旅立ち (3)

 男装し、少年のように過ごす生活を始めた。

 牡鹿の角亭の常連たちが、ぎこちない振舞いをむずむずしながら見守っていることがくすぐったい。シャイネが旅人になりたいと思っていることは彼らの間では広く知れているから、からかわれることも冗談として笑うことができた。

 自分のことを「僕」と呼ぶことや男言葉、脚を開いて座ることへの気恥ずかしさも徐々になくなり、キムやフェニクス、男性客らのしぐさを真似ることも巧くなった。

 ナイフの使い方、立ち上がり方、歩き方、皿の受け取り方。よく見ればどこにも細かな男女差があって、学ぶことは尽きない。

 遠目に女性だとわからなければいいだけの話なのに、ずいぶん本格的になってしまって、そうなると皆が乗り気であれは違う、これはこうだ、などと注文をつけてくる。悪い気はしなかったが、本来の、女性としてのしぐさを忘れてしまわないようにするのが一苦労だった。

 あれこれと世話を焼いてくれたのはリアラで、彼女の部屋に招かれて二人きりでお菓子をつまむ時間だけはシャイネも心からくつろげた。休みの前の日の夜中に、というのであればなおさらだ。抗いがたい魅力を放つ焼菓子をつまむ。


「ねえ、リアラはフェニクスにもキムにも半精霊だってこと、教えてるんだよね」

「そりゃあね。フェニクスはもちろん知ってるし、キムにだって、黙ってられることじゃないし。……シャイネはまだ誰にも話してないのね? もしかして、キムにも?」


 うん、と頷く。リアラはキムとシャイネの仲を知っている。遠慮はないが、やはりどこか気恥ずかしい。


「すごいわ、それ。よく気づかれないものね……まあ、キムも大抵鈍いしなあ」

「灯りは消さないでって言ってるから。でも、フェニクスは気づいてて気づかないふりをしてくれてるんじゃないかって思う……何も言われたことないけど」


 ありえるー。嘆息したリアラは伸びをした。それだけでよい香りが漂ってくるような気がして、首を捻る。

 常時意識しているからか「男の子みたいだ」「少し変わった」などと言われることが増えたし、少年を装うことは身構えていたほど難しくはなかったが、どうすれば大人の色香を纏えるのかは、いくら考えても答えに辿り着けそうにない。

 シャイネももう十八、子どもではない。背はぐんぐんと伸びたけれど、胸まわり腰まわりの成長期はいつになれば訪れるのか。


「いつかキムにも話すの?」

「うん……いつかは。たぶん」

「ご家族の他に、知ってる人はいる? 打ち明けたことはある?」

「ないよ。だって……怖いもん」


 まあね。呟くリアラは寝台に横たわった。真っ直ぐにこちらを見る薄青の眼が光っている。油が勿体ないからと言って絞った灯りは部屋を照らすのに十分ではなく、寝間着に上着を羽織り、文字通り眼を輝かせているリアラは鳥肌が立つほど美しかった。

 シャイネの眼も光っているはずだった。精霊の眼が。


「でも、こんなの隠しようがないじゃない。野宿とかもするわけだし、焚き火って暗いし。すぐ眼が光って怪しまれるから、初めの頃は光をんで顔を照らしてたんだけど、面倒だし不自然だからやめちゃった。そもそも精霊を召ばなきゃわたしなんて足手まといでしかないんだから」


 抱えた膝に顔を埋める。こんなことを話せるリアラがいてくれてよかった。リアラが半精霊でよかった。


「シャイネが旅人になってくれるなら、わたしも心強いな。自分以外の半精霊に初めて会ったんだもの」

「僕だって初めてだよ」


 シャイネが牡鹿の角亭の仕事にようやく慣れてきた頃に、魔物狩りから帰還したリアラと初めて会った。風たちが浮ついていたから、何となく予感はあったものの、実際に握手と言葉を交わした時の喜びは言葉にできない。

 自分以外の半精霊が本当にいた、という感動と親しみ、安堵。分かち合いたいいろいろな感情。それらが雪崩のように押し寄せて言葉に詰まり、結局出てきたのは「会えて嬉しいです」という陳腐な一言。

 魔物狩りと街での補給、休息を繰り返すリアラと細切れに話すうち、半精霊として生きる難しさは痛いほどの切実さで伝わってきた。

 ――半精霊であることは知られちゃいけない。秘密にしておきなさい。

 物心ついた頃から、父と母は何度も何度も説いた。そのたびにシャイネはわかった、約束すると答えたけれど、それは両親を困らせないために用意した答えであり、実際のところ、その理由も、知られればどうなるのかもまったくわかってはいなかった。

 理解が訪れたのは十の歳、初めてリンドに旅行した時だ。

 乗り合い馬車に揺られ続け、ふらつきながら見るリンドの街門は見上げるほどに大きく、立派で堅牢だった。どんな魔物もこの門を破ることはできまい、と頼もしく思ったものだ。

 揃いの青い服を着た逞しい男たちが門を守っており、馬車から降りるように言われた。片方が槍を構えつつ乗客一人一人に問い、それぞれが重々しく何か答える。首を伸ばして様子を窺うと、父がそっと袖を引いた。


「大丈夫、怖いことじゃない。この街で悪いことをしませんって約束するだけだ」


 その時は何を問われどう答えたのか、よく覚えていない。それでも、居丈高な門番にはむっとしたし、彼らが属する女神教教会の前を通るだけで吐き気がした。風の精霊も水の精霊も大地の精霊も、皆がそっぽを向いているなんて、初めてだった。


女神教の連中あいつらは、精霊の存在を認めてないからね」


 母はのんびりと、だが目つきは鋭いままに言った。


「認めてないも何も、だって、女神が精霊と協力してこの世界を創ったんでしょ」


 し、と唇の前に指を立て、闇の王たる母ヴィオラはシャイネの手を引いて教会から距離をおく。


「そうなんだけど、精霊は異端なんだって。自分だけが崇められたいわけ、たぶん。……だから、」


 声を潜める。シャイネと同じ、金茶の眼がぎらりと光った。


「あいつらには知られちゃいけない。何をされるかわかんないから。あの空気はあんまり良くない。ふつうを装って、できることなら近づかないこと」


 出自を隠す、偽るなんて、まるで父さんと母さんが悪いことをしたみたいじゃないか。そんなふうに思っていた。けれど、教会のいやな雰囲気を味わってから考えが反転した。あそこには近づきたくない。関わりになるなんて、とんでもない。

 その時に感じた、皮膚の下を虫が這うような不快感、寒気、息苦しさは今も忘れられない。

 リンドで生活するようになって、門番はリンドを訪れる者に身分の証立てと三つの宣誓――殺さず、盗らず、犯さず――を求めるのだと知ったし、それで治安が守られている面があることも知っている。青の制服の教団員たちが職務に忠実で、勇猛果敢な武人であることも。

 魔物が出たと悲鳴が上がれば、夜中であろうが荒天のさなかであろうが、彼らは武器を手に戦った。彼らが、狩人として名を馳せるキムとリアラ、フェニクスに複雑な敬意を抱いていることも、働くうちに見知った。

 リンドでは知らぬ者のない、狩人のリアラだから堂々と半精霊を名乗って生きていけるのだ。宿屋の下働きでしかないシャイネができることではない。


「わたしだって、目こぼしされてるのはエージェルだけよ。他の街だったらとてもじゃないけど半精霊だなんて名乗れない。ここでだって、神職の連中……司祭や司教はだめ。頭が石より固いんだもの。教会の周りは空気が悪いし」

「青服は庇ってくれない?」

「人によっては庇ってくれるかもしれないけど、そんなのあてにしてらんないわよ」

「だよねえ」

「でも、わたしにはフェニクスがいるし、リンドを拠点にしてるうちに何となく広まっちゃったからもう怖いことなんてないけど……なんでシャイネが赤くなるの」

「そんなにはっきり言われるとこっちが恥ずかしい」


 ふふふ、とリアラが腕に顔を埋めて笑った。

 故郷ノールでは、ヴィオラが闇を束ねる王であり、スイレンがかつて狩人として名を馳せた男であり、シャイネが二人の子、半精霊であることを住人すべてが知っている。

 教会の手も大陸最北端の僻地には届かず、皆が受け入れてくれることが当然の環境で過ごしてきたが、それがいかに幸運で、恵まれていたのかリンドへ旅行して重々わかったし、用があって近隣の村へ出かけるときには、夜や雪雲に一層注意を払うようになった。


「眼が光らななければ、問題なく溶け込めるんだけどねえ。精霊を召べるとか、感じるとか、そういうのはぱっと見でわかることじゃないから」


 リアラは色眼鏡を持っている。薄く色づいたレンズが眼の輝きを隠すので、他所の町村に出向くときは使うのだそうだ。


「でも僕、眼が光るのはけっこう好きだよ。リアラの眼もすごくきれいだ」

「そういうことさらっと言っちゃえるの、キムにそっくり。もうすっかり男の子ね」


 キムやフェニクス、常連の同じ年頃の少年を真似ているから、そうなるのも仕方ないと思うが、キムと同じ、と言われるのは面映ゆい。

 何度か魔物狩りに連れて行ってもらって、リンドの周辺の村落に泊まることがあった。壁が薄いから、と小さな声でささめきを交わした夜、声もなく笑いながら抱き合ったこともあれば、こういうのもたまには悪くない、などと余裕を見せるキムに組み敷かれたままシャイネひとりが声を殺し、手で口を塞いで喘いでいたこともあった。

 キムはいつもゆったり笑っていて、楽器を鳴らすようにシャイネに触れる。黒い髪も黒い眼も変わりなく穏やかなのに、シャイネばかりが必死になっているのが滑稽で、けれど決して嫌ではない。

 キムに熱を上げる少女など、リンドには両手では数えきれないほどいる。それなのにどうして僕なのだろう、という思いは捨てきれないが、キムに誘われて階段を駆け上るようなあの感覚は好きだった。

 突き抜けて頭の中が真っ白になって、身体中に満ちていた熱が引いていくにつれ、再び疑問が頭をもたげる。

 どうして僕なんだろう。

 とりたてて美人だというわけでもなく、決して豊満とはいえない体つきのシャイネの何が良くて、どこを好いてくれたのだろう。

 想いを寄せる相手に好きだと打ち明けられることも、放埒に身体を重ねることももちろん嬉しいが、キムの態度からは答えは得られなかった。

 そういうもの、なのだろうか。理由などなくとも、心は動くのだろうか。


「シャイネは可愛いから、男装していたらきっと女の子からももてるわよ」


 リアラはにこにこ笑っている。もてる、とはどんな心地なのか、想像もできない。


「……リアラももてるよね」

「まあねー」


 平然と答えが返ってきて、たじろぐ。


「どんな感じなの、もてるって?」

「フェニクスがきりきりしてるのを見てたら、ああ大変なんだなーって。わたしはどこにも行かないのにね」

「のろけだ」

「そうよ。羨ましい?」


 ちょっとだけ。答えると、正直ねえ、とリアラがまた笑った。裏表のないその笑顔が、シャイネは好きだ。


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