第一章 冬の空闇の夜

重なる偶然

重なる偶然 (1)

 臭い。

 もう何度目だかわからないため息がこぼれた。次の呼吸で右腕を振り抜いて、刺突剣ディーに絡まったまま絶命していた小型の魔物を、横手から接近してきた別の魔物に打ち付ける。手首を捻って剣を抜き、一歩踏み込んで魔物の胸元に突き入れた。

 臭い。

 声に乗らない呟きは疲労とともに重く凝る。獣型の魔物の首元から噴き出す毒の血を避けて左に位置取りを変え、剣を戻した。

 目の端で様子を窺えば、ゼロもまた顔をしかめて気だるげに精霊封じの剣を振るっていた。表情とは裏腹に、剣筋は見事の一言で、少しもぶれない。風が宿る剣の軌跡が凛と輝いて、目を奪われる。


『余所見してる場合かよ』


 ディーに指摘されて、ずんぐりした蛇様の魔物に気づいた。ゼロの死角から這い寄るそれはシャイネの位置からは遠い。咄嗟に叫んだ。


『お願い!』


 左手を強く握る。隆起した地面が魔物を呑み込んで、ぐにゃぐにゃと蠢く――まるで咀嚼するかのように。元通り平らになったのを確認して、左手を解いた。

 ありがとう、と大地の精霊を還すと、どういたしましてと囁きが返ってきた。大地はおおむね、礼儀正しい。

 ゼロが虫型の魔物を斬り伏せると、周囲はようやく静かになった。ディーも落ち着いているし、もう大丈夫だろうと警戒を緩めたのはふたり同時だった。


「……これさあ、話違うんじゃねって思うんだけど」

「そうだね」


 端切れで剣を拭い清める。魔物の血肉が絡んだ刃物は殺傷力が鈍るだけでなく、鋼鉄そのものをも蝕む。触れればひどい炎症を起こすから、狩人たちは長袖や手袋、長靴で身を守りつつ魔物に挑む。

 ぐしゃり、と湿った音に顔を上げると、魔物の死骸が崩れて黒い血溜まりに没していた。


「不思議だよね。全部ああして溶けちゃうんだもの」


 どれほど硬い骨も、刃を滑らせる毛皮も、ヒトや家畜を切り裂き喰い荒らす牙も爪も何もかも、絶命とともに黒い血に還り、やがて消滅する。その理由は誰も知らない。女神教はひとえに、女神のことわりに反する存在であるからと繰り返すばかりで、ならばそういうものかと納得せざるを得ない。

 魔物の死骸が消え去っても、負った傷が癒えるわけではなく、死者が蘇ることもない。血を浴びた布地は傷み、金属は腐食する。

 一方で、魔物の血を吸った大地はやがてその豊かな生命力を取り戻し、作物を育てる。つくづく、不思議だと思う。


「南の方じゃ、お偉い学者の先生が魔物の生態を研究してるってさ」


 剣を収めたゼロが、死骸や血溜まりを避けて腰を下ろした。三歩分の間をおいて、シャイネも座る。水筒を傾けて喉を潤し、干し杏をかじった。

 空気が淀んで、魔物の血の匂いが籠もっている。目の前には、ぐずぐずと崩れ落ちる黒い死骸と広がる黒い血。たまらなく臭い。いつまで経っても慣れない。


『ちょっとだけ、空気を入れ替えたいんだけど』


 ゼロの剣に宿る風に頼むと、彼女は小さく頷いて周囲を廻った。否応なしにリアラのことが思い出され、喉の奥がしくりと痛む。

 風の王の娘、リアラがゆったりした衣服をなびかせて舞うと、風が、水が、光が喜んで応じた。生命を賭けた戦いの場にそぐわぬ優美な光景に、共闘していた女神教の青服たちが目と口を丸く開いて見入っていたものだ。

 北の地での経験が何もかもすべて、遠い記憶に思えた。リンドの英雄キムが魔物狩りにシャイネを伴うようになってから、つまりシャイネが実戦を経験してからまだ三年しか経っていないのに。経験の浅さを思い知って、遠い記憶から現実に引き戻されるのが常だった。

 頬を撫でる風が止まると、臭いはずいぶんましになっていた。


「あんた、すごいんだな」

「何が」

「精霊」


 ああ、と頷いて、しかしどう言葉を継いでよいかわからずに沈黙する。

 逃げるようにリンドを飛び出して約半年。他の旅人や狩人と組むことも稀にあったが、半精霊であることは隠していたし、隠していられる依頼しか受けなかった。生まれ故郷のノールを出てきて以来、精霊を使役するところを見せるのは、同じく半精霊のリアラを除けば彼が初めてだ。


「声が変わるんだな。どうやって出すんだ、その声」


 一息ついて気が緩んだか、それともシャイネと親交を温めようというのか、ゼロはいやに饒舌だった。あるいは単に、精霊好きの血が騒いだか。


「どうやってっていうか……何となく出るようになったっていうか……説明できない」

「半精霊はみんなそうやって、違う声が出るのか?」


 ゼロの質問は止まらない。疲れもあって、だんだん面倒になってきた。


「たぶん出ない。僕は声で精霊をぶんだ。精霊はこっちではうまく力を使えないから、僕らが『場』を創ってお招きするんだけど、『場』を創るやり方は半精霊によって違うみたいで」


 リアラは舞っていた。綺麗、と褒めると「キムとフェニクスが大変な時に踊ってなきゃならないわたしの気持ちをわかって」と切実な訴えが返ってきた。その時のリアラのむずむずした表情が何ともおかしかったのを思い出して、つい笑いそうになるのをこらえる。


「ああ、ヴァルツもそんなことを言ってたな。とかとか」

「他にどう言えばいいのかわかんないもの」


 ふーん、と素っ気なく吐息を漏らしたゼロが、木の実や干し果物を混ぜ込んで焼き固めた携帯食の端を分けてくれた。端っこが美味しいのに、わかってないなと思う。


「弦楽器の音みたいで、綺麗だったよ。あんたの声」


 不意を突く言葉に、咄嗟に返事ができなかった。

 きっと疲れているせいだ。さっさと帰って、おいしいものを食べてお湯を使って、ゆっくり眠りたい。

 ――弦楽器。

 精霊を召ぶ声を評価されるのは初めてだった。家族とリアラの他には誰にも聞かせたことがないから、何と言われようと初めての評価になるのだが、どうにもこそばゆい。あの声が他の人にはどう聞こえるのか、など考えたことがなかったし、綺麗と言われるなんて、背後から頭を殴られたような衝撃だった。水とともに、落ち着かない気分を飲みくだす。


「まさかこんなのだとは思ってなかったから、あんたが半精霊で助かった。ありがとう」


 途切れ途切れの言葉は、携帯食を噛んでいるからでもあり、都度考えているからのようでもあった。こうも素直に感謝を向けられると、つんけんしているこちらが大人げなく思える。癪だが、不愉快ではない。


「僕だって、一人じゃ切り抜けられなかった。あんたが前に立ってくれたから、精霊を召ぶ余裕ができたんだもの」

「自分で使えるって言ったしな。まあ言葉分くらいは働くさ。……それにしても」


 ゼロは手のひらを払って、あたりを見回した。ランタンの光の輪に、黒々と魔物の屍が伏している。多くは溶解がはじまっていた。

 カヴェの東、まばらな林に囲まれた丘陵地の一角に穿たれた洞穴が、くだんの魔物の巣であった。

 巣といっても、憩ったり仔を産み育たりするためのものではなく、魔物が集団発生している場所を便宜的にそう呼んでいるにすぎない。

 魔物は、形だけを見れば自然に存在する動物に似ているが、魔物の仔が発見されたことはなく、常に成獣が現れていた。成獣と呼ぶのが相応しいのかさえわからない。狩人たちの報告から、形態と強さ、知性の傾向など、明らかになっていることもあるが、魔物の生態はまだ謎だらけだ。

 そういう意味では、精霊の仔もいない。精霊は精霊で、成熟の概念はない。力の強さによって格が分けられるのも魔物と同じだ。

 だとすれば、シャイネやリアラのように精霊と人間の間に生まれた半精霊がいるのと同じく、半魔がいても不思議ではない。手練れの狩人の話に時折現れる人型の魔物こそ、それではないのか。半精霊が精霊を召ぶのと同様、半魔は魔物を召ぶのではないか。

 あまりいい想像ではない。頭を振った。


「何だ」


 ゼロが胡乱な目で見下ろしてくるので、シャイネは考えたことを話した。


「魔物の仔っていないでしょ。だから魔物は誰かが召んでるのかなとか、半精霊がいるなら半魔もいるんじゃないかとか……人型って言うじゃない、あれとかさ」

「気持ち悪いことを考えるんだな、あんたは。精霊と魔物は似てるけど同じじゃないって、ヴァルツが言ってたけど」

「魔物と精霊が同じなわけないよ」


 少なくとも精霊はこんなふうに群れないし、巣など作らない。濃淡の差はあれど、どこにでもいる。それが精霊だ。

 洞窟には魔物がひしめいていた。これまで目にした巣と同じだ。獣型、虫型、植物型、鳥型。水辺を縄張りとする魚型の姿こそなかったが、黒々とわだかまる魔物たちは十や二十どころの数ではなく、共闘してそれらを打ち伏せたシャイネとゼロの前には、暗闇の奥へと伸びる通路がぽっかりと口を開けていた。

 進むか? そりゃあ、もちろん。

 短いやりとりの後に足を進めると、再び魔物がひしめく広間に行き当たった。倒す。進む。魔物と出くわす。三度めを終えて、今に至る。


「こんなに広い魔物の巣なんて見たことないぞ」

「僕だって、初めてだ」


 魔物の巣は大抵、こういった洞窟や鍾乳洞、池や川のほとり、山裾の一角などに発生する。この洞窟が人為的に造られたものであるのは構造から明らかで、誰かがこんなに広い洞窟を掘ったというだけでも驚きなのに、その全域に魔物が巣食っているなど信じられなかった。今日、これまでに倒した魔物はリンドを出てきてから倒した数と同じくらいではなかろうか。数えるのも億劫で途中で投げ出してしまったが。

 シャイネ一人では到底無理だったし、ゼロだけでも無理だっただろう。ぶつくさ言いつつも手を組んだのは良い判断だった。意地を張って一人で来ていたなら、泣きながら逃げ出すか物言わぬ骸になっていたかのどちらかだ。


「話が違う、ってぶっ込もう。こんな規模だなんて聞いてない」

「魔物の死骸は消えちゃうだろ。証拠がないって言われたら反論できない」

「うん……そうか、そうだな。しかし何だってこんなでかい巣を青服の連中は野放しにしてるんだ。街から半日以内の距離だろ、管轄は」


 半日以内が管轄なのか。知らなかったが、曖昧に頷いておいた。青服たちがろくに仕事をしていないから、悪名高いダム・バスカー氏が代わりに人を雇ったということか。儲けることしか頭にない、と聞いたような気もするが、果たしてこれが儲けにつながるのだろうか。街道からも人里からも離れた、この魔物の巣を潰すことが?


「どうした、疲れたのか」

「えっ、いや、別に……そういうわけじゃないけど」


 洞窟はまだ続いている。灯り油は手持ちがあるが、水と食糧が心許なかった。野宿の準備もない。一度引き返すべきか、進めるところまで進むか、判断の難しいところだった。気力体力よりも、喉が先に限界を迎えそうだ。ディーの鞘を叩く。


『なーんか、やな感じだよ。たぶん魔物もいる。引き返した方がよくねえか。もう喉だってけっこう使ってるだろ。あの黒いのに説明してやれよ』

「ゼロは進むべきだと思う?」

「思う。勘だけど」

「精霊を召ぶの、あと二、三回が限度なんだ」


 黒い眼がシャイネを見た。視線を逸らす。

 ランタンの光が届かない洞窟の奥はどんよりと重い暗闇だ。すぐそこが最奥なのか、それとももっと先があるのかはわからない。

 ディー、あるいは他の精霊を使役して様子を探ることもできるが、貴重な一回を探索に使うのは気が引ける。帰り道、魔物に出くわさないとも限らないのだ。


「限界を超えたらどうなる」


 尋ねる声は落ち着いている。医者が患者の容態を問うているようだった。


『やなこと訊くなあ、こいつ』

「どうもしないけど。僕の喉が痛んで、最悪派手に血を吐く」


 ゼロの唇が歪んだ。


「やなこと言うな」

「訊かれたから答えただけだ。……そうなると声が出るようになるまで精霊は召べない」


 締めようか、締めようぜ、と怒りの声をあげるディーを宥めて、どうする、とゼロに再度尋ねた。


「進むべきだと思う。あんたには負担をかけるけど」

「……いいよ。一人で来ても同じだったもの」


 いざとなればあんたを盾にして逃げる、浮かんだ言葉は忘れることにする。意地の悪いことを訊いたり、そのくせ素直に礼を言ったり申し訳なさそうにしたり、よくわからない男だった。

 実際のところ、ゼロと組んでの行程はそう悪いものではなかった。良い、と認めてしまうのはいささか抵抗があるし、うまく言い繕うこともできそうにないので、結局は黙るしかないのだった。

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