目覚め
目覚め (1)
高いところから落ちる恐怖、圧への恐怖、窒息の恐怖。
これらは最も原始的な、本能的な恐怖なのだそうだ。その三つが一度に押し寄せていた。逃れようともがく。溺れる。喘ぐ。呑まれる。巻き込まれる。潰される。
空気そのものが重い。逃げようにも、身体は少しも動かない。崩れてゆく。恐怖だけがある。嫌だ、誰か……助けてくれ。
そう、それは紛れもない恐怖だった。怖い。
何が怖いのか。――死ぬことが。この痛みでばらばらに引き裂かれることが。
恐怖を起点に、意識が鮮明になる。痛み、苦しみ、死。綱を手繰るように概念が浮かぶ。いらない、そんなものはいらない。
――おれは、生きたい。
「……い……」
意識の隙間をこじ開けるように、鮮烈な痛みが広がる。紛れもない肉体の苦痛。肉を削がれ骨を砕かれる灼熱の激痛。汗が噴き出る。
こんなことならば、いっそ眠っていればよかった。痛みが去るまでずっと、永久に。――いいや。生きるんだ、おれは。死ぬわけにはいかない、こんなところで死ぬはずがない。
「痛い……」
呻きは掠れて声にならなかった。目の前がぼやけて揺らぎ、定まらない。何もかもが不確かで、忌々しいことに苦痛だけが明瞭だった。痛みに縋らねば己さえ千々に吹き飛んで消え去りそうで、他に術もなく激痛を受け入れる。
「痛かろうよ、その傷では」
応じる声は飄々としていた。男にしては高く、女にしては低い声で、性別を超越した曖昧さがある。
誰だ。疑問は言葉にならずに散る。思考を封じるように口が塞がれ、わずかに液体が流れ込んできた。甘い。ひどく甘いが、癖もなく後に残らない。染みるように消える。
「水だ。……そう、ゆっくりな」
なんだ水か、と思ったが、これ以上ないほど甘くて美味かった。時間をかけて少しずつ流し込まれる水を大儀して飲み込む。喉を動かすと全身が軋んで悲鳴を上げたが、それでも身体は水を欲する。もっと。もっとだ。
「今はこれだけだ。大丈夫、もう少し眠っておけ」
声が命じると、鋏で断ち落としたようにすべてが途絶えた。
次はしっかりと目が開いた。長い眠りから覚めて、頭の中も目の前も霞んでいる。目を擦りたかったが、手を動かそうとすると激痛をもって拒否された。諦めるほかはなかろう。
木々が覆い重なって、木漏れ日が落ちている。眩しいほどではない。水と緑の匂いがした。
「起きたか」
この前と同じ声が弾んだ。竹筒から水を含ませてくれる。やはり甘くて美味い。
声の主、水を飲ませてくれたその人物は、流れる銀髪を後ろに流し、宝石のごとく輝く翠の眼でこちらを見た。美しく整った顔立ちだが、男なのか女なのかよくわからない。どちらでもいいような気もした。
「……誰だ」
声は震えて、そよ風にも負けそうだった。大きな声を出したくとも、腹に力が入らない。声を出すのがこんなにも大仕事であったとは。
「誰だと思う」
銀髪の麗人は唇を歪めて言った。馬鹿にしているようでもあり、試しているようでもあり、心配しているようでもある。
「おれを知ってるのか。どこかで会ったか?」
問いかけて、ふと気づく。
「……おれは、誰だっけ」
翠の眼が細まる。着ているものは薄手の衣を重ねた、南方ふうのものだが、肌は白く、きめ細かい。絵画か彫刻に生命を吹き込んだかのように整いすぎている。
人間離れした美貌がまた歪んだ。笑ったのだとようやくわかった。
「私に訊かれても」
「……だよな」
考えて答えの出る問題とそうでない問題がある。この場合後者だ。放っておいて、眠ることにする。
次に目覚めたときも同じように、麗人は水をくれた。首を動かして周囲の様子を窺うが、どうやら野外、それも林か森の中という以上のことはわからなかった。
地面は乾いて温かい。苔か下生えに布を敷いて寝かされていた。寝心地はまずまずで、身体が思うようにならず、痛みが主導権を握っていることを除けば快適だった。
「名がないと不便だと言うなら、ヴァルツと呼んでくれ」
「他人事みたいに言うんだな。偽名か」
そういうわけじゃない、とヴァルツと名乗った麗人は肩を竦め、どこからか取り出した橙色の果実を矯めつ眇めつした。
「そろそろ食べても大丈夫だろう。多分」
付け加えられた一言は聞こえない振りをしたほうが良さそうだ。ヴァルツは甘く熟れた果実を無造作に割り、片方を突き出した。鮮やかな色合い、喉が鳴るような果汁の香りが、今に限っては限りなく暴力的だった。
「どうだ」
「……もうちょっとこう、何かあるだろ。皮を剥くとか小さく切るとか」
「このままでは無理か」
無理ではないかもしれないが、口の周りが汚れて痒くなりそうだし、虫がたかるかもしれない。身動きできない状態で虫にたかられる想像をするのは、あまり良い気分ではなかった。説明する気にもなれない。
「遠慮するな」
ヴァルツが果物の実を千切り、差し出してくる。口を開けると、濃い甘みをもつ果汁と果肉が運ばれた。白く細い指が舌に触れても、瞬きさえしない。興を削がれた。
彼が無言で咀嚼する傍らで、ヴァルツは果汁まみれの指を面倒そうに舐めている。無頓着にも程がある。なんだこいつは。綺麗な顔をして、色気の欠片もない。全てが何もかもちぐはぐだった。
「食わないと治らんぞ」
言いつつ二口めを差し出してくるが、疲労を覚えて、いらない、と突っぱねた。
「口に合わなかったか」
「そういうわけじゃない。疲れた」
ふうん。ヴァルツは呟くと、汚く欠けた果実にかぶりつく。やがてどろどろになった甘いものが滑り込んできて、喉の奥に流れて落ちていった。
「そうか、こうすればいいのか」
名案だと言いたげに顔を輝かせ、頷くヴァルツが口の周りをべたべたにして果実にかぶりついている。ちゃんと拭けよ。言葉になったかどうかはわからない。眠りに落ちる前にもう一度、甘いものを飲み込んだ。
固形物を口にするようになってからの回復は早かった。川魚、木の実、茸。ヴァルツはどこからともなくそれらを手に入れてきてはそこいらの葉に包んで蒸し焼きにし、食べさせてくれた。腹に溜まるものを寄越せと訴えると、温もりの残るパンを手に入れてくるようになった。
パン窯が森の中にあるものだろうか。どこから、どうやって手に入れたんだ。問い詰めてはいけない気がするし、まずは治すことに専念したい。無心に食べ、眠り、体力をつけた。
上体を起こせるようになったとき、自分がどのような状況であるかを目の当たりにして再び気絶するという情けないこともあったが、目覚めている時間は次第に長くなり、引き千切ったような汚い傷にも新しく皮が張った。
「まあ、こんなものだろう」
ヴァルツはふんふんと頷いているが、腹の中身が見えている状態からここまで、発熱こそすれど、大して化膿もせず傷が塞がったのは奇跡的なことのように思える。こんな屋外で、ろくな薬もないだろうに。
ヴァルツは何やら怪しげな草だの葉だのを煮出したり粉にしたりして、手当に用いていた。胡散臭いが劇的に利いたことは彼自身が断言できる。名前以外の素性を知らないが、浮き世離れしたところといい、高貴な身分の薬師か何かだろうか。
「……とりあえず、助かった。有り難う」
訳のわからないことだらけだがひとまず、と礼を口にすると、神妙な顔つきで茶色の液体をかき回していたヴァルツはいいや、と首を振った。差し出された液を飲む。舌が抜けそうなほど苦かった。
「礼などいらん。気紛れみたいなものだし、人間に適した手当が果たしてできているか」
「人間じゃないみたいな言い方をするんだな」
「人間ではないからだ」
ヴァルツは否定しなかった。爛々と輝く翠の眼が真っ直ぐにこちらを見ている。
「精霊。わかるか。森の王だ」
「わかるけど。……そうなのか」
「もう少し驚いてもいいんだぞ」
どこでどう驚くべきなのか、よくわからない。
「おれは人間、あんたは精霊、女神がこの世を創って、魔物がそれを破壊する」
頭の中に浮かんだ、というよりは、それは常識として馴染み深いものだった。
「そうだ。ちゃんと覚えてるものだな」
「いや……知識はあるんだ。多分。生活していくのに不自由はないと思う。自分のことだけがわからない」
ヴァルツは唇を歪めて笑った。
「なのに精霊が珍しいっていうのはわからないのか。不便だな。そういえば、名前も覚えていないのだったか。何でもいいじゃないか、適当に名乗っておけばいい」
「と、言われてもな。……ん、待て、……あ……アレック、ス?」
浮かんだ音を拾い上げる。連ねても、やはり何の感慨もなく通りすぎていった。
「それが君の名か」
「それはおれが訊きたい。何となく思いついたんだ。全然違うかもしれない」
では、とヴァルツは微笑んだ。まともに笑うこともできるらしい。
「ゼロ・アレックス、というのはどうだろう。何もないから、ゼロ。どうだ、美しい言葉だろう?」
「ゼロ、アレックス……」
呟く。平らかな、何もない。――なるほど、丁度いい。
「じゃあ、それにしよう。ゼロ・アレックスと名乗ることにする」
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