重なる偶然 (2)
「たぶん次で終わりだ」
「なんでわかるの」
ゼロは洞窟をぐるりと見回した。魔物の死骸が崩れて血溜まりに没しようとしている。物音も、生き物の気配もなく、ともすると自分がどこにいるのかわからなくなるほどの静けさだった。
「ここは恐らく、治る見込みのない病人とか怪我人とか……手の施しようのない症状の人を隔離するために使われてたんだと思う。風は海からしか吹かないし、重症の人間が街まで帰れるほどの距離でもないし」
「隔離って……」
「人道的には褒められたことじゃない。でも、病の感染を止めるには隔離して閉じ込めてしまうしかないんだ。カヴェは港町だから、余所から病が持ち込まれることも多かっただろうし。……それで、そういう洞窟は大抵四層で造られてることが多いんだ。だから次で最後」
「詳しいんだね」
曖昧に頷いたのみで、彼は理由を語らなかった。詮索しないのが暗黙の了解だから、この話はこれで終わりだ。
旅暮らしが長いのだろうか。それにしてはカヴェで落ち着いているふうだったし、誰かと組んでいる様子がないのも不思議だ。長く生きていればそんな知識が自然と身につくのだろうか。
変なやつだな、と思う。ゼロに対する印象が定まらない。半日も行動を共にすれば、真面目そうだとか気性が荒そうだとか、大まかな性格が掴めるものだが、彼はどうしてか判断のつかない、曖昧であやふやな存在だった。
「じゃあ、行く」
頷くと、ゼロは黙って立ち上がり、背負った雑嚢の紐を確かめた。無駄に口を利かなくていいのは気楽でいい。馴れ馴れしくされたり、踏み込んでこられたりするよりははるかにましだ。悔しいことに、腕も立つ。森の王とも知己だと言うし、もしかするとその筋では有名なのだろうか。顔が広いなら、父のことを知っている世代の旅人や狩人に紹介してもらえるかもしれない。できれば、ほどほどの関係でいたいところだ。
無言のまま、ゼロが先に立って進む。どちらが言い出したわけでもないのに、洞窟に入ったときから彼が前に立っていた。年長だから、あるいは剣が使えるから前に立ってくれたのだろうか。それとも、シャイネが女だから?
初対面で気づいたらしい男装について、まだ問われてはいない。ちゃんと認めたわけではないから「シャイン」と男子名を名乗ったままだ。どう思われているのだろう、とかすかに思う。
広間と広間をつなぐ通路は、これまでと同じだとすると十歩ほど。半ばほどまで進むと、魔物の気配がシャイネにも感じ取れた。うなじが冷えて鳥肌がたつ。
「すごく嫌な感じがする……」
黒い背中に声をかけたのと、ゼロが最小の動きで抜剣したのは同時だった。無駄な力みのない、腕の延長であるかのような滑らかさで抜き身の剣を持って歩を進めながら、呼吸を整えているのがわかる。
刺突剣を抜く。シャイネもまた、つとめて呼吸を深くした。ディーもゼロの剣に宿る風も、ひどく緊張している。気をつけろと声をかけてこないのは、こちらの集中を妨げないためか、注意を促すこともできないくらいに怯えているためか。
ゼロが灯りと荷物を置いた。青白く光る剣だけを持って無雑作に歩みを進める。シャイネがランタンを持って広間に走り込んだ瞬間、長剣が横凪ぎに
――大きい。
驚きと恐怖を唾とともに飲み込んで、『灯りを』と短く命じる。広間じゅうを照らすには及ばずとも、魔物の動向を追うには不自由しない明るさで光に留まるよう言い置いて、シャイネは魔物の横手に回り込んだ。
小山ほどもある獣型の魔物だった。
体つきは熊に似て、重心が低く瞬発力がありそうだ。獰猛な爪と凶悪な牙だけでなく、やたらと長い尾にも気をつけねばなるまい。間合いに飛び込む勇気はない。
大型の魔物に出くわしたとき、これまではキムとフェニクスが前に出て、リアラは後方からの援護を担っていた。半精霊であることを隠していたシャイネはリアラの側で歯噛みするばかりで、何もさせてもらえなかったし、できなかった。
後方警戒とは名ばかりの配置に、少しばかりの安堵と、それを踏みつけてぶち破る羞恥と悔しさを覚えたものだ。僕ならどうするだろう。父さんならどう動くだろう? 手練れの背を見つめるばかりだった時間は、もう過ぎ去った。
僕がやらなきゃならない。
自分で選び、負うと決めたのだから。
ディーの柄を握る。きっと、父さんも同じようにしたはず。
魔物は、二手に分かれたシャイネとゼロのどちらを狙うべきか隙を窺っているようだった。下手に近寄ろうものなら、前脚の強烈な一撃が待っている。
魔物の厄介さは、見境のない凶暴さやしぶとさだけではなく、見た目からは想像もつかない攻撃手段を持っているところにある。たとえこの魔物が熊に似た体格で、恐ろしげな爪と牙を持っていたとしても、脅威はそれだけではないかもしれないのだ。毒の霧を吐くとか、尾から針を撃ち出すとか、何をしでかすかわからない。警戒を怠った者、咄嗟の判断ができなかった者が生命を手放すことになる。
そうと知っていても、不測の事態に対する備えは万全ではない。経験不足を痛感する。お荷物になるのはごめんだ。
ゼロは、と見てみれば、大型の魔物に怯んだ様子はなかった。相手の出方がわからずに慎重になっているのは同じだ。彼がどれほど剣技に優れていようと、むやみに飛び込むのは賢いやり方とはいえない。
父さんなら、果敢に接近しただろうけれど。シャイネは想像する。
刺突剣はその名の通り突き通すことに特化した剣で、厳密には剣ではない。刃がないからだ。腕の長さの錐でもって、少ない手数で効果的に損傷を負わせることが主目的であり、それ以外の用途にはおおよそ、向いていない。戦闘においては特に。
骨格と筋肉、内蔵を守るための脂肪、表皮や毛皮、鱗、それらの構造を知り尽くした者だけが、狙い定めた一点に向けて切っ先を放つことができる。心臓や肺腑、眼球や脳に致命的な傷を与えることができる。
シャイネの力と速さでは、まだ届かない。つまり、大仕事はゼロに任せて、彼が斬り込む隙を作ることこそが役目だ。
例えば、リアラは光を召んで目くらましを試みていた。合い言葉は「お芝居が始まるわ」で、それから三つ数えた後に光が炸裂する。皆は目を瞑ってやり過ごす。しかしそれはキムやフェニクスとの連携がきちんと取れているから可能だったことで、今、何の説明もなしにこの手が通用するとは思えない。ゼロの視力を奪うことは本意ではないので、ディーを振り回しながら地を蹴った。
「こっち!」
喉の奥で唸った魔物は、シャイネの陽動に食いついた。大口を開け、凶悪な歯と牙、涎が糸を引く口腔を見せつける。ぞっとしないが、目を逸らせば負けだ。奥歯を強く噛んで睨んだ。
ぎりぎりまで引きつけたシャイネが身を躱し、魔物が姿勢を崩したところへゼロが長剣を振るった。青白い輝きが狙い過たず、右前脚を半ばまで斬る。骨で刃が止まったのか、剣を翻して距離を取った。
魔物は三本の脚に体重を分散しきれず、苦鳴をあげてよろめく。ゼロと目が合った。どちらからともなく頷く。
――いける。油断はするな。
噴き出す黒い血を避け、右の後ろ脚に斬りつけたゼロがはっとした様子で腕を引いて、大きく跳び退った。
どうしたんだろう、と彼に気をやった一瞬で、魔物が立ち上がった。
「うっ……わっ……」
洞窟の天井に
「シャイン!」
ゼロの叫びを魔物の咆哮がかき消した。反響と失血で頭がくらくらする。目が回って、膝をついた。左腕が動かない。熱い。重い。すぐに死に至るほどの傷ではないが、驚きと恐怖、油断した自分自身への罵倒と悔しさでいっぱいだった。ありていに言えば、混乱していた。
魔物は手負いのシャイネを先に片づけることにしたようだが、ゼロへの警戒も怠っていない。まったく、腹の立つほど抜け目がない。魔物は種別を問わず大型になるほど知性が高いというが、本当らしい。調子に乗って隙を作ってくれれば、こちらも対処のしようがあるというのに、反撃の一瞬を窺う睨み合いがいちばん消耗する。
「……平気」
「ならもっと腹から声出せ、馬鹿!」
「平気だってば!」
「くだらんことで体力使ってんじゃねえ馬鹿!」
『お前が声出せって言ったんだろうが! 馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞこの馬鹿!』
ディーの罵声に、ゼロの剣に宿る精霊が身を縮める。精霊の声がゼロに届かないのは幸いだった。程度が低すぎる。
「後ろ脚が段違いに硬い。立つためだろうし……もしかすると蹴ってくるかも」
立ち上がった魔物を前に、ゼロは中段に構えながら言った。こちらに駆け寄ってくるどころか、ちらりとも見ない。シャイネ自身で何とかしろ、何とかできるだろうという両方の意味で、それに応えることはゼロの余裕につながる。
お荷物にはなっていないらしい。少しだけ気が楽になった。
下がれない以上、傷は放っておくしかない。魔物に立たれると、胸や首、顔面など急所を狙いにくくなる。上方への剣撃は体重が乗らないためだ。脚はゼロが躊躇うほどに硬いのだから、腹か、あるいは。
よい案が浮かんだわけではないが、身体が動いた。ゼロが背中側に回り込むのを見届けて、懐に飛び込む。
彼の予想通り、逞しい後ろ脚が唸りをあげた。脚を前後に振るだけの単調な動きとはいえ、もらえば骨がやられそうだ。身体を開いて躱し、反動で振り戻された脚に飛び乗る。
その時、ゼロが魔物の尾を切り落とした。崩落の危機を感じるほどの絶叫が洞窟を揺らす中、大きく伸びあがった魔物の胸に刺突剣を滑り込ませる。
踏ん張りの効かない態勢では勢いのままに腕を振り抜くのが精一杯で、厚い筋肉と脂肪を貫き通すには至らなかった。魔物が暴れるのに任せ、シャイネはディーを手放し、後方に着地した。深く膝を曲げて衝撃を殺すも、左腕が言うことを聞かずに尻餅をつく。
魔物はまたも四つ脚の態勢に戻ったが、血を流し続ける前脚と、刺さったままのディーに気を取られて落ち着きを欠いている。剣を抜くことはかなわず、傷も深い。明らかな苛立ちをシャイネに向けた。吠え声を怒りと苦痛に濁らせながらも、傷ついた脚で器用に地を蹴った。屈強な後ろ脚に体重をかけ、左前脚を振りかぶる。
『ディー、お願い!』
『よし!』
シャイネの求めにディーが応えたのと、ゼロが黒い風のように走り込んできて精霊封じの長剣を横薙ぎにしたのは、同時だった。
洞窟の地面が持ちあがり、シャイネの胴回りほどある石の槍が魔物を貫く。
ゼロの剣が右前脚を斬り落とし、舞いそのものの流麗な動きで踏み込む。ふっ、と鋭い呼気とともに放たれた一閃が、魔物の喉を断ち割った。断末魔の代わりに黒い血が猛然と噴きあがり、音をたてて洞窟に散る。
『びゃあああ!』
「うわあああああ、ディー! ディーっ!」
締められた猫に似た悲鳴を上げるのはディーだ。精霊であるかれが魔物の毒血によって傷つくことはないが、刺突剣そのものは傷む。じゃぶじゃぶと血を浴びるディーを回収しに行きたいのに、立ち上がると目が回る。
膝を伸ばそうとして崩れ、立とうとしてつんのめり、と何度か繰り返していると、汚れた刺突剣と長剣をぶら下げたゼロに、右腕を掴まれて引きずられた。
「何するんだよ、歩ける!」
声はがさがさに乾いて、喉が痛い。ひどい眠気もある。召喚の限界だった。
「嘘つけ、立てもしないくせに」
ゼロの息が上がっていた。魔物の死骸を大きく迂回して、広間の反対側の壁際に放り出される。同じ格好でカヴェの宿城の納戸に引きずり込まれたのはほんの数日前のことだ。人を引きずるのが趣味なのか、と怒りを覚えるが、あの位置に留まっていれば、魔物の血溜まりの中で身動きできなくなったことだろう。
「……どうもありがとう」
「わかればいい。あと、もう喋るな。おれまで喉が痛くなってくるから」
壁際で攻防していたせいで、こちら側には返り血もなく、乾いていた。魔物の死骸が崩れてゆくのを目の当たりにする不愉快からは逃れるべくもないが、危機は去った。シャイネはようやく安堵の息をつく。
ゼロが予測した通り、洞窟は行き止まりだった。魔物の気配はもうなく、ディーが早く手入れをしてくれとめそめそしているほかは、静かだった。
「ひどい顔だけど、大丈夫か」
「……まさか」
「だろうな」
口調は軽いが、ゼロの表情は明るくはない。放り出していた雑嚢をかき回し、包帯や酒の瓶を取り出した。小ぶりのナイフを構え、彼はシャイネを見下ろす。
「ほら、見せろ」
腕を掴まれ、はっとする。傷の手当てとはいえ、服を脱げば嫌でもわかってしまうではないか――女であることが。
彼は気づいているようだったが、だからといって肌を見せることに抵抗がないかといえば、それはまったく別問題だ。
「い、いやだ。だめ。お婆ちゃんの遺言だから」
「何がだ。死にたいのか」
反論は咳に呑まれた。身体を震わせて咳き込むシャイネには構わず、ゼロは血に染まってぼろ布同然の服を破るように剥いでゆく。ちぎれたボタンが転がっていった。
前を開けられ、血で粘つくシャツが取り払われる。裸の肩が寒いのだか熱いのだかわからない。抗議しようとすると、ひゅう、と喉が鳴った。
「……寝るなよ。寝ても起こすからな」
晒し布で押さえてあるシャイネの胸を一瞥し、降ってきた声は氷よりも冷たい。ゼロはランタンの方を見もせず、そのくせ的確にナイフを炙っている。熱せられた刃が何の予告もなく、容赦なく突き立てられて息が止まった。
音がするほど奥歯を噛んで悲鳴をこらえるが、あまりの痛みに意識が遠のく。喉が渇いているのにぬめる汗が止まらない。
魔物が触れた所は傷にならなくとも炎症を起こす。傷口からは毒が入り、周囲の肉を切って消毒せねば、腕全体、ひいては全身が毒にやられる。
狩人や旅人が短命なのはこのせいだ。魔物につけられた傷、魔物の体液は人を冒す。念入りな解毒と迅速な手当てが命を救うのだと知っていても、傷口を抉られる痛みには慣れるものではない。
「あ……えっ?」
「寝るなと言った」
気を失っていたらしい。頬を叩かれて我に返ると、いつの間にかゼロに支えられており、ナイフも抜かれていた。だからといって、痛みがなくなったわけではない。
大きく喘いだ口へ、すかさず何かが放り込まれた。
「毒消しだ。噛んどけ。しっかり噛んでから、飲み込め」
水に溶いた毒消しは飲んだことがあるが、葉を噛むというのは初めてだった。意外な知識を持ってるんだな、と思う。噛むほどに苦みが増し、繊維が気になったが何とか飲み下した。喉がちくちくする。
疼く肩から意識を逸らすことができるのならば、何だってよかった。下らないことでも話せばよかったのだが、声を出せる気がしない。
ゼロの手は止まらなかった。いくつか取り出した小瓶のうち、透明のものを開ける。辺りに漂う酒の香りに、眉が寄るのがわかった。
「何事も、痛いのは最初だけだ。……な?」
シャイネの左腕を立てた膝に挟み、力を込める。にやにや笑っているところを見るに、やはり相当性格が悪い。覚悟を決めて、無事な右手をかたく握りしめた。
初めて魔物に傷つけられ、傷口を洗うために酒をかけられた時、シャイネは激痛に耐えきれず、泣き叫んで暴れた。リアラがその涙を拭いながら「ほら、これでひとつ大人になったわよ」と冗談を言ってくれなければ、恥ずかしさのあまりに旅を止めていただろう。
「大声出してもいいから」
「出さない」
顔を背けたことが合図になった。身体が跳ねる。かつて経験していて、覚悟もしていたとはいえ、やり過ごせる痛みではない。傷口が焼ける音がしないのが不思議なほど、圧倒的な熱が肩に押し当てられていた。
「……っ、うう……っ!」
瓶の酒はすぐになくなったようだが、肩を灼く熱はいつまでたっても去らない。無意識に伸びた右腕は乱暴に払われた。
「もうすぐ終わるから、じっとしてろ」
ゼロは褐色の瓶に入っていた液体で晒し布を濡らすと、それを傷口にあてがった。沁みるのか、と身体が強張るが、予想していた刺激はなく、むしろ濡れた布の感触が心地よいくらいだった。熱のこもった身体が、ようやく落ち着く。
こんな薬も、見たことがない。感心するシャイネには構わず、ゼロは血や酒で濡れた肌を大雑把に拭い、包帯を巻いた。
「これでいい。街に戻ったらまた包帯を替えてやるから、それまではそのままに……何だ」
「……ありがと」
袖を引いて囁くが、ゼロはふんと鼻を鳴らしたのみで、何も言わなかった。
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