心の、カルテ

七咲

第1話 心

 獅子宮(ししみや)誠人(まこと)は腹の底から深くため息を吐いた。くせ毛気味の頭をガリガリと荒っぽくかく。

 今日は客足も上々で多くの人がここ、『獅子宮診療所』にやって来ていた。

 おまけにいつも時間ギリギリにやって来て、亭主の悪口を延々と吐き出していく佐藤さんも、ネット中毒の息子と一緒にやってきて必ず誠人を放置して二人で親子喧嘩を開始する小山さんも、今日は来ていない。

 スムーズに仕事を終えられているそんな日になぜ誠人が憂鬱な様子なのかというと、こんな時には決まって面倒なことが起こるからだった。

 本日の営業は終了しましたという札を表に出してから診療所と繋がっている自宅へ向かう。

 自宅はやや大きめの造りの二階建て。その離れとして使われていた建物を改築して診療所にしたのだ。

 それらは全て海外出張で家にいない父母の遺物だった。脛をかじっているようで引け目に感じている誠人はなるべくそのことを思い出さないようにしている。

 コーヒーでも飲もうとキッチンに向かう最中、自宅のテレビがつけっぱなしになっていることに気付いた。この家に住んでいるのは自分ともう一人しかいないので犯人は明らかだ。

 電源を消すつもりで近づいたが丁度良く地元のニュースを放送していたので見入る。

 地元放送局ではよく見かけるアナウンサーの淡々とした声が耳に心地良い。

「それでは次のニュースです。先日まで行われていた世界陸上の結果をお伝えします。数年ぶりにメダルが二桁に上るという快挙。日本人選手の活躍が華々しかったのですが事件もありました」

 この大会が行われた競技場は誠人の家からは徒歩圏内であった。実地に足を運ばなかったものの誠人も興味がありニュースやインターネットなんかで結果を追っていた。

「アディ事件という通称が浸透してきている事件です。被害にあったのは、日本人とイギリス人とのハーフ、端整な顔立ちと流暢な日本語、そしてしなやかな走りで有名になっているアディエル・ペッパーバーグ選手。数か月前に今季世界五位の好タイムを出した彼は先日行われた百メートル競走予選のスタートで転倒。その影響によって、その後出場予定であったリレーにも欠場しました。この事件の原因はスターティングブロックの破損で、人為的な裂傷が見られたため、警察は偶然の事故の線は薄いとして取り調べをしています。次のニュースです」

 その事件に関するVTRはテレビをあまり視聴しない誠人でも覚えがあるほど流れていた。

 アディは常人離れした長い手足と驚異的なバネを持っており、数か月前に出したベストタイムは日本人歴代最速記録よりも数段速い。

 その日は中央の第五レーンでのスタートで、軽く走っても予選は楽々抜けるだろうと誰もが思っていた。アディ本人もスタート前は緊張した様子はなく、どこかリラックスしているようだった。勝利を確信していたのだろう。しかし、そうはいかなかった。

 声に従ってスタート位置について、地面に手を付ける。それから銀色のスターティングブロックに足をかけて姿勢を整えた。

 パンという火薬音の後にドシンという転倒した音。スターティングブロックは破砕していた。それに気づいて誰かが駆け寄ったころには先頭の走者はすでにゴールしていた。

 アディは即座にタンカで運ばれたが、それからどうなったかはニュースにもあった通り。

「嫌な事件だよなー」

 今日の最高気温が二十℃を超える春の陽気だったということを見てから誠人はテレビを消して、本来の目的地であるキッチンの方へ歩を進めた。


 家の小洒落たシステムキッチンでコーヒーを淹れてから仕事場に戻り、一服した。香りにこだわって海外から取り寄せている豆だけあってその味は極上だ。誠人は長年使っているティーカップを持ち、漂う空気も味わうようにしつつ、熱いコーヒーにゆっくりと口をつける。

 今、仕事場にいるということも忘れてくつろいだ。リラクゼーション効果があると評判の椅子にゆったりと腰かけて目を閉じる。

「そろそろ診療所でもコーヒーを淹れられるようにしたいな」

 息を深く吐き出しながら独り言を口にした。

 個人経営で滅多に手伝いの人を雇わないので、気を緩めても問題はない。顧客情報の塊と言ってもいい大事な書類にコーヒーをこぼさないように気を付けながらカップをそっと机に置く。

 そして、そろそろ今日の仕事を整理しようとしたところで、厄介ごとの足音を耳にした。

 ドタドタと廊下を走る子供のようなそれは幼いころから聞き慣れ親しんだ音だった。

 ノックなどという配慮も当然なく誠人の前に姿を現したのは、誠人によく似たくせ毛ではっきりとした目鼻立ちの男。体格はがっちりとしているが表情は柔らかい印象を与える。

「おっす、久しぶり。最近どうよ?」

「まあまあだな。兄貴が来るまで今日は最高の一日だったけど、今は最低の気分だよ」

 邪険に扱われているのにもかかわらず誠人の兄、佑人はへらへらと軽い笑顔を浮かべていた。はにかむようなその笑みに誠人は嫌な思い出しかなかった。

「なぁ、知ってるか? 兄貴がその顔してるときはたいてい俺に頼みごとがあるときなんだ。おい、今回は何を持ってきたんだ?」

 どうせ面倒になるのはわかっているので可及的速やかに済ませようと話を進めた。頼みを無視することができないのは誠人の性分だ。

「お見通しか。流石はマコだよな。心理学を極めただけあるね」

「極めてないし、心理学関係ないから」

 これまでの経験則がすべてだ。ずっと振り回されていれば嫌でも体に染み付いてしまう。

「それでさ、ちょっと困ったことがあるんだけど。猫拾っちゃったからマコの所で飼えない? 首輪付けてるから飼い主はいるんだろうけど、それが見つかるまでは飼おうと思うんだ。こいつ、怪我してるみたいだし。お昼頃、そこの競技場の近くの公園で落ちた新聞紙にくるまっているのを見つけた」

 ダボっとした服の懐からはオッドアイの白猫が顔をのぞかせている。まだ幼いようで触れると壊れてしまいそうなか弱さがある。

 その白さの中に際立っている黒い首輪は新しいようだが傷跡だらけであった。白い毛もところどころ汚れている。前足が傷ついているらしいがそれを庇うように黒と橙色の布切れが巻いてあった。汚れた場所を転々としていたのかはわからないが白い猫が動くたびにくすんだ白銀色のクズが辺りに落ちる。

 昔からよくあることだったが、よりにもよって猫とは。昔引っかかれた傷を思い出して誠人は頭を抱える。

「あぁ、もう。だから兄貴が来るときはろくなことがないんだよ。どうしてそんなになんもかんも引き受けて持って帰ってくるのかな。お人よしにもほどがある。ってか、この診療所に持ってこないで兄貴の職場で飼えばいいだろう。何度言ったかは覚えてないが俺は猫が嫌いだ」

「だって、俺の所は一応整体とかやってるから、ちっちゃい動物いると危ないんだよ。というわけで、頼む。こいつはきっと悪さしないからさ」

 自分のエリアで飼える算段がついていないなら拾ってくるなと声を荒げたかったが、これ以上話し合っても平行線だということはこの二十数年の人生でわかっている。

 説得を諦めて妥協案を差し出した。

「それなら、自宅に置いといて、時間ある方が面倒を見るってのでいいだろ? どうせ兄貴は半日以上暇で手が空いてるんだから」

 ひどい言い草だが、佑人の整体所が誠人のカウンセリングよりも流行っていないのは事実だ。

 佑人もそれで満足したらしく、これで終わるかと思ったところで、二撃目がやってきた。

 佑人は何か手がかりを探そうと猫をまさぐり、首輪を外そうとしたりしながら相談した。きつく締められているためなのか壊れているせいなのかわからないが、体格に似合わず器用な佑人でも外せなかった。

「あと、こいつの飼い主を探すならどうしたらいいかな? ベタだけどやっぱり張り紙作戦とかするべきか」

 それくらい自分で考えてくれ、と一言口にするだけでこの話からは解放される。それなのにそうしない誠人は数十秒考えて、一つの解決案を提示した。

「あくまでも推測の域を超えないが、飼い主はたぶん出てこないだろう。その根拠の一つは新しいのに首輪が傷だらけである点。これは元飼い主が外そうとした証拠で、今兄貴がやったみたいに上手く外せずにそのままにしたんだろ。そして、新聞紙にくるまれていたっていうのも不自然。猫がそんなに器用にくるまれるかはわからない上に、昼のあの暑さで新聞紙に自分から入るとは考えにくい。これらから考えるとその猫は捨てられたんだろう。犯罪心理分析っていうのがあって、その統計から考えると物を捨てたりする時はその人の生活圏で普段目にするところへは捨てにくい。だからこの近所の人が捨てた可能性は低いだろう。だけど、逆に果てしなく遠くに捨てるというデータも少ないから、全く関わりのない土地の人だとも考えにくい。この辺りに仕事で通っている人ってところかな。ちなみに、ケガしてるところに布撒いたのは兄貴か?」

「いや、違うよ」

 それなら通りがかりの人が僅かな優しさを発揮しただけかと納得した。

「マコの話は正しそうだし、それじゃあ仕方ない。俺が飼うことにする」

 即興の推測を欠片も疑わないで信じる佑人は純真な子供のような目をしていた。そんなちょっとしたことで先ほどまで感じていた面倒臭さが消えた気がする。

「もしもってことがあるから一応写真撮って拡散しておいてやるか」

 気をよくした誠人は子猫の画像を携帯に収める。

 これで厄介ごとは終わったと安心して書類に向き直ったところで電話が鳴った。

 職場の据え置き電話ではなく、誠人の携帯電話だ。古ぼけた着信音が部屋を制する。

 番号を見るとまたしても誠人にとっては好ましくないトラブルメーカーからだった。

「もしもし、何の用だ?」

 意識して声のトーンを落とす。親しくない人からしても不機嫌なのはわかるし、まして電話の相手は十年以上の付き合いなのでなおさら気づかないわけがない。

「もしもし、奈々だけど。ごめん、もしかして忙しかった? イライラしてるっぽいけど」

「営業時間終わってるのわかって電話してんだろ。不機嫌なのはお前らが俺の安息を邪魔してるせいだよ。ほら、用件はなんだ? しょうもないことだったら切るぞ」

 電話の相手が昔から馴染みのあり、今は警察官の奈々だと知って佑人はどういう話か一応は気になったらしい。座り心地抜群の椅子に座り直して楽な姿勢を取る。

 誠人は行儀悪く背もたれに体重をかけながら奈々の話に意識を向けた。

「あのね、この間の世界陸上見た?」

「え? なんて言った?」

 急に想像していなかった方向からの話が来たので思わず聞き返す。

 だがどうやら聞き間違いではなかったらしい。

「ニュースで大まかなところだけは見た」

「それなら十分。アディ事件って知ってる?」

 その事件は何度もニュースのトピックに挙がっていたし、さっきも見たばかりなので記憶にある。

 まだ詳しい情報はメディアに下ろされていないので概要のみではあるけれど。

「その事件の捜査に加わってるんだけど、問題があってちょっと被害者のカウンセリングをして欲しいのよね。ついでに佑人さんにも体の方を見てもらいたいの。誠人の家って競技場から近いでしょ。今、競技場からそっちに向かうね」

 カウンセリングを頼むつもりなのにアディの状態などには一切触れずに一方的にまくし立てた。こういうところは相変わらずだなと思う。

「俺らみたいな民間に頼んでいいのかよ。てか、お前、勝手にそういうの決める権限あるの?」

「上司が面倒臭がって私に振るのよ。大丈夫、あんたらの腕は私が保証するから」

 どうやらこちらの話を聞くつもりはないらしい。誠人はひとまず机の上に散らばっている書類を片付けることにした。


 ものの十分もしないうちに見覚えのある黄色いミニバンが診療所の前に着いた。窓からそれを眺めた誠人がボソッと呟いた。

「なぁ、兄貴、知ってるか? 黄色ってのは人の注目を集めやすくて、印象に残りやすいから交友を広げたり対人関係を良くしたりするのには良い色なんだぜ」

「奈々ちゃんにピッタリじゃないか」

 到着を待つ佑人は子猫と戯れている。すっかり懐かれたらしく猫も楽しそうにしている。

 宙を舞う猫の毛で鼻をムズムズさせているとチャイムの音が鳴る。玄関まで小走りで迎えに行くと、見慣れた小柄の女と長身の青年が並んで立っていた。

 奈々の方は仕事用の堅いスーツに身を包み、化粧もフォーマルを意識しているようだ。普段よりいくらか大人びて見える。

 隣に立っている男はジャージ姿でがっしりとした体躯だが、顔には幼さもある。爽やかな好青年といった風で、ありたいに言えばアイドルじみている。何度かニュースで顔を拝見したことはあるが、実物は映像で感じられなかった妙な迫力を持っていた。

「久しぶり、急に来てごめんね」

「悪いと思ってないのに謝んな」

 荒っぽく迎え入れた誠人は二人を診療室まで案内して、ご自慢のゆったりとした座り心地の椅子に誘った。奈々は重たそうにしていた仕事用のバッグを床に寝かせる。

 座らせてみると際立つ腹立たしいほどに長い脚のアディは笑顔を張り付けて自己紹介をした。

「アディエル・ペッパーバーグです。名前はこんな感じですが、半分は日本人の血です。昔から日本に住んだりしていたので日本語は問題なく話せます。気軽にアディと呼んでください」

「ここの診療所のカウンセラーです。獅子宮誠人と申します。こちらは兄で整体師の佑人。どうぞよろしく」

 誠人は業務用の微笑みを携えてアディをじっくりと観察した。相手に不快感を与えぬように、観察していることを気取られぬように注意を払いながら。

「それじゃあ、早速アディくんのことを見て欲しいんだけど。一応この後も用事があるらしいから、一時間くらいでお願いできる?」

「待て、その前に問題となっている事について教えてくれ。症状について何の説明もないだろう」

「あ、ごめん。急いでて忘れてた。アディくんはあの事件の影響で走れなくなったのよ。何が走れなくさせる要因かっていうのはまだはっきりとしていないわ。今日も病院であらゆる検査を受けたばかりよ」

「なるほどね。それなら、俺が先にやるよ。その方がマコも都合良いだろ?」

 誠人が来客を迎え入れている間に猫と仕事道具を持ち替えてきたらしい佑人は早速椅子に座ったアディの前の床にしゃがみ込んで脚や体に触れる。

 アディは時折くすぐったそうに身をよじるけれど、痛みに顔を歪めてはいない。

「どこか激しく痛む箇所はありますか?」

「少し右足の靭帯が伸びてるような気はします。だけど、痛いとかいう感じはしないです」

「確かに、さっと見た感じではそんなに酷いケガはないみたいだけど」

 先ほどの奈々の話では走れなくて試合を欠場せざるを得ないくらいには酷いケガがあるはず。それなのにどういう事だろうか。それを聞く前に勝手に答えが出てきた。それを出したのはアディでも奈々でもなく誠人だった。

「心的外傷、あるいは外傷後ストレス障害。略称PTSD。スポーツ障害の一つでトラウマって言うのが一番通った呼び名だな。正確に言えば、事件からあまり時間のたっていないうちは急性ストレス障害っていうんだけど、まあトラウマって言った方がわかりやすいな。違うか?」

 誠人の推測を否定する者はいなかった。そもそもスポーツ選手がカウンセラーに急用で来るときはほぼ半分がトラウマで来ているので誠人にとっては、最初から予想がついていた。

「それじゃあ、兄貴の用事はなくなったな。ちょっとよけな」

 アディの前にいる佑人をはけさせて、誠人は椅子を少し寄せた。カウンセラー相手という事もあってかアディは先ほどより少し表情が強張った様だ。

「それでは、本題に入る前に少しストレッチでもしよう。プロのスポーツ選手ってどんな感じにするんだ? これでも昔はスポーツマンだったんで少し興味があって」

「ちょっ、時間がないって言ってるのに」

 奈々はさっさと本題に入るように急がせようとしたが、佑人の大きな掌がそれを止めた。

 ストレッチで体を伸ばした後になると、体だけでなくアディの顔の筋肉も緩まっていた。

「さて、それでは今から質問をしたいのですが、その日にあった出来事を話してくれませんか? 嫌だと思うことは話さないで、自分にとってつらくない事だけでいいですよ。大きく息を吸って。うん、そうそう。ゆっくりでいいから」

 普段は粗雑なしゃべり方だが、今は相手に余計な負担を与えないように、優しく丁寧に語りかけている。聞くものすべての心を落ち着かせる声だ。

「はい、世界選手権の百メートル予選の日のことです。僕はとても調子が良かったので屋内のアップ用の施設で少し長めにウォーミングアップをしてしまって、時間ギリギリでエントリー場所へ向かいました。予選だったのでそんなに気合を入れなくても良いとコーチには怒られましたが。それで、スタート位置について一回流して走った時には問題なかったのですが、本番ではスターティングブロックが壊れていて、転倒してしまいました」

 その映像はニュースで何回も放送されて世界へ広められている。さぞ悔しい思いもあったことだろう。

 つらそうに俯いて大きな体を小さくしているアディの身になると誠人は悲しくなった。しかし、彼の問題を解決するためにいくつかのことを聞かねばならないと踏み込んだ。

「今、走ろうとするとどうなる?」

「ホントに軽くなら走れますが、スピードが出ない上にスタートは完全にできません。やっぱりあの時の転倒でトラウマがあるみたいで」

 困ったような笑い方をしてアディは鼻をむず痒そうに触った。アレルギーで先ほどまでいた猫の毛に反応しているのだろうか。それとも悲しみが溢れてきたのだろうか。

「わかった」

 これまで、トラウマの患者を見たことがないわけではない誠人は落ち着いた声色で囁く。子供に言い聞かせるように丁寧な言葉でゆっくりと、はっきりと。

「良いか、目を閉じてイメージするんだぞ。よし、アディは今競技場にいますよ。そう、世界陸上のような大きな大会の場。スターティングブロックもそこにあります。そして、両足をブロックにかけました。得意のロケットスタート。強く蹴って飛び出しました。周りは着いて行けません。一番でゴールしました。タイムも新記録。どうだ、ちゃんとイメージしたか? 何度も脳裏に焼き付けるんだ」

「はい」

「トラウマを脱却するには、そのときの嫌な記憶を忘れようとしてはいけない。良いイメージを上から重ねていくことで、克服できるようになっていく。寝る前と体を動かす前に上手く走るイメージをしてくれ。それだけでもだいぶ変わってくるはずだ」

 壁に貼り付けてある古ぼけた時計を一瞥すると間もなく約束の一時間が経過しようとしている。誠人はふぅと息を吐いて仕事モードを切った。

 自分の役目を終えた佑人は猫を連れてきている。先ほどまで鼻を痒そうにしていたアディは大丈夫かと心配したが、ケロッとしている。

「猫は大丈夫か? アレルギーとはない?」

「いえ、アレルギーはないですし、動物は大好きですよ。あれ、その子」

 一瞬物憂げな瞳で猫を見たアディがどうも気になった。

「どうかしたか?」

「あ、何でもないです。可愛いですね」

 猫を撫でに行こうとしたその手は宙をかいた。警戒心を露わにした猫がアディを避けたからだ。

 寂しそうな顔をしても様になっているアディの袖を引いて奈々は時計を指差した。

「そろそろ時間ですね。今日はありがとうございました。また来ます」

「この後はどこへ?」

「これから競技場へ行って屋内施設でトレーニングよ。走れなくてもウエイトとかはできるみたいだしね。そのついでに私はまた現場検証ね」

 鞄を肩にかけた奈々がマネージャーの様に代わりに答える。それを聞いて誠人は決心をした。

「俺も一緒に行ってもいいか? 少し気になることがあってな」

「僕は構わないですよ」

「そしたら、兄貴は留守番頼む」

「え、俺も行っていいだろ? 一人で留守番とか暇すぎる」

 そんなわがままを言う佑人を含めた全員で黄色いミニバンに乗って競技場へ走った。いつになく緊張した表情で運転している奈々はハンドル捌きに集中しているようなので誠人はアディと話すことにした。

「そういえば、こんな時間から練習か。何時くらいまでやるんだ? それと、検査はどんなことした?」

「大体九時くらいまでですね。走れない分、筋肉は衰えさせたくないので。今日はいくつかの病院で大がかりな精密検査をしてきました。何日か前にも一度行ったのですが、念のためにという事で。身体の方は何の問題も見つからなかったです」

 競技場へ差し掛かった時に、佑人の胸元から猫が顔をのぞかせた。こっそりと連れて来たらしい。

 注意しても聞くような性質ではないので誠人は視線を送るだけに留めた。誠人の不機嫌を買ったのに気付いてか、意識を剃らすように佑人はアディに声をかけた。

「そういえば、事故の原因って何だったの? スターティングブロックなんてそうそう壊れないでしょ」

「最初は老朽化と言われていましたが、実はそうではなかったようです。僕に欠場して欲しい人は何人もいたでしょう、そのうち誰かが壊したというのが有力だと思います。ブロックは普通ではありえないような壊れ方をしていましたから」

 視線を右上にさ迷わせながらそう言った。

 アディが欠場したおかげで間接的にメリットのあった人はそれなりにいるだろう。彼が入るはずだった上位の枠に入った選手たちやアディと同じ組でどうしても予選を突破したかった選手たち。

 その話をもう少し詳しく聞こうと思った誠人だったけれど、競技場に到着してしまった。

 駐車場に車を置いて、ライトアップされている競技場へ歩いて行った。

 こんな時間に人はいるのかと思ったが、意外にも練習に取り組んでいる人影がいくつか見える。熱心なことだと感心した。

「それでは、僕は練習へ行ってきます」

 エナメルバッグを抱えて早歩きと小走りの中間速で室内練習場へ向かった。その軽い足取りはとてもじゃないがトラウマで走れないようには思えないほどだ。

「私は、事件当時の状況を確認してくるわ。誠人たちはどうする?」

「俺は奈々の方に行くかな」

 兄貴はどうする、という問いかけを出す前に佑人は先ほどまでいた誠人の隣から姿を消していた。アディの後を追って行っている。邪魔をするなよと警告を加えようとしたがすでに佑人の背中の影しか見えなかった。

「さて、仕事に取り掛かりますか。とりあえず、管理人さんに聴取して」

 声に出しながら自分に語るように確認している奈々は唇を指でなぞっていた。普段の奈々には見られない仕草で誠人の目に留まった。

「そういえば、事件に関して気になることって何? アディくんじゃなくて私の方に来て良いの?」

「ああ、事件の概要についてもう少し知りたくて」

「相変わらずよね。そういうところ全然変わってない。人のことは精一杯理解しようとするのに自分の考えてることはこっちに見せようとはしないよね」

 愚痴のようなその言葉を誠人は聞き流して、今の奈々の発言をまるでなかったかのように唐突に話し始めた。

「そういえば奈々、知ってるか? 人が唇に指を触れる時って緊張したり不安だったりする時なんだって。大丈夫か? あんまり気を張りすぎるなよ」

 今回一人でかなりの仕事を背負っている奈々は期待されているという喜びと同時に重圧も一緒に背負っているようだ。長い付き合いの誠人でもそうそう見ない奈々の様子はやはり心配になる。

 数秒間、奈々が反応を示さないので発言をしくじったかと唇を噛んだ。

 しかし心配は杞憂だったようで黙っていた奈々はすぐに話し出した。

「そういうところが、誠人らしいよね。確かに不安になってたかもしれない。かなり注目されてる事件だったし、面倒がって上司は私に押し付けようとするし」

「面倒ってどういうことだ?」

「じゃあ、詳しく話すからこっちに来てよ」

「事情聴取は良いのか?」

「良いのよ。どうせ形式だけで代わり映えしないし上司にやれって言われただけだから」

 これから聴取に行くと言った予定をずらして奈々は誠人をライトから免れた暗がりに連れて行った。まるで高校生のカップルの様に闇に身を隠して話の続きを始めた。

「この事件の犯人、もしかしたら選手かもしれないっていうのは想像つくでしょ? 選手が犯人だとはっきりわかったらその人は今後選手としての権利は失われる。それもわかるわよね」

 声を出さずに首を大きく一度縦に振る。この暗さで見えているかは定かではないが奈々には伝わったようで言葉は続けられた。

 この段階でどういう事か誠人には何となくわかった。

「それで、証言とか目撃とかから考えると今回の事件の容疑者として一番疑わしいのは日本短距離界の星、小池竜太選手なのよ」

「確か、今回の世界陸上でも六位入賞だっけか?」

 表彰の場面は大々的に取り上げて新聞のトップにもなっていたので覚えている。

「そうよ。だけど準決勝のタイムではギリギリでの通過。つまり、アディくんが出場していたら落ちていたのは彼だっていう事。だけど今は百メートルで久しぶりに現れた希望として注目されているの」

 アディは日本人とのハーフであるけれど本籍はイギリスにある。純粋な日本人としては小池がナンバーワンだという事はゆるぎないだろう。日本陸連としては小池選手が犯人であるという事は可能な限り避けたいのだろう。

 きっと裏でも圧力はかかるし、逮捕したとしても色々と面倒になることだろう。どうりでまだ若い奈々に仕事が回されるわけだ。

「ちょっと事件について詳しく聞かせてみろよ。ここまで来て部外者だから秘密とかはやめてくれよ」

「わかってるわよ。実は鑑識の方で調べた結果、アディくんの道具には強く蹴ったら簡単に壊れてしまうような亀裂があらかじめ入れられていたみたいなの。アディくんは予選の一組目で走ることになっていたから実現できた計画なのだけど。これがもし後半の組だったらできなかったでしょうね」

 となると周到な計画だろう。無差別で行った事件にしては被害者が都合よすぎる上に、世界大会の機材の点検を怠るわけがないので、偶然による事故という事も考えられない。

「それで、どうしてその人が疑わしいんだ? 他にもメリットを得た選手だっているだろうに。それに選手以外にも犯行可能だった人はいると思うんだが」

「その理由の一つは、目撃証言ね。機材をしまってあった場所に行った人は多くないわ。こっそりと立ち入っていた人がいたのだけれど、その人の着ていた服が小池選手の愛用しているものとそっくりだったの」

 表彰時にも身に着けていて、その姿を放映されたためにトレードマーク的なものになりつつある派手なオレンジ色が黒地に映えている練習着を頭に浮かべた。アスリートは派手好きな性格の人も多いので、似た色合いのジャージを身に纏う人がいないわけではないだろうが、当人である可能性は低くない。

「それに、試合前のウォームアップ中に姿が見えなくなった時間があったのよ。本人いわくトイレに籠って集中力を高めていたそうなのだけど」

「あのさ、小池とアディの間に親交はあったのか?」

 どうにも引っかかっている事があった。その鍵を手にしようとやみくもに手を突っ込んでみる。

「さあ、どうかしら。同世代でジュニアの頃からお互いに世界で戦っていたから知ってはいるとは思うけど。特に仲が良いかはわからないわ。それがどうかしたの?」

「ちょっと、気になることがあってな」

「どうせ答えないだろうから聞かないけどさ、全部わかったら私にも教えてよね。他に何か知りたいことはある?」

 そう言われたので興味本位に事件に関係のあるのかないのかわからないことを色々と尋ねるつもりだった。しかし、いざ自由に聞けるとなると口が重くなってしまう。

 誠人はどうにか絞り出すようにして質問を出した。完全に事件とは関係のない世間話になってしまったが。

「奈々、最近どうだ? 仕事は上手くいってるか?」

 カウンセリングに来た人にならいつでも適当な話題で楽に話せるのだが、どうにも久しぶりに会った昔馴染みが相手だと上手く口を動かせなかった。

 苦心して出した言葉はまるで仲の良くない父と娘の間のような空気を作る。

「まあまあかな。大学出てすぐに開業したあんたと佑人さんには及ばないけどさ。聞いたよ、かなり順調らしいじゃん」

「俺が上手くいったのは親父の脛かじって診療所使えたからだって。もしそうじゃなかったら、今も心理学研究してるんじゃないかな」

「相変わらずの心理学馬鹿ね」

「馬鹿とは失礼だな、これでも知能指数は高いんだぞ。まぁ、知能指数は成人で七十パーセント近くが遺伝というデータもあるので、それもある種は父と母のおかげなんだがな」

「その話、前にも聞いたよ。誠人と話してると無駄な知識が溜まっていくよね」

「無駄とかいうなよ。心の世界ってかなり曖昧で閉ざされた世界かもしれないけど、そうじゃないんだ。すべてにつながっていく広大な分野なんだ」

 元々のキャラクターが崩壊するくらいに熱く語っている誠人の勢いに若干引きながら奈々は鞄の中の携帯をそっと見た。上司から催促のメールでも来ていたのだろう。仕事をしている時の真剣な面持ちだ。

 奈々はまだ心理学について語っている誠人を引っ張りながら移動し始めた。


 暗がりを脱して光に照らされた陸上競技場を通過する。それから光の中心から少し離れている物置へ入って行った。誠人は子鴨のようにその後ろにピッタリついて歩いている。

 物置には管理人と思しき作業着の小柄な男が一人だけいた。大会期間ではないので人ではあまりいらないのだろう。

 見たところ奈々は初老のこの男に用があるらしい。

 奈々ははっきりとした、だが普段よりは固い声音で話しかける。

「どうも、お久しぶりです。もう一度現場見聞をさせていただきたく参りました。警察の相沢奈々です」

「あぁ、前にも聞きに来ていた子だね。ちょっと待ってくれよ。これを片付けたらひと段落するから」

 言って管理人は重そうな機材を軽々と持ち上げて隅の方に運んだ。見た目からは考えられない腕力は職業柄の一つだろう。

 それが終わると埃っぽい物置から屋内練習場へとつながる事務室へ案内された。

「その隣にいる彼は見慣れないけど、警察の方かね?」

「いえ、心理カウンセラーをしております、獅子宮誠人と申します。この近くで診療所を経営していまして、この件についてアディエル氏のメンタルケアをさせていただいております。ですので、もし良かったら事件について詳しく話を聞きたいのですが」

 誠人が業務モードで自己紹介をすると、管理人はそれ以上突っ込まずに事件の日の事をツラツラと語り出した。

「まずは朝一番で協議に使われる道具を運び、点検を済ませた。そして競技開始の時間は十時頃でその前に試合の選手はエントリー確認に集まる。集められたらスタート位置に移動して軽くスタートから二、三十mほどの距離を一本流して走る。この事は知っているかね? その時は問題なかったのだが、あらかじめ加えられていた損傷のせいで本番の時には破損してしまったのだよ。前日の夜にも、当日の朝にも綿密なチェックをしているので偶然によるものではないと私は考えている。それに、スターティングブロックの傷の付き方も人工的だった」

「いくつか聞きたいことがあるのですが」

 そう声を発したのは奈々ではなく誠人だった。初めて診療所を訪れた人を見るように丁寧に挙動を見ている。

「道具に近づいている人がいたのに、再び点検をしなかったのですか?」

「あぁ、競技まで時間の余裕がなくて。そこで職務怠慢と言われたら反撃はできないね。それに、練習用のスターティングブロック置き場も近くにあったからそっちに用事があったのかと思ってね」

「怪しい人の身体的特徴は?」

 管理人は視線を右下に逸らすようにして思い出している。

 何度か警察に答えているおかげで簡潔な描写をすらすらと話した。

「身長はかなり高くて百八十くらいはあったんじゃないかな。スポーツマン体型で結構がっしりしていたかも。着ていたのは黒にオレンジのラインが入ったウインドブレーカーだったと思う。フードをしていたから顔は見えなかったけれど」

「それを目撃したのはあなた一人ですか?」

 首を左右に振って否定した。

「もう一人、今日はもう帰ったが業務員が一緒に目撃した。だから見間違いではないと思う」

 ここまでは予想できる範囲の質問だろうと思い、誠人は変化球を投じた。

「靴の色は覚えていますか?」

 うーんと唸るようにして目をさまよわせてから、わからないと答える。

 誠人はその反応を見て更に質問を投げかけた。

「小池竜太選手のことは知っていますか?」

「そりゃあもちろん。有名だし、ここの競技場にも練習しに来るので。ちょうど今もいるんじゃないかな」

 誠人は一人で納得したように頷いた。他の二人は解せないという様子がありありと見られた。特に奈々は誠人が何かつかみかけているという事はわかっているので余計に気になっているようだ。

「その壊れたブロックというのはどこにありますか?」

「それなら、警察が持って行きました。同じ型のものならその辺にありますが、見てみますか?」

「ぜひ、お願いします」

 管理人はサッと部屋を抜け出してブロックを持ってきた。小さい石くらいのものだと考えていたが、それは誤りだった。

 各々の好みに合わせてブロックの角度を変えられるようにできているため、調整できるだけ長さに余裕を持った設計になっている。色は鈍く光る銀色で重みを感じた。

 誠人は手を伸ばして持ってみたが、これが意外にも重たい。日々運動不足を感じている誠人にとっては軽い筋トレだ。

「これが壊れたんですか?」

「実物を見ると信じられないと思うけれど、ひびが入って壊れる寸前だったんですよ」

 金属でできたブロックを軽く叩くと、手が壊れそうだ。埃なのか可動部から削れた金属くずなのかわからないゴミが落ちるのみで、仮に道具を用いたとしてもこれを壊すのは並大抵ではないことだと感じた。

「壊れたスターティングブロックの写真がこれよ」

「どうやって壊したんだよ。普通にやっても無理だろう」

 写真には、綺麗にパッキリと割れているブロックがあった。勢いよく破砕したせいで割れた断面はガタガタになっている。


 その後奈々がもう少し詳しい聴取をして、誠人は考え事をしながらそれを聞き流した。あらかたの話が終わったところで、誠人は事務室の外を何の気もなしに見た。

 しかし、一瞬で逸らした。

 事務室から覗けたのは屋内練習場で、そこではアディが口を真一文字にしまって懸命な練習をしている。それは良い。

 だが、アディの様子を注意深く見ていた佑人が、誠人の視線に気づいて子供のように手をブンブンと降ってきたのにはイラッときた。

「あれって」

 アディの方から離した誠人の目が捉えたのは先ほどの話に出てきたようなオレンジと黒が駆け抜けていく姿だった。力強く、鮮烈な走りに目を奪われた。

 外の様子に目を向けているうちに管理人と奈々との話は終わっていた。奈々が椅子から立ち上がって、座っている誠人の肩を叩いて促す。

「悪い。ちょっと見たいものがあるんだけど」

「言わなくてもわかってるわよ。ずっと屋内練習場を覗いてたでしょ」

 相手の考えていることを読むのは誠人だけではなかったようだ。スタスタと早足で誠人の望む方へと向かって行ってくれる。

 誠人が屋内練習場へつながる重い扉を押して開けると中の空気は異質なものだった。

「っ……」

 駆け抜ける野獣のように力強く、美しいフォームに息をのんだ。

 目の前を走り抜けていったのは小池選手だった。一歩一歩が地面をしっかりと踏みしめている走りは素人目にも完璧と思える。

 しかし、その認識は間違いであった。少し離れたところでのアディの走り、それは小池の走りに似ているが、それに華麗さを加えたような洗練されたものだった。速度としては早歩きに毛が生えたくらいのものだったが、とてもそうとは思えない流れるような動きだ。

「走れないんじゃないのかよ」

 思わず漏らした言葉に、いつの間にか誠人の隣に位置している佑人が答えた。

「肉体的には万全の状態だと思うな。あくまで目視だけだけど、損傷は見られないし動きにも不自然さはないし。さっきまでウエイトトレーニングをしていたんだけど、体が動きそうだからって言って軽く走り始めてるよ」

 少し離れた場所から軽やかなダッシュを見ていると声がかかった。声の主はアディに指導をしているコーチらしき中年男だ。全体的に柔らかい印象を受けるが目元だけやけに野性味を帯びてきつい雰囲気を醸している。

「あなたがカウンセラーの方ですか? さっきアディから話は聞きましたよ、私はコーチをしております岩隈と申します。どうですか、あいつは」

「一度見ただけではまだ何とも言えませんので。これから何回かカウンセリングをさせてもらいたいのですが」

 誠人はそう言ってポケットの中の名刺入れから商売道具の一つ、名刺を取り出して渡した。岩隈は折れないように気をつけながら自分の財布の中に収める。

 それを見送ってから誠人は話しかけた。自分の中に生まれてきている疑念、あの事故の真相を確かめる情報が欲しいのだ。

「今のアディの走りってどうですか?」

「うーん、そうだね。見てわかるとおりフォームも綺麗だし、現状ではかなりいい方じゃないかな。さっきいきなり走らせてみたのだけれど、動けている」

「それでは、あの事件の日の調子はどうでしたか?」

「そ、そりゃあ試合前だから調子はいいに決まっているじゃないか」

 岩隈は少し困ったように笑って言った。動作を心理学的に検分しなくてもごまかしであることは明らかだ。

「岩隈さんは事件のことをどう思っていますか? 何か知っている事とか」

「そうだなー」

 唸るようにしながら視線はアディの方へ注ぎ始めた。

 そして誠人との話を切って叫ぶように声を張って指示を飛ばした。

「アディ、次でラストだ。気合入れて行けよ。もう少しハムストリングスを意識して」

「はい。ラスト行きます」

 返事をするアディも叫ぶようにして、自分を奮い立たせているようだった。室内練習場という事もあって声はかなり響いていた。

 最後の走りはウエイトトレーニングなどの後で体力が尽きかけているため、先ほどよりも繊細さに欠けていたが力強さは一番だった。

「あぁ、獅子宮さん。すみませんね、さっきの話ですけど事件に対しては腹を立てているし、犯人のことは殴ってやりたいくらいだ。けど、そう言っていても仕方がないので私の中ではもう切り替えているよ。事件についてはニュースで話されているような内容くらいしか知らないな」

「そうですか。ありがとうございます」

 聞きたいことは聞けた、情報は揃ってきた。誠人は自分の仮説が正しそうであるという事に対して口元が緩んだ。

「ちょっと、何一人で笑ってるの? わかったんなら私にも教えなさいよ」

「一つだけ教えておくと、心理学のデータから推測すると管理人さんは犯人じゃない」

「他にもわかってることあるんでしょ? もったいぶらないでよ」

「まぁ、待て。知ってるか? せっかちは嫌われる傾向にあるんだぞ」

「何かむかつく」

 誠人のわき腹に強烈な一撃を食らわして奈々は誠人の傍から離れて行った。思っていたよりも強かった攻撃の被害部をさする。

 奈々に頼みたいことがあったので、謝って協力してもらおうと姿を探したが花を摘みに行っているのか、困ったことにその姿は見当たらない。

「兄貴、奈々を見かけたら俺が探してるって言っておいて」

「りょーかい」

 アディの様子を見終わって隅っこで猫と遊んでいる佑人に言伝を頼むと誠人は辺りを見回しながら屋内、屋外の両競技場を歩いた。

「おい、ちょっとそこを避けてくれないか」

「すまない。あれ、あなたは」

 散策していた誠人の後ろから走ってきたのは小池選手その人だった。クールダウンのジョグながら体の軽やかさは十分に発揮されている。

 誠人を抜かしてすぐの所で走りを止めてウォーキングに入ったので、これ幸いと早足でそれに並んで声をかける。

「心理カウンセラーの獅子宮と言います。どうぞよろしく」

「悪いが、俺はその手のものを信じていないのできっと世話になることはないだろう」

「そうですか、それは残念」

「あの事件のことなら聞いても何にもならないぞ」

 聞かれる前にそう話したのはきっと警察やマスコミによる過度な質問に嫌気がさしたためだろう。マスコミにはまだ割れていないが、警察の中では広まっている犯人らしき人物の服装に関する情報から彼への疑いはかなり濃いものとなっている。

「そんなに警戒しなくても、俺はそういう話をしに来たんじゃないから。単にアディの人柄を聞きたかっただけ。カウンセリングに使うために」

 警戒心を取り除こうと、あえて丁寧な言葉を外して素の言葉を使って話した。

「それなら構わない。まず、あいつは本番に強かった。かなり期待かけられても負けそうな勝負でも勝たなきゃと強く思って乗り越えてきたような感じだ。最近調子が上がってきた俺とは違ってずっと世界的に注目を浴びていた」

「ずっと小池選手とはライバルだと聞きましたが」

「いや、そんなことはない。ずっと、俺はあいつを追っかけていた。目標、いや憧れていたと言ってもいい」

 屋外競技場のライトの届かない辺りを歩いているために表情が見えないがきっと穏やかな顔をしている事だろう。

 静まった空気で何を話すべきか言葉を選んでいると、マナーモードにしている携帯電話がポケットの中で震えた。電話の相手は兄の佑人からだった。

 恐らく奈々を発見したのだろうとあたりをつけて電話を受けるとその予想は当たっていた。

「奈々ちゃんちょっと不機嫌そうだから急いでこっち来た方がいいかもよ。まださっきの場所にいるから」

 その言葉を受けて奈々の逆鱗を避けるために小走りで屋内へ向かった。クールダウンを終えた小池も一緒に中へ入っていく。その途中で、連絡先を交換した。と言っても一方的に誠人が電話番号を聞き出しただけなのだけれど。


「それで、何がしたいわけ?」

 腕を組みながら待ち構えていた奈々の機嫌は良くはないが、かろうじて協力してくれそうな姿勢を見せていた。

「カウンセリングの一つでイメージの構築し直しっていう療法があってな、アディにそれを試したいんだが他の人に協力してもらってもいいかな?」

「なんで私に聞くのかな。直接頼めばいいのに。妙なところ人見知り発揮するんだから」

 文句を言いながらもできの悪い弟を持つ姉の様にてきぱきと準備を進める。数分で準備は整った。奈々としてはついでに現場検証も兼ねるようだ。

 アディと隣で走るランナー役として小池と暇そうにしていた佑人。管理人はそのまま自分の仕事をして誠人がスタートの合図をすることにした。

 誠人はまだ何が起こるのかわかっていないアディの隣へ行って治療の説明をした。

「トラウマの類の症状を克服する方法の一つでその原因となった状態に近い出来事を追体験していいイメージを上書きするという方法です。つらい記憶をなるべく起こさないよう意識にしてみてください。良いイメージを持って」

「わかりました。こんな所でわざわざありがとうございます」

 それから誠人は協力してくれることになった人へ大声で呼びかけた。

「実際に走る必要はありません。その日のことをなるべく再現するように、だけどアディが悪いイメージを持たないように気を付けてください」

 奈々が誠人の言葉に補足をした。

「えっと、同時に現場検証も行いますのでその都度私が声をかけていきます。まずはアディくんと小池選手はウォームアップを終えました。岩隈コーチはその間、何をしていましたか?」

「ウォームアップはアディに任せているのでグラウンドや風の状況を一人で見ていました」

 奈々は胸ポケットから取り出したメモ帳を凝視した。以前の事情聴取の証言との矛盾がないのかを確認している。

「管理人さんは競技前の用具の運搬をしていた、と。それからエントリーの点呼があり、その時にはコーチも合流した。そして管理人さんは仕事を終えて事務室の方へ戻っていましたよね?」

 それぞれが首の動きで肯定を示した。

「それじゃあ、ここからは模擬試合に入りましょう」

 誠人はそう言って選手役の人たちを動かした。

 ライトを鈍く反射させるスターティングブロックが置かれた。全員が軽く一本走る素振りを見せて、それからスタート位置に着く。

「オンユアマーク」

 悪い発音という自覚のある英語に反応してスタート前特有の張りつめた空気が形成される。

「セット」

 腰を上げて姿勢を作る。佑人は素人丸出し、小池は教科書に載るような模範的な、アディは独特ながら速そうなフォームだ。

 パン、と雷管を鳴らしてスタートさせる。走る必要はないと言ったが、全員が軽く走ってくれている。小池は力をほとんど入れずに流していても十分に速かった。

「ありがとうございます。とりあえずこれでひと段落です。カウンセリングは急に効果が出るとは限りません、というか大体は遅行性なので、また機会があればご協力ください」

 張り上げた声でそう締めくくると場は開けた。

 この時、誠人の頭の中ではすでに完成していた。彼なりの心のカルテが。


 現場検証兼カウンセリングが終わると、ニヤニヤと擬音が飛び出しそうな顔をして佑人が誠人の肩を組んできた。うっとうしいことこの上なく感じられ、外そうとしたが人体に関しては相手が一枚上手だった。ちっとも剥がれずにしばらく抵抗を続けた。

「兄貴、何だよ。邪魔くさいな」

「そんなに邪険に扱わなくてもいいじゃん。マコは全部わかったんだろ? それが嬉しくてさ、つい」

 こういうところは敵わないなと思う。誠人がいくら心の勉強を重ねて動作を取り繕おうともこの兄貴ともう一人の長い付き合いの人は見通してくるのだ。

 だからというわけではないが、誠人は奈々も呼んで包み隠さずに正直に話した。

「本当に、全部わかったの?」

「あぁ、心のカルテはできた」

 回りくどい物言いだったけれど、二人には伝わる。誠人は言葉を継ぎ足して事件の真相を話した。

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心の、カルテ 七咲 @sasakuto

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