王の血族 (2)

『うっわー……』


 ディーがぽかんとしている。それもそのはず、宿の入り口に背を預けるようにしてこちらを見つめる銀髪の人物――真昼にも関わらず、隠しようもなく輝く翠の眼は、精霊のものに違いなかった。

 こちらで人の形をとることができる精霊など、そう多くはない。例えば、シャイネの母にして闇の王ヴィオラ。それから、ゼロの知己だという、このひと。


「……森の王」


 精霊王。森を束ねるもの。


「ヴァルツという。初めまして、姫君」

「シャイネといいます」


 ヴァルツはシャイネの右手を取って軽く握った。手は大きいが指は細く、女性のようだ。顔立ちも声音も中性的だが、何となくそんな気がした。


「うん、よろしく、シャイネ。それから……詳しくは後で話すけれど、ゼロが戻ってきている。話したいことがあるから、差し支えなければこっちへ来てくれないか。隣室が空いているから、できれば宿ごと移ってくれと、言伝を預かっている」

「はあ……じゃあ、行きます」


 森の王に使い走りをさせるのか。いったい、どんな関係なのだ。恐れ多いにもほどがある。


「傷が痛むだろう、荷物を持とう」

「いいえそんな! とんでもない! ……というかゼロはあなたに荷物持ちをさせるんですか? それ、生かしておいていいんですか」


 ヴァルツは上品に微笑んだ。あっこれすっごく怒ってるやつだ。察したシャイネもまた微笑んで、頷く。


「もしかするときみも何か言われたかもしれないけれど、あいつは精霊が大好きでね。それにしても限度があるだろうという話なんだが、一度助けた命をどうこうするのも癪だから」


 一度助けた命。胸の内で呟く。


「複雑な事情がおありだと」

「うーん、まあ、複雑でもないけれど……そういうことにしておこう。事情は本人に訊いてくれ」


 では、と断りおいて、シャイネはできうる限りの速度で荷物をまとめ、まだ乾ききっていない洗濯物を取り込んで宿を引き払った。

ディーは珍しく縮こまっている。シャイネもできることなら、通りの隅っこで膝をついて頭を下げていたい。ヴァルツの言葉も、姿勢も、決して威圧的ではなかったが、精霊の眼の輝きが、それが示す存在そのものの大きさが、畏敬の念を抱かせるのだった。平然と荷運びをさせ、使い走りを命じ、ヴァルツと名を呼びつけるゼロの鈍さに恐怖さえ覚える。あんなに鼻が利くのに、森の王の存在感には気づかないのか。精霊大好きのくせに。

 ヴァルツが手を差し出すのを丁重に丁重に断って、ゼロの定宿へと向かった。宿の名さえ教えてもらえれば自分で探すが、あまりに申し出をはねつけるのも失礼に当たるのでは、と悩んだ末に案内を頼むことにした。


「どうだった、アレは」

「あれ?」

「ゼロ。最近人と組む仕事を受けていないし、共同作業にもあまり向いていない気がするから」


 白皙も輝く眼も流れる銀髪も、どれも造作が整いすぎていて、人目を引く。通りにいる人がどんどん避けてくれるから、歩みは速いが、やっぱり僕一人で向かうべきだったのでは、と俯きがちに後に従った。


「剣の腕は素晴らしいと思います。それに、薬草や手当ての知識も。咄嗟の判断も妥当だと思うし、魔物が多くても手強くても冷静さを欠くこともなかったですし。……僕を女だと見抜いたみたいで、配慮してもらってるんだなとも感じました」


 何を話しているのかよくわからない。受け答えは間違っていないだろうか、寝不足の頭は回転が遅すぎる。


「べた褒めじゃないか」


 朗らかに笑われたので、でも何だか信用ならないんですよね、という肝心の一言は胸にしまいこんだ。

 宿屋街の外れにある間口の狭い宿の前でヴァルツは足を止めた。黄色い屋根と、焦茶の外壁の組み合わせが可愛らしい。部屋数は多くはなさそうだが、店先は掃き清められているし、どこにも目立った汚れはなく、感じが良かった。窓辺に花が飾られているのも気が利いている。


「私は、いないことになっているから」

「なるほど」


 人の流れも減っている。自然に、と囁かれ、店内に足を踏み入れた瞬間、ヴァルツの姿が消えて気配が遠ざかった。


「いらっしゃいませ、少々お待ちを」


 両手に汚れた皿を持った女性が、厨房へと消えてゆく。店は奥に広い間取りのようで、ここも一階は食堂だった。客はまばらで、今しがた席を立ったらしい一組と、食事中の男性と女性がふたりずつ。居心地と食事の味が悪くないのであれば、静かにゆっくりと過ごせそうだった。


「はい、どうも。お泊りですか? 昼食はもう終わりなんだけど」

「宿泊を……ひとまず一週間。連れがいるから、隣の部屋にしてもらいたいんだけど」


 おかみだろうか、女性は愛想よくゼロの隣の部屋を押さえ、荷物を持って上がってくれただけでなく、昼食の時間が終わってしまったからと、炙り焼いたハムとチーズを薄焼きパンで挟んだものと、果実酢の発泡水割りを無料でつけてくれた。

 パンは布で包んで置いておき、果実酢だけを飲んだ。何種類かの果物を合わせて漬け込んであるようで、酸味と華やかな甘みが泣きたくなるほど嬉しい。胸がつかえているのがすっと楽になった。

 さて、とディーを掴んで立ち上がる。


『えっ、オレも行くのか。置いていっていいよ、森の王がいるなら危ないことはないだろ』

「……なんでそんなにびびってるわけ」

『なんかさー、とっつきにくいっていうか、あーすいませんーってなっちゃうんだよわかれよー』

「わかんないでもないけど。行くよ」


 アーッ、とわざとらしい悲鳴をあげるディーには構わず、隣室の扉を叩く。にやにや笑っているヴァルツが招き入れてくれた。きっと、やりとりが聞こえていたのだろう。

 角部屋で東と南に窓があり、南側の窓の下に寝台が置かれていた。ゼロは寝台にだらしなく寝そべっていて、人を呼びつけておいてその態度は何だと怒りの目盛りが振り切れる。


「怪我は増えてないみたいだな」

「お陰様でね」


 そういえば、こちらはまだ一睡もしていないのだ。猛烈に腹が立った。

 煮えたぎる怒りも、貧血と疲労で憔悴しきった身体を支えることはできなかった。膝が折れて差し出されたヴァルツの腕に縋る。太陽の匂いがした。


「じゃあこれで、感動の再会は終了。ふたりともちょっと眠ろうか」


 白い指が額を突いたことだけは覚えている。







 悲鳴にならない悲鳴をあげて飛び起きた。ひどい夢を見た。部屋は薄暗く、窓の外は東の空の端が赤い夜明けの光に染まっている。どうやら半日以上眠っていたらしい。

 慣れない寝台に、そういえば宿を移ったのだと思い出す。ゼロに呼ばれてやってきて、ヴァルツの力で眠らされたのだった。

 寝台の隣に並べられた小卓に、水差しがある。寝台から出るのは億劫で、手だけを伸ばして続けざまに水を三杯飲んだ。

 そうこうしているうちに悪夢は意味をなさない破片となって、忘却の彼方に流されてゆく。どんな夢を見たか、これっぽっちも説明できないのに、その生々しい感触だけが鮮やかに残っていた。上掛けに包まって、身体を丸める。

 左腕が石のように強張って、全身が重い。昨日のうちによく揉みほぐしておかなかったからだろう。自分の匂いのない寝台はよそよそしく、柔らかさも広さもちょうどいいのにくつろげない。夢のせいだ。眠って身体を休めたはずなのにちっとも回復した気がしないのも。

 夢の残滓はもうほとんどが散ってしまった。空気を入れ換えたら気分転換になるだろうかと上掛けから這い出ると、そこにゼロがいた。

「うなされてたけど、大丈夫か」

「ひっ!」

 勢いよく下がりすぎて壁で頭を打った。涙が出る。

「……なんかその反応、傷つくなー」

「だって……なんでいるの」

「何でも何も、おれの部屋だから」

 落ち着いて見回せば、片隅にきちんとまとめられた荷物も自分のものではないし、壁から壁に細い縄を渡して薬草を吊っているのも見覚えがない。

 つまり、ヴァルツはシャイネを眠らせるだけ眠らせて、そのままゼロの部屋に置き去りにしたということか。

寝台も彼のもので、だとすれば当然慣れない匂いがするわけだ。どうせなら部屋に戻してくれればよかったのに、と思うが、それを森の王にさせるのもどうかという話で、事実だけを述べるならば、ゼロはシャイネに寝台を譲ってくれたのだった。

「えっと……取っちゃってごめん……ありがとう」

「別にいいよ。ヴァルツがしたことだし。……そうだ、傷はどうだ? 一回見てやるよ」

 南の窓を開けると、朝の涼しい風が部屋を駆け抜けて、気持ちが良かった。ぐびぐびと水を呷ったゼロに促され、床に座る。

「巧い奴に当たったな。膿んでもないし、これなら綺麗に治るだろう」

 傷を一瞥したゼロは施療者の腕をばっさり評価すると、傷を洗って化膿止めの軟膏を塗り重ね、再度包帯を巻いてくれた。手当てはやはり、滞りなく的確だった。

「医者なの?」

 擦り傷、切り傷や打ち身、骨折などの応急処置は旅暮らしの者なら誰でも基礎知識として有しているが、縫合が必要な深い傷はその範疇を越える。できる限りの処置を施して最寄りの町村へ連れてゆくことになるが、そんな重篤な場合でも彼ならば対処できるのではと思えた。

「いや、そういうわけじゃないけど。ヴァルツが教えてくれたんだ。薬草の扱いからこういう手当ての仕方とか。腹を開くなんてのは手に余るけど、一通りはな」

「へえ……そう」

 ますます、ヴァルツとの関係性がわからない。

「ゼロはあの後、すぐに帰ってきたの?」

「……すぐじゃない。おれの話は長くなるから、あんたのことから聞かせてくれ」

 薬を片づけて手を拭きながら、ゼロは言った。何の抵抗もなく服を脱いでしまったことに、苛立ちのような恥じらいのような、形状の定まらない靄を感じる。

 手当てしてもらうことには感謝しているし、その手際に感心もする。気にかけてくれることは嬉しい。

「それだ」

「何だよ」

「何でもない」

 ゼロには何も期待したくない。差し出すものを差し出して、差し出されたものを受け取る。厚意に甘えてはいけないし、近づきすぎてもいけない。キムで懲りた。あんな気持ちになるのはもう二度とごめんだった。

 空腹だが、朝食には早いので、昨日の昼に取り置いてあったパンを分け合って食べた。すっかり乾いていたが、味は悪くない。無言のままパンを咀嚼する時間は、決して気づまりではなかった。

「ええと……僕のとこに来たのは、短剣と槍を使う男の人だったんだけど、ふん縛って、雇い人と、何を頼まれたのかと、報酬を聞いた」

 シャイネは男から聞き出した話を繰り返した。ゼロが黙っていることからして、新たな情報が得られたふうでもない。

 魔物狩りを依頼する。依頼を受けた旅人を待ち伏せて、手荒なやり方で連れ去ろうとする。しかも大して腕の立たない連中を雇って。目的も意図もわからない、その不透明さが不気味だった。

「何て言うか、杜撰なんだよね。悪名轟く商人って噂の割には、考えがなさすぎる」

「あるいは、そう見せかけてるってことだろ」

「見せかけて、どうするの」

「油断を誘う。……してないけど。してないつもりだけど」

 裏の裏、ということか。そんな複雑な考え方をせねばならないほど、バスカーの狙いは表に出せないことなのだろうか。企みを隠そうとすればするほど、それが重要なことであるとわかってしまうとは皮肉な話だ。

「金貨二十枚近くもばら撒いて、お金持ちも大変なんだねえ」

 言うと、ゼロが噴き出した。寝台にもたれかかって座ったまま、腹を抱えて笑っている。

「あんた、本当に面白いな」

 朝陽のせいか、危険のない場所にいるからか、気楽な様子のゼロの目元は優しく緩んでいて、それを見ていると怖い夢や、痛む傷など取るに足らないことのように思える。状況は何ひとつ改善しておらず、この部屋を出たら追っ手が待ち構えているかもしれないというのに、呑気に笑える逞しさが羨ましく、同時に頼もしかった。

 彼を馬鹿にして高い壁を築くのは簡単だが、たとえ宿の壁一枚、扉一枚の安堵であったとしても、心の平穏を分かち合いたかった。

 バスカーの狙いの見当もつかず、追っ手をぶちのめしたとなれば更なる追撃があってもおかしくない。それでも一人ではない、背を預けられる誰かがいる心強さは、こんなにも温かくつよいものだったのか。キムたちへの信頼とは異なるが、久しぶりの感覚だった。

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