旅立ち (4)

 雪雲に覆われる日が増え、毎日の仕事に雪かき、雪下ろしが加わった。精霊に頼めばすぐに終わるが、そうしない程度の分別は幼い頃からあった。

 故郷のノールはリンドよりもさらに雪深い。平屋に急斜面を持つ屋根を乗せた造りの家々には出入り口が上下二つある。雪の有無によって使う入り口を変えるのだ。

 豪雪に覆われて地下室のようになった家で、人々は機を織り、皮をなめし、獣脂の蝋燭を型取りし、毛皮を衣服に仕立てる。

 馴鹿トナカイの橇を引いてやってくる行商人の足も遠のくが、たまに手に入る野菜や果物はとびきりのご馳走だ。塩や香辛料も珍重される。それらと引き替えに、行商人は織物や毛皮を橇に乗せて去っていく。

 リンドはノールに比べれば降雪量が少なく、家が埋まるほどには積もらない。しかし、雪を放っておけば寒さで凍り、手がつけられなくなる。雪の重みで屋根が落ちる危険性があり、馬車の通行の妨げにもなるため、積もった雪が柔らかい間に作業しなければならないのだった。

 雪かきや雪下ろしは客も総出で行う。リンドの冬を初めて経験する客は皆そのことに驚き、あるいは怒るが、他の客が黙々と作業に加わっているのを見ると、大抵はスコップを手に取る。すっかり雪を片付けて、温めた葡萄酒の鍋を囲む頃には、わだかまりもなくなっているのだった。

 キムたち一行も外出を減らしている。リアラが精霊の様子から雪雲の切れ目を慎重に見定めて、吹雪の合間に魔物を狩りに街を出るが、野宿ができない季節ゆえに遠出ができず、旅の道筋は決まったものになりがちで、警戒の網の目は緩んでいる。

 キムらの不在時、吹雪のさなかに魔物が現れたとなれば、牡鹿の角亭の手練れたちも怯んだ。シャイネがどれほど意欲を見せようと「子どもは下がってろ」の一言で奥へ押しやられ、ケインも「おまえに何かあったらレンさんに申し訳が立たん」と細々とした用事を言いつける。

 結局は火酒で顔を真っ赤にした男たちが、げんなりした様子の青服たちと協力して魔物を倒すのだが、まったくもってつまらない。

 ケインもできる限り、シャイネがキムについて経験を積めるよう取り計らってくれたが、宿が繁盛する冬場とあっては、そうそう頻繁に抜け出すことはできなかった。

 キムは牡鹿の角亭に戻るたび、シャイネを呼びつける。一日の仕事を終えて湯を使い、まだ髪も乾かぬシャイネを猫のように抱き上げて頬ずりし、あるいは寝台に並んで横になって、とりとめもなく話をするのだった。


「春になったら遠出をしよう。ケインにも話をつけておいたから、準備を怠るなよ」

「……はい」


 冬は好きだが、これほどまでに春を待ち遠しく思ったことはない。旅の経験を積めることとキムと過ごせること、どちらが嬉しいのかはよくわからなかったけれど。たぶん両方、だ。

 キムとフェニクスから教わる戦いのすべ、リアラから教わる野外で快適に過ごすすべ。精霊のこと、自分の身体を大切にすること。どれもシャイネにとってはかけがえのない糧だった。肥料をもらってすくすく成長する植木になった気分だ。

 雪雲が薄くなり、積もった雪を割って新しい生命が芽吹いて冬の終わりが兆すと、気の早い者はそわそわと旅立ちの支度を始める。キムたちもそうで、冬の間投宿していた幾人かがリンドを発ったあと、手が空いたシャイネを約束通り長旅へと連れ出してくれた。

 雨具や毛布、調理器具。食糧、水や油、調味料。野営の荷物だけでも結構な量になる。それぞれを分担して持つのは、一人あたりの負担を減らすためでもあり、事故や予期せぬ事態によって食糧が一度に失われるのを避けるためでもあった。

 キムは用意した食料を四等分し、シャイネにも同じだけの荷を負わせた。雑嚢の紐が肩に食い込んで、歩くだけでも疲れるだろうと思われたが、一人、として数えられるのが嬉しく、はしゃぐと疲れるぞとフェニクスに指摘される有様だった。

 予定された道程をひたすらに歩き、魔物を狩ってまた歩く。立ち寄った村落で魔物の被害がないか聞き込み、あちらから来たと聞けば出向いて周辺の安全を確かめ、宿泊の代として壊された柵や家屋の修繕の手伝いをする。そしてまた歩く。

 雪の残る道を歩くのは骨が折れる。足場の定まらないところで魔物と出くわすことももちろんあって、そんな時はどうするか、どのように行動し、何を警戒すべきか、シャイネは学んだ。

 気を張ることも多く、野宿で満足に眠れぬ夜も多かったが、リンドに戻る頃には多少なりとも自信がついていたし、キムも「最低限ってところだけど、まあ旅人を名乗って恥ずかしくはないだろ」と褒めてくれた。何より、牡鹿の角亭で暖炉を背にして座り、旅の出来事を語る側になったことが嬉しかった。皆、にやにや笑いを浮かべ、時には意地の悪い野次を飛ばしながらも頷きながら話を聞いてくれた。

 そうして春が終わり、夏が瞬きする間に過ぎて、長い冬の訪れを待つ季節を迎えた。冬が来ると十九になる。あと一年。二十歳になればリンドを発とうと思っていた。

 時にはキムの紹介で他の旅人らと組んで隊商の護衛など単発の仕事をすることもあった。値段交渉や旅程の決め方は旅人の数だけやり方があって、キムたちとは違う方法を目の当たりにするのは新鮮だった。

 宿城、牡鹿の角亭で給仕をしていることもあり、シャイネの評判はリンド中に広まった。子守りや雨漏りの修理、模様替えや引っ越しの手伝いにシャイネをぜひと女たちが名指しで仕事を持ち込んでくることもある。

 不思議なことに、女性の多くはシャイネの男装をすぐに見破るが、男性はそうと気づかないことが多い。騙しているつもりはないが、女であるとも男であるとも意識せずにいるのは気が楽だった。

 細やかな仕事ができるからと女たちからご指名をもらうのも嬉しいし、意外に度胸のあるガキだなと屈強な傭兵から評価されるのも嬉しい。なるほどこうして地道にやっていくのが良いかもしれない。今はまだキムの紹介に頼るところが大きいし、「宿城で働いていた」なんて冠がつくけれども。父の剣ディーが、調子に乗るなよと釘を差す。

 男装にもまったく抵抗はなくなったが、キムと二人きりになるとすぐに「女」に戻れた。そうしろと言われたわけではないのに、少年を装い続けることはどうしてかできないのだった。

 キムの熱い指や唇が、かたく纏ったものをほどいてゆく。

 黒髪がとばりのようにおりてくる。彼のもたらす甘い夜を、シャイネは広い胸に顔を埋めて味わう。夢に溺れて喘ぐ。こらえきれずに涙を流す。

 キムの身体はいつだって熱い。熱があるのかと不安になるのはほんの少しの間だけで、すぐに体温は均される。

 泳ぎ疲れて寝台に身体を投げ出したまま、シャイネは言った。


「僕、半精霊なんだ。リアラと同じ」


 今日言おう、と決めてのことではなかったのに、言葉は不思議と滑らかにこぼれた。キムが身体を起こす。


「眼が光る?」

「……そう。だから、灯りを消さないでって言ったの」


 キムはくつくつと笑う。なるほど、と。


「大抵は灯りを消してって言うものだけど、そういうことか」

「驚かないの?」

「驚いてるさ。でも、リアラを見てるからな。シャイネが半精霊でも、まあ、そういうこともあるかもしれないって思う」


 よかった。シャイネは息をつく。どうしてか、今初めてキムの隣で呼吸できた気がした。

 女だとか男だとか、そういうことではなくて、本質を偽ることが気づまりなのだとようやく納得する。

 よかった。もう一度呟いて、灯りを消した。キムが身じろぎして、こちらを向く。


「本当だ。光ってる」

「母もこの色なんだ。変な言い方かもしれないけど、僕……この眼がすごく好き」

「俺もだ」


 精霊の眼は闇を見通す。夜に包まれた部屋であっても、キムの表情がはっきりと見えるのが気恥ずかしく、シャイネは上掛けを引き上げて視線を隠した。受け入れられたいと願っていたくせに、真っ直ぐな言葉を投げかけられると戸惑う。素直に喜べばいいのに、どうしてかできない。有難うと言えない。


「母からもらった力もまだ全然慣れなくて、リアラみたいにうまく使えないんだ。これからは精霊の使い方も練習していい?」

「ああ、もちろん」


 分厚い手が上掛けの隙間から割り入ってきて、顎を掬われる。頬を辿る指に否応なく期待がさざめき、誘われて見上げた彼の黒い眼に、息を呑んだ。

 ――キムの眼が、光っている。

 シャイネと同じ金茶の色を浮かべている。光の奥にどろりと淀む虚ろな深淵に、背筋が凍った。


「……どういう、こと」

「どうしたんだ、シャイネ?」


 キムは気づいていないのか。キムも半精霊? まさか、そんなはずがない。では自分が何かしたのか。

 気づかないうちに、精霊の力で、キムをどうかしてしまったのか。

 ――僕は、キムに何をした?

 落ち着いて寝ていることなどできず、キムの腕を振り切るように起き上がる。身体を離しても、寝台を下りても金茶の光は消えなかった。訝しむキムに、用事を思い出したと口実にもならない口実を突きつけて、自室へ駆け戻る。

 いつの間にか泣いていた。けれど涙を拭うよりも先に、しなければならないことがある。壁に立てかけた剣を揺すぶった。


「ねえ、ディー。教えて。僕、何をしたの。何ができるの」


 父の剣は鞘に収まったまま、面倒臭そうに震える。


『そんなことも知らねえの』

「知らないよ、だから、教えて。ディーなら知ってるだろ」


 父の剣に宿る鉱の精霊は意地悪く笑った。もしも彼に実体があったならば、前歯を剥き出したことだろう。


『闇はヒトを従える。夢を渡る。ヒトの心に入り込むものさ』

「……人を、従える」

『そ。ヒトは闇に惹かれる。誰もが内に闇を飼ってるからなんだけどさ。闇は……つまりあんたは、それにも親しむ。精霊の眼で大好きなキムを縛り上げて、奴隷にしたってことだ』


 息が詰まる。胸が痛い。手足が冷たい。

 誰もが憧れるキム。いつからキムを好いていたのだろう。気づけばいつも目で追っていた。歳も離れているし、キムにはきっと素敵な恋人がいるのだと思っていた。だから、キムに初めて誘われた時の高揚は今もはっきりと覚えている。

 心臓が口から出てくるんじゃないか、と何度思ったことか。どきどきしすぎて呼吸の仕方すら忘れそうで、そんな状態で唇を重ねるものだから、すぐに苦しくなって泣き出してしまって。

 キムはいつも余裕たっぷりに笑っていた。可愛い、可愛くない所も全部可愛い、と言ってくれた。それがすごく嬉しくて、求められれば応じた。何だってできた、キムのためならば。

 けれどディーは、それはすべて精霊の力ゆえだと言う。


「そんなこと……してない」

『してるじゃないか。キムの中、闇だらけだぞ。じきにあの風の半精霊も気づくんじゃないか?』

「そんなこと、してない」


 ディーは笑った。


『そう思いたいなら、思えばいいさ』


 でも、と続ける。半精霊たるシャイネにしか聞こえない声で。


『あんたが望んだからキムはあんたを抱いたんだ。……レンさんは望んであんたの父親になった。この違い、わかるだろ?』




 どうすればいいのかわからなかった。

 精霊を使役するだけが半精霊の力ではないと知っていたけれど、他に何ができるのか、どうすれば制御できるのかシャイネは知らなかった。

 ――未熟。

 反論のしようもない。自分がキムたちには遠く及ばぬ駆け出しであること。精霊を感じ、呼び寄せて行使する、精霊の王の血を引く自身の力がそれだけではないこと。使い方次第では万能の力であること。

 知っている、つもりだった。

 未熟と慢心。

 気をつけて行っておいでと見送ってくれた両親。キムやリアラやフェニクス、ケイン、マーサ、その他牡鹿の角亭の常連たち。差し出される親切を当然のものと受け止め、大人に囲まれてぬくぬくと過ごした結果がこれだ。

 調子に乗るなと諌めるディーの言葉を、もっと気に留めておくのだった。

 キムにも、リアラにもフェニクスにも会いたくなかった。どんな顔で会えばいいとのだ。軽蔑される。こんなにも浅ましいのだから軽蔑されるのは当然のこと、それでも嫌われたくないと甘ったれたことを思う自分自身がとんでもなく身勝手で、愚かで、汚いもののように思えた。

 キムは憧れだった。狩人として、一人の男として。応えてくれずともよかった、離れたところから見つめるだけでよかった。

 そう思っていたのは上辺だけで、本心では彼に愛されたかったのか。

 ――違う、求められたから応えたんだ。

 ――求められるように、精霊の力で彼をねじ曲げたのは誰だ。

 ――違う。違う。僕は知らなかった。何も。そんなことができるなんて。そんなことをしていたなんて。

 ――悦んでいたくせに。

 ――違う。

 ――嬉しかったくせに。キムを独り占めできて。キムに抱かれて、優越感に浸っていたくせに。

 ――そう、そうだ。

 嬉しかった。誇らしかった。キムがシャイネを求めるたび、一人の人間として、女性として、認められた気がしていた。街一番の美人と名高い薬草店の看板娘よりも、狩人たちが「あいつとだけはやりあいたくない」と囁く青服の手練れよりも、優れているからキムに選ばれたのだと、そう思いたかった。


「僕は、馬鹿だね」

『そうさ。でも、それを気づけただけましなんじゃね?』


 ――これからは違う。二度と繰り返さない。

 一晩泣いて、次の日一日膝を抱えて考えて、それからシャイネは旅の支度を整えた。ケインに頭を下げる。

 冬を前にしてこう言うのは、わがままでしかない。でも、発つなら今しかない。春までは待てない。


「冬が来る前に発ちます。急なことですみません」

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