出会い (3)

 人の気配が近づいて、目が覚めた。

 卓の傍に立ってこちらに手を伸ばしていた男は、起きあがったシャイネに動揺するふうもなく、まじまじと無遠慮に見つめてくる。

 癖のない真っ直ぐな黒髪は短く整えられ、黒っぽい旅装束にも清潔感があった。伸ばされた手の爪もきちんと切られていて、怪しい雰囲気ではない。引き締まった体躯はよく鍛えられており、腰の剣は一目で良いものだとわかる。右手の節が目立つ。剣で食べているのだろう。

 十人並みよりは整っているおもては、驚くほどの美形というわけではないのに、ふと目を引く華やかさと強さがあった。

 静寂に満ちた冬の夜空に似た黒い眼が、シャイネを見ている。

 その眼に精霊の支配の証たる金の光が浮かぶところがありありと想像できて、大事に庇っている胸の底が冷たい手に鷲掴みにされる。気取られまいと、何とか声を絞り出した。


「僕に、何か?」


 男は今ようやくシャイネが起きていることに気づいたという様子で、手を引いた。わずかに言い淀んで、それから肩越しに掲示板を指差す。


「金貨五枚のことで」


 落ち着いた、耳に心地よい声だった。向かいの席を示すと、外套を脱がずに腰掛ける。長話をする気はないらしい。依頼を受けたいのか、それとも。


「あんたが依頼を受ける気だって聞いたから。……おれがあんたに何かを強制できる立場にないってことは重々承知してるが、悪いことは言わない、あの依頼はやめておけ。それだけだ」


 矢を射かけるような早口で告げて立ち上がった男の腰で、吊り下げられた剣が物言いたげに震える。精霊封じの剣だ。風がいる。


「ねえ、何て名前?」

「……ゼロ・アレックス」

「剣に苗字をつけるんだ。変わってるね」


 男は一瞬黙った。黙ったのち、整った顔が奇妙に歪んだ。


「いや、おれが。剣に名前なんてない」

「あんたの名前なんてどうでもいいよ。どうして剣に名をつけないのさ。それ、精霊封じの剣だろ」


 はあ、と男――ゼロは唸った。投げやりさとかすかな苛立ちが入り混じっている。剣に宿る風の精霊はシャイネに気づいているが、様子を窺うように縮こまっている。ディーの鞘を叩いた。


『どうしたんだ、なあ、あんた本当に名前がないのか? ご主人は良くしてくれるか? オレはディーだ。別に怪しいもんじゃないよ。あんたのご主人が言ってることは本当か? ヤバい依頼なのか』


 風はさんざん逡巡したあとで、ぽつりと言った。


『大丈夫……いじめられてるわけじゃないです。でも、ちょっと理由があって……あと、依頼が危険なのは本当です。近づいちゃいけない。わかって、闇の姫様。いしのあなたも』

『ならいいけど。どうする?』


 問いかけはシャイネに向けたものだ。依頼を受けるのか受けないのか。考えた隙を突いて、ゼロが言葉をねじ込んでくる。


「なあ、なんであんた、この剣が精霊封じだってわかったんだ」

「見ればわかる」

「答えになってない。剣身を見たってならまだわかるが、抜いてもないのにわかるものか」


 いやに絡んでくるな、と唇が尖った。失言ではあったが、精霊に名もつけず、とりたてて大事にしている風でもない、精霊を怯えさせている持ち主がろくな人間であるものか。見ればわかる、を貫き通すしかない。実際、見ればわかるのだから。


「じゃあおれにも教えてくれ。どうすれば見ればわかるのか、その目利きのやり方を」


 店の中で剣を抜くわけにもいかない。察したようにゼロが、裏庭を借りる、と主人に向かって大声を張り上げ、先に立って歩きはじめた。面倒なことになった。適当に丸め込んでうやむやにしてしまおう。まさか、半精霊だから見たらわかるのだと種明かしをするわけにもいかない。

 一度表に出て、家屋をぐるりと回り込む。裏庭は洗濯物を干したり、宿泊者たちが身体を動かしたりできるよう、広く場所を取っていることが多い。そこで講釈を垂れることになるのだろうか。剣を抜くだけならまだしも、合わせることになるのは避けたい。せっかくカヴェに来たのに、まだ何の話も聞いていない。このままこの男と衝突して、街を去ることになればまったくの無駄足になってしまう。

 気が逸れた瞬間、腕を引かれた。力任せに引きずられて、勢いのままに納戸に投げ込まれる。姿勢を崩したところへ男の肘と膝が叩き込まれて、咄嗟に両腕を上げて防いだ。重い衝撃に腕がじんと痺れる。

 ――いきなりかよ!

 正々堂々を求めていたわけではないが、不愉快だ。追撃を避けて一面造りつけの棚を背にし、慎重に距離を取った。

 飛びかかろうとするのを制するかのような呼吸で、ゼロが無雑作に後ろ手で戸を閉めた。納戸に窓はない。闇が兆す。

 灯りのない納戸。全身が凍りつく。眼が光っているのがわかる。

 キムの黒い眼に浮かんだ金茶の光。忘れようもない光景、逃れ得ない苦痛が、全身をめった刺しにするようだ。心臓が大きな音で喚きはじめる。


「半精霊」


 ゼロの声は暗闇の中でやけに嬉しげに響いた。


「ヴァルツが言ってたんだ。半精霊がカヴェに来るって。こんなふうに会うとは思わなかったけど、うん、そういうことか」


 どういうことだ。思ったが、口を開くと歯が鳴りそうで、喋れなかった。扉はゼロの背後だ。ぶん殴ってでも開けるべきか。今更? ゼロはどうしてこんなに嬉しそうにしているのだ。半精霊だと暴いてどうする気だ。ヴァルツって誰だ。

 疑問がぐるぐると頭の中を行き来して、しかし恐怖がすべてを絡め取って、どれ一つとして声にはならなかった。ちっとも似ていないのに、髪と眼の色が同じだというだけで、キムとゼロの姿が重なった。床に視線を落とす。

 キムの手指の熱が、甘い吐息が思い出され、肌が粟立つ。

 ――繰り返さないと決めた。決めたんだ。


「……あんたは、僕をどうしたいわけ」

「どうって、別に、どうもしない。半精霊だってわかって、嬉しいだけ」


 嬉しい? よくわからない。教団に突き出そうと言うのか。それもまた違う気がする。どうにもこうにも、考えが読めない。頭の中がぐちゃぐちゃで落ち着かない。喉が詰まる。泣きそうになって、シャイネはディーを抜いた。納戸の中に精霊の輝きが灯るが、精霊の眼が紛れるほどではない。


『灯りを』


 シャイネは光をんで命じた。剣の輝きが増し、扉を開け放した程度に明るくなると、ようやく滞りなく呼吸ができた。ゼロが目を丸くしている。


「……それが、精霊? いや、開けてほしいなら開けるけど。暗い所が怖いのか」


 暗い所が怖い? そんなわけない、シャイネは闇を束ねる精霊の子、暗闇と影に身を浸しているのが何よりも安らぐ。ゼロは半精霊の眼が暗い所で光ることを知っていたが、精霊のことに詳しいのかと思えばそうでもないようだ。

 いいや、何もわかっちゃいない、この男は。主導権を渡すわけにはいかない。得体が知れない。読めない。――だから怖いんだ、きっとそうだ。


「半精霊を他に知ってるの」

「ヴァルツのことか? 半精霊じゃない、精霊って言ってた。森の王だって」


 せっかく落ち着いた呼吸がまた止まる。森の王?


「……精霊の、王を名乗れる存在は八人しかいない。人、っていうのかはわからないけど」

「そうなのか? でも、色々と不思議なことをしてたぞ。薬草にも詳しいし、そうだ、狼の姿にもなったな」


 炎、大地、水、風、光、森、鉱、闇。それぞれの王が多くの精霊を統べる。女神が創造したこの世界を彩り、豊かに保つ。

 女神教が異端と断じた、シャイネにとっては真実以外の何でもないことをこの男に告げるべきか。危険すぎるそれらを。


「それに、あんたと同じ綺麗な眼をしてるぞ。翠色の……暗い所で光る。それが精霊の眼なんだろ」


 男、ゼロはすっかり警戒を解いているように見えた。だらしなく床に座り込んで、自分の家であるかのようにくつろいでいる。この鷹揚さが何らかの余裕の表れなのか、単に無頓着な馬鹿なのか、シャイネにはわからない。不気味だ。早くここを出たい。


「……そう。だから、僕は精霊の気配がわかる。あんたの剣にも精霊がいた。それだけ」

「つまり、おれには精霊封じかどうか見分ける方法はないってことか」

「まあ、そうだね」

「狡いぞ」


 何が狡いのだかさっぱりわからないが、ゼロは心底残念がっているようだった。


「あんたはどうしてそんなに精霊が好きなの」

『やばいって、シャイネ。食べちゃいたいくらいに好き、とか言われたらどうするんだよ、関わるな』

「どうしてって。……綺麗だから? いや、わかんないけど。いいなとは思うよ」


 首を傾げている。馬鹿だ。たぶん馬鹿なのだ、この男は。頭が足りないのではなくて、歩いている道が違う。関わるとろくなことにならない気がする。シャイネは足早にゼロの脇を通りすぎて扉を開けた。ディーをを収める。


「話を戻すけど、ご忠告有難う。でも僕は半精霊だから。訳ありの依頼だって何とでもなる。流れ者だし、何が起きてもすぐに動く自信はある」

「いや、そういうことじゃないんだ。沈められるぞ」

「沈められる? 精霊がいれば水中で呼吸することもできる」

「だから、そうできないように縛られるとか刺されるとかして」

『うるさい』


 シャイネは影を召んでゼロを縛めた。動きが封じられたことに気づいたゼロはしばらく試していたようだが、座った姿勢から指一本たりとも動かせないことを受け入れたのか、やがて大人しくなった。


「すごいな、これも精霊の力?」

「ほんの少しだけね。じゃ、さよなら」


 精霊を還して納戸を出ると、飛びかかるような動きで腕を掴まれた。さっきとは逆の腕だ。痣になったらどうしてくれる。


「おれも行く」

「は?」

「魔物狩りの依頼を、おれも受ける」

「やめろって言ったのはあんたじゃないか」


 ゼロは悪びれない。うん、確かに、と頷いている。


「言った。でも、あんたをバスカーにぶつけるとどうなるのか、面白そうだし見てみたい」

「見世物じゃない」

「おれは結構使えるぞ。試してみるか」

『やめて、姫様。お願いだから。腕は立つ、本当よ。森の王と親しいのも本当』


 ゼロの剣が悲鳴をあげる。

 ご主人思いの精霊だ。粗雑に扱われていては、こうはならない。そしてゼロは精霊の声が聞こえていない。半精霊ではない。だとしたらどうして森の王が名を教えるほどの事態になるのか。

 ――ゼロもまた、複雑な事情を抱えているのだろう。シャイネと同じように。

 手札はほとんどすべて伏せられたまま。お互い様だ。詮索するつもりはないし、知りたくもない。


「……いや、いい。信用する」


 ゼロは右手を下ろし、少し考えてからその手を差し出した。渋々、握る。厚みがあって手のひらが硬い。間違いなく剣を使う者の手だ。


「感謝する。ええと」

「シャイン」

「そうか、よろしく、シャイン」


 手を引いたゼロは薄く笑った。流れるような動きで身を屈め、耳元で囁く。


「男のふりをするなら、その石鹸は使わない方がいい」


 低い声がこめかみを撫で、背筋が強張る。喉を食い破られるのではないかと指先が冷える、それほどの速さと近さだった。何かを言う前に、黒い男は平然と昼下がりの陽の下を歩き出していた。

 どうしてわかったのだろう。袖を鼻につけてみるが、何の匂いもしない。では、握手したときか。手だけで男女の判別ができるものか?

 変なやつだ。精霊を恐れず、感情の波を掴ませず、思惑を読ませず。

 まあいいか、と思う。どうせこれきりの関係だ。組んで魔物の巣を潰して、報酬を折半して、さよなら。変人というなら、これまでにもたくさん出会ってきた。そもそも旅人や狩人がまともな人間であるはずがない。

 とりあえず、仕事だ。金貨五枚、ふたりで分けるとしても大金が手に入る。後のことはそれから考えればいいのだ。

 シャイネは大きく息を吸って、ゼロの黒い背を追う。



【第一章 冬の空闇の夜 に続く】

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