旅立ち (2)

 狩人のキム、半精霊のリアラ、剛弓使いのフェニクス。無事に帰還した三人を迎え、牡鹿の角亭の食堂はいつにも増して陽気なざわめきに満ちていた。酔いの回った笑い声、調子外れの流行歌とはやしたてる手拍子、指笛。忙しいことを見込んでいつもより多く仕込んでいた漬け込み肉やシチュー、揚げ芋や衣をまぶした魚、酢漬け野菜がどんどん減ってゆく。

 火窯オーブンには肉や魚介が詰め込まれ、火にかけられる鍋が次々と入れ替わる。しまいにはほとんどの鍋が空になった。

 注文を取り、給仕をするシャイネの呂律が回らなくなってくるほどの盛況ぶりで、普段は残り物で済ませるまかないに、マーサが奮発して、とっておきの塩漬け肉の薫製を厚切りにして焼いてくれたほどだった。


「これくらい食べないとやってらんないよ。明日の仕込みはいちからじゃないか」


 鼻の穴を膨らませて肉をもぐもぐするマーサは、荒っぽい口調とは裏腹にまんざらでもなさそうに眉を下げていて、シャイネもまた充実した気分で肉の旨みを噛みしめるのだった。

 食堂に集った面々の腹がくちくなり、いい具合に酒が行きわたったのを見計らって、ケインが暖炉前の特等席にキムらを案内した。机と椅子を除け、敷布を広げて即席の舞台が作られ、たっぷりの酒が用意される。

 客たちがめいめいに酒瓶やコップ、つまみを手に床に腰を下ろすのが羨ましく、できるだけそちらを見ないようにしながら、寄せられた机を拭いて洗い物をあらかた済ませたところでようやく、ご苦労様と声がかかった。

 明日の仕込みだろう、手をじゃが芋の粉で白くしたマーサが乳酒を注いでくれる。礼を言って、思い思いの格好でくつろぐ旅人たちの間に尻を滑り込ませた。

 キムらは魔物狩りの様子や遠く離れた土地のこと、行きあった余所からの旅人や狩人とのやりとりを代わる代わる話している。調子を合わせるように竪琴が爪弾かれ、誰もが子どものように目を輝かせて耳を傾けていた。みな旅暮らしなのに、だ。

 シャイネもまた、乳酒の酸味を武器に眠気と戦いながら、うっとりとキムの声に聞き入った。いつか自分もこうして、誰かに武勇伝を語る日が来るだろうか。

 たくさんの灯りが用意された食堂は、真昼よりも明るいほどだった。正面に座るキムは赤い顔をして、身振り手振りを交えて魔物との戦いを再現している。大げさな物言いとフェニクスの冷静な一言が皆を笑わせる。傍で控えめに微笑んでいるリアラと目が合った。軽く手を振ると、にっこり笑ってくれた。

 リアラもまた、シャイネのために心を砕いてくれる一人だ。歳はシャイネより十ほど上だが、とてもそんなふうには見えない。厳しい陽射しの中を旅していても、肌は白く滑らかで、腰までの長さの金髪は今は解かれ、波打っている。金の睫が縁取る眼は涼しげな薄青。

 暖炉の炎が風と手を取ってはしゃいでいるのがシャイネにはわかる。時折、リアラが燃え盛る薪に目配せするのも。精霊たちに、はしゃぎすぎちゃだめよとお小言を飛ばしているのだ。

 初対面のシャイネが言葉を失い、ぽかんとしてしまったほどの美貌の主は、南方風の前合わせの薄衣を重ね着して、華やかな帯を巻いている。キムがリンドじゅうの少年の憧れであるのと同様、リアラもまた少女たちの憧れである。余所から来た旅人たちが鼻の下をだらしなく伸ばすのを見て目つきを険しくするのはフェニクスだ。幼なじみなのだという。

 寡黙な射手は持ち前の器用さで一行を支える。鷹揚なキムの隣で目を光らせ、春風のようなリアラの後ろで牙を剥く。なるほど良い組み合わせだ、と感心したものだ。

 キムらの話が尽きる頃、灯り油も残りわずかになった。客たちは勘定を済ませた者から冷たい風が吹く通りへ、あるいは湯屋へ、客室へと散っていく。

 背を丸め、手を擦り合わせながらやって来た夜番のトーヤ少年とともに食堂を掃除し、元通り机と椅子を並べていると、湯を使ったらしいキムがひょっこり顔を出した。長旅の汚れを落として髭をあたり、こざっぱりした様子の彼はまた一段と男ぶりが上がって、頬が赤らむのを自覚する。


「ちょっといいか」


 キムの言葉に頷き、にやにや笑うトーヤに後を託して茶を沸かした。朝食の準備を済ませたおかみさんはすでに自室に戻っており、人気のない厨房は暗く、しんと静まりかえっている。薬缶はトーヤの元に運び、湯気のたつコップを卓に運んだ。

 キムの向かいに座り、さりげなく灯りを大きくした。身を乗り出して、できるだけ光の輪に入るようにする。


「遅いのにすまんな。明日も……もう今日か、早いんだろ」

「大丈夫」


 そうか、と頷いたキムもまた身を乗り出した。視線がぶつかる。もう酔いの欠片すらない黒い眼に吸い込まれそうで、どぎまぎする。心臓の音が聞こえたらどうしよう。油臭いかも。キムはこんなにも身綺麗にしてるのに。


「近々、三日くらいの予定で魔物狩りに出ようと思うんだが、休めそうなら一緒に来ないか」


 シャイネの内心など全く気づいていないそぶりで、気さくに誘ってくれる。鈍感なところにはがっかりするが、旅に連れ出してくれるという申し出はこれ以上もなく嬉しいものだった。


「はい、ぜひ。明日ケインさんに訊いてみます」


 父の紹介状に何と書いてあったのか、ケインはシャイネが旅人として独り立ちできるよう何かと世話を焼いてくれるし、頼みを断られたこともあまりない。それにつけ込んで、というわけではないが、本格的に冬が来るまでに帰ってこれるのであれば、だめとは言われないだろう。

 空が荒れがちな冬の間は長期滞在する客が増え、満室の日が続く。シャイネも毎日忙しく立ち回らねばならない。キムたちも客の一員で、わずかな晴れ間に雪をかき、勝ち抜けの腕自慢大会を開くのが常だった。旅人も狩人も庭に集い、キムの豪快な剣技に感嘆し、余所からやってきた剣士の奮闘に拍手し、武術を学ぶ少年の成長を喜ぶ。

 寒いだけではない、冬ならではの光景がシャイネは好きだ。何よりキムといられる時間が増える。


「それでな、シャイネ。ひとつ相談なんだが、おまえ、男装してみる気はないか」

「男装?」

「いや、ここではみんなおまえのことを知ってるからいいんだ。でも、いつかは余所へ行くんだろう? ここにいるのは準備期間だって、ケインが言ってたからさ。女のなりだと、襲ってくれって言ってるようなものだぞ」


 なるほど、とシャイネは頷いた。女性の旅人は多くない。そして必ず、複数人で組んで旅路を行く。理由は単純に、危険を避けるためだ。

 野にある危険は魔物だけではない。暴漢に野盗、傭兵崩れ。旅人や狩人にも性質の悪いのがごまんといる。

 フェニクスがリアラを守るように、常に傍にいて危険に立ち向かってくれる誰かがいれば話は別だが、女性の旅人や狩人は大抵が地味な色味の衣服を身につけ、髪を切るか帽子にまとめるなどして、ぱっと見で性別がわからぬよう工夫する。


「おまえは細っこいが、上背があるし、髪も短い。動作もきびきびしてるから、うまくすれば簡単に男を装えるさ。余所へ行くまでに慣らしておかないとな」

「……はい」


 キムがいてくれればいい。想いはひとかけらだって声にならない。皆の憧れを独占したいだなんて、幼稚にも程がある。

 いずれ、シャイネはリンドを離れて南へ行く。それはシャイネ自身も、彼も承知していることだった。

 離れることが予定されているからこそ、誰もが憧れ、感謝を捧げるキムに何かを望むなんて、大それたことはできない。キムに望まれるのは嬉しい、けれど、キムを望むのはわがままだと思う。


「なあ、シャイネ」


 大きくて分厚い手が伸びてきて、シャイネの手を包み込む。どきりとするが、トーヤの気配はない。皆が寝静まった夜のさなかに、シャイネとキムだけが黄色い灯りに照らされ、触れ合っている。鼓動が高まる。

 欲しいものは何ひとつ言葉にならない。こっちへおいで、と呼ばれて席を立つ。重なった手はそのままに、震えそうな足を動かすと、太い腕がもどかしげに腰をかき抱いた。熱い唇が押しつけられ、口の中をまさぐられるのを、固く目を閉じて受け止める。もっと、とねだる気持ちをねじ伏せて身を捩った。


「キム、まだ、しごとが」

「……そうだった。すまんな」


 体温が離れてゆくときに感じた薄ら寒さは、迫りくる冬ゆえか、それとも。


「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい……」


 階段を上るキムの背を見送って、くしゃくしゃになった口元を拭う。シャツの袖には肉と油と調味料の匂いが染みついていて、逃げ出したくなった。

 待っていれば与えられる、そう知って自ら動かない傲慢と臆病は、熾火のように夜じゅう疼いた。


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