王の血族 (6)
間もなく、焼き菓子の籠と新しい薬缶を提げたシャイネが戻ってきた。
気が利くのではなく、茶菓子で間を持たそうということか、とようやく思い至る。もう少し警戒を緩めてもいいのではと思うが、先にちょっかいをかけていらぬ諍いと誤解を招いたのはゼロだ。仕方ない。
「それで、これからどうするの。怪我がよくなるまでにできることはないのかな」
「そうだな……」
バスカーの真の目的が洞窟の宝で、それを表沙汰にできないのであれば、これからも追っ手が差し向けられる可能性が高い。ある程度腕が立つことは、ゼロの前に立ち塞がった本命君から報告が上がっているだろう。
「いやちょっと待て、本命君はおれを逃がしたこととか、あんた共々街にいることとかをバスカーに報告してるんだろうか」
シャイネが難しい顔で首を傾げる。
「逃がしましたなんて言うと、バスカーに怒られるよね。でもやっつけましたなんて嘘をついても、僕たちが終了報告でバスカーに会いに行けばすぐにばれるし、手ぶらなのも変だし」
「本命君はバスカーに雇われてたわけじゃない、とか?」
「それじゃあ、僕たちが洞窟に行くのをどうやって知ったのさ」
考えれば考えるほどわけがわからない。今すぐにバスカーを締め上げるのが最速にして最善なのだが、そうもいかずやきもきする。
「すっきりしねーなあ」
「でもさあ、バスカーが宝のことを大っぴらにしたくないなら、真っ昼間の街中って却って安全じゃない? 僕たちが急に失踪するとか変死するとかしたら、依頼主のバスカーが疑われるわけだし……でも、青服もバスカー相手にはちゃんと捜査はしないのかな」
「しないだろうなあ」
シャイネは突然、立ち上がった。宿城に行くと言う。
「宿城に行って、バスカーの依頼をこなして帰ってきたって印象づけてくる。それがバスカーの耳に入ったら、素直に待ってくれるかもしれないし」
「なるほど。やってみる価値はあるな」
昼間、人目の多いところは安全だということには頷ける。彼女の身に危険が迫れば、剣が警告するだろう。洞窟で眠っているところを叩き起こしたように。
それに、黙ってゼロを斬り殺さなかった本命君は、卑怯なやり口を嫌うのではないかと思えた。暗闇に潜んで密やかに職務を遂行するのが本懐であるはずの彼が、黒塗りであれど長剣を持っていたのは、ゼロと切り結ぶためだったのではないか。
「例のものを置いて立ち去れば、見逃してやる」
「とぼけるな、アーレクス。まだ懲りないのか」
覆面のせいでくぐもってはいたが、声に聞き覚えがある気がする。ずいぶんと気安い仲だったのかもしれない。梢を透かして射し込んだ月明かりで、眼が青みがかった銀という珍しい色に見えたのが印象的だった。
あの夜、男はゼロを殺すことができたはずだった。動揺を誘って止めを刺すことは容易いだろうに、中途半端な傷を負わせただけですぐに退いたからには必ず理由がある。
効率からすれば、負傷していて剣の腕で劣るシャイネを先に始末する方が確実だったはずなのに、彼はゼロの前に姿を現し、止めを刺さずに姿を消した。無駄に見えるところに、何か意図があるのだ。
殺したくなかったのか、とふと思う。
旧知の間柄であるゼロ、あるいはアーレクスを敵とすることに躊躇しなかった彼だが、鋭く正確な剣捌きには逆恨みや、憎しみは感じられなかった。
あるとすれば、そう、与えられた任務への冷厳な意思だ。
覚悟や自戒、自律を含んだ、彼を彼たらしめる、強烈な意思。誓いであり、矜持であり、彼を強く縛るもの。それはまるで、騎士が己の剣に誓約するかのようだった。
男がバスカーに雇われているのだとしても、それを超越した意思や動機を隠していることは、間違いない。
「ところでさ、おれやあんたの剣を番人代わりに使うことってできないのか。精霊に人の区別がつくなら、覆面をしていなくとも本命君のことがわかるんじゃないか」
「……って言ってるけど、どう?」
シャイネは剣に視線を投げる。だよねえ、うん、と独り言が続いた。
ゼロがもしも精霊使いであれば、彼女の周りでざわめく闇や風を感じることができるのだろうか。
寝台を降りて一歩、手を伸ばせば届く距離に満ちる精霊が、シャイネに応え、祝福を与えるさまを目にすることができるのだろうか。
そう思うことは、きっと「ふつう」ではない。
記憶を失っても、知識を失ったわけではない。食べ物の好みなども変わっていないだろうと思う。だとすれば、以前から精霊を好ましく思っていたのだ。
女神教がどうして精霊を異端扱いするのか、明らかにはされていない。精霊を害悪だと断じる根拠は曖昧で、精霊に対する寛容さは地域によって歴然とした差がある。
例えば、ク・メルドルでは騎士が精霊封じの剣を携えていたというのだからそれなりに寛容だったのだろう。精霊封じの技法を守る鍛冶屋が住まうというマジェスタットもそうに違いない。そして彼らが鍛えた武具を持つ旅人や狩人たちも、精霊の存在を前向きに受け入れている――精霊を目にしたことがなく、言葉を交わしたことがなくとも。
精霊が異質な存在であるのは確かだが、魔物と違って、人間を脅かす存在ではない。
精霊の持つ圧倒的な力が危険だというのはわかる。しかし、危険だから狩る、というのならば魔物に対する扱いと同じだ。それはあまりにもひどい。
そう思うゼロも、女神教からすれば異端の一部なのだろうが、知ったことではない。教徒がシャイネやヴァルツに唾を吐くなら、視線を遮って立つだけのことだ。唾を浴びることになっても、構いはしない。
「……無理だと思うって。正確には、見れば本命君がわかるかもしれないし、危険を察知できるかもしれないけど、それをゼロに伝える手段がないってこと」
「別にそんな大したことじゃなくてさ、光るとか音を鳴らすとか震えるとか」
途端に、シャイネが目を吊り上げる。
「それができるなら、僕がわざわざ精霊を召ぶ意味がないじゃない」
「ああ……そうか。ん、でも、剣に宿る精霊って、召ばなくてもここにいるんだろ。精霊の力は使いたい放題なんじゃないのか」
使いたい放題。呟いて、少年の
「うーん、ええとね、例えば、風が吹くのは風の精霊の力が働いてるからで、火が燃えるのは炎の精霊の力が働いてるから、なんだよ」
「そうだな。……それで?」
「精霊の力が働くことと、精霊がいることは別の話で……精霊がいるのはこっちにとは違う薄ーい網っていうか、ガラスっていうか……そういうものを隔てたところなんだ。存在はあっちなんだけど、どこにでもいるように感じられる」
「網ねえ」
「そう。透明で、見えないし触れないんだけど、在る。大抵の場合は精霊の本体……っていうのかどうかわからないけど、体はあっちにいて、力だけが網の目を通してこっちに働いてる」
しどろもどろの説明に、何とかついていく。シャイネが言う「こっち」と「あっち」がよくわからないし、実体と力が別に在るということもうまく想像できなかったが、そういうものだと理解する他はないのだろう。精霊を感じることができれば、すぐさま理解も及ぶだろうに。
「で、力だけがこっちにあるっていっても、こっちは女神が創った場所だから、女神が定めた枠組みの中でほんの一部しか作用しないんだ。で、僕が精霊を召ぶ声は、あっちとこっちを繋いで、精霊の力がこっちでもよく働くようにするというか、できるというか。精霊封じの武具に宿った精霊はこっちに体があるんだけど、網の目がないところに無理やり精霊を閉じ込めちゃうわけで、あっちにある力は使えない。精霊や魔物の気配を感じることはできるし、お喋りもできるんだけど……わかる?」
「わかるけどわからん」
だよねえ、とシャイネは天を仰いだ。肩を気にした様子はない。まさかこんな短期間に治るとは思えないから、ヴァルツが何かしたのかもしれない。
「何か喩えるものを思いつけばいいんだけど」
「説明慣れしてないのが初々しいな。誰にも話さなかったのか、これまで?」
シャイネが息を呑むのがはっきりとわかった。飲み込んだ呼吸と言葉を持て余しているのか、空になった湯呑みを弄んでいる。
不意に空が暗くなった。雲が過ぎったらしい。ほんの一呼吸の間のことだったのに、金茶の眼の輝きが増して、どきりとする。
「……ゼロ」
「なんだ」
ややあって放たれた声は茶化すこともできないほど真摯で切実で、ゼロも居住まいを正した。心の準備ができたのだろう、と思わせる声音だった。さっき、記憶を失った過去を押しつけた分くらいなら、彼女の荷物も背負ってやろうと思う。
「ゼロはさ、どうして精霊を怖がらないの」
空を切る音がしないのが不思議なほど真っ直ぐに突き出された疑問は、思いの外深く刺さった。ぽかりと口を開けた虚空に達したことはわかったが、そこから答えを引きずり出すことはできず、いくら暗がりを見つめても、真の姿を垣間見ることもかなわない。
わからないとか、何となくではなくて、シャイネの本心にはいくらか誠実に答えてやりたいと思う。ゼロが記憶を恐れるように、彼女も半精霊であることを恐れている。そんな気がしたからだった。
「おれはヴァルツに救われた。あんたも、おれを助けた。他に精霊の知り合いはいないけど、少なくともあんたとヴァルツを怖がる必要はないだろう」
「……僕は、半精霊だ」
「知ってる」
シャイネは一瞬、目を伏せた。意を決したふうに話し始める。
「朝、ヴァルツに肩を看てもらったとき、おまじないを教えてもらった」
精霊は、この世界に属するものではない。実体のない精霊を傷つけることができないのに、半精霊たるシャイネがどうしてこちらで傷を負うことがあるだろう。あるはずがないと思えば、傷は消える。ヴァルツはそう言い、実際に傷は塞がった。
「事実かもしれないけど、そりゃ暴論だ」
「だよね」
ようやく、白い頬の強張りが解けた。重かった空気が緩んだようで、嬉しくなる。
ヴァルツは精霊だ。人の世のしがらみに縛られることはない。しかしシャイネは、ここに親や友があり、暮らした家があり、歩んできた時間があるのだ。
こちら側に属する部分を切り捨てればよいというヴァルツの言葉は、正論であるがゆえに強すぎる。自分は精霊だと言い聞かせることは、必死で保っていた「普通」の仮面、人としての装いを捨て去るに等しい。抵抗を感じない筈がなかった。
「精霊がこっちの理屈に縛られないのはわかる。でも、精霊であることを認めたら、おまじないで傷が治ったら、僕はこっちでは生きていけない気がしたんだ」
「……ああ」
「半精霊であることが嫌なんじゃないよ。父さんも母さんも、すごく尊敬してる。けど、僕はこっちでしか生きられないから……女神の創った決まりに従うしかない」
「枠組みの方が間違っていても?」
「そう思う?」
思う、と頷いていた。精霊は人の敵ではない。魔物とは違う。女神教が何をもって精霊を異端としたのかが明らかでない以上、そして、女神そのものでなく人が興した教えである以上、女神教の教義には何らかの意図が込められているのだ。
「僕は人と混じって暮らしたい。そのために努力が必要なのもわかるし、頑張れって言われたら頑張るけど、でも……」
「そんなこと言われないのが一番いいじゃないか」
へ、とシャイネは間抜けな声を零して、瞬いた。
「頑張るって、何をさ。努力が必要って、何のだよ。おれは別に頑張ってないし努力もしてないぞ。あんたが……あんたやヴァルツが人と一緒に暮らすとして、あんたらだけに何かを強いるっておかしいだろ」
苦い薬草を噛んだような顔で口元をむずむずさせたシャイネは、やがてそっぽを向いた。何を見ているのか、考えているのかはわからない。
「……ゼロって、たまに難しいこと言うから頭がいいのかと思ってたけど」
「馬鹿ではないつもりだけど」
「えっ」
何故そんなに驚く。
「公平なところは、すごく……嬉しい。有難う」
「だって、半精霊なのは別に恥ずべきことじゃないだろ。ちなみに、参考までに訊きたいんだが、あんたがおれを馬鹿だと思うのはどんなところだ」
「馬鹿だって自分で気づいてないところと、理想が実現されるべきだって信じて疑わない青さ」
「けっこうきついこと言うな……」
これも刺さった。痛い。血が出たんじゃなかろうか、とゼロは自らを案じた。シャイネはと言えば、まあね、などと胸を張っている。褒めたつもりはない、断じて。
「ねえゼロ、僕、そろそろ行ってくる。用事があれば済ませてくるけど」
「じゃあ、薬草の買い出しを頼んでいいか。店は港に近い通りの『満月と引き潮』って古くさい構えのとこだ。婆さんが店番をしてる」
あれとこれと、と五つばかり言いつけると、シャイネは神妙な顔で繰り返してから、大きく頷いた。
「行ってくるね」
「ああ、気をつけて」
「大丈夫だよ」
足取りや身のこなしを見る限り、気分は上向いたようだ。軽やかに階段を下ってゆく足音が聞こえなくなるまで耳を澄ませてから、ゼロは出涸らしの茶を飲んで、寝台に体を投げ出して天井を見つめた。
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