邂逅 (3)

 後ろから車輪の音が近づいてきたので、顔を上げて道の脇に寄った。

 街を東西に貫く通りを、馬車が駆けてゆく。車輪が石畳にこすれて大きな音をたてるのを、何とはなしに眺めた。箱車が小さいから乗合馬車ではない。丘の上、住宅街に住む裕福な商人のお抱えだろう。

 道は緩やかな上り坂である。街の中心に比べ、北から北東にかけては土地が高く、見上げれば瀟洒なつくりの家が立ち並んでいた。白壁に屋根は茶色、という組み合わせの家が多く、植え込みの緑が美しく映える。

 この辺りと港の近辺、街の南半分とでは建物のつくりも、規模も明らかに違う。馬車が通るために通りは均されているし、雨風に強い石造りの家屋や窓辺に飾られた鉢植えの花、手入れされた植え込みなど、まるで違う街のようだ。

 個人で馬車を所有できる者は街の北側の石造りの家に住み、そうでない者は港の近辺か街の南側に木造の家を構える。それさえできない者はどこで暮らすのだろう、とぼんやり思う。

 通り沿いの店も、港や宿屋街の市とは様子が異なっていた。色レンガを組み合わせた構えに、彩色された看板。大きなガラス板がはまった扉や窓。店員たちの身なりも違う。吹けば飛ぶような露店はどこにもない。

 分不相応なところに来てしまった。

 北の市は高額なもの、珍しいものが商われていると聞いたが、思い描いていた以上に格式が高い。旅人が通りすがりに冷やかせる店構えではなかった。石鹸や香油、茶葉など少しの贅沢品を買い足せたら、と思っていただけに当てが外れた。

 ここまで来て手ぶらで帰るのも悔しいが、隅々にまで灯りが行き届いた清潔な店内に足を踏み入れることはできなかった。魔物には立ち向かっていけるのに、物言わぬガラス戸ひとつに怯む自分が情けない。

 道行く人も数が減っていた。急に曇ってきた空のせいで、街全体が暗く沈んで見える。

 未練を断ち切るべく踵を返すと、北東の高台が視界に入った。

 なだらかな斜面に大きな家が点々と並んでいる。いっとう高いところに位置する屋敷が、バスカーの邸宅だ。公園ほどもある木立が屋敷の周囲に広がり、敷地の境にはとても登れない高さの塀が巡らされている。

 高台から下る大通り沿いに女神教の支部神殿がある。天井の高い大きな白い建物で、紫紺の制服、白いマントの男が入り口を守るのはリンドと同じだ。神殿の規模も大きいのだろう、青服の市街巡回も頻繁で、港には青服達の詰所まであった。

 銃士隊を組織したという新しい神殿長はなかなかの遣り手なのかもしれない。港の喧噪、猥雑さは耳を塞がんばかりだが、大がかりな喧嘩や諍いを目にしたことはない。

 空がさらに暗くなった。黒い雨雲が海の方から街をすっぽりと覆っている。強い風が外套の裾をはためかせ、潮の香りが濃くなった。

 風と水が手に手を取ってはしゃいでいる。雷が青く閃き、一雨来るな、と思ったときには、ざあっという音と共に大粒の雨が石畳に降り注いでいた。外套は蝋引きしてあるとはいえ、ついていない。

長くは降るまい、どこか軒先で雨宿りを、と周囲を見回すと、坂道を上ってくるふたつの人影が見えた。巡回の青服たちだ。

 突然の雨で、神殿に戻るところなのだろう。両腕を上げて頭を覆い、小走りになっている。足を止めたシャイネに、坂を上ってくるふたりも気づいたようだった。向かって右側にいた男と目が合う。

 まずいな、と思う。関わりたくないが、目が合ってしまった以上、急に逃げ出すのも不自然だ。逃げ込めそうな横道は背後にしかない。

 再び、視界が反転した。一呼吸の間があって、雷鳴が轟く。

 濡れて額に張りつく前髪を横に流した。何気なさを装って、ゆっくり道の脇に寄る。雨に降られた旅人など珍しくもない。焦るな、と何度も喉の奥で唱えつつ、青服とすれ違う。


「……おい、お前」


 肩越しに声がかけられ、飛び上がりそうになった。人違いだといいのだが、生憎周囲には誰もいない。のろのろと振り返る。


「……何ですか」


 坂を上ってきたふたりは訝しげに眉を寄せて、シャイネを見ていた。どちらもゼロと同年代くらいの男だ。それぞれが帯剣しているのを目の端に止める。

 強い雨で、眼下の街全体がけぶっている。すでに髪からは水が滴り、早く着替えないと風邪をひきそうだった。


「お前、その眼……もしかして」


 指差されて、はっとした。

 昼とは思えないほど薄暗い今、眼が光っていてもおかしくはない。相手は青服、下っ端とはいえ女神教の一員だ。

 彼らも実際に精霊の眼を見るのは初めてなのだろう、互いに視線を交わしつつ、摺り足で距離を詰めてくる。

 もう迷わなかった。青服たちに背を向け、全力で走り出す。


「待てっ!」

「精霊だ!」


 男たちの叫び声と、呼子の音が豪雨を切り裂いた。




 水が跳ねるのも買ったばかりの外套が汚れるのも厭わず、水溜りを蹴散らして走った。

 大通りから横道に入り、闇雲に角を曲がり、坂を下る方に駆けるが、地の利は青服たちにある。どうしても振り切れなかった。呼子が断続的に響いている。


「いたぞ! こっちだ! お前たちは向こうへ回れ!」

 わあっ、と男たちの声があがり、挫けそうになる。

 坂を下るほどに道は細く入り組み、複雑になる。袋小路に追い込まれるか、先回りされれば終わりだ。

 よい状況ではない。いざとなれば精霊を召ぶこともできるが、青服たちを刺激するのは避けたかった。このまま、何とか逃げなければ。

 息が上がって喉が痛い。目の前がちかちかして胸が破れそうだ。飛び道具で狙われませんようにとの思いも虚しく、飛んできた石が右腕を掠めた。いくつかは腕や背に当たるが、大した痛みはない。

(石なら、まだいいけど……)

 弓矢など持ち出されてはたまらない。


「逃がすな、追い込め!」

『おい、あいつでかいぞ、オレを使え!』


 背後からひときわ大きく、水跳ねの音がした。誰かが猛烈な勢いで追いかけてきているらしい。ディーに応えるのも、後ろを確かめるのももどかしく、悲鳴を上げる膝

を叱咤しながら走る。


「うおおおっ!」


 叫び声と共に背中に体当たりを受け、シャイネは水溜りに倒れ込んだ。咄嗟に顔を庇うが、胸から下をしたたかに打ちつける。肺の中の空気がすべて押し出されて、ひどい声が出た。

 飛びかかってきた男は、見上げるほどの体格だった。腿など、シャイネの腰周り以上ある。制服がはちきれそうだ。

 彼はすかさず身体を起こして、シャイネの脚を抱え込んだ。首根っこを掴まれ、猫のように持ち上げられる。とんだ馬鹿力だ。


「捕まえたぞ! ……なんだ、子どもか」

「放せ!」


 手脚をばたつかせるが、丸太ほどもある男の腕はいっこうに緩む気配を見せない。頬を殴られ、怯んだ隙に腕を背中側に捻り上げられた。

 水溜りの中に俯せにされる。溺死なんて冗談じゃない、と暴れるも目や口に泥が入るばかりでむせ返り、左目が激痛と共に真っ暗になる。背中を膝で押さえられて呼吸もできない。悲鳴は恐怖と混乱と威嚇が混じって、もはや意味をなさなかった。


「大人しくしろ!」


 捻られた肩がみしりと音をたて、身体が反った。


「うああっ!」

『シャイネ! オレを使え! 使ってくれったら!』


 剣を取り上げようとする男の手から逃れようと身をよじる。子どもか、と言ったわりに、男は容赦する気などないらしく、髪を掴まれてもう一発殴られた。目の前に光が散って、気が遠くなる。

 頭を庇って腕が上がるのを待ち構えていた男が腹を蹴りつける。こみ上げた苦いものを吐き出し、シャイネは身体を折って呻いた。


「あ、ぐ……」

「なんだ、大したことねえな」


 背中を踏みつけられた。息ができずに、シャイネは水溜りの中で喘ぐ。泥の味ももう感じなかった。

 苦痛と熱、冷たい雨のせいで、怒りと反抗心が急速に熱を失う。シャイネシャイネと呼ぶディーの声すらも煩わしく、安楽を求める気持ちと、彼らに捕らえられた先を想像できぬ不安がせめぎ合った。


『シャイネ! オレたちがいる、助けてやるから!』


 青服たちが近づいてくる。囲まれればもう、逃げ出す機会はないだろう。その恐怖が、ディーの声が、萎えた心を奮わせた。


「おおい、ここだ! 急げ!」


 男が後続の青服たちを振り返り、大きく手を振る。注意が逸れた一瞬、シャイネは喉に力をこめて、精霊を召んだ。


『たすけて!』


 石つぶてが飛ぶ。水溜りが渦を巻き、蛇が鎌首をもたげるように、水柱が立った。


「な、何だ……?」


 驚愕に動きを止める男の顔に、勢いよく水柱をぶつけ、目くらましのための霧で周囲を包む。重いものが倒れる音がした。

 水溜まりから這い出て、泥を吐く。左目は痛んだまま開けられない。早く洗い流したかった。

 全身が重く、走ることなどできなかった。息をするたびに胸が熱く軋んで、目の前が真っ赤になる。

 身を隠さなければならない。脇道に飛び込み、路地に沿って進んだ。どこに向かっているのかさっぱりわからないが、青服のいないところならどこだって良かった。

 いつしか雨足は弱まり、細く柔らかなものになっていた。身体は冷えきって、痛みと疲労が重くのしかかる。

 そう距離を稼がぬうちに、足がもつれて転んだ。身体を起こすが立ち上がれず、うずくまる。もう一歩たりとも動ける気がしなかった。

 怒りと悔しさで頭がいっぱいだった。行き場のない感情が涙になって、両目からぼたぼたとこぼれる。

 胡乱な目で見られ、追われ、石を投げられて。

 容赦なく殴られ、蹴られた。

 青服たちにとって、精霊は異端であり、悪であり、脅威であり、排除すべきものなのだと、改めて思い知らされた。

 本当に痛むのは、身体ではない。

 悲鳴をあげているのも、身体ではないのだ。

 シャイネは黙ったまま、嗚咽すら漏らさずに、泣いた。

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