王の血族 (4)

 廊下に出るとヴァルツがいた。ずっと待っていたわけではなかろうが、どきりとする。


「少し、いいかな」

「はい」


 足音を立てることなく歩く森の王を招き入れ、窓を開け放って淀んだ空気を入れ換えた。

 隣室とは違って人の匂いはない。真新しい、手入れされた宿の一室だ。清潔でこざっぱりしていて、清掃も気配りも申し分ない。それなのに、どうしてか味気ないと思ってしまうのは、ゼロの生活感、気配に満ちたところにいすぎたせいだろう。

 椅子は小さなものが一脚あるきりだったので、並んで寝台に腰かける。近すぎる距離にどぎまぎした。


「傷の具合はどう? 痛むかい」

「痛み止めを飲んでるから、大丈夫です」

「あまりに痛むようなら、遠慮せずに私を呼ぶんだよ。必ず応えるから」


 手のひらに重なるヴァルツの手指はひんやりと心地いい。熱があるのかもしれないが、それが傷のせいなのか疲れのせいなのかはわからなかった。

 有り余る力をたたえた翠の眼に吸い込まれそうになる。白く滑らかな肌、人間離れした美貌。畏怖とともにじわりと広がる懐かしさは、ヴァルツに母ヴィオラと同じものを感じるがゆえのことだった。お気に入りの毛布に包まれた時の安堵に似ている。

 涙をこらえているのが伝わったか、ヴァルツは一度だけ軽く、シャイネの背に触れた。


「芯が定まってない。精霊の血を持て余しているとも感じるのだけれど。……そうだ、おまじないを教えてあげよう」

「おまじない?」

「そう。私たち精霊は、こっちの世界に生きるものではない。わかるね? この姿は、こちら側の仕様に合わせた器でしかない。器が傷ついたとしても、あっちにいる私には何の影響もないんだ」


 シャイネは頷く。精霊を切ったり殴ったり、傷つけることはできない。そもそも目には見えないのだ。あちこちにいるし、声は聞こえるけれども。


「きみも、半分は精霊なんだ。向こう側に行くことはできないだろうけれど、属する部分は確かにある。だから、こんな怪我はきみの身体にあってはならないんだよ」

「……でも」

「精霊を召ぶときでなくとも向こう側を感じるだろう? それは、きみに精霊の血が流れているからだ。血というのはもちろん比喩だけれど、この姿での私もそうだから、わかる」


 精霊を感じる、あの感覚だろうか。それは、耳を澄ますのに似ている。じっと集中して、小さな音を聞き取ろうとする真摯さと、静寂を乱さぬための自律と。


「きみが、こんな傷を負うはずがないんだ。なぜなら、きみは私たちと同じだから」


 ヴァルツはシャイネの眼を見て断言した。これまで言葉にするのを避けていた曖昧な部分がかたちを露わにしてゆく。明確に整理されてゆく。身体が温まって、感じたことのないざわめきを聴く。ゆっくりと、けれど確実に傷が癒えていく。傷が乾き肉が盛り上がり、かさぶたが張る。

 ああ、と落ちた吐息は納得と諦めだ。おまじないを知って、流れる精霊の血の働きをも知った。無知だったころにはもう戻れない。


「信じられない? それとも、信じたくないのかな」

「信じたいと思っています。……でも」


 人としての「ふつう」に甘んじることはできないのだと、幼い頃からぼんやりと自覚していた。見た目は人と変わりなくとも、眼の輝きや、精霊を感じ語らうことのできる力を無視することはできなかったし、無視できるほど精霊は遠い存在ではなかった。

 母は優しい。その母を伴侶に選んだ父も剣の師として、人として、尊敬できる人物だ。彼らの子であることはシャイネにとって、最高の自慢であり、誇りだ。

 けれど、半精霊であることを隠して生きることが当たり前の毎日を過ごすうち、次第に誇りは輝きを失っていった。

 決して恥ずべきことではないのだ、と繰り返し呟いても、胸を張って半精霊であると自己紹介することはできない。人に混じって暮らすのならば、半精霊であることや光る眼を隠さねばならなかった。


「半精霊には住みにくいだろうね、こちらは。望むままに在れない、というのは、苦しいだろう。きみが精霊の血をどう思おうとも、否定はできないことだし」


 でも、とヴァルツは続けた。


「いつかきみが、臆すことなく自然に暮らせるようになるといいね」

「……はい」


 両親を誇り、友と語らうがごとく精霊を召び、光る眼を気にせず暮らせたら、どれだけよいだろう。精霊を異端と断じる女神教がある限りは、それも難しい。


「半精霊であることにも、きっとうまく折り合いがつけられるよ。精霊の血がもたらすものを前向きに捉えられれば一番なんだけれど。力の使い方は、お母さまから?」

「はい、でも、ほとんどは自分で……母に精霊の力について尋ねたことはあまりなくて、実際のところ何がどの程度できるのかも、できないのかも把握しきれていないんです」


 なるほど、と森の王は頷き、ほっそりした指を形の良い顎に当てて考え込む。窓から差し込む朝陽が銀の髪の上で踊るさまは、切り抜いて額に納めたいほどだ。

 母ヴィオラは赤毛に金茶の眼の少女の姿を好む。ヴァルツほど人間離れした造作ではないが美少女で、母親らしいかと言われれば、そうでもない。近くにいないからだろう、さばけたつきあいで、むしろ姉妹や友人に近いと思う。

 望めば、精霊の力を御するすべも教わることはできただろう。闇の王の血が何をもたらすのか、シャイネが知っていることはあまりに少ない。

 父から教わる剣技を優先していたのは事実だ。女神教が精霊排斥を訴えるなか、リアラのように特別な存在でないのなら、半精霊であることは隠して生きねばならない。精霊の力を人助けに役立てたいとか、何か大きなことに使えるのではとか、大それたことを考えたこともあるが、十歳のときに女神教とは相容れぬと感じたのと同時に、重きを置くべきは人として生きていく方法なのだと思い知った。

 幸い、精霊の召喚は幼いときに身につけて以来、安定して行うことができた。精霊たちはみなシャイネに好意的だったから、意のままに炎を操り、影を広げ、水と戯れた。精霊はシャイネの友であり、きょうだいでもあったのだ。

 他のことも、もっと積極的に聞いておけばよかったと思う。母自身が、精霊の力を使わないならばそれでいいと考えていたふしもあるが、教えを請えば嫌とは言わなかっただろう。


「そうだね、もう少し安定していられた方が道中安全だろう」

「安定……」


 うん、とヴァルツは気さくに頷いた。


「半精霊であることを、あまりよいことだとは考えていないのだろう。あるいは、恐れているとか」

「そうかもしれません……」


 黒い眼に金の光を浮かべて、優しく微笑んだキム。手を差し伸べ、胸を広げてシャイネを誘ったキム。精霊の眼がどうはたらくかきちんと知っていれば、彼をあんな目に遭わせることもなかっただろう。


「力を理解すれば、恐れることもない。対処もできる。そりゃあ失敗もするさ、誰だってそうだ。少しずつ学べばいい。私には及ばないこともあるけれど、できる限りの力添えはするよ」

「有り難うございます。でも……どうしてそんなに良くしてくださるんですか。精霊はこちらにあまり干渉しないと聞きました」


 ゼロを助けたこともそうだ。助けるだけならまだしも、知識を与え、旅に同道するなんて!


「ん、まあそれは……そうだな、趣味ということにしておこう。人間の暮らしは興味深い。きみへの助力は、きみのことが好きだからだ」

「えっ」

「そんなに驚くことかな。精霊はみんな半精霊のことが好きなものだよ」


 精霊たちに愛されているのはわかる。誰もが、姫様、姫様と慕ってくれる。ヴァルツまでがそうなのだとは思いもしなかったが、好きと言われると心が緩んだ。


「すまないが、形を変えさせてもらってよいかな」

「はい、もちろん」


 整いすぎた造形が溶け出し形を変えて、銀の狼の形で再び固定される。ふさふさの毛並みと、変わらない翠の眼が美しい。銀の狼は、シャイネの足元にうずくまった。

 シャイネの母も大きな鳥の姿をとる。王の姿が一定でないのは珍しいことではない。


『ヒトの形は疲れる。ここは女神が創ったところだから、仕方ないね』


 動物の姿のほうがよい、というのは、姿を変えることができないシャイネにとって、理解できない感覚だった。何がどう違うというのだろう。


『ヒトの形をしたものは、女神に強く縛られる。動物も女神が創ったけれど、女神は人間だけに力を与えたから……ヒトの世が栄えるよう、とね』

「どうして?」

『さあ、私は女神ではないから』


 この世界を創った女神が何を思ったのか、シャイネに想像できるはずもない。

 女神は万物を創造し、支配者たれと人に力を授けた、と神話はうたう。

 創世神話に精霊や魔物は登場しないので、女神の創造物でないこれらを人が異端とし、排除しようとする気持ちも、何となくわかる。

 精霊や魔物は人にはない力を持ち、特に魔物は人の暮らしを脅かすから、徹底して狩られるのも不思議はなかった。

 精霊や半精霊が積極的に狩られないのは、人を害することがなく、人と見分けがつかないから、というだけだ。人ならぬ力を有した半精霊を不気味だ、得体が知れないと思うのは自然なことだし、身を守るために必要な警戒心だ。ゼロのように諸手を挙げて歓迎される方が戸惑う。


「でも、女神に協力してこの世界を創ったんでしょう」

『……と、言われているね。その頃私はまだ私ではなかったから。説明は難しいけれど』


 身体に詰め物をされたかのように、どんよりと重い。我慢できないほどではないが、肩の傷が疼いて、何をするのも億劫だ。

 床に座るヴァルツの傍らに腰を下ろすと、開け放した窓から、薄く海の香りが流れ込んでくるのがわかった。


『かけないのかい』

「自分の視線が一番高いというのは、他を見下ろすことのように思えるんです」


 ヴァルツは喉を鳴らして笑った。気にすることはないのに、とその翠の眼が雄弁に語る。


『ゼロに聞かせてやりたいものだ』


 外はよく晴れていて、床にカーテンの影が踊っていた。陽が射し込む床はうららかに温かく、とても気持ちがよい。平和そのものの光景なのに、実際はそうではないのがもどかしかった。

 隣室ではゼロが身体を休めている。怪我の程度はわからないが、きっと格好つけて強がっているんだろうな、と思った。


「ゼロは、どうして精霊を恐れないのですか」

『さあ』


 答えは思っていたよりも素っ気ない。考えてみたこともなかったが、もしかしてもしかすると、ふたりの間には、特別な絆や将来の約束があるのかもしれなかった。


「もしかして……その、子を」

『それはない。彼に言われて、私は女であることにしたけれど』


 苛立ちを含んだ声音は遠慮がない。ではいったい、ゼロとヴァルツは何なのだ? 闇の王を母に持つシャイネにも想像がつかなかった。


『初めて出会ったときから、ゼロは私に対して物怖じしなかった』

「半精霊だって話したら、すごく嬉しそうにしていました……こんなの、初めてです」


 ゼロの失われた記憶について、ヴァルツに直接尋ねるのは憚られた。答えは得られるかもしれないが、上品なやり方ではない。

 気遣うように、ヴァルツは身体を寄せてきた。犬や猫ほどふくふくとした温もりはなかったが、陽射しを浴びた銀の毛があまりにも柔らかくて気持ちがよかったので、シャイネは思わず豊かな銀の毛を撫でた。


『きみも眠った方がいい。夜は警戒が必要かもしれないから』

「そうします」


 促されて寝台に上がる。横になると、楽だ。やはり疲れているのだと感じる。

 ヴァルツはもう一度人の形をとって、横たわったシャイネの額にそっと触れた。

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