院ではないところで、手当てをしてもらうことが増えた。傷を看てくれるゼロの黒い眼差しや長い指が思い出され、素直さを覆う壁を意識して取り払う。弱っているところに人の体温が心地よく、孤独に慣れすぎていたことを知った。

 レイノルドの本心はわからずとも、今この瞬間に悪意はないだろうことが安心をもたらした。


「よく似合うよ」


 生成色のシャツに膝丈の巻きスカートという特徴のない姿に、レイノルドはさらりと世辞を述べる。命令口調と同じ、社交辞令を口にし慣れている様子だった。


「あの、この服は……?」


 一人住まいらしいのに、誰のものなのか。尋ねるのは失礼かもしれないが、訊かないのも奇妙に思えて曖昧に語尾を上げる。


「妻のものだ。事故で亡くしてしまったのだけれど、どうにも捨てがたくて……箪笥の肥やしにしているより、そうして使ってもらった方が妻も喜ぶと思う。気にしないでくれ」


 レイノルドはうっすらと笑い、小さな卓を挟んでシャイネの向かいに腰かけた。

 痛みを頭の外に追いやって姿勢を正し、深く頭を下げる。


「助けてくださって、有難うございました。シャイネといいます」


 改めて見るレイノルドは、三十代のはじめから四十代半ばまで、いくつと言っても通用する容貌だった。淡い色の金髪が灯りに照らされ、温かく輝いている。

 いつの間にか用意されていた甘い香りのお茶を、息を吹きかけて冷ましてからゆっくり飲んだ。それでもずいぶん沁みて、顔をしかめる。


「手ひどくやられたな」

「はい……あの、あなたは、青服……の人たちとは」

「関わりがないとは言わない。連中が私に丁寧なのは、副神殿長と懇意にしているからだ」


 神殿長というのは青服たちの長のことで、警備・警護部門を統括する。早い話が武闘派をまとめ上げる存在で、神職の長である大司教と並んで各地の支部神殿の顔である。副神殿長というのはその次だから、相当上の人物と関わっているわけだ。

 でも、と平坦に彼は続けた。青銀の眼は何も見ていない。


「半精霊の知り合いがいたんだ。だから、他人事とは思えなくてね。つい声をかけてしまった」


 それならば、これまでの態度にも納得がいく。

 カヴェにやって来て、精霊に縁がある人と急に近しくなった気がする。もともと数が少ない精霊、半精霊だが、世間は意外と狭いのかもしれない。

 知り合いがいた、と言ったことを頭の隅に止め置いて、シャイネはもう一口、茶を飲んだ。

 事情を詮索するのは、やめておいた方がいいかもしれない。聞けば、その分話さなくてはならないからだ。警戒心を察したか、レイノルドは少しだけ表情を緩めた。


「心配しなくとも、君を青服に売ったりはしない。信用してくれとまでは言わないが、あまり緊張していては傷に障る」

「はい……有難うございます」


 不思議な静けさをまとった男だった。口調は平らかで、はっきりした表情もない。動きのひとつひとつが落ち着いていて無駄がなく、武人の優雅さとでも言うべき切りつめられた実用性がある。

 同時に、話し方の抑揚、視線の投げ方、力の込め方、すべての立ち居振る舞いが計算されたものだとも感じられた。シャイネに対する警戒のようでもあり、もっと広い範囲へ目を向けているようでもある。緊張するなと言った彼自身が、緊張を解いていないのだ。

 水溜りの中を歩いていながら、少しの足音もたてなかったというのは、完璧な体重移動ができることを示す。全身に残るかすかな緊張は無意識のものだろう。武器のたぐいを身につけているようには見えないが、相当の使い手だ。産毛がちりちりする。


「もう少し、私のことを話しておいたほうが、安心できるか」

「あ……いえ、そういうわけでは」


 レイノルドを凝視していたらしい。苦笑交じりに問われ、慌てて視線を逸らした。


「昔、護衛のような仕事をしていてね。貴族貴人と呼ばれる者と接することも多かったから、礼儀作法やある程度の学問も修めねばならなかった。その時身につけたことだよ」


 王侯貴族と関わったことがないので、今ひとつぴんとこない。故郷のエージェルは自治領で、点在する町村が連帯して暮らしていた。課税や法律の縛りが少ない分、医療や社会保障などが未発達で個人を救う力に欠ける。

最低限の読み書きや算法は女神教神殿、あるいは地域の知恵者が開く私塾で教わるが、ノールにはどちらも存在しないので村の大人たちが代わる代わる教えていた。綴り方や計算方法は教える者によって答えが違うことも珍しくなく、結局どちらが正しいのかわからないままうやむやになることも多々あった。

ノール村の村長はおよそ威厳とはかけ離れた人物だったので、比べることもできない。リンドの市長ともなると、遠くから顔を見たことがある程度のものだ。


「この街は商人や女神教が幅をきかせているが、教団より王や貴族の力が強い都市もある。ク・メルドルは知っているか」


 思いがけず出た名前に肩が跳ねた。まさかここで聞くことになるとは思いもしなかった。慌てて取り繕ったが、不自然だったに違いない。


「あ、ええ、もちろん」

「あの国は典型的だった。王みずから精霊や半精霊を庇っていたからな」

「そうなんですか」


 レイノルドは頷き、指を折ってみせた。


「ク・メルドル、『学問の都』シン・レスタール、マジェスタット。この三都市は精霊や半精霊を歓迎していることで有名だ。南東のワンダルジェもそうだが、あそこは無法地帯だからな。例外だろう。北のエージェル地方も比較的緩いと聞く」

「女神教の力がそれほど強くない?」

「そういうことだ。ク・メルドルはもうないから、安全に暮らしたければどこかを拠点にするといい。精霊や半精霊は人にないわざを使えるから、人が共存を願うこともある、ということだ」


 こぼれたため息は感心と驚きだ。なぜこんなに各地の情勢に詳しいのだろう。無知を思い知らされているのに、ちっとも嫌味でないのが不思議だった。


「マジェスタットの精霊封じの武具は耳にしたことがあるだろう。ク・メルドルでは騎士団に半精霊がいた」

「えっ」


 膝の上で握った手のひらに、汗が浮いた。

ク・メルドルの騎士団といえば、ゼロの過去にも通じる。かつて交流があったという半精霊のことだろうか。


「だからといって、女神教がそれに納得していたかといえば、そうでもなかった。精霊の扱いについて、しょっちゅう揉めていたからね。ク・メルドルには国の騎士団があったが、治安維持には青服の存在も欠かせないし、女神教の慈善事業はなくてはならないから、国としても騎士団だけを重用するわけにはいかないようで」

「……詳しいんですね」

「言ったろう、護衛のような仕事をしていた、と。その一環でだ」


 レイノルドは立ち上がり、炊事場に移動して煙草に火をつけた。細い煙が立ち上るのを、黙って見つめる。遠い国のものなのか、知らない匂いがした。

 腕は立つようだが、旅人や狩人ではなさそうだ。傭兵という雰囲気でもない。しかしいろいろな国を訪れて文化や風習に触れたらしいレイノルドは、世界の広さを知っていた。ものの考え方や価値観の多様さを、身をもって知ったのだろう。

 正体ははっきりせず、気を持たせる物言いも引っかかる。しかし、静かな声は耳に心地よく、紡がれる言葉に揺られていると、どうしてか警戒心がゆるゆると解けていくのだった。刃を覆う鞘とでもいうべき雰囲気が父に似ているのだと思い至り、赤面する。

 あまり見るのも失礼にあたるかと、シャイネはぼんやりと机の木目を眺める。

 腫れている左の頬、蹴られた腹、踏みつけられた背、脚も腕もずきずきと痛む。熱があるのか、頭に靄がかかったようで気怠い。

 宿に戻ればゼロと顔を合わせることになる。何を言われるかと思うと、ため息しか出なかった。バスカーの件も何も解決していないし、進展もない。

 深々と息をついて俯くシャイネを見てか、レイノルドが煙草を消した。


「辛いのなら、横になるか?」

「あ、いえ、大丈夫です」

「旅の連れがいるなら、呼んでこようか。君はここで休んでいるといい」

「いえ、あの……連れは怪我で歩けないんです。だから……」


 レイノルドの態度も話し言葉も、決して嫌なものではなかった。悪い人物ではないのだろう。しかし、謝意の奥底にある、凍てついた猜疑心を消し去ることはできなかった。人に対しての礼を著しく欠いていると自覚があっても、助けてくれた人を信じることができない。


「すみません。でも、大丈夫なんです」


 かたくなに断り続けていると、肩に手が置かれた。厚みのある手のひらはやはり父を思わせる。冷えた身体に、じわりと温もりが広がった。


「信じられないのもわかるが……私も親切心だけではないんだ。一応、下心だってある。ああ、そういう意味ではなくて」


 ぎょっとするシャイネに苦笑し、レイノルドは椅子のそばの床に膝をついた。


「君と親しくなっておくと、困ったときに力を借りられるかと思ってね」


 彼ほどになっても、困ることがあるのだろうか。力を借りるというのはきっと、精霊を召ぶことだろう。


「持つべきものは、頼れる広い人脈と、優秀な部下だ。旅人ふうに言うなら、背を任せられる相手」


 歌うように言葉を連ねるレイノルドに強く頷く。わかります、と。

 部下を持つ立場の男なのだ、というのがしっくりきた。命じることに慣れた口調はそれゆえだろう。

 彼は厳しくも優しい眼をしていた。どこか懐かしむ表情なのは、知り合いだったという半精霊を思い出しているからか。今は亡き半精霊。妻も亡くしたと言っていた。どれほど多くの別れを経験すれば、こんなふうに泰然と構えていられるのだろう。

 ふと、ク・メルドルのことを聞いてみようか、という気になった。ゼロの記憶についてはともかく、精霊たちがどんなふうに人々と混じって暮らしていたのか、聞いておいて損はあるまい。


「あの……ク・メルドルの騎士団に半精霊がいたということは、精霊を召ぶ能力で騎士と認められたんですか?」

「特別扱いではなかったよ。彼女らも入団の試しに合格し、腕の長さの長剣を使いこなしていた。精霊云々は、後付けだ。そうしないと、他の連中が納得しないから」

「彼女ら?」


 姉妹だったんだ、とレイノルドは遠くを見る。


「水の王の娘なんだそうだ。とても美しい青い眼をしていた」


 半精霊たちと近しい関係にあったらしいと、瞬時にわかった。友人か、恋人か――あるいは。ずっと凪いでいたおもてが親愛を覆い隠せぬほど、敬愛の響きが声に混じることを自制できないほどに濃く、分かちがたい間柄だったのだ。

 すみません。知らずこぼれた言葉に、彼はかすかに笑った。


「こちらこそ、すまない。……まだ、忘れられないんだ。笑顔も声も、精霊を召ぶときに描く陣の美しさも。忘れてはならないものなんだ、私にとっては」


 活気あふれる街が、一夜にして廃墟と化した。シャイネにとっては伝聞でしかない悲劇を体験し、記憶し、心に影を負うひとがいる。

 かけがえのない想いが滅びによって酷たらしく引き裂かれても、その無残な姿を含めたすべてを記憶しておかねばならない。レイノルドの示す強い意志は、悲しみに縁取られていながらも毅然と屹立する。折れず、曲がらないでいる。


「つらくはないですか」

「いや……何もできなかったことが、いちばんこたえた」


 ああ、とシャイネは漠然とその悔しさを想った。ディーが目にした出来事を想った。

己の無力さを嘆くのは簡単で、それが自分への言い訳だったならば何も苦しむことはなかっただろう。しかし彼はそうしなかった。

 絶望や虚無、後悔や葛藤、自責、自省、あらゆる激情を超越した無に近い平穏。自らを完璧に御しているからこそ為し得た、あまりにも脆い均衡の上にレイノルドはいるのだった。のしかかる絶望は、逃げてしまえばよいと甘く囁くだろうに。

 怨嗟、悔恨、狂気。せめぎあうものの大きさに、ただ震える。彼の立つ地平は哀しすぎる。彼は焦土に何を見るのか。何を願い、何に拠って生きるのか。光は射すのか。


「君が、私のことまで想うことはない」


 ありがとう、と紡がれた囁きはレイノルドの強靱さを感じさせた。


「半精霊は皆そうやって、人に深く寄り添ってしまうんだな。精霊を感じることと、人に共感することは似ているんだろうか」


 精霊を肌で感じるとき、かれらの喜怒哀楽もうっすらと察せられる。人と接する際に表情や声音から感情を類推するのと、似ているといえば似ているかもしれない。具体的にどう、と説明できないところも同じだ。


「そうかもしれません。わたしは他に半精霊を一人しか知らないんですけど、その人も心の動きに敏感でした」


 リアラは今、どうしているだろう。フェニクスは。キムは。

 リンドで彼らに守られていた頃は、何も考えないでいられた。前だけを見ていればよかった。子どもだった、ということかもしれない。けれど今は。

 面倒ばかりだ。かなぐり捨てることができればどれほど楽かと思うけれど、そうもいかない。捨てたつもりでも、それきりになどできないとシャイネは知ってしまった。何事にも縁がある。つながりがある。その細い糸を辿ってここまで来たのだから。


「……あの」


 意を決し、声を継いだ。


「わたしの連れが、ク・メルドルの騎士だったんです。滅びの生き残りだと思うんですが、本人は何も覚えていなくて……もし連れが望むなら、話をしていただけますか?」


 レイノルドの眉が跳ねた。驚いたのだ、と気づくまでしばらくかかったほど、その表情の変化は劇的で、しかも一瞬だった。すぐに彼は穏やかな表情に戻り、頷く。


「私の知っていることでよければ、喜んで」

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